消えたポラリス

 

『消えたポラリス / ソニオル&一葉&なずしろ』の話をします。この曲、割と色んな人が気に入ってくれているっぽく(ありがたい)、それはそれとして自分の側にも書き残しておきたいことがないではなかったので、忘れないうちに形にしておこうという魂胆です。話をしますといっても今回は作曲面でのそれだけになる予定で、なぜなら作詞・編曲に僕が一切噛んでいないからですが、それはそれなので、作曲段階で意識していたことなんかを雑に書いていこうと思います。

 ↓こことかこことかこことかで聴けます。

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kitchon.bandcamp.com

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 余談ですが、ソニオルさんのアルバムはオンライン販売もしているらしいですね。

sonisoniol.booth.pm

 みんなも購入して『さよならライカ』を聴こう!

 

 

〇歌い出し、A メロ:B major

 この曲は頭から順に作っていったので、ここが最初のとっかかりになります。

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 最近はメロとコードを同時に考えて作曲することがほとんどなのですが、今回は( A メロに関して言えば)コード進行決め打ちで作り始めました。理由としては「最近 6451 の曲作ってないな~」と思ったことと、同時進行で制作していた『リスティラ』が明るめの曲調だったので、暗めカッコよソングを歌ってほしい~~~という風に思考が進んだためだったような気がします。

 6451 の変化形として自分が特に気に入っているのが VIm7 - IVadd9 - Vsus4 - I ( - V/VII ) なのですが、この進行だとずっとソ(移動ド)の音が持続していて、最後の V/VII を除けば主音であるド(移動ド)の音もそうなってるんですよね。なんていうか、だからというのもおかしな感じがして、というのもうまく説明できないからなんですけど、ものすごい停滞感があるなと思っていて。停滞感? 浮遊感? ふわふわする感じ? 6451 がベースになっているので物悲しさみたいなのは若干あるんですが、そこをこう曖昧に暈す感じのアレっていうかなんていうか。状況は進行していっているはずなのに足はずっと止まったままみたいな、そんな感じの、ひとりだけ取り残されている感みたいな?(みたいな話は作詞担当へマジで一切通していないのですが、ここら辺の感覚もちゃんと一致してて良すぎ? になってました( 2A メロとか))(音価が二つしかないのも影響してそうですけど) その辺りを結構気に入っていて、自分が 6451 を使うときはだいたいこの形になっています。自分の他の曲だと『スカイブルーナイトメア』なんかもずっとこの進行ですね。

 メロについて。結構お気に入りです。

 実際に人に歌ってもらうことを想定して曲を作るようになってから気が付いたこととして、一曲中の最高音・最低音をどこに置くかということ以上に、歌い手の得意な音域内のどの辺りに主音を配置するかという問題もあるなということがあって。たとえば mid1C - hiA くらいを得意とする人がいたとして、その人に歌ってもらう曲としてたとえば A メジャーの曲を用意すると大変なことになりそうだな……みたいな。主音って(少なくともポップスの文脈では)一番使いたくなる音だと思うんですが、それがボーカル音域の真ん中ちょい下と一番上にあって、やってやれないことはないけれどちょっと難しそう、くらいの感じ?(属音も中途半端なところにある) 実際 BUMP の音域がだいたいそれくらいで、正しくは mid1A# - hiA くらいが地声得意音域っぽいんですが、A♭、A、A♯キーの曲が極端に少ないんですよね。マジでほとんどなくて、あったとしてもサビは転調して別のキーへ行ったりとか。……みたいなことに対して『リスティラ』を作っている辺りで自覚的になって、『消えたポラリス』のほうが制作としては後発だったので、そういった意識が多少引き継がれているような気がします。とはいえ、『リスティラ』を作っていたときに「盛り上がる前(サビ以外)は B メジャーがボーカル音域(と自分のメロの癖)的にちょうどいいスケールな気がする~」ということを考えていたので、『消えたポラリス』の調もそのように決定されました。主音が最低音付近にあると、こう、落ち着いた感じの歌い方になりそうで VIm7 - IVadd9 - Vsus4 - I の雰囲気に合ってるな~と思ったり思わなかったりしていました。

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 シェルはちょっとだけ意識していた(良い感じのところで 3rd shell をとる)んですが、どちらかというとカーネルのほうをみていたような気がします( soundquest の用語)。具体的には強傾性であるところのファの音を使いたくて。あとは主音にあまり着地したくない(前述の浮遊感まわりから来ている意識)という感じの諸々がいい感じにアレした結果、こういうメロになりました。IVadd9 の上のソ、最高!

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 こっちは二番 A メロの後半で、ここの流れが個人的に一番のお気に入りです。特に前半八小節「暗い夜 廻る空 消えない ポラリス」のところが好きで、下側の主音から始まって、上の主音へ一瞬触れてから、ふらふらと下側の主音に着地する、っていう他の A メロよりも長く下側の主音を避けて進むフレーズになっていて。一気に盛り上がる編曲も相まって妙にふわふわしたような、マジで空が廻っているみたいなフレーズ。直前の歌詞が「あの宇宙(そら) 向こうの 場所まで行けるかな」なのも良いんですよね、ここ(良い……)。飛び立つ三秒前って感じで。

 主音を避けるという意識は月吉 171 号に出した妙なインスト曲(世には公開されていない)を作っているときに芽生えたもので、「宇宙っぽい浮遊感って何なんだ~」となった結果、「着地感を、つまり主音を避ければいいのでは?」という結論へ至り、というのがその妙なインスト曲から得た知見でした。何がどう繋がるのか、分かんないものですね。

 

〇間奏1:B major

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 このデモを作っている段階ではまさかこれが本決定になるとは思っていなかったので、ここのメロディはマジで適当に生成されました(仮置きメロのつもりだった)。意識としては、唄い出しが結構いい具合に情緒のある感じになってくれたので、一発目の間奏では逆にそういうのがないフレーズのがいいかなあと思ったりしていました(後続、二発目の間奏でまた良い感じのフレーズをやるつもりだったので)。あと、これは割と気を付けていることなんですが、同じ和音から始まるパートが連続した場合、出だしのメロ(コードの上で一番最初に鳴るという意味)を変えるようにしています。具体的には、歌い出しは VIm7 の上のド(移動ド)から始まるんですが、間奏1は VIm7 の上のミ(移動ド)から始めています。なんか、同じところばっかり始めると芸がないかなあって、その程度の理由なんですけど。

 

〇間奏2:B major

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 ドとレとソ(移動ド)だけでいいらしい、音楽。嘘です。でもソドレソド~(移動ド)はいいフレーズですよね。VIm7 の上で主音を鳴らしたい気持ちが自分はめちゃくちゃ強く( 3rd shell 最高! の気持ち)、そのために間奏1のほうで VIm7 の上のミ(移動ド)を消化しておいたわけですが、なので心置きなく VIm7 の上のド(移動ド)を鳴らしています。先に述べた通り、「弦で暴れまわってほしい~~~」という気持ちがめちゃくちゃにあったので、ここは完全に弦の気分で生成されたフレーズでした(デモ生成段階ではすべてピアノでしたが……)。頭がロングトーンだったり、全体的にあまり細かく動いていなかったりは、たぶんその辺りの意識です。

 某㍋のせい(おかげ)で IVadd9 の上でシ(移動ド)を鳴らさないと気が済まない人間になってしまい(『リスティラ』でもポエトリー地帯のあとのメロでやっている)、『消えたポラリス』でもものの見事にそうなりました。どうして?

 後半、食いで進行する IIm7 - IIIm7 - IV のところが割と気に入っていて、下降するストリングスに対してコードは上昇させるっていう、みんなやってるやつです。IIIm7 の上のレ(移動ド)もかなり良い音しますよね。最高~。

 余談。実はここの弦のフレーズがサビメロの伏線になっていたりいなかったりするんですが、この曲を聴いてくれた人のどのくらいが気づくんだろう? と気になっていたりします。気づきました?

 

〇 B メロ:B major

 ここのピアノとボーカルが超良いので是非聴いてください。

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 この曲における B メロの役割は A からサビへの繋ぎといえばそうなのですが、より詳細には A メロの浮遊感を滑らかに振り払いつつ、サビの盛り上がりへ向かって助走をつけるみたいな、そんな感じのことを想定していました(そういう意味で A メロとの対比を狙っています)。なので、とりあえずコード進行のほうから触れておくと、浮遊感の逆を行こうということで VIm7 からの下降クリシェを起用しています。どことなく沈んでいくみたいな地に足つくどころか吸い込まれていくみたいな、だからこそサビでの短三度上転調も映えるかなあっていう(サビで転調することはだいたいこの辺りで決めていた)。VIm7 からの下降クリシェをするときって 2,3,4 番目のコードを何にするかでいくつかパターンがあると思うんですが、今回はこれが一番合っているように思ったのでこれでいきました。

 後半は IVM7 - IVm7 - bVIIadd9 - Vsus4 です(実際の編曲では IVM7(9) - IVm9 - bVIIadd9 - Vsus4 になっている)。たとえば A メジャーにおける IVm7 - bVII って Dm7 - G なんですが、これは C メジャーの IIm7 - V でもあって、そんな感じで IVm - bVII を転調先の IIm - V とみて短三度上に転調するやつ、かなり好きなんですよね(『ここにいるよ。』のサビ入りでも全く同じことをやっていて、あっちは IIm7 - IIIm7 - IVm7 - bVIIsus4 )。意図としては、下降クリシェや IVm7 で沈みに沈みまくった雰囲気を bVIIadd9 の浮遊感で一気に振り払うという感じでした。という話を僕は作詞担当へはもちろん通していないんですが、ところで一番 B メロの bVIIadd9 に入る瞬間の歌詞は「僕は走り出したんだ」なんですよ。いやー、マジで完璧すぎる。まさかそこまで考えてはいないだろうと思いますけれど、だったら尚更すごくないですか?

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 メロ頭が VIm7 の上のミ(移動ド)になっているのは、上で言っていたパートごとの連続を避けるっていうのと同じです。この B メロでは「沈んでいく感覚」を意識していたということもあって、メロディは全体的に下へ偏っていますね(下側のシ、ド、レ、ミ(移動ド)を重点的に使っている)。A メロと比較してみると分かりやすいです。

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「沈んでいく感覚」につられたものとして三、四小節目に入っているミ♭(移動ド。画像上ではレ)があります。なんていうか、半音で動くメロディに特有のやりきれなさっていうか気怠さっていうか、そういうのがほしいなあと思いつつ、「でも、流石にこれはやりすぎじゃない?」と反復横跳びをしながらメンバーへ提出したところ、そのまま採用される流れとなりました(このミ♭、かなりお気に入り)。あとは音符の単純な数を多くして、音価二つで展開していた A メロから一転する感じを演出したかったというのもあります。

 

〇サビ:D major

 一サビ頭の歌詞が「見上げた空にポラリス」なんですが、一サビ入った瞬間の「空を見上げてる感」がヤバすぎてもうめちゃくちゃ好きです。これにはストリングスのフレーズが大いに貢献している。

『リスティラ』と同じ要領で調を B メジャーに決定したというのは前述の通りですが、G# メジャーへ転調する『リスティラ』と違って、『消えたポラリス』では短三度上の D メジャーへ転調します。理由はいくつかあるんですが、サビはちょうど気持ちいい音域で主音を連打しまくりたかったというのがあり、D メジャーに移ると主音が半音三つ分上へ動くので、今回はこっちがいいな~という感じで選びました。関係ないですが、『リスティラ』は逆にサビで下中音であるところのラ(移動ド)を最高音域で連打したかったので、下の調へ降りてボーカルの音域へ収まるようにしています。こういった意識で調を選ぶの、これまでは本当にやってこなかったのでとても新鮮でした。

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 これは某㍋にも指摘された(この曲に対してではなかったけれど)ことですが、自分で認識している手癖として II7 があって、この曲だとサビの六小節目に挟まれています。詳しくは 170 何号かのあふきちに書いたので吉音の人はそちらを参照してほしいのですが、なんていうか、ものすごく自分好みの裏切り方ができるコードだなと思っていて。堀江晶太が好きだから II7 が好きなのか、II7 が好きだから堀江晶太が好きなのかは意見の分かれるところですが、BUMP の使う II7 も好きなので II7 が先なんだと思います、たぶん(適当)。特に II7 の上のソ(移動ド。11th)がめちゃくちゃに好きです(『未完成の春』も『ステラグロウ』も『リスティラ』も、歌メロは全部 II7 の上のド(移動ド)だけど……)。みんなも VIm7 から II7 へ進行しよう!

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 間奏2前半 4 小節のメロディとサビ前半 4 小節のメロディは実はほとんど同じ(間奏2の画像と見比べてみると分かりやすいかも)で、違うところといえばリズム、音の区切り方、あと一ヶ所だけ間奏2だとラ(移動ド)になっているところがサビだとファ(移動ド)になっていたり(「見上げた空にポラリス "も"う迷わない」のところ)、それくらいです。間奏2のフレーズが思いのほか良かった(当社比)ので、コードも同じにするつもりだったし、サビでもそのまま使っちゃえ~ということで使いました(間奏のフレーズを弄ったやつがサビのフレーズになってるやつ、めっちゃ好きなんですよね。ちょっと違いますけど『初音ミクの消失』とか)。とはいえ、こちらはストリングスではなく歌メロだったので、歌っていて楽しいように多少の変更点を加えての起用となりましたが。短三度上への転調も相まって良い感じに収まったかな~と思います。あとは 3rd, 7th, 9th,11th,#11th を叩きまくって気持ちよくなろうという気持ち。

 余談。落ちサビの「確かに在ったの"に"」の 3rd shell( V の上のシ(移動ド))がマジで好きすぎて最高~って気持ちになってました。みんなも 3rd を叩きまくろう。

 

〇 C メロ:D major

 ここがこの曲で一番やりたかった場所です。

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 この曲でここだけ VIm 始まりでなく IVM7 から入ります。これまでずっと VIm から入っていたからこその特別感があっていいですよね、こういうの。『リスティラ』の制作を通して「 4563 って超良くね?」という気持ちになり(ポエトリー地帯)、というのも一生着地しないっていうか、疾走感を保ったままで展開していける進行だなーというイメージがあって、C メロは最初から最後までずっと走っていてほしかったので(誰に?)、結果、この進行を起用するに至りました。

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 もう 3rd 叩きまくりです。メロが『夕凪』に似ているという指摘を既に数人からなされましたが(というか調も同じなんですが)、これは完全に意図的です(調は偶然です)。『リスティラ』でも同じようなことをやってたんですが、C メロを作るときにソニオル曲となずしろ曲からそれぞれモチーフを引っ張ってきて、それでメロディを組もうとはじめに考えて。まずソニオルさんのほうから探そうとやってみたものの、この曲のここでやりたかったことといい感じに噛みあうものが見つけられず(特に、食いのフレーズにしたいという気持ちに噛み合わなかった)、逆から攻めてみるかとなずしろさんの曲のほうから探した結果、一瞬でこれになり、これになりました。出だしのララシド(移動ド)だけ借りてきて、あとは自分の好きなように組んでいった感じです。最高音がファ(移動ド)になっているところなんかは完全にそうですね。

 音域を一気に上へ寄せることでラストスパートを演出したい、という気持ちもありました。ベースラインも動かしまくってます。

 

 

 

 以上、こんな感じでした。覚えていることはたぶんだいたい書いたんじゃないかなと思います。色々考えてメロを作ったのが割と久しぶりのことだったので、忘れないうちに書き残せてよかったです(嘘で、書きながら「ここなんでこうしたんだっけ……」というのが幾つもあった)(もう忘れている)。

 

 

 

restella


 タイトルの通り、リスティラについて書きます、ちょっとだけ。

youtu.be

 公開したばかりの曲に言及するのどうなん? という気持ちが結構あるので、普段はしばらく間をおくようにしているのですが、何を隠そう、この曲の歌詞を完成させたのは 2021/05/22 のことであり、もうだいたい半年前のことなんですね、実は。なので個人的な感覚としては「やっと発表できた!」というのが大きく、加えて、公開初日ということで割と色んな人に聴いてもらえたみたいで、「書くならいまの気分のうちだな~」という気になったので、まあ、そうですね。その結果、こうしてワードパットを開くに至ったというわけです。

 感情って往々にして衝動的に発生するもののような気がしていて、というとなんだかトートロジーって感じがしますけれど。論理的な感情ってなんだよっていう。それはそうと、まあ、なんていうか、そういう一過性の感覚? みたいなのってあるよなあと思っていて。やりたいと思う人は多くても、実際に始める人は少ないし、それを継続する人はもっと少ない、みたいな言説があるじゃないですか。それでいうところの『やりたいと思う』が衝動に該当する部分だと自分は思っていて。この曲も、なんていうか、そういうある種の『やりたい!』がモチベーションとして先にあって、というのも自分の所属しているサークルであるところの吉田音楽製作所、その新歓の一環として行われた新歓ライブなるイベントがきっかけでした。自分の曲を演奏してもらったから、という理由は実際かなり大きく、それと同じくらいに「バンドってめちゃくちゃカッコ良いな!?」というありきたりな感想も大きかったのですけれど、しかしそれ以上に強かった感覚として、なんていうか、ライブ後の自由時間で自分の曲の話をしてもらう機会があって、バンド部の人から。自分はそれまで、自分の曲を演奏することとかは一度も考えたことがなくて、それまでにも演奏してもらう機会はありましたし、編曲に慣れるにつれて演奏可能なラインを目指そうという意識が芽生えつつもあったのですが、それはそれとして自分は楽器が何も弾けず、歌は好きですけど別に上手いわけでもないので、とにかく生で演奏するとかは考えてなかったんですよね。やれたら楽しいだろうなとは思っていましたけれど。当時、『ステラグロウ』という曲を発表して間もない頃で、それを演奏するみたいな案も出てたらしいんですが「キーが高すぎて歌えない」という問題があったようで、「じゃあ、歌えるキーで作れば演奏してくれるのかな」と思い始めたのが、だからその『やりたい!』を覚えた瞬間だったように思います。そもそもの話、自分は「誰かとユニットみたいなの組んで活動してみたいな~」と常々言っていたように、誰かと一緒に音楽をしたいというモチベーションがかなり高く、それは何故かと言うと、個人の音楽性的に色んな誰かと一緒に制作をしたほうが絶対に楽しいからで。一方で、なんていうか、そういう無茶に他人を振り回すほどのアレもなかったんですよね。勇気? みたいな、そういうの。自分にそれだけの価値があるとも思えなかったし。でも、だからバンド部の人々に自分の曲について言及してもらって、ちょっとくらいならやってみてもいいのかもと思えたのは自分の中でめちゃくちゃに大きな変化であって。サビの歌詞、『踏み出す一歩を 重なった音を いまはまだ信じていたい』は、だからそういう意味だったりします。マジで大きかった、あの一日が。

 もうちょい色々書いてみはしたんですが、なんかやっぱ書きすぎるのもよくないかなって気持ちになってきたので、今日はここまでにしておきます。『リスティラ』! マジでよろしくおねがいします。MIRINN のほうも、まだ色々とやっていくつもりなのでそちらもよろしくおねがいします。なにとぞ。

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20211022

 

 最近服を買って、以来、外を歩くという行為そのものが一層楽しくなったような気がしてならないのですが、なんとなく思うこととして、これって音楽と同じだなあというのがあります。いや、これはもちろん自分に限った話なのですけれど、外出中にイヤホンで聴く音楽が結構好きで、家の落ち着いた環境やクラブの爆音で聴くのもそれはそれで好きなんですが。なんていうか、そう、これについてはかなりの大昔にブログへ書いたような記憶があって、あの、没入していく感覚が好きっていうか。イヤホンをしていると、普段歩いている最中に意識へ介入してくるような一切の音が遮断されてしまって、当たり前ですけれど。誰かと誰かの話し声、雑踏、流水の音、エンジン音。そういうのが意識の内側にはなくて、でも一方で風景の中にはそれがあって。少し離れた場所を誰かと誰かが歩いていたり、あるいは人ごみの中にいたり。河沿いを歩いたりすることも、すぐ近くを車が走り抜けていくことだって当然あるわけで。だから、風景の中にはそういうのがちゃんとあって、でも自分の意識の中にはないという状況。代わりにあるものが何なのかといえば、それがだから音楽であって、イヤホン越しの。気分的には、なんていうか、少し前の RPG なんですよね。最近のだとそういった環境音の類もちゃんと用意されていたりするのですけれど、昔のそれってたとえばエリアごとに BGM が設定されていて、この街はこの曲、この草原はこの曲、みたいなのあるじゃないですか。まあ、自分がイメージしてるのはポケモンとかその辺なんですけど、そういったゲームの街中で BGM 以外の音を耳にする機会ってそれほど多くなくて、メニュー操作の効果音やモンスターの鳴き声などはあっても、環境音の類はあんまりないなって(水の音はあったりしますけど)。そう、だからこれなんですよね、イヤホンを着けて街を歩いているときの感覚って。……というのを一言で集約してしまうと、『世界と切り離されたような感覚』ということになるのかなと思います。たしかにずっとの間、自分はこの切り離されたみたいな感覚を気に入っていて、高校生くらいの頃から。そもそもの話、この習慣の発生には対処療法的な側面があったようなという話も、昔どこかで書いたように思うのですけれど、だからまあ、当然の帰結といえばそうという感じで。そうですね。だから、こう、より深く沈んでいけるっていうか。イヤホン越しの音楽へというよりは、むしろその音によって表現されている世界に? いやだから、あれなんですよね。たとえばの話ですけれど、歌詞とうまく嚙み合ったロケーションで音楽を聴くという行為がかなり好きで。そのためだけに少し遠くまで移動するのも吝かではないかな、くらいの。ちょっと前に特に何のあてもなしに三宮、正しくはポートターミナル近辺まで行ってみたんですが、これは一人で音楽を聴くという目的を果たすためというのが動機の七割くらいを占めていたという裏話があったり。他にも、人通りの少ない夜道を歩きながら聴く trance があり得ないくらい好きで、最近全然やれてないんですけど。でも、まあ、そうですね。音楽がそんな感じで、だから要は内面的な領域に潜っていけるのがかなり好きという話になるのですけれど、それって衣服の類も同じじゃね? というのが冒頭で言っていたそれです。いやまあ、これも人に依ると思うのですけれど、自分は別に、こう、周囲から良い感じに見られたいという理由により服を購入したというわけではなく、というか、そういった思考を持てるならそもそももっと早い段階で衣服の類へ興味を向けているはずという話で、むしろ逆に、自分は人からどう見られているのかをあんまり意識していない側だったりしました。人の目を一切気にしていないという意味ではなくて、衣服というただ一点に限ればということです。じゃあどうして今更になって服を買おうとか思ったんだよという辺りについて考えてみると、それはまあ様々な要因があるにはあるのですけれど、一番大きなものとしては少し前の記事でも書いたように、小糸侑さんになりたかったからなんですよね。

kazuha1221.hatenablog.com

いや嘘で、なりたいわけではなく、なんだ、憧れ? 彼女が身に纏っている衣服をみた直後に「めちゃくちゃ良くね?」となり、「これを着るともしかして良くなる?」ともなり、ついには「これ着たすぎるな~」以外に何も考えられなくなり。いや、自分、影響受けやすすぎ? って感じですけど、でも、昔からフードのついている服は結構好きだし、あと黒寄りの紺も色としてはかなり好きな部類で。というか、こうなってくると、もう少し早い段階でファッション誌かなにかを目にする機会があれば何か変わっていたんじゃないのかといま一瞬考え、いやでもしかし、それを着ていたのが小糸侑さんだったからこそ自分はこれほどまでに惹かれたのではという気はかなりしていて、顔も名前も知らないモデル(これは嘘で、顔は知っている)がオシャコートを身に纏った無数の写真群を眺めることで同じ効果を果たして得られただろうかというとちょっと不明なところがあり、でもそれはそれとして、良い感じの黒服を探すためにインターネッツサーフィンをしているときは超絶楽しかったので、知らない人が着ていても問題ないような気がするなと思ったり。これは悪癖なんですが、めちゃくちゃ長い一文を書いているときは基本的にテンション高めで文字を打っているときです。それはさておき、だから結局、いやもう、そうですね。オタクであることを最早包み隠さずに話すんですが、いやもうマジで小糸侑さんになりたすぎるな。なりたすぎる、本当に。なんか、マジで一瞬気の迷いみたいなものを起こしてクリーム色のニットみたいなのを買おうかと思ったんですが、「いやこれはマジで気の迷いだな」と思い普通に陳列棚へ戻しました。いやでもほしい~~~~。マジでほしいです。いや、あの、『いや』が連続しまくっているところから「ああ、こいついまノリだけで文章書いてんな」と察してもらえればと思うのですが、いや、あの、そうなんですよ。買ってみてから気づいたんですけど、世界には恐らく『年相応の服装』みたいな共通観念があるじゃないですか。それはまあ従うも従わないも自由なのでしょうけれど、でもそういうのが恐らくはあるにはあって。そうなると、「これ着たすぎ?」と後になって思い始めたとしても、「いやでも、(年齢的に)ちょっとなあ~」みたいになっちゃうとしたらあまりにも勿体なさすぎるなと思って。いや、『思い立ったら即行動 2021 』です、本当に。ほしいと思ったタイミングで買い、着たいと思ったタイミングで着ましょう、マジで。この話は以上です。ご清聴ありがとうございました。

 この一年間、というか四月初めくらいからですけれど、他の人からの影響で明確に変わったなと感じる自分自身の要素が少しずつ増えてきて。別にこれまでにそういった経験が全くなかったってわけでは勿論なくて、これまでにもたくさんあったんですが、それにしたってこの半年くらいはその類のものが特に多いなと思って。実際、服なんてこれまで興味の欠片もなかったし。漫画とか、小説とか、音楽とか、食や建造物といった文化面でもそうだし、あとはアウトドア系の趣味なんかもそう? なんか、マジで世界が急速に広がっていっているような感覚があって、現在進行形で。もっと色んなものを知りたいし、色んなものを取り込んでいけたらいいなーと思ったり思わなかったり。周りの人の好きなものを知っていきたい 2021 後半戦。対よろ。

 

 

 

手紙

 

 というより初めからブログに書けばよかったのかなと思いつつ、いやでも、昨夜眠る前のテンションで書いていたらそれこそ何を書いていたか分かんないので、何もせずに眠った自分は正しかったなとも思いつつ。だったら Twitter にも余計なことを書いたりせずに、そのまま大人しく寝てろよって話ですけど……。いやまあ、なんていうか、自分は別にめちゃくちゃにできた人間というわけでなければ、ありえないくらい達観している大人というわけでもないので、ムカつくときは普通にムカつくし、傷つくときも普通に傷つくし。でもだからって、それによってイコールでマイナス発言をすることが許されるわけでもなく、いや、マジで申し訳なさすぎるな。あのネガティヴツイートで気分を害した無関係の人間がいたら本当に謝罪したいです。申し訳ありませんでした。でもまあ、さっきの作業通話で数人と話しているうちにマジでどうでもよくなってきたので、以降このことについて Twitter 等で言及することはしません。……他人の呪いを背負ったままだとマジでまともに音楽が楽しめなくなるので、これくらいの文章は許してほしいという気持ちがあります。

 コミュニケーションって、ちゃんとした前提があるからこそ健全に成立するものなんだろうな、と思うことが最近多くて。というか、いや、違くて。自分からみて好意的に映る相手ってどんな人だろうなと考えてみると上のような結論に至り、そのことを噛みしめる機会が多いというのが正しいんですが。この前、知り合いと通話していたときに暇が極まって 100 の質問とかいうのをやってみて、そのどこかになんかそんな感じの質問が記載されていて、だから考えてみたんですけど。なんか、単純に正しい想像力を持っている人がそうなのだろうなという気がして。具体的な作品名は伏せますけれど、自分の好きな作品のどこかに次のようなやり取りがあって。まず A,B,C という三人の人物がいて、A と B、A と C はそれぞれ良い関係を築いているのですが、B と C は全くの他人というのが初期状態。そんな中、さまざまな事情があって A は「 C の友人になってくれないか」と B へお願いをします。B は「自分の好きにしていいなら」と承諾して C へ手紙を送り、後日、その返事が B のもとへ届くんですよね。それを知った A は B に「どんな手紙を書いたのか?」と訊いて、B はそれに「 A から君の友人になれと言われた、とそのまま書いた」と答えます。その後 A は B に「 C の返事はどんな内容だったのか?」と尋ねるんですが、それに対して B は次のように答えるんです――『知りたいなら、彼女に訊けばいい。オレが書いた手紙のことはオレに訊く。彼女が書いた手紙のことは彼女に訊く。それがまっとうなやり方だ』。この作品中に描かれた人物のやり取りで自分の記憶に強く残っているものは他にもたくさんあるのですけれど、以上のそれもそのうちの一つで。なんていうか、そういう付き合い方を前提にできる相手のことをこそ、自分は好意的に捉えるのだろうなといまでこそ思うと言いますか。正しい想像力って、身体の表面を境界にして自己(内側)と世界(外側)の両方へ等しく伸びているようなものなんじゃないかと自分は考えていて、鏡像原理みたいに。感覚として、どちらか一方だけじゃ足りなくて、片方だけが強いとかでもアンバランスというか、うまく釣り合っている状態が望ましいような気が、あくまで個人的にという話ですけれど、なんとなくしていて。上のやり取りは、だからその辺りのことがちゃんと前提になっているような気がしていて。「それをされたら自分がどう思うか」を正しく想像できても、他人についても同様に考えることができないなら意味がないし。逆も然りで、他人の感情を既知の言葉だけで説明してしまおうとすることもまた、あくまで自分の理想とするコミュニケーションの在り方としては間違っているなという感じがして。というか、アレですね。嫌いなものを定義して、その補集合として好きなものを定義するというやり方、自分はあんまり好きじゃないんですが、この場合はそちらのほうが分かりやすいかもしれなくて、要は独善的なコミュニケーションというものが苦手なんですよ、自分。相手の考えを頭ごなしに否定しないとか、相手の話をちゃんと聞くとか、自分の意見ばかりを通そうとしないとか。そういうのって、結局は「一方通行のコミュニケーションをなるだけ避ける」という一言に集約してしまえるもので。そして、それを実行するために必要になる視点のことを『正しい想像力』と呼んでいるという、そういった説明のほうがどちらかというと誠実なのかもしれません。一方通行のコミュニケーション。上の例で言うなら、だから C が B に宛てた手紙の内容を B の口から聞いてしまう行為なんかがそれに該当するなと思って。この場合は A から C への一方通行ですね。……いやまあ、そうですね。だから、あんまり好きじゃないんですよ、非正規な方法で個人情報を取得してしまうのって。非正規っていうか、まっとうでないやり方? 何にしたって本人の口から直接聞くのがベストだよなと考えているところがあって、それはちょっと前に書いた、だからフィルターの話と同じことなんですが。結局、だから本人以外から情報を手に入れてしまうのって、そのフィルターを勝手に飛び越えてしまう行為になりかねないよなと自分はどうしても思ってしまって、自分がそれをされたとき、場合によっては嫌な思いをするかもしれないので他人にもそれをしたくないって、それだけの話ではあります。別に特段隠してはいないけれど、全人類に知られていいというわけでもないことっていくらでもあるじゃないですか。僕の場合、たとえば名前とかがそうで、いやまあ全然知らない人が自分の本名を知っていたからって特に快/不快はありませんけれど、「どうして知っているんだろう?」とは思いますし、自分は自分で周囲の人間にも山上一葉という偽名で通している質なので、そこら辺とのバランスが崩れる感じがしてちょっと変な気持ちになるにはなるっていうか。……ああいや、だから自分の場合は名前という概念が結構フィルターの奥のほうに仕舞われているものなんですよ、実は。奥のほうといっても、手前側の比較的奥って感じですけれど。自分の本名を、というかこれが偽名であることすら知らない人だっていると思うんですけど、それをオープンにするのって、個人的にはそれなりに関係の継続した相手だけに限っていて、半年か一年くらい。これはあくまで個人的にそうしているというだけの話なのですけれど、だからそこを一方的に飛び越えてくる人がいたら「?」となってしまうというのは若干あり。でもまあ、難しいですよね。その、特定の相手が一体何をフィルターの奥に置いているのかを知ることって。そもそもみえないんだし、そんな壁。なので、上に引用したやりとりのようなコミュニケーションが個人的な理想になっているという、そういうことでもあります。手紙の中身を知りたければ、手紙を宛てられた人ではなく手紙を宛てた人に訊く。それだけ。まあ僕個人のことを言うなら、このブログに書いてあることは全部が全部、不特定多数へ向けた手紙みたいなものなので、ここに書いてある限りのことは知られても特に構わない部類のものなんですけど(そもそも、こんなところまで読みにくるような人相手になら、というのもあるけど)。話を戻すと、結局、その双方向性の確保を怠るのってつまりは相手に拒絶されることに臆病になっているだけなんじゃないのかなと思うことがあって。あるいは単に深く考えていないというだけかもしれませんけれど。でも、相手がどう思うかを考えて行動するって、個人的にはこういうことだよなと考えている節があって。他人のことを考えすぎた結果、身動きがとれなくなってしまうんなら別にそれはそれでいいだろうって、だから自分はそんな風にも思ってしまったりしますし、それでも自己の欲求を優先したいというなら、それはエゴであることを自覚したほうがいいとも思うし。良い悪いとかじゃなく、ただ事実がそうであるということを知っておいたほうがいいとは思っていて、というより、それを自覚せずに行動へ移すのは危険で、だってその結果として発生する責任の所在を正しく認識できないから。そんな話、この世界のいたるところに転がっているじゃないですか、実際のところ。だから、まあ、そうですね。別に他人へそれを強制したいなんて気持ちはマジで微塵ほどもないんですが、少なくとも自分はそんな感じのかかわり方を心掛けていけたらいいなと思っています、いまのところ。そんなことで、友達を失いたくはないですしね。

 

 

 

帰り道


 なんていうか、まあ、どういった視点から歌詞を書くかって人それぞれだと思うんですけど。これは別に単なる予防線として記しているわけではなく、実際にそうっていうか。作詞をする同サークルの人々と話をしてみたり、あるいは単純に各々から出来上がった歌詞を眺めてみるというだけでも、自分のそれとはまた違ったアプローチで文章を書いているのだなと感じることは比較的多く、良し悪しなんかは特になく、その人なりの方法があるよねっていう、そういう話です。自分はまあ、これも以前どこかで書いたと思うんですけど、自分の中にないものはどうやったって書けないなと思っていて。『明確な個人との関係をベースに作って』いた時期もあり、具体的には『アイ』辺りまで。『ステラグロウ』以降は、それもちょっとずつ変わってきたかなという感じで、具体的にどう変わり始めているのかということはさておき、でもやっぱり自分の知っている感情についてしか書けなさそうなことは変わんなくて。もう少しだけ振り返っておくと、先述の通り、自分は自分のことしか歌詞に書かない(書けない)んですけど、歌詞として生成された後のそれは自分だけの言葉であってほしくないなと思うことがままあって。ままあるだけで、そのことを意識して書いたりはしない(できない)んですけど。自分が普段感じているのと同じようなことを一度でも考えたことがある人だったり、別にそうでない人にだって、その人自身の言葉として記憶に残せたらいいなあ、みたいな。それはまあ、このブログを今でも続けている理由とも重なるところがあって。ステラグロウなんかは分かりやすいかなと思うんですけど、たとえば『いつか色褪せてゆく 茜空に散りばめた約束は またねって笑ったっきり 叶わないだなんて わかっていたけれど それでも全部嘘じゃない』とか。

note.com

「そんなの、叶いっこないよな」と思いつつも結んでしまった口約束って、振り返ってみると思いのほかたくさんあるような気がしていて、それは何も自分に限った特別なことではなく、恐らくは誰だって経験したことがあるはずのもので。そういうの、ともすれば社交辞令だとか場当たり的な嘘だとか、ネガティブな感じに捉えられてしまうこともあるように思うんですが、でも、そういった決して叶わない約束があるからこそ、いまも生き続けていられるんだよなと感じる瞬間が自分には結構あって。だから、そういった何かを自分に分け与えてくれた人たちのことは忘れたくないなーとか。そんな気持ちは常日頃からそれなりにあって、だから曲想が被ったのをいいことに歌詞にして『嘘じゃない』って、そういう。……みたいなことは、だから結局、自分にとっては自然とそう思えるというだけの話で、他の誰かがどう思っているかなんて知ったことではありませんけれど、でも、そのフレーズを見たり聞いたりした誰かも同じ風に思ってくれたのだとしたら、それはそれで嬉しいことというか。『その人自身の言葉として記憶に残せたらいい』はそういう意味です。自分が言っていた言葉として記憶されるのではなくて、その人自身も自然とそう思うようになってくれたらそれは素敵なことだなーって、そういう。思想の類って、強要はできないじゃないですか。というか、したくないし、そんなこと。自分がされたら嫌なので。でも、だからって自分の手にあるそれに執着しているというわけでもなくて。綺麗だなと感じた他の誰かの考え方だったり価値観だったり、そういうものは覚えていたいし、そうあれるようになれたらいいなと思っている節が自分にはあって。だからまあ、自分がその側に回れることは嬉しく思うって、結局はそういうことなんでしょうけど。

 関係ない話を書きすぎた。作詞。ともかく自分はまあそんな感じで、自分の中にあるものをベースに書くことばかりをやってるんですが、だからたとえばの話、歌詞を書くときによく使う言葉って、つまりはそれだけ自分の感覚に普段から馴染んでいる言葉ということなのだろうなと思ったりもして。『青』とか『空』とか『声』とか『雨』とか『星』とか、そういうの。加えて、近ごろ歌詞を書くときにやたらと使いたくなってしまう言葉が『帰り道』なんですよね、……というのが本題です。帰り道。『ステラグロウ』で使ったのが最初だと思うんですけど、なんていうか、なんだろ。当時の自分、何を考えてたんだろうな。使い始めてから思うこととしては、あくまで自分の中での話ですけれど、帰り道という概念はそれなりの寂しさと結びついているような気がしていて。高校時代、クラスメイト達と学校の近くにあったゲームセンターへ足繫く通っていたのですけれど、自分と同じ方向へ帰る人が誰もいなかったせいで、わいわい騒いだ後の帰り道はいつも一人だったんですよね。当時、そのことを寂しいと感じていたかといえばそんなことは全くなくて、別にプラスともマイナスとも思っていなかったなという感じなのですが、いまの自分なら少しくらいは寂しくなるかもしれないなという感じでもあって。というか、いまの自分が何をどういう風に考えているのか、みたいなことをちゃんと考えるようになったのが大学に入ってからで、だから敏感になっただけという話なのかもしれませんけれど。寂しさと言っても、それは忌避するようなものでも取り除いてしまいたいものでもなくて、むしろ大切にしたいものだと自分は思っていて。時計もみないで色んなことを話したり、あるいは話さなかったり、流石に暗くなってきたからそろそろ時間だねって立ち上がって、特に何を話すわけでもなく、わざとゆっくり歩いたり、青信号に立ち止まったり、それでも前に進んじゃって自分はこっちだからって別れた後の帰り道、みたいなの。その寂しさがあるからこそそれまでの時間に意味が宿るというような気がするし、次の機会に焦がれもするんだよなという気もしていて。だから、なんだろ。辞書的な意味ではないんだろうなという気はするんですよ、自分の感じている寂しさって。なので、説明がちょっと難しいんですけど、なんていうか、余韻? あるいは証明? 誰かと自分とがどこかで何かをしたという過去そのものをどういった経路から感じ取るかという話のような気がしていて、自分にとってはその一つが帰り道だっていう、そういうことなんだろうなって。人によってはそれが虫刺されだったり日焼けの跡だったり、あるいはもっと別の何かだったりするのでしょうし、自分はまあ、だから他の誰かの中にあるそういった部分も知れるなら知ってみたいなという思いが多少あって、なのでいまこういう文章を書いているという話です。……本当に、過ぎ去った一瞬がいつかの自分にとって楽しかったほどに、後から思い出すものはといえば帰り道のことばっかりなんですよね、いつの頃からか。誰かと一緒に歩いた道も、ひとりきりで歩いた道も、同じくらい。なんていうか、あの、寂しいけど寂しくない、みたいな感覚を残りの人生であと何回くらい体験できるんだろうなーって。四月末、新歓ライブの帰り道ですけど、辺りがすっかり寝静まった夜、あのあり得ないくらいに入り組んだ細道を一人でぼけーっと歩きながら、薄らと星がみえるなーと思いつつ、そんな感じのことを頭の片隅で考えたり考えなかったりしていました。

 

 

 

filter


 自分のことを理解してほしいという感情は多かれ少なかれ誰だって持っている、あるいは持っていたはずの感情で、という書き出しから今回は始めようと思うのですけれど。いわゆるプライバシー的なものって何層かのフィルターがあるよなと自分は考えていて、一番奥のほう、絶対に誰にも知られたくない領域を核として、なんていうか電子殻やマトリョーシカみたいな感じでこう、第一層、第二層、第三層、と徐々に核を覆っていく感じの構造、そんな風のイメージを自分は持っていて。これはたしか Twitter で言ったような記憶があるんですが、だから結局、その辺りの心理をシステマチックに捉えている節があるんですよね、自分は。たとえば、誰かと会話をしている場面を想定したとして、これまでに持ち出されたことのなかった話題、家族構成だとか休日の過ごし方だとか好きな季節だとか、どういった話題がより深層にあるものなのかは個々人に依って当然異なるでしょうけれど、ともかくこれまでには扱われなかったそれが眼前へ提示されたとき、自分は「あ、なんかいまロックが解除されたっぽいな」みたいなことを片隅で考えてしまうというか。冒頭の例を引き継ぐなら、その、フィルターが外れるような感じ? 当人の核を成す部分に一歩近づいたような感覚というか、まあ、そうですね、そんな感じの何かを覚えることがあったりなかったりします。フィルターの解除方法やそもそもの絶対数なんかも個々人に依ると思っていて、大抵の場合はその相手と交流した時間が何とかしてくれるはずと思いつつ、特定のイベントを介さないと踏み込めない領域も絶対にあるはずと思っていて。別に、他人の深い部分を覗いてみたいだなんて、そんなことを常に考えているというわけではありませんし、なんていうか、知りたくないのかと言われれば知りたいけれど、知りたいかと言われれば知りたくない、みたいな感じ。だからまあ、自分に観測できる限りでの推論として「こんな感じだよな」と思っていると、それだけの話です。……『自分のことを理解してほしい』という感情について。これが自身の核を取り巻くレイヤーのどの辺りに分布しているのかという問題もあるような気がしていて、ともすれば、ものすごく表層的な領域に在るという場合もあるよなと思います。ここで言う『表層的』というのは上っ面という意味ではなく、言葉通り、本当に目で見て分かるような領域という意味ですけれど。たとえば、部活とか何だとかを頑張っている人がいたとして、クラスメイトだったり両親だったり、あるいは憧れの先輩なんかだったり、そういった他人に対して自身の努力を肯定してもらいたいと思うのは、これは恐らく表層的なものの部類に位置しているはずと自分は思っていて。というのもまあ、その誰かが実際に練習に励んでいるところを他人が視認すればよいという話で、それで実際に事がうまく進むかはまた別の話ですけれど、ただまあ、実現率は比較的高いほうなんじゃないかなと思ってもいます。あるいは、こう、外へ繰り出す際、装飾品の類にこだわる人がいたとして、道行く人々というのは少し無茶かもしれませんが、これから会う予定の誰かくらいは気づいてくれたらいいなあと思うこともまた、かなり表層的な部類のものだと思います。……マジで何度でも言いますが、『表層的』という言葉に『目で見て分かる領域』以上の意味はありません。表層に在るのか、あるいは深層に在るのか、その両者に優劣とか特になくて、こういった他者の目から分かりやすい欲求がイコールで些細なものと捉えるのはあまりに短絡的すぎるっていうか、ある種の暴力に近いという気もしていて、だからまあ、はい、そういうことです。誤解されたくはないので二回目の注釈をつけておきました。いやそう、だから、欲求そのものに付随する優劣はないと思うんですが、ただ、何をどうしたって解決に至る率は表層的なそれである場合のほうが高くなっちゃうよなとも思っていて、深層的な領域に在る場合はそもそも目で見えないというのもありますし、何より、その初めに持ち出したフィルターの例ですけれど、だから結局、そこへ到達するという前提、それ自体に結構な困難性が備わっているような気がするというか。経験だけで物を語っていいのなら、気がする、ではなく実際にその通りだと自分は思っていて。さらに言えば、人間関係の非対称性なんかも関係してくる部分だったりするように思うので、余計に話がややこしくなってくるというか。あれです、『こっちは友達だと思ってるけど、向こうがどう思っているのかは分かんない』みたいな、ああいうのです。だからまず考えられるものとして、相手の抱えている深層的な欲求を認識してはいるが、相手のフィルターが自分に対してどの辺りまでオープンになっているかが分からないから対処できない、という場合がありますよね。相手が自分に対してどこまでのことを許してくれるのかって、それはいわゆる信頼関係とかいうやつを別の視点から解釈しているだけのような気がして、だから要は信頼関係そのものだと思うんですが。だからこの場合は、深層的な欲求を抱えている相手に対する理解が十分には及んでいないという、そういうケースになったりもするのかなと思ったり。あるいは逆に、深層的な欲求を抱えている側の人間からのアプローチがあって、ただもう一人の側としてはそんなつもりはないから困惑するだけで対処ができない、という場合もあるはずで。これは恐らく、相手側のフィルターは相手が勝手に解除しているものの、もう一人の側にある相手に対してのフィルターが全然解除されていないから、一方通行的になってしまい上手くいかないというパターンのような気がしていて。でも、これも結局はだから信頼関係が足りていないという話にもなってしまい。……というのがつまりは非対称性という、そういうことなんですけど。いやだから、どちらか一方が望んだからといって、それだけで深層的な欲求まで到達できるのかといえば、そんなことは全然ないよなと自分は思っていて。加えて言えば、両者が同じくらいに望んでいたとしても叶わない可能性は十二分にあると思っていて。だって、目にみえないから、その矢印が。話し合うしかないじゃないですか、そうなると。でも、その欲求が個人の深くにあればあるほど、向き合う側の人間は慎重にならざるを得ないし、そうなると当然多くの時間を要することになるよなって話で。表層的なそれに比べると、だから圧倒的に解決が難しい類の欲求だなと自分は思っているという、そういう話で。……どうすればいいんでしょうね、こういうの。それはまあ、全部が全部うまくいくんなら絶対にそっちのほうがいいよなとは思うんですけど、でも難しすぎるよなあって。無視しているわけではなくて、言い訳みたいですし、まあ実際にそうですけれど、無視しているわけではないんですよ、本当に。ただ慎重になっているというだけで。たとえばの話、他人の口にした「死にたい」と自分の知っている「死にたい」を比較してみたとして、その二つは色も形も全くの別物のはずなんですよ。でも、自分でない他人の抱えているそれがどういったものなのかを直接的に理解する方法は現時点では存在していなくて、だから本当に向き合うのだとすれば、自分の知っているそれを参考にしつつ徐々に細部を掘り下げていくという過程が不可欠というか。というか、そうしないとよくいる一般論で片づけてしまう人になっちゃうと思うんですよね。「そんなの、みんな思ってることだよ」とか「ああ、よくあるよね、そういう話」みたいな。自分は、正しくは昔の自分ですけれど、そういった雑な括り方をされるのがかなり嫌、というか余計に傷つくタイプの人間だったので、だから他人に同じようなことをしたいとは思えず。結局、相手の抱えている問題が具体的には何なのかを自分なりに理解するというステップが少なくとも自分には必要で、それがつまりはフィルターを解除していく過程とだいたい同義という気がしてるんですよね。信頼関係の構築? 問題を理解することって、つまりはその個人の根底に通う思考だったり性質だったり、そういったすべてを理解しようとすることが必須なはずで。でないと、問題の本質を正しく解釈できないから。そこを一足飛びで進めてしまうことは、解決が目的なのであれば絶対に避けるべきだと、どうしても自分はそういう風に思えてしまって。自分以外の人間なんて全員が全員他人なので、本当の意味で理解しきるなんてことはできるはずもなく、だからそれを知ったうえで頷かなきゃいけないことだって沢山あるんだろうとは思うのですけれど、でも、だからその肯定を裏付けるために信頼関係が、つまりはお互いの知っている共通の時間が必要になるのではという気がしていて。……難しいよなあって。本当に困っているときに助けになろうとしてくれない人なんて、まあいることにはいるでしょうけれどそれほどまでに世界を疑う必要は多分なくて、ただ、どうしても助けになれないという人がたくさんいるんだよなって、そういう。そういう、なんだろ。当人にとってクリティカルな問題を、全くの的外れであっても解釈してみようとする人であればあるほど、恐らく、相手の領域へ安易に踏み込む行為を避けようとするんじゃないのかなという気がしていて。怖いから。人間なので。あんまり上手くない喩えですけれど、何の説明もない精密機械を勝手に弄ることと同じといえば同じなのかも。ありえないくらい分厚い説明書が用意されていたとて何らかの手違いで壊してしまうかもしれないのに、それさえなしに手を付けるって、それはもうただの自殺行為じゃないですか。仮に相手が機械なのであれば山積みの大金によって替えがきくのかもしれませんが、そういうわけでもなく。だから慎重にもなるし、怖いとも感じるということで、上の例を引き継ぐなら、だから両者の間にある信頼関係が説明書に該当するわけですよね。そんなの、分厚いどころの話じゃなさそうですけど。その個人が何をどんな前提に立ってどのような立場からどういう風に考えるのか。それを指針にしないとどこへも行けないっていうか、それ以外を指針にすると確実に失敗すると言ったほうがより正確で。……難しい。それだって、望んだからって全員が手に入れられるようなものでもないんでしょうし。自分の場合、そういった深層的な欲求を自分ひとりで消化してしまうという強硬手段を取ったという事情もあり(それがそもそもこのブログの正体ですが)、これだと自分以外の他人を頼る必要はないんですが、それもまた向き不向きがあるだろうから一概には言えないし。ケースバイケース。使うときにはいつも便利な言葉だなと思いつつ、でも何の答えにもなってないんだよなとも思いつつ。いま時計を確認して、あと一五分で例会かあ、と思うなどし、まあ、そうですね。昨日、というか今朝ですが、眠る前にざっと考えていたことを雑多に書き残していたら落としどころがみえなくなってきたので、この辺りでひとまず止めておきます。そう決めた瞬間にめちゃくちゃな空腹感が襲い掛かってきて、どうしよ~になっています、いま。

 

 

 

アップデート

 

 なんていうか、自身の中で消化しきれず宙に浮いたままでいるような、有体に言うとそれの意味するところがよく分からないままの概念というのが、何年も生きていればまあ一つや二つくらいは出てきたりするじゃないですか。一つや二つどころじゃありませんけれど、まあそういうのがあるにはあって。たとえば自分は衣服の類にあんまり関心がなくて、それ自体をイコールでオシャレと結び付けてしまうのは些か強引すぎるような気もしますけれど、より広い概念で表すなら所謂オシャレに関心がなくて。その例ひとつだけで一般論チックに語ろうとするのもまた強引ですけれど、ただまあ、こういうのって気が付いたら手が届くようなところまで降りてきているようなものでもあるような気がしていて。関心が持てないのは、単にその対象に付随する諸々について多くを知らないからというのが大きいような気がしていて、経験則的に。これまでの家庭環境だったり人間関係だったり、そういったものの重なり方によっては興味を持てるような機会がそもそもなかったりするのかなと思うし、ごく自然に関心を持てた人からすると言い訳みたいに聞こえるかもしれませんけれど。というか、先述の通り、実際に自分がそういったことにあまり関心を持っていなかった人間の一人ではあったんですが、最近はそうでもなくなってきているというか、それがだから気が付いたら手が届くようなところまで降りてきているということですけれど。たとえば、これは Twitter なんかでたまに言及してるんですけど、いわゆるインナーカラーがかなり好きで。自分じゃ絶対にしないんですけど、街を歩いていてそれに類する頭髪の人間がいたら何となく目で追ってしまうし。その指向性がどこに端を発したものかといえば、まあ、はい、芹沢あさひさんです。いや、そもそもの話、インナーカラーとかいう概念をそれまで知らなくて。ビジュアル公開時に「え、めっちゃいいじゃん~~」となり、それからしばらくしてインナーカラーという概念の存在を知り、「もしかしなくてもこれが好きなのでは?」となり、実際にそうだったという話です。最初は格好いいってイメージだったんですが、現実のそれを見てみるとお洒落だなあという印象へ次第に切り替わっていき、何度も言うように自分じゃ絶対にしない(なぜなら染髪禁止のバイト先に務めているため)んですが、いいな~って思います(雑なまとめ)。それから、あれか。ピアスとか? 自分の知り合いにそういうのが好きっぽそうな人がいて。正直に言えば、自分はその類にマジで興味がなかったというか、なんなら「穴を開けてまでするもの?」と普通に思っていたんですが(失礼)。でも、そういったものを好んで身に着ける人の話を聞いているうちに、なんていうか、目線が変わってきますよね、色々と。自分のことに限って言うならば、興味を持てない理由の大半を占めているのは、マジで有体に言ってしまうと『何が良いのか分からない』という感情で。勘違いされないように言っておくと、『その対象に何の魅力も感じない』と言っているのではなく、これはそもそも自分の解像度が及んでいないという話で、だから『その対象のことを、その実何も知らない』と言っているのとほとんど同義なのですが。裏を返せば、それの面白みというか良さというか、そういったものを既に知っている人から話を色々と聞いてみるというのは、自身の関心を、拡大解釈すれば自身の認識世界を拡張するための最短経路というような気がしていて。ピアスだったり何だったりに対するそれは、たとえばその知り合いの影響が大きかったのかなと今では思います。ただ、自分と多少なりとも接点のある人なら分かるように、自分は基本的に相手の顔を直視しないので、普通に生活していてもピアスやら何やらの類に目が行くことって全くないんですよね……。悲しい。あとは、アレです、ネイル。ちょっと前にめちゃくちゃ綺麗な青をしたネイルを目にする機会があって。それまでは何の興味も関心もなかったし、なんならその類をみた記憶すらなかったんですが(これは嘘で、興味の薄いものは視覚情報として認識されにくいため、記憶として残っていないだけ)、そのものについて思わず訊ねてしまうくらいには綺麗な青だったんです、それが。いや、本当に。以来、ネイルとかもめちゃくちゃ良いな~と思うようになったという話をこの前に人としたんですが、これまた自分ではできないものの一つではあります。そのために毎日爪を整えるとか絶対に無理なんで……。いや、だからなんていうか、そういった分かりやすい綺麗さの裏に隠れているであろう日頃の努力なんかを思えば、マジですげえとならざるを得ないっていうか。その、いやだから本当に恥ずかしい話なんですけど、衣服だとか装飾品だとか、諸々をひっくるめたオシャレとかいう概念が、その個人のパーソナリティの一部分であるという認識が致命的に欠けていたんですよね、自分。最近になってようやくそういった風に考えるようになり、「この 23 年間、マジで何してた?」と改めて自己を顧みるなどしました、本当に。自分が誰かと話すのが好きだって話は、そしてその理由もまた、もうこのブログでは散々に書かれてあることで、簡単に言えば、相手の言葉遣いや表現を通じて自分のじゃない世界を覗き込む、その行為自体が好きなんです。……というのは、マジで何度も書いたことなんですが、一方で最近になって感じたことは何かといえば、「オシャレとかいう経路でもそれは実行可能なのでは?」ということで。というか、恐らくは任意の概念で可能なんだろうと思います、どうしたって会話は伴わざるを得ませんけれど。だからこれは要するに、自分の側にその電波をキャッチするだけの受容体がなかったというだけの話で、そういう意味での「この 23 年間、マジで何してた?」なんですよね。もう少しでも早くからそういった考え方を持てていれば、これまでに知り合った色んな人のもっと別の側面を知ることができていたのでは? という話で。……いや~、マジで勿体ないことをしてしまっていたような気がしています、いま。みたいなことを最近考えていました。

 なんていうか、という言葉から書き始めるのが癖みたいになっちゃってますけど、なんていうか、上のほうで『自分のじゃない世界を覗き込む、その行為自体が好き』みたいなことを書きましたけれど、でもこれって多分正しくなくて、……ということには随分前から気が付いていたのですけれど。いや、間違っているというわけではないんですが、ただ、より的を射た表現があるような気がするというか。自分が好んでいるのはどちらかといえばその行為自体ではなく、その結果として顕れる『自分の目にみえる世界が広がった感覚』なのだろうなあ、っていう。以前の記事でたしか書いたような記憶があるのですけれど、イラストで流水を描くために色々調べていたら、いつもの散歩道の脇を流れている川の見方が変わった、みたいな話。この記事ですね。

kazuha1221.hatenablog.com

そこでも同じようなことを書いていますけれど『世界がアップデートされていくような感覚』、上のほうでは『自身の認識世界を拡張する』とも言っていましたけれど。……これは別に自分が勝手に思っていることなので他人に押し付けるつもりは全くないんですが、抽象的な意味での世界の在り方を決定づけるのは他でもない自分自身というように自分は考えていて。だって、これは逆説的な物言いになってしまいますけれど、今の自分が知らないものを知ることはできないじゃないですか、何をどうしたって。たとえば、髪を染めている人なんて生まれてから何百人も目にしているはずなのに、インナーカラーの概念を知るまではまるでそもそも視界に映っていないみたいに気にも留めていませんでしたし、自分。でもなんていうか、それに付随する魅力だとか何だとか、そういった類を手にする機会が偶然あって、その結果として街を歩くときに感じることがまた少し変わったという話であって。そんなことを繰り返すたびに、やっぱり自分の側の問題なんだな~と思ってしまうというか。世界は今の自分が思っている何十倍も面白くて、楽しくて、美しくて。ただ、自分の側にそれを認識するためのアンテナがなかっただけなんだな、みたいな。……こんなことを言うとアレですけれど、自分もまあ普通に人間なので、自分のあまりよく知らないもので盛り上がっている人たちを目にすると、「何がそんなに面白いんだろう?」と思う瞬間はままあって。思うっていうか、なんだろ。隠さずに言うなら、ちょっと冷めた目で見てしまうというか。いや、でも、これがマジでよくなくて。なんなら早く捨てたいんですけど、こういうつまんない自分。でもまあ、そう感じる瞬間があること自体はもうどうにもならないっぽいので、そこは一旦諦めるとして、だからせめて抗う意思くらいは強く持っていないとなーと思っていて。自分の世界に閉じこもるのは簡単ですし、いま自分の手に収まっているものこそが最も価値のあるものだと定義してしまえば話は早くて。でも、自分はやっぱりつまらないと思ってしまうんですよね、そういうの。何度も言うように、これは全部自分ひとりに限った話で、別に誰に押し付けるつもりもないんですけど。だからまあざっくりとまとめに入ることにすると、この夏、というか 2021 年度前半戦を振り返って思うこととしては、そういう、『自分のまだ知らないもの』に対して興味を持てるような機会が増えそうな方向に頑張っていこう、という感じです。興味を持つこと、それ自体を目的にするのは前述の通りに無理っぽいので、だからそれに手の届くような機会を逃さないようにしたいということです。前半戦に獲得したアンテナはいくつかあって、上で取沙汰したインナーカラーだったりピアスだったりはもっと以前のことですけれど、最後のネイルなんかはそうですし、他に興味を惹かれたものとしては煙草とカメラ、あとはキーボードやベースなんかがあります。キーボードは恐らくそのうち買いますし、ベースは既に購入したんですが、一方の煙草は健康的な問題で、カメラは金銭的な問題でまだちょっと無理かなという感じ(煙草は金銭面のほうがヤバいらしいけど)。いやマジでここしばらくずっと「夜のコンビニでひとり煙草を燻らせつつ、空を見上げて溜息つきたすぎ?」と思っていますし、それはそれとして「バカみたいに重いカメラを構えて風景の写真撮りたすぎ?」とも思っていて。マジでただカッコつけたいだけのアレなんですが、それらを趣味(趣味か?)にする知り合いをみて「良いじゃん……」と思ったことを未だに覚えていて。でもまあ現実的なラインから攻めていったほうがいいことは確かなので、煙草やカメラは将来的な目標として据えておくことにして、とりあえずはオーバーサイズの黒パーカーを買いに行くところから始めようと思います。いやマジでいまありえないくらいほしくて。衣服の類に対して「ありえないくらいほしい」と思うこと自体はいつかの自分にとってはあり得ない話なのですが、いやでもマジでいまめちゃくちゃにほしくて。……という感情がどこから生じたかという話を最後にしめようと思うのですけれど、何を隠そう、小糸侑さんです(オタク)(実はここまで一息で喋っている)。8 巻 42 話。アレになりたすぎる、普通に。