my dear

 

 愛だの好きだのありがとうだの、口でならどうとだって言えるというのはもうこのブログでは散々に書かれてあることで。本人しか知り得ない本当のところがたとえどんな色形をしていようが、他人に分かる形として出力される言葉は同一なわけで、その点で自分は言葉を信用していない。とはいえ、ちゃんと分かるけど。たとえば他人の書いた文章を読んでみて、あるいは他人の言葉を聞いてみて、その人がどのくらい本心からその言葉を発しているのかとか、そういうの。相手の考え方とか性格とか、鍵になる部分についてきちんと分かっていれば、ある程度なら判断できるから。だから、それを疑っているわけではないのだけれど、とはいえ。それは他人のそれを自分がみているからまだそう思えるという話であって、自分のものを自分でみてみたときにそういう風に思えるかというと、少し難しい。……みたいな話は何度も書いている、実は。自分のことをどうしても疑ってしまう別の自分がいて、感覚的に。愛だの好きだのありがとうだの、そういった類の気持ちを薄らとでも認識するたびに「いや、でもさあ」と思ってしまうというか。その理由はやっぱり先述の通りで、自分がそれを本当に持っているという確証があんまりないというか。「ここでありがとうって言っとけば、相手に好印象を残せるのでは?」的な思考がないではないというか、って書くと勘違いされそう。そういう思考があるのではなくて、そういう思考があるという可能性について考える自分がいるという話。それは日常に起こり得るどのような場面でもだいたいそうで、コンビニでも夜の公園でも、あるいは卒業式でも。自分の中に在るらしい感覚が強ければ強いほど、安易な言葉なんかには頼りたくないというか。だって教えてくれないじゃん、言葉は、その強度について何一つも。そうして削げ落ちた分だけ軽くなる気がするっていうか、薄れていくみたいに思えてしまうっていうか。消費するみたいな。手を繋いで「好きだよ」って、気持ちを言葉にして確かめることについて何も疑問に思わないのならそれでよくて。これは本当にそれでいいと思っていて、見下しているとかではなく。こうやって自分の感覚と違う他者を引き合いに出すときって、なんていうか、ある種の優越感というか上から目線というか、そういうのが透けてみえることがあるけれど、誤解されたくはないので一応。自分は本当にそれはそれでいいと思うし、素敵なことだなとも思う。それは自分にはできないことだし、なんだろう、散歩しながら景色を眺めているのと同じ気分。本質的に決して手の届かない場所にあって、だからこそ綺麗だと思うし、素敵だとも思う。星空を綺麗に感じるのと概ね共通の。ただ結局、ないものねだりをしても仕方がないというか、自分はどうしても疑ってしまうから。そうやって、雑な言葉で括るなら一般に感情と呼ばれる類のそれを、言葉に頼って相手へ届けるという行為の様々を。だから自分なりにできることをやるしかないという、いつもの話に結局は落ち着く。言葉を信じていなくて、それならいったい何を信じているのかって、それも以前の記事でちょくちょく書いているはず。誰かの存在が、あるいはその誰かと過ごした時間が、自分にとってどんなに大きなものだったのかって、それそのものを言葉で表現できるとは到底思えないし、仮にできたとして、その結果に満足できるともあんまり思えなくて。ただ、だから、言語以外のものも巻き込んだ形として出力して「自分はこう思っていました」と言い張るのが自分の性には合っているということを経験則的に知っていて。創作の類を続けている理由って、それがだから自分にとって唯一の意思表明の手段だから、ということなのかもなと思ったりもする。自分はそう信じているから、相手にもそう信じてほしいっていう、……こんな風に言ってしまうとありきたりな話になっちゃうな、やっぱり。伝わらなくてもいいんよな、自分の考えていることとか別に。伝わらなくていいから、ただそれが在ることだけ知っていてほしい。そういうのばっかり、人生とかいうの。

 

 一回生の頃の様子をあんまり思い出せないんだよね。自分は当時二回生だったけれど、なんとか思い出せるのが大例会に遅れてきたことくらい。あとは三月ライブの泊まり込みのときに寮食のソファで包まってるところ。それ以外は本当に思い出せない。なにかあったっけ、と思う。何を話したんだろう。忘れないほうがいいと思うんだけど、こういうのって。方向が同じだったから、帰り道を一緒に歩くことがたまにあったなってのは覚えてる。二人きりって状況はあんまりなかったように思うけど。でも、それにしたって特別な何かを話したって記憶は、それなりに探してみてもやっぱりみつからなくて。夜の御影の横断歩道で小説の話をしたこととか、それくらいの。こんなことならもっと意識的に記憶しておくべきだったかなと思う、今更みたいに。姿勢。姿勢かあ。そんな大層な人間ではないけれど、これは本当に。でも、そんな風に言ってもらえるのは嬉しかったし、割と普通に。何かしらひとつでも、自分の意図しない領域でだって、どこかの誰かにプラスの影響を残せたなら、この数年間にも意味はちゃんとあったんだなと思えるし。そういう意味で自分も、量とか質とかみえるみえないの話じゃない、大切なものを貰っていて、だから当たり前のように感謝だってしている。ありがとう、本当に。自分はだから、なんていうか、上で書いたみたいに言語化に対して面倒な考えを持っている手前、そういう返事をその場でちゃんと伝えるのがマジで苦手で。こればっかりは直せるものなら直したいと思うんだけど。後になってから「あれ、ちゃんと言っておくべきだったよな」ってなることが多すぎて、もう本当にね。だからいまこれを書いてるんだけど、それをするにも一旦音楽を経由するとかいう遠回りをしないといけなく、ちょっと時間がかかった。これまでのことをなんとなく振り返ってみて、話し足りないなって思うこととか、いまの自分にはあんまりない。四年間やりきったなーって感じ。いまになれば勿体ないなって余白ばかりが目について、それこそあっけなく寝過ごしたいつかの夜とか。それでも開き直りじゃなく「そんなもんでしょ」と言ってしまえるくらいには。これから先のずっともどうせ余白ばっかりで、大きめの何かがあったときにはその空欄を惜しんだりもするのだろうけれど、だけどそれさえ最後はハッピーエンドになるんだろうなって予感がある。そう信じたっていいと思えるくらいには多くのものを貰っていて。それはたとえば自分がそっちの考えに気づいていなかったのと同じみたいに、お互い様。……みたいな話、全部。言葉でならどうとだって言えるよね、と思ってしまうんだよな、自分は、どうしても。だって、実際どうとでも言えるし。これまでに書いたこと全部が本心とまるっきりの真逆だったとしたって、それは当の本人である自分自身以外には知る術のないことで。自分で言うのもなんだけれど、本当になんだけれど、これだけの文章を書くアレがあるなら、それと同じくらいの密度で嘘を吐くことだってできるはずで、同様に。でも、そうやって自分の気持ちを疑っていたくはないし、疑ってほしくもないから、だからこそ音楽なんだよな~って話。

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『startrail』、『Tarnished Re;incarnation』、『消えたポラリス』、『星降のパレーシア』。で、駆け込み乗車っぽいけど、最後に『my dear』も。相対した誰かから、こんなにも大切なものを貰っていたっていう、その証明。それだって嘘じゃないと断ずることはできないけれど、それでも嘘じゃないと思いたいよね、みたいな。そんな感じのことを考えてる、ずっと。

 

 大事なことほどふざけて言う癖があるんだけど、マジ卒おめ。03/07 の夜があって本当に良かった。機会があればまた話そう、どうでもいいことでも大切なことでも、なんだって。