20220108

 

 昨日の朝、バイトへ出る前、「これ、一葉さん絶対に好きですよ」と言われて途中まで読んだままで積んであった本を、行きしなの電車内で読もうと思って探したら、何故だか自室空間から消失していて、いっそ折れるんじゃないかってくらいに首を傾げた。魔女の仕業か? だって、ハードカバー。なくそうと思ってもなくせないだろ、普通。そう考えつつ、遅刻するのもアレなので結局手ぶらで出た。バイト先が梅田にあるという事実を指して「面倒じゃない?」と言われることがままあって、でも自分はあんまりそう思っていない。駅までの歩く時間が好きだし、それに車内では本が読めるから。気分が乗らないなら車窓をぼーっと眺めつつ考え事をするでもいいのだし、割と気に入っている。そんなわけで本を読みたい気持ちはやまやま、でもあいにく手持ちはない。帰りこそは読みたいな~と思い、バイト先へ伸びる足を強固な意志でひん曲げ、そのまま書店へ寄った。二冊買って、バイトの昼休憩と帰り道を合わせて一冊の 3/4 くらいを読んだ。それが割とムズめの本というか、嘘で全然難しくはなく、単に考えさせられるところが多々あるという本で、なのでしばらくの間、ブログはそういう話が多くなるかもしれない。帰りの電車で様々を考えていたときには書籍の名前をブログで上げようと思っていたのだけれど、だけどその必要もなくなった。というか、自分は筆者でもそのファンでもないけれど、読んでもいないのに名前だけで判断されるのは普通に癪だし、そういう人が一定数いることも知っているから。まあ、どういう本なのかは今後の自分の更新を追いかけていれば何となく分かるはず。嘘で、全然書かないかもしれない。書くことを事前に決めたりといったことを、自分はあんまりしないし。白紙のワードパッドに向かって初めて「今日は何について書こうかな」と考えだすことがほとんど常。なので書かないかもしれない。書くかもしれない。未来のことは未来の自分に任せる。これくらいのことなら未来の自分に押し付けたっていいでしょ、別に。

 

 会話をするとき、相手の言葉に対してとても敏感になっている自信がある。「何様だよ」と脳内の自分。いや、分かる。他人の文章を読んで同じことが書いてあったら、まあ人にも依るだろうけれど自分も全く同じことを思う可能性がある。というか、そういう可能性が容易に想像できるので、そういった脳内ツッコミが当然のように聞こえてくる。「自惚れすぎ」「何を気取っとんねん」「誰だってそうだろ」。この辺りはまあまあな声量で聞こえてくる。いや、分かる。そうよね、そう思う、自分も。まあ、誰だってそうだろという意見については少し的外れと思っていて、人一倍敏感になっていると思う、という話だから、これは。でも、それもまた結局は「何様だよ」に集約される。いや、だから普段はこういうことを書かないし、言いもしない。でも、今日はちょっと書いてみる、その辺りのことを。でないと結論に行けないから。『自分をみている自分がいる』と誰かが言っていた。たぶん全く違うと思う、自分の中に在る感覚と、その誰かの中に在る感覚とは。でも、言葉で表そうとすると同じになってしまう。自分をみている自分がいる。その正体も知っていて、自分の場合、それって普通に現在時点でこれを書いている最中の自分なんだよな。鏡。鏡という理解の仕方が自分はとても好きで、いや好きとか嫌いとかではなく、ものすごく自分の感覚に近い表現で、この場合は自分の書いた文章を鏡として自分をみているという感覚。ない人には絶対に伝わらないだろうけれど、ある人には伝わるかな、これで。伝わんないかも。まあいいけど。ともかく書いてて思う、「何様だよ」。分かる。本当に分かる。自分でさえそう思うんだから、ましてや他人はもっとそう思うはずだよなと思う、実際がどうであるかはさておいて。なので、そういうツッコミが入った文章を、それ単体でブログへ残すことを自分はあまりしない。だって、そう思われた瞬間に余計な先入観が入っちゃうじゃんか。たとえば、開始数行で水素水のすばらしさを語る記事があったとして、誰もそれを最後まで真面目に読もうと思わないでしょ? そういう話。たぶんだけど、もうこの時点で「また何か変なこと言ってるよ」と思っている人間は数人いるはずで、実際に自分自身もそう思っていて、だから二文目には脳内ツッコミをそのまま載せてケアしている。話を進める。会話をするとき、相手の言葉に対してとても敏感になっている自信がある。「何様だよ」とケアの脳内ツッコミ。流石にしつこい? でも一応。会話には流れというものが存在すると自分は思う、他の人がどう思うかは知らないけど、まあ自分はそう思う。大人数の場であれば、いまその空間で何が注目されているのかが鍵になったりすることもある。たとえば、料理を作っているなら料理の話が飛び交うのはまあ自然なことだし、あるいは誰かのお祝いならその誰かに関する話で満ちていても自然。文脈に沿った正しい言葉、発言、態度、そういうのがあるよねと思う、少なくとも自分は。脱線。このさき、鬱陶しいと思われるくらいに「他の人がどうかは知らないが、自分はそう思っている」という意味の注釈をつけまくる。誤解されたくないから。他人がどう思っていようと自分は一切関与しないという立場を自分は取っていて、なのでこの文章中に自らの思想と反する一文があったとしても、勝手に傷つかないでほしい。自分は、自分と違う考えの人を否定したいとは思わないし、批判したいとも思わないし、議論したいとも思わない。どうでもいい、そんなの。ただ、自分はこう思っている、と表明しているだけ。誰を傷つける意図も一切ない、という意味でそういう注釈をつけている。それでも傷つく人はいるだろうけれど、それはもう申し訳ないとしか言えない。ごめんなさい。閑話休題。いわゆる自分語りが敬遠されがちのは、そういった発言の類が場を支配している自然な流れという目にみえない何かをものの見事に破壊してしまうからということが本質のような気がしている、少なくとも自分は。実際どうかは知らない。誰かのお誕生日会に集まった別の誰かが「そういえば、ここに来る途中でめちゃくちゃ嫌なことがあってさ~」とおもむろに話し始めたとして、残りの全員は多少嫌な顔をしたって誰にも責められることじゃないと思う。まあ、この辺りは人間関係の深さにも依るから一概には言えない。その誰かの誕生日と、別の誰かの不幸を同列に考えることのできる人間しかいない場であれば、もしかしたら許されるかも。でも、そうじゃないときはそうじゃないと思う。不幸自慢でも幸自慢でも。聞いてほしい、知ってほしい、認めてほしいってそれは分かる。そのことに気づいていないわけじゃない、流石に。でも、それよりも先に全体の共通認識として在る自然さに目を向けてくれよって。そんな感じのツッコミがあって、それがいわゆる敬遠されがちなほうの自分語りに対する気持ちの正体だと思っている、自分は。あくまで自分はそうで、他の人は知らない。余談。「つまり自分の話は一切するなということですか? 他の人間は自由に話すことができるのに、自分は口を出すなということ?」という声。ここまでを読んでそういう風に思ったなら、たぶん自分の文章をニュートラルには読んでくれなかったのだろうなと、ちょっと悲しくなる。そんなこと書いてないじゃん、だって。裏を読んだような気になってるだけ。だから、結局は場を考えることが必要という話。不幸自慢でも幸自慢でも、そういった話題が認められる文脈だって、自分たちの日常の中にはたくさん転がっていて。たとえば自分がブログを用意した理由は、半分くらいそのためだし。だから、それらを区別することぐらいはできるはず、という話。自分の話をちゃんと聞いてほしいなら尚更。「本当に聞いてほしいと思ってる?」と自分はよく思う、その類に出くわすと。陶酔じゃないの、と思ってしまう、これは本当に失礼なことだけれど。でも、声は聞こえない? 自分は幸も不幸も知っているから、幸せに酔うのは簡単で、悲劇に酔うのはよりもっと簡単ということだって当然のように知っていて。だからまあ、思ってしまう。でも、難しい。全人類の全部が上手くいけばいいのになと自分も思ってる、常日頃から、他人事みたいに。閑話休題。こういう余談の全部がただの注釈で、自分の言葉を履き違えられたくないから書いている。言葉を信用していない話はどうせいつか書くだろうし、これまでの記事でも散々したのでとりあえず割愛。話を戻して、会話は場を支配している自然さに乗っかって進められるものと自分は思う、というところ。大人数の場ではそう。一対一なら少し変わる。たとえばお互いの距離感なんかの比重がどうしたって大きくなってしまうから、言葉の選び方が変わる。でも、基本的にはやっぱり流れがあると思う。文脈。自然。「会話をするとき、相手の言葉に対してとても敏感になっている自信がある」。これが何を指していたのかというと、自分はそういった自然さに沿わない発言、だから安直な表現に頼るなら不自然な発言ということになるけれど、そういったものに対してかなりの警戒を払っている。コード進行とかと同じなんだよな、本当に。ずっと 1456 だったのに突然 III7 が入って「お?」と思うのと同じで、というか気づくだけなら別に誰だって気づくんじゃないかと思う。誰だっては嘘か。でも、そんなに珍しいことでもないと思う、気づくだけなら。問題は、だからそれの処理。和音なら「お?」と思うだけで済むけれど、人間が相手ならそうもいかないから。人に依る。人に依るということを断った上で話を進めるけれど、自然な流れを遮って出てくる不自然な言葉って、それは多かれ少なかれ誰かに話したいという意思の顕れなんじゃないかな、と自分は思う。逸脱。脱線。人に依るだろうけれど、そんなもの。でも、自分はそう思う。不幸自慢でも幸自慢でも、それ以外の全部でも。それがある程度は誰かに話したいものであると仮定した上でさらに話を進めるとして、果たしてそうならそれはその人にとって大なり小なり重大な、少なくともいまその場にある自然さなんかよりは優先される事項であるのかなとも思ったりするわけで。身構えちゃうんだよな、だから。その先に何があるか分からないから。地雷原。取れない宝箱。相手の言葉に対してとても敏感になっている自信があるというのはそういうこと。気がつけないままで相手の領域へ踏み入ってしまうことが本当に嫌で、責任が取れないし、というか誰の荷物だって背負って歩いていけるというわけじゃないから。せめて気づかなければならないと思っている、少なくとも自分は。だから、そのトリガー、細いピアノ線みたく自然に紛れた不自然の、その更に向こう側に対して、それはもうめちゃくちゃに慎重。好奇心なら腐るほど、いっそ誰かに売りつけたいくらいには持っていて、でもそれで猫は死ぬらしいから。自分は猫じゃないけど、でも小さな怪我だってできれば避けたいと思う、お互いに。

 

 流れに沿わない不自然な言葉。たくさんあるよなと思う。この記事にだって、なんかもう両手じゃ足りなくなってくるくらいには書いたように思える。気がつく? 気がつかないならつかないで全く問題はなくて、だって余計な一言だから、そういうのって。余計な一言というか、なんだろ。たとえば自分は道を歩いていて、よく看板に書かれてある言葉を目で追ったりする。飲食店のメニューでもいいけれど、電柱とか、町内掲示板とか、そういうの。でも、みない人は全くみないと思っていて、視界に映り込んでいないわけではないだろうけれど、意識のレンズには入りきってこないというか。でもそれって何の問題もなくて、そしてこの街のいたるところにはその類のものが置かれていると自分は思う。棄てられたビニール傘、誰かの落とした手袋、煙草の吸殻、風に飛ばされるレジ袋。もっと大きなものもあるけれど、なんとなくで小さいものばかり挙げてしまった、理由はない。とにかくそういうのがたくさんあって、でもそれは全人類が目を向けているという対象ではない。自分だって、見落としているものはたくさんあるはず。現に、自分はつい最近まで他人のファッションとかを気にしていなかったから。最近といっても、もう何ヵ月か前のことだけれど。山ほどあると思う、そういうのは。他人とかかわりを持っていると、その人が普段何をみているのかが何となく分かったような気になったりすることがある。この人はよく信号の話をしている。この人はよくコンビニのゴミ捨て場の話をしている。この人はよく自動販売機の商品の話をしている。そんな風に。ブログを書いていて、余計な一言を添えることが自分は割とある。信号をみている人には信号に、コンビニのゴミ捨て場をみている人にはコンビニのゴミ捨て場に、自動販売機の商品をみている人には自動販売機の商品に、そういった、その相手がよくみているなと感じた部分に手紙を隠しておくというような感覚で余計な一言を書いている。その人以外の全員は気がつかなくてよくて、だけどその人だけは絶対に気がつけるような場所。だからまあ、言ってしまえば合言葉に近いものでもあるけれど、だけど少なくとも自分の場合はお互いの合意があるわけでもなく、自分が勝手に隠して自己満足しているだけだから、合言葉という喩えはあんまり正確じゃない。とにかく、自分はそういうことをする、かなり意図的に、それも息を吸うような頻度で。だからというわけでもないのかもしれないけれど、だからたとえば他人の文章を読んでいてそういったものに出くわしたときに思ってしまうことがある、「読めばわかる」。自分宛ての文章でなくたって、宛てられたであろう別の誰かに関する情報がある程度自分の手元に揃っていた場合、そういうことが起こりがち。だからというわけでもないと書いたけれど、でもこれは完全に順接かな。自分がそういうことをよくするから、他人がやっているそれにも稀に気がつけるっていう。気づいていないことのほうがはるかに多いと思うけど、当然ながら。それはそれとして自分は信号も、コンビニのゴミ捨て場も目で追うし。商品まではあまり気にならないけれど、だけど真夜中の自動販売機は好き。それもまた、だから「他人の言葉に対してとても敏感になっている」の一例ではあるんだよな。自分に向けられていない言葉を相手にしている分、これは本当にただの好奇心でしかない。暴くことは絶対にないし、そもそも触れたいとも思わないけど。自分が同じことをされたら嫌だし、というより普通に怖いから。でも、目の前を走り去っていった車のナンバープレートを何となしに読んでしまうのと同じ構図なんだよな、これ。そう思ってやろうとしているわけではなくて、なんていうか全自動。様々な様々に対してそういうことを考えて、文章でも日常会話でも、箱の中身を考えるだけは考える。

 

 いつチルとかいう言葉がいつ頃かに爆誕して、割と困っている。何に困っているかというと、向き合い方。説明する。これはまあ流石に自惚れではないと思うけれど、その言葉が冗談であれ本心であれ、多少の関心が自分へ向けられているのだな、という風にまず思う。そして、その関心を数直線的な何かに射影したとして、程度の差こそあれど、正の方向のどこかしらに落ちるのだろうなという気がしている。関心というものは思うにかなり複雑で、というか多種多様で、一次元の枠に収まるものとはあんまり思えず、だから射影。要するに、大なり小なり肯定的な感情を向けられているのかな、という気持ちになりはする。ところで、ここで問題が。どのような問題かというと、まず段落が始まってすぐに登場した自惚れという言葉、これはかなり最悪な言葉選びだと自分では思っている。だって、これってただの予防線なんだよな。「自分はこう思ってるんですけど、でも皆さんの本心は分からないので真偽は不明です」みたいな。めちゃくちゃに失礼。だって、考えたら分かるじゃんか、そんなの。この予防線はつまり「自分は皆さんを信用していません」と言っていることとほとんど同義にみえる、少なくとも自分にとっては。最悪。本当に最悪だと思う。プレゼントの話。だからこれ、差し出された花束を踏みにじっていることと同じじゃない? この世界にいる全人類が自分と同じ価値観で他人の姿を捉えているとは露ほども思わないけれど、それにしたって疑っていいようなものでもないと思う、そういうのって。「勘違いしたら嫌だから」って、花束に勘違いも何もないでしょ。そう考えつつも、一方で手癖の予防線として「自惚れ」という言葉を引っ張り出してしまう自分に「お前はさあ~」と思う。いやもう、本当にね。問題はまだある。じゃあそんな言葉を使わないように心掛ければいいじゃないという話にもなるけれど、でもそういうわけにもいかない。だって、その評価に甘えてしまったらそれはただ単に調子に乗っているだけの人では? という脳内ツッコミが依然として存在しているから。いや、これについては実際にその通りだと思う。よく動画をみている VTuber の人がいて、まあ自分が追いかけているのは一人だけなのだけれど、これは余計な一言。その人が言っていた、「スパチャ(投げ銭)をくれるのは本当に嬉しいし、実際に助かっているのだけれど、それに甘えてしまうのは絶対に違うし、だから反応の仕方に困ることがある」。なんとなく構図が似ている気がする。「(とりあえずその言葉を自発的に使っている人は)みんな自分のことを多少は評価してくれてるんだな~~。最高~~~~」という人間になってしまったら終わりという気がする。絶対に嫌だ。何が嫌って、そのことを当たり前だと思ってしまうことが嫌。全然当たり前じゃないし、慣れたくなんかない。慣れるって、良くも悪くも大切に扱えなくなってしまうということだし。たとえば親しい友人。粗雑な会話ができるようになっていく一方で、彼/彼女はこういう人間だという偏見が頭の中に蓄積されて気がついたらちゃんとみれなくなってるっていう、よくある話。それと同じ。調子に乗っているだけの人というのは、だから要するに花束をちゃんと大切にすることができない人という意味。相手のことをよくみない人という意味でもある。あるいは花束しかみえていない人でもいい。花束すらみえていない可能性もあるけれど、まあ何だっていい。何であれ、それらが誠実な向き合い方だとは思えない、自分にとっては。そういうわけで困る。本当に困っている。お年玉を貰ったときに何て返せばいいのか分からなくなる、あの感覚みたい。好かれたくも嫌われたくもない。一昨年の一一月とか、そういう記事を書いた気がして。いま読んでみたらちょっと違うことが書かれていたけれど、まあどうでもよくて。いや、本当に好かれたくも嫌われたくもないんだよな。好かれたくないのは、自分がどう振舞えばいいのか分からないからという理由。嫌われたくないのは、嫌われていると悲しい気持ちになるからという理由。とはいえ勘違いされたくないのは、好かれること自体が嫌というわけでは決してなくて。そこまで捻くれてはいない。その質が何であれ、好意を向けられたら嬉しくはなる、自然な反応として。「どう振舞えばいいのか分からない」についても言葉が足りないかも。相手の好意に応じて自分の振る舞いを変えるという意味ではなくて、単に花束の扱いに困るという話。喜んでいいよなと思う、普通に。でも、それに甘えたらダメだろ、という脳内ツッコミが存在する、明らかに。えー、僕ってどうすればいいですか?(定型文) いや、喜んではいるんだよな、割と普通に。嫌がらせかというくらいにいつチルという言葉を繰り出す人間がいて。その言葉に対して困っているということも伝えたはずなのに、これは余計な一言。いやでも、それって深刻な困りでは全くなくて、自分なりの答えをちゃんと持っておかないといけないなとは思うけれど、ポジティブな困りというか。だからまあ、頭の中で「新手の嫌がらせか?」と軽口程度に思いはするものの、疑ったりはしていない、微塵も。向き合い方、マジで考えなくてはいけない。卒業したら忘れそうだけど、でも本質的に一生付きまとう問題という気がしている。分かんないけど。

 

 自分がどのくらい最悪な人間かを、自分はそれなりに知っている。まだ気づけていない部分も多分にあるとは思うけれど、それにしたって結構数を知っている。自分はまあこんな感じでブログを書いていて、だからなのかは知らないけれど、いや、たぶんだからで合っていると思うのだけれど、他人から何かしらの話をされる機会が少なからずあって。するとまず、こう、線を引く。グラウンドに白線を引いていく感覚で。「ここからここまでが自分の領域で、自分はこれよりも外へは出ないから、あとはよろしく」みたいな。ドッジボールのコートと同じ。他人の言葉に対して敏感になっているだとかなんだとかという話は、実は全部この話のための注釈で、こっちが本題。要は、踏み越えてはいけないラインがどこなのかを予め知っておきたいという気持ちがある。相手が「これから自分にとっては何よりも重大な話をするからな」と丁寧に前振りしてくれているなら尚更。でも、そのラインは大抵の場合において曖昧で、だいたいの見当はつくのだけれど、それは本当に第三者的な見当でしかなく、それはそれとして誤って踏み越えてしまうととんでもないことになるのは火をみるより明らかなので、だから「だいたいこの辺りだろうな」のさらに五メートルくらい前に線を引く。五メートル。一般的な学校の教室の、教壇から最後列の椅子まででそれくらいかな。本当に、気持ち的にはそれくらい離れた状態で会話へ臨む、勝手に。その結果として現れるのは「へえ~」くらいの相槌しか打たない、アヒルよりはちょっとマシだけど実質アヒル役の人間。これは自分なりの相手に対する誠実な態度で、だからそれ自体に不満も何もないのだけれど、それはそれとして最悪の一つではあるよなと思っている。相手のことを何も助けないから。たとえば目の前で相手が突然涙を流したとして、自分は何もしないんじゃないだろうかという疑念。そんな状況には流石に行き当たったことがないから想像だけれど。なんていうか、その姿勢が上手く機能する場面があればそうでない場面も当然あって。上手く機能しない相手を前にしたときに、最悪だな、と思う、かなり。雨に打たれている人がいたとして、自分の手に傘があったとして、比喩。ずぶ濡れの身体を乾かすことはまあ無理にしても、これ以上濡れないように傘を差しだすことくらいは誰にだってできるはず。それも優しさの一つだと思う。でも、自分にはそれができなくて。なぜなら五メートル前に境界線を引いてしまっているから、会話が始まった瞬間に。ここからは外に出ないと勝手に決めてしまっていて、自分が。だから、「ああ、この人には傘を差しだすほうが正しかったのかもな」と思う一方で「いや、でも自分には絶対にできないしな」とも思う。最悪。五メートル前に引いた勝手な防衛線なんて優に飛び越えられるはずなのに。そうは思うけれど、でもしない。自分勝手。それはそれとして、これはまた別の話だけれど、他人の話を聞いているとき、自分はそれがどんな種類のものであっても大抵は面白がっている。これも最悪。努めて言わないようにするのだけれど、それでも気を抜いた瞬間に言ってしまったりする、「面白い」。「面白いって何やねん」と脳内ツッコミ。分かる。普通に失礼すぎると思う、いくらなんでも流石に。でも、面白いと感じることに対する後ろめたさなんかは実は全くなくて、こちらが真の最悪だけれど、そういった感覚も諸々全部含めての「他人の話を聞くのが好き」なんだよなという理解がある、自分の中に。その人が大切にしているものを、自分は割と面白がって聞いているという事実。面白がるというのは軽んずるという意味ではなくて、誤解されたくないので注釈をつけるけれど、他人にとっては重大な話を、だから自分にとっては事実としてなんてこともないそれを、可能な限りで大切にするための自分なりの方法がそれなんだという話。でも、受け手からするとどっちも変わんないよなと思ってもいる。だから最悪、嫌われても文句は言えない。面白がるという言葉をもう少し言い換えると、たとえば小説。世界に一つしかない小説を読んでいるみたいな気分。まだ世に出ていない、原稿用紙に書かれただけで製本はされていない草稿。そういうの。それをみせてもらっている感覚というか、なんというか。自分にとって相手の話を大切にするというのがどういうことかというと、それは絶対に分かったつもりにならないという意味で。最大公約数と特効薬。たとえばその草稿をいい感じに要約して、あらすじとして数行程度に書き出してみたら、なんだ案外よくある話だなって。七〇億だか八〇億だかのうちの一人が抱える悩みって、丸善でもジュンク堂でも古本屋でも、どこかしらの書店に行けば絶対に見つけられる程度のものだろうし、と自分は思う、本気で。でも、だから、そういった最大公約数的なステレオタイプの目線で相手の草稿を読んでしまうことが自分にとっては「軽んずる」という行為に該当しているという話で。いや、だって、真逆じゃない? と思う。だからそれだけは避けたいなと思う自分がいて、その結論としてちょうどいいのが五メートル。相手の話を分かった気にならないで済むライン。だからちょうど小説くらいの、自分があくまで読み手の立ち位置でいられるライン。これは相談事をされるたびにどこかのタイミングで絶対に言う、「自分は他人のことに興味がない」。これは言い換えれば、ステレオタイプとしては考えないけれど、だけど具体的にも考えないということ。登場人物の顔とか名前とかは本当にどうだってよくて、何ならいま目の前で話している相手、一人称の実体でさえ別にどうでもいいというか。だって小説を読んでいるときに気にしないじゃんか、そんなの、ライトノベルなんかは別だろうけれど。そういう捉え方が自分にできる自分なりに最大限誠実な方法と思うから。相手に依っては不快な思いをさせるだろうなと頭の片隅に、だけど自分にとってはそれが最善なのでそうする。興味がないなんて、別にわざわざ言わなくてもいいのかもしれないけれど、そうしないと嘘を吐いたような気持ちになって気持ち悪いので言う。ルールの押しつけ、いわゆる最悪の一つ。自分がされて嫌なことを相手にしている。

 

 露悪的と言われたことがある。言った本人は忘れているかもしれないし、どういう意図で言ったのかも自分は知らない。最初はあんまりピンときていなかったけれど、でもまあ今では「的確だな」と思う。だって、たとえば上に書いた最悪に関する文章が全部そうだから。これには、まあ多分ちゃんとした理由がある。有体に言って、良い人ぶるのが嫌、これに尽きる。もっとちゃんと書くなら、まず脳内ツッコミという存在が自分の中にいる、かなり恒常的に。その脳内ツッコミが喧しく口を出してくる場面は色々とあるけれど、でもおおよその場合は決まっていて、それが何かというと肯定的な印象を他人に付与し得る何かを実行するとき。たとえば、モーニングコールと焼肉の話は前にしたけれど、だからあれは自分の気持ち的な部分と、それはそれとして独立して存在する脳内ツッコミとの両方を書いていたわけで。いや、でもだからどっちが本当なのかの判断がつかないんだよな、ああいうの。気持ち的な部分だけをじーっとみていると、背後に忍び寄った脳内ツッコミが「いやいや、そうは言ってもさ」と言ってくる。「良い人としてみられたいだけなんじゃないの?」。否定できない、実際。良い人でありたいし、どちらかといえば。それはそう。でも、ところでそういった行動を無意識的に起こすと脳内ツッコミは「いやいや、そうは言ってもさ」と肩を叩きに来るし、意識的に起こそうとすると脳内ツッコミは冒頭近くの文章みたく「何様だよ」と耳元で突っかかってくる。ずっとこれ、本当に。そして、自分でも割と思う。「いやいや、そうは言ってもさ」とか「何様だよ」とか、冷静になってみると。脳内ツッコミはそこそこ信用できる。まあ鏡は嘘を吐かないから、それはそうなのだけれど。でも、それはそれとして鬱陶しい。ただただ鬱陶しい。何かをするたびに「これって自分のためなのかな、それとも相手のためなのかな」とか、いちいち考えたくない、普通に。それはとても大切な問題ではあるけれど、だからって頻度はこんなじゃなくたっていい。一挙手一投足にツッコまれてたまるかという気持ち。どんな漫才だよ。それはそれとして、自分の意思と無関係に脳内ツッコミは自然発生するので、鏡から目を逸らすことはもはや不可能だから、じゃあどうするかというと、それが結局は露悪的であればいいという、そういうところに落ち着く。良い人ぶっていると脳内ツッコミが煩いので、それが嫌だから良い人ぶるのも嫌という、そういう話。「愛なんて無いですよ」って、だからそれだけで済ませておいたほうが自分は楽なんだよな。愛というか、特別な感情は特にないということだけ言う。これは半分嘘で、自分はそれなりに好意的にみている、その相手のことを。いや勿論、友人としてだけれど。それはそれとして「貴方のことを好意的にみています」と直で言ってくる相手を遠ざけることは実際問題それなりに困難なはずで、嫌でも好感度は上がりそうというか、いやまあ上がる、たぶん、方法を盛大に間違えたりしない限りは。でも、だからそれを指して「相手にとって自分を良いように映したいだけなんじゃないの?」と言ってくる自分がいて、そして自分はそれを否定できない。だから、半分だけ正しい「愛なんて無いですよ」だけを言う。いや、まあ愛だなんて大層なものは実際に無いんだけど。人からの相談を受けたときに言う「自分は他人のことに興味がない」も大体同じで、これもやっぱり半分だけ正しい。本当のことを言っていいなら、他人のことにはめちゃくちゃ興味があるし、そうでないなら他人の話を聞くのが好きとはならない。だけどこれだって、だから例えば相談事を持ち掛けた相手が「めちゃくちゃ興味ある」という反応を示した場合、大抵の人間は嬉しい気持ちになるんじゃないかなという想像が自分の中にあって。別に相談事じゃなくたって、自分の話を興味津々で聞いてくれる相手がいれば嬉しいじゃんか、恐らくは。いやでも、だからここで脳内の自分が「相手の気分を良くすることで、この人は良い人だという印象を持ってもらいたいだけなのでは?」ということを言ってきて、これもまた自分には否定できない。というか、普通に納得する。たしかにそれはそうかも、としか思わない。だから「興味がない」ということにしておく。話が大きければ大きいほど強調する。「興味がない」。ただ、「自分は他人のことに興味がない」と伝える場合には「自分は他人のことにめちゃくちゃ興味がある」とも同時に言うようにしている。場が場。半分だけ正しいで済ませるのは正しくないという気もするから。でも、なるべく「興味がない」のほうを先に言う。こうと決めているわけじゃないから絶対とは言えないけれど、たぶんそうなっていると思う。だけどこんな数の言葉は割かないから、割けないから、おおよそ言葉以上のことは何も伝わっていないはず。全く問題ないけど、それで。自己満足だし。みたいな。こういう話は、だから結局のところ、嘘を吐きたくないということに尽きるわけで。ここでいう嘘は、自分が偽物だなと思ってしまうもの全部を指しての言葉。良い人ぶるのが嫌もそう。「良い人としてみられたいだけなんじゃないの?」という声が聞こえた時点で、仮にそういう意識の存在を無意識下まで全部捜索してなおも確認できなかったと仮定して、だけど自分の中ではそれはもう嘘になってしまっているというような感覚がある。気持ちの問題が十割。だから、半分だけ正しいことを言う、良い人ぶらなくて済むほうを。あるいは脳内ツッコミとあわせて両方とも言う。自分の中ではそういう風な折り合いがついている、ある程度。