20220615

 

 幸福の本質は移動らしい。随分と前に読んだ本に書かれていたことで、以来、ずっと忘れないでいる。とはいえ、その小説ではもう少し詩的な風に書かれていたような気もするな。「つまり、風を感じることなんだ」みたいな、そんな感じで。

 深夜散歩、今月に入って二回目の。大学生になってからのことを思うと、すっかり機会が減ってしまったなと思う。それはそうで、みんな京都からいなくなっちゃったし。誰かと歩くという行為が自分は恐らくかなり好きで、時間帯は問わないものの夜ならずっといい。歩きながらでないと話せないことがたくさんあって、夜でないと話せないこともたくさんあって。深夜散歩はその両属性を兼ねているから、だから特段気に入っているのかもしれない。いや、分かんないけど。でも、歩きながらでないと話せないことがあるというよりは、歩きながらでないと話せないというほうが正しいのかもしれないな。これまでのこととか、これからのこととか、そういったものへ真面目に向き合うのは別のところですればよくて。一方で、散歩中に生まれる会話はそういった輪から随分と遠く外れたところにあるような気がして。自分は後者みたいな会話しかできないから、だからっていう話なのかもしれないな、知らないけど。

 昨夜は、結局どういう話に落ち着いたんだろう。帰り道、いつも通りに鴨川沿いを歩くことにして、「この時間はまだ意外と人がいるんだな」と思ったり「結構曇ってたんだな」と思ったり。月は一応みえた、南の方に、薄い雲に隠れてぼんやりと。相手にも依るけれど他者との会話はだいたいの場合が異世界交流の様相を呈していて、それはそう、自分は相手のバックグラウンドを知らないから。いや、ほんの少しくらいなら知っていることもあるかもしれないけれど、それは本当にほんの少しでしかなくて、氷山の一角でさえないというか。たとえば昨日にも顔をあわせたという誰かだって、今日までの何時間かを自分の知らないところで生きていたわけで、自分がそうであるみたいに。だったらそれはもうほとんど別人なのでは、という気持ちが何となくどこかにあって。そういう考え方をしているから他人と関わるときには、自分はこの人のことを何も知らない、のスタンスでいることがあったりそうでもなかったりで、だから異世界交流。既知のものなんて基本的にない。ただ、その過程で「以前もそう言っていたな」とひっかかる瞬間もたまにはあって、そういうときには安心に似た何かを覚えたりもする。海外に行って日本食の店をみつけたみたいな気持ちなのかな。海外行ったことないから知らないけど。

 相手の話していることは、たぶん九割以上分からなかった。これは大袈裟な譲歩を含んでいて、本当は九割九分くらい分かっていないと思う。というのが帰り道に下した結論で、というか、それらを「分かる気がする」なんて風に雑に処理してしまうのは、なんていうか、ものすごく失礼な気がする。誠意がないというか、あらゆるものに対して。まあ、分からないものに対して適当な相槌を打つこととどちらのほうが、という問題はあるけれども。そういうわけで「何も分かんなかったなー」という気持ちのまま、会話の中で引っかかった部分から逆算的に片していって、その結果が「幸福の本質は移動らしい」。幸福の本質は移動らしい。そういう話をしていたのかもしれないし、していなかったのかもしれない。ただ、自分の中で昨夜の話はそういう風にラベリングされた。

 二〇年ちょっとを生きてきて思うこととして、人間の原動力って「ここではないどこかへ」という感情なんだな、というのがある。それがどういった形で発露するかは人に依るだろうけれど、ともあれ、そういう気持ちがベースにあるような気がする。旅行とか、学生運動とか、就活とか、戦争とか。何のために生きるんだろうって、それ自体に解答を持ち合わせている人はそう多くなくても、現状を少しでもより良い方向へもっていきたいから動いている、と理解している人はそんなに少なくないような気がする。目的地はないけど目的はある、みたいな。それがだから、幸福の本質は移動、ということの意味なのだろうなと思ったり。みんな、そういう風に生きていて、だからそんなにも熱意をもって社会へ立ち向かえるのだろうな。すごいと思う、本当に。皮肉なんかではなく、心の底から。今日が幸せで、なら明日はもっと幸せであってくれたら嬉しい。それはとても自然なことだなと思った、言われた瞬間に。素直に頷けなかったのは、自分の中にそれがないから。自然なことだとは思えるのにな。

 幸福であることへの執着。言われて、結局はそれなんだろうな、と思った、帰り道に。ボーナスステージ。このブログを読み返せば、遅くとも二年くらい前には書かれてあるはずの言葉。自分の人生、なんていうか、もう全部が全部そういう風の認識になってるんだよな、いつの頃からか。たとえば双六で、みんなが我先にとゴールを目指してサイコロの出目に祈っているのに、自分ひとりだけスタートを出て少しのところで止まっているみたいな。いや、止まっているわけではないか。止まっているんじゃなくて、スタートを出てすぐのところにゴールがあったのかも。ボーナスステージという認識は、まあそういうことなのだろうなという気がする。この言葉を初めて意識したのは八九寺真宵の台詞だったように思うけれど、でも、だからそういう感じの理解なのかもしれない、自分の中では。人生、もうやりきっちゃったな、的な。昨日も今日も明日もエンドロールの延長線上でしかないって、流石にそこまで割り切っちゃいないけれど。現状や未来に対して危機感も何も本当になくて、これって何なんだろうと不思議に感じていたけれど、この数ヶ月くらい。でも、「ああ、そういうことだったのかも」と初めて思えたのが昨夜のことだった。とはいえ、それでも死ぬのは怖くて。死にたくないとは思っているのに、でも、そうならないための努力はできないんだもんな。どうなっちゃうんだ、本当に。