20240310

 

 なんとなく秘密にしておこうかと思ったのだけれど、ということに特別な理由はなくて。まあなんというか、なにかと不定な人間のほうが面白いかなと思って。これは知っている人にだけ伝わればいい例えだけれど、影縫さんとか忍野メメとか、ああいう立ち位置のキャラクターにものすごく憧れるというか。カッコいいな~って思う、普通に。ところで、だよな。有体に言って、本意でないんだよな。その、自分の不定性がどこかの誰かを心配させる要因になっているかもしれないという可能性そのものが。考えすぎ? あるいは自己中心的すぎるかも。でも、なくはない可能性だよな、と思う。というか、何回か訊かれたことあるしな、実際に。その全部がまあ、なんというか、深刻な心配に由来するものと受け取るほどの自分勝手もないけれど。それにしても、と思う。皆無というわけでもなさそうな雰囲気を感じ取ってはいる。というので、隠しておくってのもなんか違うよな……と思う、思った。さっきから何かを思いすぎだろ、同一単語の濫用は避けようね。話を戻すと、だからといって大々的に公言するようなものでもないから、というので、こんなブログなんかにしれっと載せておくことにする。便利だねえ、こういう場所があると。

 

 塾講のアルバイトをやめた。正しくは、まだ契約期間内ではあるのだけれど、とはいえ二月内に後の担当者へ一切を引き継いだため、実質的に三月はもうないようなものとなっている。件のバイトは自分が学部二回生のとき、当時付き合いのあった先輩に誘われて入ったのが最初で、それからなんだかんだ六年も続けてしまった。学生バイトではあるから、六年もいたら最年長なんじゃないかと思われるかもしれないけれど、実はそんなことなくて、自分よりも歴の長い人がまだ上に二人いた。結局、バイト先の人とはあんまり仲良くなれてないな。そもそも話をする機会がそんなにないからあれなんだけど。改めて振り返ってみると、めちゃくちゃ良い労働環境だったなと思う。そりゃまあ、行きたくないな~と思う日もないではなかったけれど、とはいえ、かなり前向きな気持ちで続けられたかな。少なくとも、本気でやめたいと思ったことは一度もないはず。六年も続けていれば色んな生徒に出会うというか、そもそもの話、自分が勤めていた場所はちょっと特殊で。簡単に言うと、何らかの事情で全日制高校に通っていない(通えない)高校生を相手に仕事をしていた。というので、単純に高校生の相手をするという場合よりも、ずっと色んな話を聞いたんじゃないかなと思う。もちろん、自分はそっちの道を通っていないので、想像の上でしか比較はできないのだけれど(まずもって比較自体に意味がないのだけれど)。なんていうか、案外普通なんだよね。あんまり想像の外にはないというか、その、やっぱり自分が不登校とかを経験せずに育ってきてしまっているから。だから、そういう環境にいる(ことを選んだ/選ばざるを得なかったに問わず)子たちのことを、なんていうか、ズレた視点からモデリングしてしまいがちになるのだけれど、でも、実際に当人たちと接してみると本当に自分の、高校生当時の自分とほとんど同一の延長線上にあるというか。そんな感じがしていた、六年間ずっと。もちろん、まあ、大なり小なりの事情があっていまこの場所に来ているわけだけれど、なんか、なんていうんだろうな、こういうの。そのことを悪い意味で特別視するのはなんか違う感じがしたというか、うーん。誰だってそうだよ、ってたぶん一番言っちゃいけない言葉だし、だから言わないし、言いたくもないけれど、でも、誰だってそうだよ、と思いはする。あるいは、誰だってそうだよ、っていつか心から思える日が来たらいいね、と思いながら話していた、他人事のように。自分事じゃないから他人事なのはそりゃそうなんだけど。人間、というと主語が大きいけれど、でも人間、誰だって得意なことと苦手なこととがあって。たとえば、自分は部屋を片付けるのが苦手だし、約束の時間を守るのも苦手。それが得意、……ってのも違うか。得意とかじゃなく、何の苦労もなしにこなしてしまう人だってこの世にはたくさんいるのだろうけれど、でも、たぶんそういう人たちだって苦手としていることがあるはずで。そして、その中のいくつかは自分が何の苦労もなしにこなしてしまえるものなんだろうな、と思ったりする。当たり前の話すぎるって思うよね。そう、当たり前の話すぎるんだけど、とはいえやっぱり高校生くらいまでの頃って、もちろん早熟な子もいる一方で、どうしたって考え方が自己中心的であってしまうというか。これはいわゆる自己中とかの意味ではなくて、原義通りの自己中心的、あるいは天動説という意味で。だって、触れることのできる人間の数が限られてるもんね。インターネットが普及してそんなこともなくなったのかもしれないけれど、でもやっぱりインターネットを介して接するのと生で接するのとだとコミュニケーションの質が(どっちがいいとか悪いとかではなく、単純な話として)違うわけだし。自分という人間のライブラリは日々増えていく一方で、自分でない他者に関する情報はあまり蓄積されないがちな年頃というか、そういう意味で自己中心的。これが、だから大学へ入ったり就職したり、よりもっと多様な人間関係を構築できる(せざるを得ない)環境へ移ったらまた話は変わるよねと思うのだけれど、でも高校生の頃は(一般には)そうじゃないし。というので、難しい時期だよなって思う。そういう状況にある誰かへ向かって、もうその場を脱した側である別の誰かが、誰だってそうだよ、だとか言ったところで何になるんだろう。何にもならないよね、別に。人は一人で勝手に助かるだけ、らしい。本当にそうだと思う。だから別に自分は何もしなかったし、何もしないなりにできることはした、……つもりではある。うまくいっていたかは知らないけれど。だからあとはもう、祈るくらいしかできないな。全員の人生がよりよいものになることを祈るしかない。人生がよくなるっていうのは良い大学へ合格するとか大金持ちになるとかそういうんじゃなくて、ちゃんと納得のいく道を選ぶことができるということ。後悔のない選択とかは無理だと思うけど、というか後悔のない一生なんてたぶんどこにもないと思うけれど、でも、そういうのもきちんと肯定していける、そういう人生になったらいいね、って祈るくらいしかできない。幸い、今年度担当していた生徒の内、受験学年だった人はみんな合格したし、残りの人たちは……バイトをやめる以上どうなるか見届けることはもうできないけど。まあ頑張ってくれや、と思う。俺も俺で勝手に頑張るので、君も君で勝手に頑張ってくれ、みたいな。何様だよって感じ。何様だよって感じだけど、でも、全人類に対してこういうスタンスでありたいなって思う。一人でも多くの人と仲良くなること。それが一生を賭しての自分の目標なのだけれど、でもそれって結局のところ、あとは勝手にしろよって思える人の数を増やすってことだよな~って自分は思うし。あとは勝手に幸せになってね、って感じだ、本当に。

 

 というので塾講をやめたのだけれど、それと同時に就職することにもなった。ワロタ。自分の身近(リアル)にいる知り合いとかはワロタって感じだろうけど、インターネット上でだけ繋がりのある人からすると意味わかんないよね。というのも、大学を出てからおよそ一年間、定職につかずに過ごしていたという話がある、実は。まあ先述の塾講はやっていたのだけれど、逆に言うとそれしかやっていなかった。せっかくそこそこの大学出てるのに勿体ないね~みたいなことを知人の結婚式のときに言われたけれど、うん、いや、分かる。でも、だから、その、そういうのが本当に心底嫌だったんだよな。ところで、まあ、そうは問屋が卸さない状況となってきたので流石にね、という話。就職の運びとなった理由はいくつかあるけれど、たとえば、例の塾講は言っても大学生向けのバイトだったから。自分の知る限り、博士後期課程の人がいたこともあったから、だから最長で九年くらいは在籍できたのだろうし、それに人手が足りているわけでもなかったから厄介払いされることもなかっただろうけれど、でもまあそんなの遅かれ早かれだし。いつまでも留まっているわけにはいかないし。それと、普通にお金の問題とかもある。一人で生きていくならお金とか、まあ別にいいんだけど。何処へも出かけずに霞だけ食べて生きてればいいんだから。でもまあ、そうじゃないし。あとは、将来のこととかか。何事もなければ数年以内に結婚とかしてるのかな~みたいな予感があって、でもそういう可能性を想定する場合、定職についていないというのは流石に問題がありすぎるというか。自分ひとりで勝手に破滅するならそれは自由だけれど、たぶんこれから緩やかに自分ひとりのための人生ではなくなっていくんだろうな、みたいな薄らとした予感。ひとりで勝手に破滅する人生もたぶん面白くて、というか自分はそういう生き方を(意識的なり無意識的なり)選んできたつもりだったけれど、あれよこれよという間にそうではないルートに乗っかっていて。悪い気はしないし、これでよかったとも思うし、自分で決めたことだし。でも、だとしたらそれに見合うだけの、なんていうか、代償を支払う覚悟は必要だよな~、みたいな。代償って言葉はよくないか。でも、代償だしな。とはいえ、なんだろうな。これだけはちゃんと言葉にしておきたいのだけれど、いつかの自分が死んでしまったって感じは全然ないんだよね。昨夜の夜、人とそういう話になって色々考えてみたのだけれど、でも、やっぱりそんな感じはいまのところしない。というかむしろ、ものすごく正しい道へ進んでいるような感じがする。これまでの自分と整合性が取れているというか、一貫性があるというか、少なくとも、何かを殺しながら日々を生きていくようなことにはならなさそうな、そんな予感がある。まあ、一年とか二年とか経ってからじゃないと分かんないってのは本当にそうなんだけど、あくまでいまのところの話。もしもの話、一年とか二年とかが経って自分が闇落ちしていたら、そのときは、じゃあ、どうしようかな。飲みとかに誘って話聞いてやってください。たぶん、それが一番効くので。そんなことにはならないよう努めるけども。

 

 というので、来年いっぱいは京都にいるかな。その次からは大阪に住んでるかも。まだちょっと分かんない。少なくとも関西圏にはいると思う。親しい人間がみんな関東に行っちゃって寂しいので、全員もれなく関西に骨を埋めてくれやと思いながら、ここ最近は生活をしている。勝手にしろよとかって口では何とでも言えるけれど、でも本当に会えなくなっちゃうと寂しいよな、それはそう。直近で有名な方々の死が相次いで、有名っていうか、単に有名ってだけじゃなくて自分が幼少期からよく触れていたような人たちが。なんていうか、他人の死によってでしか死に向き合えない自分が嫌だって気持ちは十二分にあるんだけど、そういうのは一旦置いておくとして、寂しいときはちゃんと寂しくなったほうがいいし、会いたい人には会えるときに会っておいた方がいい。あまりにも当たり前の話すぎる。あまりにも当たり前の話すぎるけれど、それが難しいんだよな。だって、他人だしな。関係ないし、勝手にしろよの精神だし、そしてそれが一番ちょうどいいと思ってもいて。だから難しい。でも、ちゃんと寂しくなるのはかなり上手くなってきたと思う、大学へ来てからの七年間で。要するに、ちゃんと終わらせるということ、だと思う。なあなあにしない。けじめをつける。エンドロールを受け入れる。その白紙から先の景色がどうなるのかは知らない。まあセカンドシーズンがあるならあるで望むところだし、ないならないで本棚の一番奥へ大切にしまっておけばよくて。だから、白紙にビビってるのが一番よくない。よくないなって思う。何の話だよ。寂しさと仲良くなろうねって話。あるいは、冬と仲良くなるって話でもあるし、ペンを折るなって話でもあるか。そういえば、数日前に通りがかった道、もう桜が咲いてて笑っちゃったんだよな。春が来るらしいよ、近いうちに。卒業とか入学とか、別れとか出会いとかの季節がまた来るんだなーって思うと、なんていうか、楽しみだなって思うよね。

 

 この文章を書いている途中にそういえば思い出して、何だっけ。もういつ言われた言葉なのかも覚えてないけれど、「一葉さんにとっての青春の終わりが、自分にとっての青春の終わり」みたいな。なんかの帰り道だっけ、そういう言葉を向けられた記憶があって。いや、でも、だったら終わんないよ。ずっとかは分かんないけど、少なくともまだしばらくは終わんない。終わらせてたまるか。って、つまるところそういう気持ちなんだよね、だからいまは。就職ワロタとかって言いはしたけれど、でもそこにネガティブな気持ちは本当に一切なくて。延長戦なんだよ、だからここから先は。社会性とかって普遍のパラダイムは勿論あるだろうけど、でも別にそこへ収まろうとしているわけでは全然なくて、なんていうか、なんていうんだろうな。言語化が難しいけれど、でも、終わらせる気なんか全然ないということだけは強く主張しておきたい! 二年後とかの自分がどうなっているかは分かんないので、こういうことは言えるうちに言っておく。過去からの声は何も知らないから勝手な事ばかり、って藤原基央も言ってるし。というか良い曲なのでよかったら聴いていってください、BUMP OF CHICKEN の pinkie 。

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 という話で終わりです、今回は。余談、なんやかんやで就活をサボり散らかして最終的に行きついた職業、そこそこ、というかかなり自分の中では納得のいく結論になっていて。これまでの自分との整合性とか一貫性とかって途中では言ってたけど。だから、暇だったら予想してみてほしいかもな、面白そうだし。当てようと思えば全然当てられる範囲内な気がするし、一級問題かもだけど。

 

 

 

言葉

 

 加害性、ねえ。いつの頃からか、インターネット男女論、あるいはインターネット恋愛論の文脈においてそういった用語が散見されるようになったような気がするけれど、それってどうなんだろうという気はしている、個人的に。中二病という言葉がむかし流行って、いまでも使ってる人っているのかな? いやまあ、いるか。いるだろうな。いや、別にその用語自体はどうだって構わないのだけれど、構わなくもないのだけれど、なんていうか、自分はあの言葉をどうにも好きになれなかった。と文字に起こしながら思い出すのは、ちょっと前の冬、人と歩いていたときのこと。「言葉に対して好きとか嫌いとかって気持ちがあまり分からない」。その言葉を耳にしたとき、そういう感覚の人も当然いるよな、と思った。ところで、自分は(そこまで明確ではないにせよ)苦手な言葉というのが少なからずある。当然だけれど、これはどちらがいいとか悪いとかという話ではなくて、またどちらが優れている劣っているという話でもなくて、つまりは完全なるイーブンとして、そういった二分がたしかに存在はしているという話。中二病という言葉自体に思うところがあっても、その言葉を使っている人に対して何らかの感情を抱くことはまあないし、あくまで言葉そのもの、あるいはそれが用いられる文脈に対する若干の嫌悪感というだけであって。話を戻す。昨今そこかしこで囁かれるようになった加害性という言葉は、何年か前に流行した中二病という言葉にどこか似ているな、と思う。具体的には、ある意味では普遍的ともいえる属性に名前を与える、という点において。名前が与えられると何が起こるか? 一言で言うと、理解が可能になる、のだと思う。誤解のないように断っておくと、名称が付与された瞬間に理解が発生すると言っているわけではないし、ここでいう『理解』が真の意味での理解であるとも限らない。あるいはそれは、古来の日本において、未知の現象や妖怪変化の類に対する解決法が命名であったことと同じなのかもしれない、と思う。類型化、と言ってもいい。そうして、本来であれば個々人に帰属していたはずの問題意識が、幅広く認知されるまでの名称を獲得することによって、それは社会全体に共有された問題意識となる。そういった一連のプロセスそのものが、なんていうか、自分にとってはあまり正しいことと思えないというのがある、あるな。では、社会全体に共有されることで何が起こるか? これは簡単なことで、その名称に付随する最大公約数的な認識こそが語義の第一事項であると広く周知されるようになる。中二病という言葉はまさしくそうだった。いわゆる、ちょっとイタい感じの子ども、という認識。それは、大枠においては間違っていないとは思う。だから、ここまでならまだいい。ここまでならまだよくて、問題はその先にある。何よりも自分が忌避感を抱くのは、それは、そうして社会全体で共有された問題意識を一個人のもとに還元してしまうこと、あるいはそういう社会の仕組みそのものに対してだった。だって、順序が逆だから。いわゆる少年期(という言葉を使うが、男子に限った話をしたいわけではない)に起こりがちな事象全般を中二病という言葉で理解することは構わない。ただ、その理解に基づいて、いま目の前にいる少年あるいは少女を理解しようとすることは間違っている、と思う。仮にその『中二病』と称される症状に類似性をみるような何かが起こっていたとして、そうであっても、その問題は個々人に固有のものであるという認識を強く持つべきだと、少なくとも自分はそう思う。要するに、他人のことを属性的に捉えようとしてはいけない、という話。なぜなら、それは最も理解からかけ離れた行為であると、少なくとも自分はそう考えるから。同じような語句で言うなら『メンヘラ』とか、あとは最近流行りの漢字四文字とかもそう(該当の文字列が自分のブログ内に記載されているという状態がかなり嫌なのでぼかしているだけで、それ以上の意図はない)。なんていうか、すでに出来上がったストーリーラインにあてはめて理解するのは簡単なんだよ。誰にだってできる。だって、人間の抱え得る感情なんておよそこの世には出尽くしてるのだから、映画や小説、漫画、舞台、なんだって構わないけれど、いくつか当たればクリティカルと思える事例にはすぐ出会えるはず。それが昨今ではインターネットになっているというだけの話で、そういう意味でこれはインターネットの功罪とはいえない。ただ、インターネットにはインターネットに固有の問題があるような気がしていて、それは、ありえない速度で一般化が行われ、ありえない速度でその結果が普及するということ。みんな、議論が好きだもんね。議論っていうか、レスバ。レスバっていうか、マウンティング。マウンティングっていうか、自己防衛。自己防衛っていうか、無自覚の加害。なんだって構わないけれど、とにかく、(現実がどうであるかは一旦置いておくとして)自分と無縁(と少なくとも当人は思っているよう)な現象に対しても真摯でいられるような人はさほど多くなくて、その結果として浮かび上がってくるのが最大公約数的な理解であるという認識を自分は持っている。要するに、負の側面ばかりを詰め込んだ呪いだということ。インターネットをみていれば誰だって分かる。インターネット上で何らかの言葉が創出されるとき、特にここ近年は、決まってよくないものとして扱われてばかりいる。『中二病』はまだマシな部類に留まっていて、たとえば『メンヘラ』なんかはもっと酷い。いまや呪いのハッピーセットみたいになっている。そして、そういう言葉がこの社会に満ちている。しかも、個々人に帰属するはずの問題意識の一般化として、だ。そうして抽出された呪いをもう一度、各々の人の手元へ還元するということが、果たしてどれほどに罪深い行為か、という話だよな。それは決して本質的な理解なんかじゃない。でも、他人のことなんか心の底ではどうだっていいから、そんな相手の問題意識だって本当のところはどうだってよくて、だからこそ、そうした問題意識をほんの一言で要約してしまう便利な言葉がこんなにも広く用いられる。まあ、自分たちはカウンセラーじゃないからさ。他人のことをある程度割り切って考える必要があるという主張は、それは本当にそうなんだよ。ただ、それは本当に正しいのかな、とは思う、少なくとも自分は。……ただ実際のところ、より深刻な問題はそっちじゃないんだよな。『中二病』という言葉が広く定着することによって、その言葉に宿る呪いを自分自身に自ずから還元してしまう人が出てしまうこと。「自分はまさしくこういう人間だ」と自分自身を類型化してしまうこと。これが一番よくない。本当によくない。マジでよくないよ。何度だって繰り返すけれど、それは本質的な理解から最もかけ離れたものだと思う、少なくとも自分は。その類型化を行ってしまった時点で出口のない迷路に迷い込んでしまっているのと同義だから、本当に何とかしてさっさと抜け出す方法を探したほうがいい。だって、だから、世間で取沙汰されているそれは、社会の構成員である個々人の抱えている問題意識の共通部分をとってきただけのものに過ぎないんだよ。それも、大抵の場合は悪とされる領域のそれをとってきている。だから本当は、そうして語られる領域の内、どの程度の割合が自分の中の問題意識と共通するのかまでを熟考しないといけない。いけないはずなんだよ、本当はさ。中二病だって、別に悪い側面ばかりじゃない。ここではないどこかに焦がれる感情、あるいはそういった初期衝動、それを原動力に生み出された素晴らしいものだってこの世にはたくさんあるのだし、なんなら創作なんてその最たる例だろう。そうやって、自分の中にあるかもしれない(勿論、ないかもしれない)可能性をどこかの誰かが振りまいた呪いなんかで簡単に見失うなよって、そう思っちゃうんだよな、自分は。でも、これには難しいところがある。というのも、この社会の在り方がそういう風に出来すぎている。なんていうか、なんていうんだろうな。あらゆる属性を自身に還元しやすい構造というか、鏡写しの構造というか、見当違いの納得を手に入れてしまいやすい環境というか。色んな人間が色んな方法でその属性を説明しようとする。それは時には音楽であったり、映画であったり、漫画であったり、小説であったり、劇であったり、イラストであったり、評論であったり、学問であったり、まあ色々とある。SNS の時代と言ってもいい現代において、最も優先的に目に付くのは言葉だろう。自分のことなんて顔も名前も知りもしない第三者たちが日夜ああだこうだと言葉を尽くして、その属性に対しての説明を与えようとする。その断片に触れ続けることによって、自分の中の何かが詳らかにされたような気持ちになってしまう。ものすごく自然な心の動きだと思う。それと同時に、ものすごく危険な考えだとも思う。第三者たちは自分自身のことなんてそもそも考えちゃいない、という視点がすっかり抜け落ちている場合に限るけれど。そこは、なんていうか、マジで、なんていうんだろうな。他人を属性で理解しようとするな、みたいな話を上のほうで散々書いたけれど、それと同じくらい、自分自身を属性で理解することも間違っているような気がする。というか、なんならそちらのほうがより健全でないようにも思える。結局、自分のことは自分の言葉で説明するしかないのだと思う。中二病とかメンヘラとか、あるいは加害性とか、そうして広く一般化されてしまった名称で説明のつく事象なんて、現実世界にはおよそ一つだって存在しない。一方で、これは、なんていうか、強すぎる意見だとは思う。強いというのは言葉が強いとかって意味じゃなくて、なんていうんだろ、精神的な面で。言ってしまえば、自分の問題は自分の力でなんとかしろよ、って意見なわけだからこれは。だから別に他人へそれを求めようとは思わないし、そうすべきだと主張したいわけでもない。誰にだってできることではないと思うから。ただ、いま SNS で流行している漫画、およびそれに付随する議論(引用ツイート等)をざっと追いかけて感じたこととして、以上のようなものがあったというだけ。

 

 恋愛なんて、加害ありきのものだと思うけれど、実際はどうなんだろうね。だからといって開き直っていいものでは決してないのだけれど、思うにそもそも恋愛って、あるいは一般に人間関係って、お互いの心を双方的に近づけていく過程なわけで。ところで、自分たちって別に他の誰かのコピーじゃないからさ。だから、相反するところとか気に食わないところとか、そういうのは大なり小なり出てくるはずで、そういったすれ違いを根拠に何らかの精神的な負担を背負う、あるいは背負わせることになる可能性があるというのは、なんていうか、可能性があるとかないとかの話じゃなく、もうほぼほぼ確実に起こり得る事態で。むしろ向き合うべきは、そういった必然をどうやって乗り越えるかということなんじゃないのかな、と思う。回避なんてできるはずがない、だって互いに人間なんだから。どちらが悪いとかの話でもない。そういうことはいつだって、誰が相手だって起こり得るのであって。強いて言うのなら、それを乗り越えようとしないことは罪に近いと、少なくとも自分はそう思う。自分の世界観では、それは相手のことを信じていないのと同義だから。この人とであれば何であれ乗り越えられると、そういう認識を常に更新し続けていくことが、それこそが(結婚とかを念頭に置いた)恋愛なんじゃないのかなって、少なくとも自分はそう思うから。

 

 一方で、例の漫画は上の話とは異なる軸のことを問題にしていたな、と思う。あれはだから、交際関係が開始するよりも前の話だった。だから、上の話とは切り分けて考えなきゃいけない。……立場を表明しておくと、例の漫画については先輩側にも後輩側にも明確な非はないと自分は思っていて。恐らく、例の漫画は後輩側の問題点を抉り出す意図で描かれたものだろうとは思う。いや、執筆時点での意図までは汲めないけれど、少なくともリリースの順番ではそうなっていた。一般に物語作品において、同場面の別視点での描き直しというのは、それが対等な視点であるということが確約されている場合(群像劇など)を除いて、大抵は後半に描かれるものであればあるほど真実に近いということを意図して用いられる技法だから。つまり、あの順番でページが並べられていたということは、先輩視点で語られる後半部分のほうが、少なくとも順番を決めた人間の意識としては真実に近いものなのだろうということ。まあ、それ自体はどうだっていいか。とりあえず、自分は先輩と後輩とのどちらにも明確な非はないという立場であるという話。一言、悲しいすれ違いだったね、で終わってしまう。ただ、強いて言うなら、最後のシーン、(実際に本人に誤解なく伝わる形で行われたのか、かなり怪しいが)告白を断られても結局諦めない点については、それだけは明確に悪だと感じた。それ自体が、相手のことを真正面から捉えきれていないことの証左、あるいは裏付けであるとさえ思う。真正面から捉えるというのは、つまり、相手のことを自分と同じ人間であるとみなすということ。自分自身の中にある種の意思決定が存在するように、自分以外の全ての他人の中にも意思決定が存在していて。相手のことを本当に好きだというのなら、そこは受け入れなきゃいけないラインなんじゃないのかと思う。それを受け入れられない、あるいは受け入れようと努めない時点で、なんていうか、……難しいものがあるなと思ってしまう。代替可能な人間関係なんてない、それはそう。ただ人間関係というのは、場合によってはお互いの感情のぶつけ合いであって。自分の気持ちを受け入れてほしいと願うなら、相手の気持ちだってちゃんと受け入れなきゃいけないはずで。うわ、ずっと同じ話してる。何年前からこの話をし続けてるんだってくらい、ずっと同じことを書いている。でも、それくらい自分にとっては大切な規範なんだよな、これが。受け入れるというのは、相手を自分の領域内に連れ込むって意味じゃない。そもそも、どこかの時点で完了する類のものでもない。思うにそれは、相手の気持ちを正確に汲み取ろうと努め続けること。要するに、だからさっきまでの話と同じだよ。相手を真正面から捉えること。相手のことを自分と同じ人間であるとみなすということ。自分自身の思い込みで相手を(あるいは自分を)決めつけないこと。自分がこういった話題を扱うと、結局は、だからそういう話に帰着されてしまうんだな、良くも悪くも。例の漫画において、先輩側はその努力をしているように描写されていた(少なくとも前半は)。一方で後輩の側は、その人なりに努力しているのだろうと推察できる描写はたくさんあった(し、その結果は認められるべき)。ただ、それは先輩の方向を向いているものではない。いや、後輩の意識としては、つまり主観的には先輩に向けられたものだったのかもしれないが、客観的にはそうでない。事実、先輩側の機微にはついに何一つも気づくことができなかったわけで、その時点で人間関係としてズレてしまっている。先輩の側に落ち度があるとすれば、自分の抱えている違和感を当人へ直接伝えなかったこと。ただ、これはほとんど不可能と言っていい。同じ研究室にいたのなら尚更そうで、さらに女性側であるならもっと難しい。そのくらいは誰にだって想像できるはず。だから、これを落ち度というのはものすごく気が引けるし、できればしたくない(し、仮に実行へ移したとして、事態が悪化するという可能性が無視できない程度にはあるので、純粋な落ち度であるとも言いづらい)。一方、後輩の側にも落ち度を見出すことはできるだろうけれど、ただ、これもクリアすることはほとんど不可能であったと思われる。でなければ、例の漫画はあんな結末にはなっていない。だからこそ、悲しいすれ違いだったね、で片づける他ない。それ以上の答えは、少なくとも例の漫画に描かれた情報からは引き出すことができない。ただ、何度でも言うけれど、やっぱり最後のシーンだけは明確に間違っていると思う。あの結末を美しいものだとは、少なくとも自分には全く思えない。

 

 最後に。もう四年半も前のことになるけれど、古の自分が書いた作品をパッと貼り付けて終わりにする。別に読まなくていいし、わざわざ読んでほしいわけでもなく、それなりに長いしね。ただ、上記に関連するような問題意識は自分の中にはずっと昔からあって、それに対する自分なりの答えもみつかってはいて、というだけの話をするためだけに残しておく。自分のことは自分の言葉で説明するしかない、それが何であれ。

 まあ、この作品自体は何度かブログで紹介(紹介?)しているので「またかよ」と思う人が少なからずいるかもしれないけれど、とはいえ、だから、自分自身のものすごく根幹にあるものを描こうとしたものだったから、これは。だから、手探りで掘り進めていくと、結局ここに当たっちゃうみたいなことが結構あるんだよな。というので、暇な人だけ読んでください(拙い作品ですが)。

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「あの人の答えが何であれ、できることなら、わたしはそれになりたいと思ってたんすよ。なんだか嘘みたいっすけど、多分本気で」

 

 いまの自分だったら、ここの『多分』は『たぶん』で書くだろうな。

 

 

 

観た映画2

 

 前回はこちら。

kazuha1221.hatenablog.com

 

 

 

グレイテスト・ショーマン (2017)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07CWKBNWT

監督:Michael Gracey
脚本:Jenny Bicks,Bill Condon

 

 作詞のリファレンス……というわけではないけれど、気持ちを固めたいという目的で選んだ作品。舞台というかショーというか、登場人物全員を巻き込んでの大団円みたいなのを一度思い出しておきたくて(インド映画とかを観てもよかったのかもしれない(本日の固定観念))。過去に一度観ていて、そのときにかなり感動した覚えがあったので、というので選んでみた。

 This Is Me が好きすぎる! spotify で配信されているので是非いちど聴いてみてほしい。

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ところで、この曲は曲単体としてもかなり好きなのだけれど、当映画の中で流れるシーンと文脈があまりにも熱すぎるんだよな。アニメオタクみたいなこと言うけど、いや、でも実際そう。文脈込みだと一層楽しめるものというのは、確実にこの世に存在する、ゲームミュージックとかね。

 グレイテスト・ショーマンの舞台設定を簡単に説明しておくと、そもそも、これは P・T・バーナム(Phineas Taylor Barnum)という 19 世紀のアメリカ人の生き方を基にして作られたものらしい。彼は興行師で、その内容というのが、言い方を選ばないのなら "人を見世物にする" というものだった。実際にはもうちょっと非人道的な様相(時代観によるところではあるので判断が難しい)だったみたいだけれど、映画においては現代の価値観にある程度迎合した演出がなされている(少なくとも著しく気分を害するような展開はない)。とにかく、そういった、何かしらの身体的特徴を有する人を集めてサーカスを行うというのが、映画のメインストーリーとなっている。そういった理解の上で This Is Me の歌詞の話をしたくて、サビなんだけど

I am brave, I am bruised
I am who I'm meant to be, this is me

本当にすごい。このテーマの映画にこのタイトルでこの詞を唄う楽曲が存在するということ自体がすごすぎる。this is me って、たったの三単語なのにな。胸に突き刺さったまま抜けない。本当にすごいと思う。これを食らうためだけにでも『グレイテスト・ショーマン』を観てほしいと思うくらいには。

 余談。以下の楽曲が流れるシーンが本当に激アツ。文脈とかじゃなく、純粋に映像がカッコいい。

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ラ・ラ・ランド (2017)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0714LYZ3G

監督:Damien Chazelle
脚本:Damien Chazelle

 

 監督の人、『セッション』の人だったのか。あまりにも映像作品を通らずに生きてきたので申し訳ないながら観たことはないのだけれど、名前くらいは知っている。名作と名高い、はず。というか、『バビロン』の人でもあるんだな。どちらも気になっていて、あとで観る用のリストへ入れている作品だった。すご。

 公開当時にいたるところでその名前を耳にしたことからも、当然のように存在は把握していたのだけれど、ただ『グレイテスト・ショーマン』と違って、こちらは観たことがなかった(何故か冒頭の数分だけ見覚えがあった。なんで? ティザーとか?)。ところで、先述の『グレイテスト・ショーマン』と並んで語られることの多い作品という認識が(正しいかはともかく)あったので、こちらも作詞のリファレンスとして観てみることにした。

 結論から言うと、かなり好きだった。扱うテーマが異なる以上、比較という行為には何の意味もないのだけれど、そのことを承知の上で言うのなら『グレイテスト・ショーマン』よりも好みだったかもしれない。冒頭のシーンを最後に回収するというのは物語の構成としてはよくある(時間軸が錯綜しがちな作品によくみられる)ものの、その組み込み方が上手い! いや、自分が知らないだけでこういう例はたくさんあるのかもしれないけれど。ただ「え、もしかしてそこへ戻る?」という驚愕と「そうやって繋げるのか……」という感動とがあった。だって、これはタイムリープものじゃないし、まさかそんな展開が待っているとは思ってなかったから……。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『STEINS;GATE』を通ったことのある人なら本当に一瞬で解る、「あ、これ来るな」って。本当に感動した。

 お互いに自己実現を掲げる男女の恋愛模様という点でも面白かった。それと、これまでに物語中で提示された情報を使って、次の展開へと繋いでいく構成もかなり鮮やかだった(特に図書館のくだりが好き)。伏線を伏線と思わせないのが上手い。これが(アマプラだと)無料で観れるの、流石におかしいだろ。どうなってんの。

 余談。「ようこそ、セブズへ」のシーン、本当に痺れた。いわゆる見せ場的なシーンにおいて必要十分な台詞を選ぶことはかなり難しいと思っていて。狙いすぎな気取った感じのしない、そうであって的の中心を正確に射貫くもの。この台詞は、そういう意味で完璧。たったの一言で、これまでの物語のすべてに意味を与えている。感動した。

 

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー (1985)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00YTNH4V2

監督:Robert Zemeckis
脚本:Robert Zemeckis,Bob Gale

 

 往年の名作枠ね。子どもの頃に観て、いまに至るまでずっと好きな作品。そんな、何十回も観たとかではないはずと思うのだけれど、それでも物語の展開をそこそこ思い出せる程度には繰り返し観ていたんだろう。昔のことすぎて思い出せない。

 これね、あの、最初に言っておくと、本当にすごい。何がすごいって、物語の構成が完璧すぎる。というのも、作品の中で発生する出来事がすべて雪だるま式になっているというか、連鎖反応的に進行していくんだよな。要するに、すべての出来事が関連性をもって次へと繋がっていく。無駄なものが一つもない。そして、その枠組みの中に立ったままで、「これはどうなっちゃうんだ!?」と観客をハラハラさせるような山場を構築している。ジョージがマーティと一芝居演じようと思ったら、行き違いでビフに喧嘩売っちゃうシーンとかね。あとは、マーティーがトランクに閉じ込められることと、ビフが成敗されるだけでは未来が書き換えられないこととが繋がる理由とか。本当にすごい、し、その山場自体にも物語的にちゃんとした意義が与えられており、もう流石にスタンディングオベーション

 あと、あまりにも一筋縄じゃいかなさすぎる展開も、改めて観返すと好きだったな。これ、実際に物語的なものを一度でも夢想したことがある人は分かると思うんだけど、一つのメインストーリーを進めながらそれに付随する複数のサブミッションを用意するのって、本当に難しいんだよな。その点、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はすごい。最後の、「あとは未来へ帰るだけだな!」ってシーンでさえ全然ウイニングランじゃない。しかも、そこで起きる障害が「ああ、たしかにそれはそうなるよね……」って納得できるものばかりで、うわ~。22 時 4 分に落雷が起きることは事前に知っていて、天気が荒れることも知っていて、ということはこういった事態が当然起こり得るよね、っていう。

 昔に好きだった作品はいま観ても好きなままだったし、昔よりも場面構成に対する解像度がずっと上がっていてよかった。また何年後かに観れたらいいな。

 余談。この企画を始めてから、洋画は基本的に字幕版で観ているのだけれど、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だけは吹替版で観た。懐古厨の宿命からは逃れられない……。

 

 

○ ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー (2023)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B8S4LYY6

監督:Aaron Horvath,Michael Jelenic
脚本:Matthew Fogel,上田誠

 

 知り合いからの勧めで観た。かなりの深夜に観ていて、2 時とかから観始めたんだっけ? というので、途中で寝落ちしてしまった。翌日、起きてから改めて観たのだけれど、終盤も終盤で寝落ちしていた。悔しい。ちゃんと眠くないときに観ようね。

 なんか、テーマパーク的な面白さがあった。マリオが好きな人なら、いや、特別好きというわけでなくとも何度かプレイしたことのある人なら、かなりニヤッとできるような構成になっているように思えた。序盤の、工事へ向かう途中の横スク要素とか。何気ないところに「これは!」と目が向くような要素が散りばめられていた。個人的には、門番のノコノコ(たしかノコノコだったと思う)がちゃんとコインをかすめ取っていたシーンが好き。おもろい。

 というか、ピーチ姫が強すぎる! ピーチ姫って、なんていうか、ああいうキャラクター性でいいんだ。もうちょっとたおやかな感じを想像していたから、生まれてからこの方ずっと。いやまあ、たしかにスマブラでは武闘派だけれども。でもなんか、あんなイケイケな感じなんだ、と思った。ところで、どちらかというと前に立って歩いていく風のピーチ姫はかなりカッコよく、かなり好きだった。たしかに、マリオの立ち位置をああいう風に設定するのなら、世界のことについて説明する強キャラポジが必要で、それを旅へも同行するピーチ姫に委ねようとすれば、必然的にああいったキャラクターメイキングになるのかな。

 全体的に、ユニバのマリオゾーンみたいな感じの映画だった。あれで感動する人は、たぶんこっちでも感動できる。

 余談。レインボーロードってそういう壊れ方するんだ……、と思った。ていうか、壊れるんだ。あんなにボム兵とかトゲ甲羅とかが散々飛び交ってるのに。

 

 

○ 翔んで埼玉 (2019)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07X8RXWHN

監督:武内英樹
脚本:徳永友一
原作:魔夜峰央

 

 名前は知っているけれど通ったことのなかった作品シリーズ。どういったコンセプトの作品なのかということもある程度は知っていて、アマプラをぐるぐる巡っていたら「そういえば」と目に留まったので観ることに。

 結論から言うと、もう本当に面白かった。エンタメとしてすごすぎる。特に感動したのが、物語の枠組みの外に冷静なツッコミ役(つまり観客と同じ目線のキャラクター)を置くことで、ともすれば不快感へも繋がりかねない展開を続けまくる本編とのバランスを取るという作品構成。これによって観客は物語の外側からの視点を獲得して、物語の中で語られている内容は一言一句取るに足らないものである、という理解のもとでスクリーンへ臨むことができる。すごい。wikipedia によると、これは原作にないオリジナルパートらしく(というか、そもそも原作は未完のままで連載が中断されたらしい)、つまりは監督と脚本の手腕。というか、この二人って『電車男』や『のだめカンタービレ』で組んでるんですね。そりゃ面白いわ……。

 肝心の本編はどうだったのかというと、こっちは終始バカなことをやっていて、本当によかった。真面目な顔で明らかに頓智気なことを言うもんだから、しかも登場人物全員が。面白くないはずがない。ただ、それを「面白くないはずがない」の領域に留めておかないところがすごい。つまり、単にシュールギャグをやり続けるのではなく、物語としての骨格を与え、最後にはちゃんと爽快感のある結末を用意するという、作品が作品たるための一連の手続きをかなり丁寧に踏んでいる。そのおかげで、恐らくはメインディッシュと思われる埼玉弄りネタにも飽きがこない。「ああ、これはもうこういうものなんだな」という納得感さえあった。

 これは本当に面白かったのでオススメ。アマプラなら無料で観れる。いまだけかもしれないけど。

 余談。某ロックバンドの某が出てきたところでシンプルに爆笑した。あの、なんだっけ。海外のなんとかってホラー系映画で、その分野の巨匠をしょうもない一発ネタのためだけに呼びつけたみたいな、それと同じタイプの笑い。

 

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2 (1989)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00G31E33U

監督:Robert Zemeckis
脚本:Robert Zemeckis,Bob Gale

 

 初代に引き続き PART2。初代のほうで色々書いちゃったからもうあんまり書くことないかも。

 ところで、思いついたことは書く。初代でも触れた、連鎖的にイベントが起こっていく構造は健在だった。個人的には、初代のあの "引き" から、PART2 のメイン舞台を未来へ設定しなかった判断がすごいなと思う。自分だったら、未来の世界でどういった物語を展開していくか、という考えに固執してしまいそう。実際には、「未来で色々やっちゃったせいで現代(未来からみた過去)が変わっちゃった!」的なことが起こる。過去改変によって未来が書き換わるというのは様々な作品で目にするけれど、その逆については一聴すると「そんなことある?」って感じ。ところで、そんなことあるんだな、これが。まあ、実際には未来での出来事が直接的に過去へ関与するわけではなくて、起こっていることとしては過去改変なのだけれど、その起点が未来にあるという話。詳しくは、実際にその目で確認してほしい。

 後半の展開は終始、息を呑むとしか言えない。すごすぎる。物語の後半戦では初代と同じ舞台へと場面転換をし、つまり、初代のストーリーラインが進行している裏で PART2 のストーリーラインも同時に進行させるという構造を取っている。これがもう本当に素晴らしいの一言。この手の作品ではよくある禁則事項として、「過去の出来事を変えてはならない」、「過去の自分に遭遇してはならない」の二つがある。その制約のもと、PART2 における最大の目的を果たすために主人公が孤軍奮闘する、という構成。しかも、初代におけるイベントの発生現場を回避する形ではなく、むしろそこにぶつけていく形で展開を作っているのがすごすぎる。要するに、初代での出来事をきちんと活かしたような構成になっている。本当にすごいし、普通に感動した。こんな綺麗に物語って作れるんだ、しかも 1 時間 48 分で(オープニングとエンドロールがあることを考慮すれば、実際には 1 時間 40 分程度のはず)。

 本当にすごかった。そりゃ名作と呼ばれるわけだな……と思った。

 余談。初代でも登場したあの超絶ギターパートがまた聴けてよかった。

 


 今回はこんな感じ。冒頭の二作品『グレイテスト・ショーマン』と『ラ・ラ・ランド』について、じゃあ実際に作詞へ活かすことはできたのかという話を最後にしておくと、実際にできた。言語への接続というよりは、映像的想像への寄与が大きかったかな。架空の人物を想定して、その人物が楽しそうに街を歩いてるところとか、そのときに見えそうなものとか感じそうなこととか、そっち方面の想像を膨らませることにかなり役立っている、ような気がしている。

 というので、当初の目的はもうこの時点でかなり果たされてしまった。けれど、映画鑑賞はいまのところまだ面白いので、引き続き観ていきたいわね、という感じ。

 

 

 

観た映画1

 

 音楽に限らず、ものづくり全般においてインプットって大事、というか必須だなと思っていて。そのインプットというのは、たとえば音楽を作るのであれば音楽を聴くことが、といった風に一対一で対応づくものではないような気がしていて、アニメやイラスト、小説、映画など、媒体は何でもよくて、それを介して得たもの自体が自身の創作に転用されるというか、そういう理解を一先ず持っている。というので、インプットはちゃんとやったほうがいいよね、という自戒に落ち着くのだけれど、ところで。ところで、アニメやイラスト、小説は放っておいても自分なりペースで吸収するのでいいのだけれど、問題は映画。映画を観る習慣がなさすぎて、いや、別になくてもいいんだけど、生きていく上で必須なわけじゃないし……。一方で、この世界には素晴らしい映像作品が星の数ほどあるはずで、そしてまた自分自身の中に映像作品への興味があることも事実であり、であるならもういますぐに観たほうがいいでしょ! と思い立ったというのが事の次第。いつかやりたいなって言ったこと、基本的にやらないがちだから、自分は。

 そういうわけで、これからしばらくの間、より正確には自分が飽きるまでの間、ちょくちょく映画を観ていきたく、その感想を断片的にでもこのブログへ残しておこうと思う。といっても、そんなちゃんとした文章を書くぞという意気込みを毎回掲げていたら今後へ続いていく気が全くしないので、とりあえず分量とか内容の精査とかはいったん考えないこととして、書きたいことを書きたいだけ書くという感じで。というか、アマプラの見放題にはないレンタル作品を中心に観たせいで、いま感想を残しておかないと全部忘れてしまうというのが動機としては正しい。

 

 以下、物語の核心に触れるようなことは書かないつもりであるものの、軽度なネタバレは多々あるので注意。事前情報なしでいきたい人は、目次から気になったタイトルを amazon の検索窓へ入力してください。

 

 

○ ザ・メニュー (2022)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B8QB7DH4

監督:Mark Mylod
脚本:Seth Reiss,Will Tracy

 

 初手に観る作品として合ってます、これ? ただ、推薦文を一目みて割と心を惹かれたということは事実だったので、早いうちに観ておきたかった。

 監督とかちゃんと意識していったほうがいいんだろうなって思うから、ちゃんと調べよう。音楽でいう作曲家とかに当たるのかな。いや、脚本が作曲で、監督は編曲? 分からん。分かんないけど、まあ完全に対応づくものではないだろうから、それっぽい理解でいいや、一旦は。というので、冒頭に書き足しました、いま。というか、いま wikipedia を読んで知ったんだけど、ディズニーの配給だったんだ。R15+ だったのに。

 基本の枠組みはクローズドサークルで、かなり雰囲気重視のホラーサスペンスという感じがした。いや、サイコホラー? ジャンルに明るくないので何も言えない。なんていうか、鑑賞中はそんなこと全然思わなかったのだけど、いま改めて振り返ってみると、『儚い羊たちの祝宴』にも通じる仄暗さが多少あるかもしれないな(ブラックユーモアという点でも)。そういう意味では、割とお気に入りかも。

www.shinchosha.co.jp

 一作を通して、舞台設定の裏側についてはほとんど語られなかった印象。たとえば、企業の秘匿している裏情報をどうやって入手したんだ、とか。あとは、マーゴという名前に違和感を持ったこととかもそうかな。いや、これはたぶん裏で調べたんだろうけど。一企業の裏情報を手に入れられるくらいの力があれば、個人情報の特定くらいは朝飯前だろうし。

 思うに、提供物の差なのかな。自分はどちらかといえば、あの狂気を生み出すに至った過程をこそ知りたいと願ってしまうのだけれど、ところでその過程を描くと今度は狂気の側の立場が危うくなって中途半端だし。というので、事象の過程は鑑賞者の想像に委ね、最終局面のみをシリアスに描くという方向へ舵を切った作品なのかな、と思った、観終えた直後は。ところで、一晩明けてある程度整理された頭で考えてみて、だからそう、それで『儚い羊たちの祝宴』のことを思い出したんだよな。あれを初めて読んだときの読後感と似通っているなと思う、結構。そう思うと、初手から結構好みの作品だったような気がして、嬉しい。でも、万人には勧められないかなあ。かなり人を選ぶような気がする。

 余談。『儚い羊たちの祝宴』は短編集で、収録作品の中だと北の館の殺人がかなり好きなんだけど、今回の『ザ・メニュー』に近いのは『儚い羊たちの晩餐』かも。最後に読んだのが割と前で、記憶が曖昧なので適当なことを書いているかもしれないが……。

 余談2。クローズドサークルからの脱出法が本当によかった。相手とちゃんと同じ土俵へ立つっていうのかな。だから、どうして脱出できたのか、という疑問は持たなかった。かなり納得。

 


○ シェフ 三ツ星フードトラック始めました (2015)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00XALZBPU

監督:Jon Favreau
脚本:Jon Favreau

 

 監督も脚本も同じ人か~、と思って wikipedia 開いてみたら主演の人の顔写真が貼られており、横転。嘘だろ。はるまきごはん? 『アイアンマン』シリーズの監督やってたり、アベンジャーズシリーズの製作総指揮を執っていたりするらしい。すげ~。

 作中で Twitter が繰り返し登場するんだけど、UI がマジの古で面白かった。自分が中学とか高校の頃のやつっぽい。真っ先に書く感想がこれでいいのか。

 ストーリー前半は結構胃がキリキリする感じの展開。クリエイター、って括りにしていいのかな。でもまあ料理も創作だしな。いわゆるクリエイターの目線に立ってみると「どうすればいいんだ~~~~~~」と頭を抱えてしまうようなやりとりが、前半ではずっと続く。ここのところ周囲でホットな話題であるところの(ホットか?)自己実現 vs. 家庭の話でもある。決して息子のことを蔑ろにするような父親ではないのだけれど、ただ、どうしても二の次というか、それよりは仕事優先というか。でも、その仕事でも理想と現実の板挟みになっており、うわ~~~~~~~。

 前半はなんかもう、厨房の中、夜のバー、散らかったアパート、からのインターネットレスバみたいな、閉塞感のある場面が連続するのだけれど、だからこそ、後半のマイアミへ飛んでからの解放感はすごかった。海も空も突き抜けて綺麗だし、高速道路沿いに映り込む風景だっていかにも広大で。ポンポさんで言ってたの、多分こういうことだろ。

 全編通して、生々しさがあるからこそのハートフル作品だなって感じがした。なんていうんだろ、説得力? いや、等身大かも。その、作品の中に印象的だったシーンがいくつかあるんだけど、主人公(父親)と主人公を追いかけてやってきた男性、それと主人公の息子が三人で車移動する場面があって。大人組二人がかなり品のない歌を歌い始めるんだよね。物語の冒頭、主人公は息子に向かって「母さんがいない場所でも汚い言葉は使うな」って言っていたにも関わらず。で、二人の歌を聴いて車の壁にもたれていた息子が思わず零したみたいに笑う、っていう。30 秒もなかったと思うんだけど、真っ先に思い出すのがこのシーンかも。見せ場みたいなシーンは他にもたくさんあったけど、ここがかなり心に刺さった。ぐさっと。そういう些細なワンシーンを積み重ねていく後半戦だからこそ、最後のアレはかなり食らった。作中において、息子当人の気持ちが本人の口から語られることはほとんどないけれど(車を改装してるシーンくらい?)、時と場合によっては、だから言葉なんか一つもなくたっていいんだな。重要なものは映像の中に全部ある! って感じの気持ちになれて、本当によかった。

 子どもの頃に観てもマジで意味わかんなかっただろうなと思うし、もうちょっと年齢を重ねてからまた観てみたいなとも思う。そういう作品。マジでよかった。これは色んな人に勧めたい。

 余談。直前に観た『ザ・メニュー』が料理をテーマにした作品だったから、というノリで雑に選んだ作品だったのだけれど、めちゃくちゃ好みで良かった。

 余談2。出てくる料理が軒並み美味しそうで、海外旅行したくなってくる。

 余談3。エンドロールで撮影の裏側がほんのちょっとだけ紹介されるのだけれど、そこで料理担当っぽい人の言っていることが面白くて(かつ真剣で)よかった。

 


○ M3GAN (2023)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0BYW4H2L3

監督:Gerard Johnstone
脚本:Akela Cooper

 2023 年公開の映画なのにもう続編決定してるんだ、ワロタ( wikipedia 調べ)。『ザ・メニュー』と同じホラーというカテゴリではあるけれど、一番打者とは打って変わって、こちらは純粋なホラー作品という感じだった。
 何よりもまず話したいことがあって、M3GAN 役の動きがヤバすぎてすごい。Amie Donald。いや、調べてみたら撮影自体にはかなり色んな技術が用いられているっぽくて、全編がそうというわけではなさそうなのだけれど。ただ、あの、物語の後半に挟まれる追いかけっこのシーン、調べた感じあれは一発撮りっぽくて、これが本当にすごい。ロボットの動きを映像の中にはめ込むのができるとして、それと並べても一切の遜色がない機械的な動作をこなす子役。何者すぎる。
 最初は隣のおばさんにちょっと同情してたんだけど、可哀想すぎるし。ところで、改めて流れを振り返ってみると、M3GAN は犬に首元を噛まれた辺りからおかしくなっていったような気がするので、やっぱり同情の余地はないかもしれない。いや、あの柵を修理するのが本来どちらの役回りだったのかは知らないからアレだけども。
 ホラーとは言ったけれど、露骨なジャンプスケアはほとんどなくて、「明らかに不穏だな~」と感じた場所でちゃんと不穏な出来事が起こってくれるので、そういう意味ではホラー初心者の自分でもちゃんと適切な容量内で楽しむことができた。びっくりさせる系の演出が多用される作品は心臓に悪いんで……。ただ、流血表現がちょくちょくあるので、そこだけ苦手な人は注意って感じかな。
 余談。解決法、「それでいいのかよ!」と思った。拍子抜けとかって意味じゃなくて、「あ、それがそうなるの?」っていう驚き、あるいは面白さ。あのシーンだけ漫才的な面白があったな。

 


○ メッセージ (2016)

監督:Denis Villeneuve
脚本:Eric Heisserer
原作:Ted Chiang

 

 そう、原題は『Arrival』なんだよね。って、いま wikipedia を開いて思い出した。映画の中でもどこかで提示されていたと思うけれど、どこだっけ。エンドロールの前とかだった? と思って改めて観てみたところ、合っていた。まあ、そこくらいしか挟み込める場所ないもんな。

 物語の仕組み的な部分にかなり早い段階で気づいた気がする。最初のきっかけはめちゃくちゃ早かったけど、明確に引っ掛かったのは序盤の最後かな。二人で殻を眺めているシーン。物語の進行に伴って情報が開示されるにつれて、「なるほど~」感が次第に補強されていく構造はミステリー的な趣きがあったような。なんていうか、いち早く気付くことのできた人にはボーナスがある感じの作りという意味で。

 いや、面白かったな。ストーリーがどうこうとかじゃなくて、作品のコンセプト自体がそもそも面白かった。地球外生命体との対話。というより、そもそもの話、どのようにして意思疎通がなされうるのかという点について。いやでも、それ自体は 1,000 年ほど前の地球上では珍しくもない交流形態のはずだよな、と考えていたら実際にそういう話も作中で出てきた。アボリジニの話。といっても、その状況ではお互いに人間という共通の土俵に立っているわけで。手を使って文字を書くとか、口から声を発するとか、火を使うし太陽は眩しいし、って最低限の共通事項があるにはあって。だから、そこを外してみるといったいどうなるのか、っていう壮大な思考実験をみせられたみたいな、そういう気分。

 話せることは他にもありそうな気がするけれど、これ以上は実際に観てもらわないと何も言えない! 吹き替え版は(アマプラ会員なら)無料で観れるっぽいので是非。

 余談。その名前自体は初見でなかったものの、そういう風に読んだことは一度もなかった。なるほど……って気持ちにならざるを得なかった、流石に。

 


○ 映画大好きポンポさん (2021)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09SQDL6FP

監督:平尾隆之
脚本:平尾隆之
原作:杉谷庄吾人間プラモ

 

 もう、本当によかったです、これ。創作をやっている人間には恐らく軒並み刺さるんじゃないか。ところで、Twitter でフォロワー内検索をしてみたら、本当に大量の人間が当作品に言及していて、「知らなかったの、俺だけか……」って気持ちになった。早く教えてよ~(ところで、少なくとも自分の観測内で当作品に言及していた人は数年前からずっといたので、早く観なかった自分が悪い!)。

 良いセリフとシーンがたくさんあった。最初の、横断歩道の水溜まりへ踏み込む女の子に対して、主人公が「いい絵だ……」って呟くとことか。あと、ポンポさんの台詞でもいいやつがあった。なんだっけ。「その人を見た瞬間に、物語が頭に溢れてくることが稀にある。そんなときは間違いなくいい作品に仕上がるわね」。これはもう本当にその通りすぎて、すごい。「幸福は創造の敵。彼らにクリエイターとしての資格なし」(想像?)。一番すごいのは、こういったメッセージが真っすぐに届くような作品構成になっていることかもしれないな。言葉に直すだけなら誰にだってできるけれど、その内側に説得力を宿すことは本当に難しくて、ところでこの作品はその困難をやってのけている。すごい。

 切り捨てる覚悟と突き詰める覚悟。その両者についての話がずっとなされている。映画監督や女優へとたどり着いた経緯、撮影データの取捨選択を迫られる場面、納期を破るとかいう究極のコンプライアンス違反を犯してでも追及したいもの。全部が全部、同じ話をしている。丸っこい絵柄やポンポさんの可愛らしい言動の裏側で、創作にとって最もシリアスかつクリティカルと思われる話題がずっと扱われていて。すごい。しかも、ちゃんとよくない部分も描いているのがいいなと思った。覚悟を突き通した先に待ち構えているかもしれない破滅、というか。これは、マーティン・ブラドック演じるダルベールの話。そこにも救済はあったけれど、でも破滅した部分はしっかりと破滅していて。あのシーンが必要だった理由もわかる。あれがないと、切り捨てる覚悟が足りないから。

 本当によかった。全員観てほしい。ポンポさんがカッコいいし、主人公もめちゃくちゃカッコいい。アランが喫茶店で口にした台詞にも納得できる。本当に全員観てほしい。d アニメストアに契約していればレンタルなしで観れるので。

 余談。最後の最後まで最高だった。

 

 


 というので、今後もちょくちょく映画を観ていけたらいいな~って感じです。

 補足。観る映画の候補は『R15+じゃダメですか?』という作品と、周囲の人たちのオススメから選んでます。

comic-days.com

 なので、面白そうな映画 info. があればいつでも教えてください。ところで、上の漫画は普通に面白い(し絵がいい)ので映画好きかどうかとか関係なしにオススメです。

 

 

 

20240112

 

 学部生の頃、好きだった人がいて。いまはもうほとんど接点ないんだけど、ちょっと前になんかいきなり電話がかかってきて、でもまあそれくらいの距離感の人。当時は、……いや、どうなんだろう。場合によっては本人が読みかねないところでこんなことを書くのも憚られるといえば憚られるけれども、好きと嫌いとが混じり合っている感覚というか、分かるかな。好きだけど嫌いで、嫌いだけど好き、みたいな。でも、いまにして思えば、たぶん、あれってどちらも好意を源として存在していた感情だったのかも。こういうの、ともすれば過去を美化してるだけという場合も考えられるけれど、そうではないことの根拠の一つとして、だって、いまは全然嫌いなんかじゃないし、むしろ好きだったと思うから。でもそれは当時よりも心理的な距離が空いたからなんじゃないの? と思うかもしれないけれど、いや、相手のことを心の底から嫌っていたら距離が離れたところでずっと嫌いなままなんだよ。これは人に依るだろうけれど、自分はそう。負の感情を持ち合わせている対象は、それが人だろうが物だろうが、ある程度の距離をとると大抵はどうでもいい対象へと置き換わる。どうでもいいっていうか、なんだろ、うまく言えないな。でも、だいたいのものって基本的にどうでもいいし。遠く離れてまで憎み続けるものなんか早々ないから。それもまあ、人に依るんだろうけどさ。というので、だから、そこそこ嫌いな対象ってある程度離れたらもうどうでもよくなっちゃうんだけど、本来、自分を駆動させるシステム的には。あるいは、本当に嫌いな対象なら、ずっと本当に嫌いなままなんだけど。でも、その人はそうじゃなかったんだよな。なんでだろう、と考えたりした、だいぶ前のことだけど。思うに、大学へ来てからいちばん衝突した相手、……だと思う。恐らくは、いちばん本音を話した相手でもある、はず。ここでいう本音とは、なんていうか、良い意味で相手の事情を気にかけない言葉という意味。普通はそんなことしないし、できない。社会は他人を思い遣るようにできているから。あるいは、夜にしか話せないことってたくさんあると思っていて、ところで自分は大学へ来るまではそんな風に夜を使うことがなかったから。そういう夜の使い方をした相手も、だから、あの人がいちばんなんじゃないかな。向こうがどう思っているのかとかは知らないけど、全然。ただ、人間関係に優劣をつけることはできないし、そんなことをするつもりは全くないのだけれど、それでも、大学へ来て一番よかったと思うことは何ですかと尋ねられたなら、十数分は悩んだうえで、学部一回生のときにあの人と出会えたことをアンサーとして挙げるかもしれない。あの人との出会いがなければ、それ以降のすべての人との出会いがなかった(あるいは、現在と同じ関係性にまでは進展しなかった)可能性さえある。そのくらいには、現在の山上一葉という人格に大きな影響を与えた人だと、少なくとも自分ではそう思っている。繰り返すけれど、向こうがどう思っているのかは全く知らない。そういう距離感のままでいてくれるところも、たぶん好きだったんだろうな。

 

 あの人の言葉やそれを口にしていた場面なんかを、いまでもなんとなく思い出したりする。京大周辺の深夜には、その断片がたくさん転がっている。コンビニの廃棄場、店裏のダクト。鴨川沿いの公園で檸檬の話をしたりもした。梶井基次郎。自分は文学に明るいわけでは決してないから(これは本当にない)、そんな物知り顔で話せる立場でも全然ないのだけれど、三条の丸善に行けば檸檬が置かれているコーナーがあるはず(あれ、たしかずっと置かれてるよね)。あの檸檬のこと。あるいは、共犯者、緑色の空。すごいよ。いまでも探すし、みつけたら「あ、緑色の空だ」って思うもんね。びっくりする。そうやって日々浮かび上がってくる幾つかの中に、他者の価値観についての言及がある。流石に一言一句違わずとはいかないけれど、たしか、「そういった考え方があること自体は構わない。ただ、その考えを安易に自分へ向けられたら間違いなく怒るよ」みたいな、そんな感じの。何に関する話題で出たんだっけな、これ。その人の家にいたときに聞いた言葉だったなってところまでは思い出せるんだけど。それはまあいいか。とにかく、そういうのがあって。別に、その言葉に甚く感銘を受けたってわけじゃない。何度も言うけれど、当時は好きと嫌いとが混じり合った感じだったし、いや、当時から好きは好きだったけれど。でも、そんな、なんていうんだろう。妄信? とか、崇拝? とか。そういう間柄じゃ全然ない。どちらかといえばお互いにお互いを殴り合い続けてたみたいな……、それもそれでまた違うだろうけれど。でもまあ、そんな感じだったから。その台詞を耳にしたその瞬間に、何かしら思うところがあったというわけでは全然なかった、はず。でも、それでも、未だに繰り返し思い出すんだよ。何年前、……五年? とか。少なくとも四年以上は前の出来事なのに。不思議だよね。日常のワンシーンとしての会話でしかなかったはずなのに、それでも自分の心の奥深くにたしかな形として残っている。そういう人とは、もう今後、死ぬ瞬間まで出会うことはないんじゃないかって気さえする。みたいな。冬の夜は特にあの人のことを思い出すなあって、さっき、買い物からの帰り道を歩きながらぼんやりと考えていた。冬に特別な思い入れがあること自体、多かれ少なかれあの人の影響なのだから、まあ、それはそうといえばそれはそうか。

 

 嫌なことってキリがないからさ。だから、好きな人のことを思い出そうと思って。嘘。思ってはない。ただ、無意識的にそういう心の動き方をしている気がする。だって、さっきまであんな陰鬱な気分だったのに、いまはもう全然そんなことないもんな。憂さ晴らしをしたとかでもなし、ただ思い出せることを書き下しただけなのに。

 

 物語的な関係性って、やっぱりあると思うんだよな。言ってて気持ち悪いなって自分でも思うけれど。でも、どんなに気持ち悪かろうが、あるいは誰に何と思われようが、一切の感情なんておよそ無関係で。思うに自分は、一〇〇万回生きた猫のことが好きだった。どこにもいけないものの一つ、校舎の屋上、一一月。愛を避けて歩くということ、幸福の本質。本当に何十回、何百回と繰り返し読んだから、かなりの場面と台詞を思い出すことができる。同じなんだよ、だから、たぶん。違うところといえば、人生は小説と違って、同じ場面を繰り返したりはできないってところくらい。エンドレスエイトじゃ困るから。でも、なんだろ、その経験? 過去? 目にしたもの、耳にしたもの、感じたこと。そういった全部が現在を生きている自分にとってどういったものとして処理されているのかということ。それが、だから、物語的だなって思う。だって、あり得ないよ、普通。そんな、日々の何気ないやり取りをいまでも思い出すなんて。少なくとも、自分にとっては決してありふれたものなんかじゃない。そういうのを、そういうことこそを大切にして生きていきたい。いきたいなって思う、思った。ちょっと、最近の自分はこのことを忘れすぎている気がする。そういう、現実世界の閉塞感なんて気にもならないくらいに眩しいものの在処を。四年前、あるいは五年前? たしかにそういう時間があって、だからいまの自分がいて。別の世界線なんていくらでもあるよ、きっと。もっと入学当初からうまく立ち回れていた if とか、あるいはいま抱えている嫌なあれこれと向き合わなくてよかった if とか、そんなのいくらだって思いつくし。でも、それでも、なんていうか、これでよかったんだって思いたいし、そう思える自分でありたい。……と思う。嫌なことってキリがないけどさ、本当に。だからって、全部が全部間違っていたなんて考えたくないし、それに、とてもそうだとは思えないくらいにかけがえのないものを自分は既に貰っているんだってことを、だからちゃんと思い出さないといけないし、そのことをちゃんと忘れないままでいたい。それを失くさないでいる限り、きっと自分は大丈夫だろうなって気がするから。

 

 とりあえず、散歩でも行こうかな。冬と友達になりたい、一先ずは。

 

 

 

20240111

 

 電車に揺られているときとか、あるいは朝日を横目に歩いているときとか。どこからともなく湧いてきた欠伸を噛み殺しながら、眠いな、って思うじゃん。あれと全く同じ感じで、死にたいな、って思う(ところで後半部分に記述してあるのだけれど、誤解を招くのはよくないと思うのでこの段階で補足しておくと、これは希死念慮とか自殺願望とかっていう話では全くなくて、もっとカジュアルな、全然シリアスではない感情。なので、精神状態が悪いとかでも全くない)。新年一発目の記事がこんな内容で大丈夫? と思うけれど、でも、そう思うものはそう思うんだからどうしようもない。というか、いつからだろうな。なんていうか、手の施しようがない感じのこのブログを認めるにあたって、明確に読み手の顔を想像するようになったのって。昔はそうでもなかった。昔はっていうか、二年くらい前? までかな。いや、書き始めた頃から読み手のことは意識するようにしていて、なるべく読みやすい文章を書くようにしよう、みたいな姿勢とか。誤字脱字はできる限り見逃さないように、とか。ところでそれって、読み手の顔を意識しているわけではないよな。どちらかというと気持ちとかじゃない、たぶん。だから、誰でもよかったし、誰でもなかったんだなと思う。完全な第三者。シミュレーションされた客観的視点。コナンの犯人とか、Twitter エッセイ漫画の一人称とか、そういうのと同じで、極度に抽象化された存在が読み手として想定されていた、はず。だから昔の自分は、なんていうか、日々のあれこれを好き勝手に書きまくっていたわけだし、いまの自分はそれをしなくなったわけなのだろうな、と思う。しなくなったというより、できなくなった? いや、それは責任転嫁しすぎか。しなくなった、のままで正しい。誰も悪くなく、自分が悪いわけでもなく、これはそういう変化の話だから。

 

 ちょうどいまお風呂が沸いたので入ってくる。冬の寒い日に浸かる湯舟が一番好きで、夏は夏で気持ちいいんだけど。今年は……、冬とまだ友達になれていないような気がする。毎年、仲良くやってたのに。これも変化って言うのかなあ。と思いはしたものの、別に冬と友達になっていたわけではないような。なんだろ。孤独? うわ、ありきたりな言葉。嫌だな。思うに、ありきたりな言葉のよくないところって、個々人によって定義が異なること。たとえば、自分の修士論文で真っ先に定義したもの、つまりそれを知らないと話が始まらないというものにアデールってのがあるんだけど。代数学、の特に数論かな、を齧った人になら一言、アデールと言えばそれだけでどんな場面を想定しているのかが伝わるんだよね。まあ、他の学問がどうなのかは知らないけど、多義的な言葉って精密な議論を行う上ではあんまりよくないだろうし(それでもたくさんあるんだけど)。だからまあ、新しい概念にはどんどん新しい名前をつけていって、名前と概念とが一対一に対応するようにしましょうねって話だと思うんだけど、翻って孤独。孤独って何? 「孤独って何?」って訊かれて説明できる人っているのかな。自分はできない、……たぶん。そもそも試みたことがないから分からないけれど、できないだろうなと思う。それでも、50,000 字分くらいの言葉を使っていいならもしかすると部分的に実行できるかもしれない。ここでいう "実行できる" というのは、万人にとって理解可能な形で示すことができるという意味ではなくて、自分なりの解釈を外部へ発信することができるという意味で。でも、なんかさ、そういうものじゃない? 孤独とかって。綺麗に整理された言葉の上じゃなくて、もっと奥深く、あるいは茫洋とした集合体としての、そういった曖昧な場所に重く漂っているもののような気がする。だけど、人の話を聞いているときとか、漫画を読んでいるときとか、あるいはこんな風にブログを読んでいるときとかってそこまで深くへ潜り込んだりはしないからさ、普通は。心の中にある電子辞書をパッと引いて、上のほうに出てきた用例だけをみて、「ああ、こんな感じの意味合いで使っているのかな?」くらいの理解で読み進めるじゃない。電子辞書が紙の辞書と違うところの一つよね、調べた単語にどのくらいの意味があるのかを一目で汲み取れないことは。ディスプレイの大きさまでしか表示できないから。自分たちは基本的にそういう風にしか他人の言葉を読み取ることができなくて、だからこそよくないと思う、ありきたりな言葉って。伝わるわけないじゃんね、そんなので。いや、伝わる必要がないという考えならそれでよくて。この世界にあるすべての喜怒哀楽が第三者に理解されて然るべきだとは思わないし、またそれらが正しい表現で形容されるべきだとも思っていない。伝わらないほうがいいものは多々あるし。話を戻す。ところで、別に自分は言葉の正しい意味を伝えたくてこんな長ったらしい注釈を添えているわけではなく。孤独という言葉にあてがう意味合いは人によって異なるよね、ということを伝えたかっただけ。冬は孤独と友達になれる季節なのかもな、って自分はそう思うんだけど。他の人たちにとっては、冬ってどんな季節なんだろうね。

 

 44 ℃ でお風呂を沸かすから、多少冷めたくらいがちょうどいいんだよね、と強がってみたりする。湯舟の中だと何も考えなくていいから楽だな、と思った矢先、ボディソープがそろそろなくなりそうなことに気づいたりする。

 

 本当に欠伸と同じ感覚だと思う。だから、全くもって深刻ではない。電車なら、まああるかもしれないけれど、でも外を歩いているときに欠伸をして「眠いな」と思ったとして、「よし、じゃあいまから寝るぞ!」とはならないでしょ。それと同じで、「よし、じゃあいまから死ぬぞ!」とはならない、全く。というか、あの、これはちゃんと明記しておかないと誤解されそうなのできちんと書いておくけれど、精神状態が不安定なわけでは決してなく、というかむしろ健康で、普通に生きていたいんだよな。欠伸をする人の中にだって、ちゃんと起きていたいという意思を持っている人はたくさんいるでしょ。そうじゃない人もたくさんいるかもしれないけれど。それと同じで、だから、なんていうか、生理的現象に近い、というニュアンスかもしれない。自分の意思とは一切関係のない領域で発生する類のもの。希死念慮とも違う。明確な動機がないという点においてはアナロジーがあるかもしれないけれど、だって、別に全然死にたくなんてないから。死にたいな、と感じるその一瞬だけを切り取ったとしても、別に死にたくはない。矛盾してる? でも、寝たくなくたって欠伸ってするじゃん。それと同じなんだよな、だから。記憶が確かならこのブログに何度か書いたはずで、この現象について。その、唐突にやってくる死への誘惑、的なもの。いや、何度でも言うけれど、全然死にたくないからね、本当に。言葉が物騒だからよくないのかな。欠伸的な死とでも呼ぼうかな、緩衝材として。まあその、呼び方は何だって構わないのだけれど、とにかく欠伸的な死について。欠伸的な死は、鮮烈な郷愁とほとんど同タイミングでやってくる気がする。地震でいう P 波が郷愁で、S 波が欠伸的な死。鮮烈、と言ったけれど、感覚的には焦げるような感じかもしれない。何が、って……心が? 焦がすとか焦がれるじゃないのかよと自分でも思うけれど、でも、感覚としては焦げるのほうが近しい。心が焦げる。どういう意味? 分からない。分からないけれど、これだなって感じがする。なんか、燃えている感じがする。郷愁……ってどうなんだろう。自分にとってこの言葉は、視覚的なイメージとリンクしているそれなのだけれど、その視覚的なイメージが燃えている感じ。火災現場を想起しているという意味ではなく。牧歌的な風景であっても、なんだかそれが燃えているようにみえる、気がする。と言いながら、その風景って何なんだよと尋ねられると、答えに窮してしまう。思い出せないんだよな、これが、困ったことに。欠伸的な死に気を取られた瞬間に、それまでにみていた景色の一切を忘れてしまって。ふと我に返ったとき、手元に残っているのは強烈なノスタルジーと漠然とした死への欲求だけ、みたいな。そういうことがよくある、昔から、布団の上で微睡んでいるときなんかに。この先の未来、ずっと遠くのことでも構わないけれど、科学技術が SF かよってくらいまで発展してさ。どんな景色でも手に入るようになってしまったら、生きる意志なんてものは簡単に手放してしまえるようになっちゃうんじゃないかな、って思ったりする。郷愁に伴う死への欲求って、だから多分そういう類のものなんだよな。自分がそれを欠伸的な現象だと思えているのは、だから、その郷愁が決して手には入らないことを分かっているからなのかも。電車の中でなら欠伸の眠気に従って目を閉じる人だっているし、路上では所かまわず眠ってもいいという価値観が備わった社会でなら、朝日に釣られた欠伸にも目を閉じてしまう人がいるかもしれないわけで。現実世界では、少なくとも日本ではそうではないから、そんな人はどこにもいないけれど。決して届くことのない郷愁も、それでも届くようになってしまったら、人は本当に簡単に死んでしまえるようになるんじゃないかな、って疑い。それは、現在の自分たちが考える死の枠組みとはまた異なったものなのかもしれないけれど、でも、この世界を諦めるという意味では死と同義なのかも。そういうことを考える。そういうことを考えるのが、だから冬って季節なんだよな。星を眺めて「綺麗だな」と思ったり、「このままみえなくなればいいのに」と思ったりする。郷愁と欠伸も同じこと。自分にとっての冬はそういう季節。

 

 帽子を買ったんだよね。これは本当に珍しいことで、コートとかスニーカーとかならまだしも、帽子って別に必需品ではないじゃんか。あってもいいし、なくてもいい。でも、買った。思うに、自分が初めて能動的に服を買いに行こうとしたのって、三年前の一一月? と思ったら一〇月だった。あるいは、九月かもしれない。たしかに、あのときはちょっと早めに冬服を買いに行ったんだった。どちらかといえば、まだ夏寄りの気候だったような気がする。少なくとも自分よりは服に詳しい友人へお願いして、所望のコートを探しに行って、帰りには鴨川沿いを並んで歩いた。西側の、普段はほとんど歩かないほうの道を。懐かしいな。やばいやばい、このままだとただの回顧録になっちゃう。そう、そのコートを買いに行ったことには明確な理由があって、なんていうか、憧れ? それをうまく着こなしている誰かをみて、「いいな~」と思って、それで自分も着てみたくなって、だから探しに行った。そんなことない人からしたら分からない感覚だろうけれど、自分の中では、これはかなり珍しい心の動き方。少なくとも、ファッションという点においてそういった作用がみられるケースはほとんどなかった(それがあるなら、初めて能動的に服を買ったのが三年前の一〇月なんてことにはならない)。でも、どういうわけだかそれが起こって、急に。で、今回の帽子もそうだった。知り合いにめちゃくちゃ帽子の似合う人がいて、前々から「かっこいいな~」と思ってたんだけど。なんとなく潜り込んだ LOFT で黒のキャスケットが売られているのをみつけてから、そうでもなかったのに何故か欲しくなってしまった。まあ、LOFT では買わなかったけど。こういうのも変化って言うのかな、と思いつつ、ところでこれはかなり好ましい変化だなと思う。自己実現? 結局、内面と外面とのどちらを優先的に顧みるかって話だと思うんだけど、内面についてはもうこの二〇と数年とで散々やった分、綺麗になった部分ともうどうにもならなさそうな部分とがある程度は明確になってきていて。自分自身の思考パターンとか行動原理とか? 与えられた事象に対して、何をどう考えて、どういった行動を起こすのか、みたいなところ。は、それなりに分かっている状態というか。だから、綺麗な部分だけを他人に提供するのは、主観的にはそれほど失敗していないように思う。本当かな? まあ、一旦は本当ということにしておいて。翻って、外面ね。過去の自分にとって目下の急務は内面を片付けることだったわけだけれど、いまはそうでもないから。というので、外面のほうも気遣っていこうという、そういう話になる。内面がめちゃくちゃなときに外面のこととか考えてらんないもんな。ところで、いまはそうでもない。そんなこんなで帽子を買ったはいいのだけれど思いのほか気に入らなかった、……なんてことは全然なく、というかむしろかなりお気に入りの装備と化している。自分の外見に関して、良いとか悪いとか好きとか嫌いとかって考えたことなかったんだけど、帽子を乗せているときの自分はかなり好きかもしれない。2023 年、最も買ってよかったものの一つ。

 

 適切な処置を施せば多少は気が晴れるってことに気づいたけれど、それをやっているということ自体に嫌気が差す。理想の対極に向かって歩いていくような感覚。これだから、誰かのことを嫌いになりたくないんだよな。いや、人に限らず、自分以外の森羅万象。自分にとっては、嫌いなものなんて少なければ少ないほどよくて、だって、嫌いなものがたくさんある世界がどんなにつまらないかはもう十二分に知っている。あんな索漠に逆戻りなんてしたくないし、だから何のことも嫌いになりたくない。嫌なところに目を向けるよりは、それ以上に好ましく思える部分をたくさんみつけたいなと思うし。そういう風に生きていけたらきっと幸せだろうなって思うし。そういう自分でありたい、主観的にも客観的にも。これは、難しい。どうしようのないものはこの世にたくさんあって、たった一言、そのステートメントを受け入れるだけのことがこんなにも難しいなんて。どうしようもないって切り捨てて、それで自分自身は護られるけれど、じゃあ切り捨てられた部分はどうなるんだって。ああ、だから、本当にずっと同じことばかりを考えているんだな。夜を歩く。コンビニの煌々とした灯りに意識がいって、そのままなんとなく廃棄場に目が向かう。それと同じこと。棚の奥の愛読書や埃をかぶったぬいぐるみとは勝手が違う。だって、思い出の中と違って谷底には安寧なんかないし。魔女だっていないしね、この世界には。

 

 朝起きて、外へ出て、空をみて。それでも心が動かなかったら、それが最期だと思っている。逆に言えば、そのくらい単純なことだとも思っている。実際には、単純なものなんかでは全くないということを承知の上で。もっと色んな人のことを愛せるようになれたらいいのにって思う、本当に。

 

 

 

20231219


 相手のことを同じ人間だと思わない、という解決法があるらしい。それはまあ、おおよそ効き目の見込めそうな対応ではあるなと思いはするものの、少なくとも自分の特性に適合したそれではないような気がする。そこら辺、上手い人は上手いよな。相手の事情へ適度に興味を持たないというか、なんだろう、適切な無関心? でもまあ、上手いとか上手くないとかの話ではないな。生まれたその時点から、あるいは幼少期の環境なんかによっておよそ先天的に決定されていて、要するに自分ではどうしようもないもので。そう考えれば、誰も彼も同じ穴の狢だって気がして笑える。いや、全然笑えない。自分は、なんていうか、自分自身の特性を好ましく思っていて。相手の素性に興味を持つのがかなり得意なのだと思う、恐らくは。この特性のせいで昔は結構大変だったのだけれど(嘘で、大変だったのは自分の周りにいてくれた人たちです。自分は人間関係に恵まれすぎている)、そのおかげで仲良くなることのできた人もたくさんいて、いまでは損失よりも利益のほうが圧倒的に大きいから、だから好ましく思える。使い方次第ってことかも。間違った地図も壊れた拳銃も、どの部分にどういった不具合があるのかを正確に理解していれば運用上の問題はないわけで。ハンドル、あるいは操縦でもある。結局、自分自身の扱い方を学び続けているような気がする、この二〇年とちょっとくらい。そういうのを死ぬまでずっと繰り返していくのかな、と思う。なんかやだな。

 

 相手のことを同じ人間だと思わない、はほとんど不可能に近い。その点、インターネットってすごいと思う。だって、ほんのちょっと角を折れたら、その瞬間に無根拠な誹謗中傷の嵐だもんな。すごい、本当に。どんな世界観だよ。もしかしてこの世界って実は人間のふりをした人形しかいないのかな、とか。話は変わるけれど、変わっているようで変わっていない地続きの話題なのだけれど、可哀想って言葉がかなり苦手。なんていうか、シンプルに他者を見下しているから。憐憫とかもそう。勝手に決めつけるなよ、と思う。自分以外のすべての他人には個々の人生があって、歴史があって、人格があるわけで。なのに、そのすべてを一瞬で否定してしまうような、そのくらい強い言葉。絶対に使いたくない。使いたくない、んだけど。いや、でも、なんかなあ。可哀想だなって、思っちゃうな、申し訳ないけれど。これは自分がよくない、人として。最近、人としてよくないことを考えすぎていて、人としてよくないが口癖みたいになってきた。実際には発声しているわけではないから、なんだろ、考え癖? みたいな。勝者の理屈、それは解る。偶然の巡り合わせ、運がよかった、環境に恵まれていた。まあ、そう。その通りでしかない。お前は運がよかっただけじゃん。返す言葉がない。そりゃ勿論、ある程度の努力はしている。受験勉強だって自分なりには頑張ったし、音楽とか、人間関係とか、色々と。その全部を、運がよかっただけでしょ、と一括りにされたとして、まあおよそ気分のいいものではない。でも、それは他者にそう指摘された場合の話であって、自責の場合は別よね。というか、そういう自責の矢は持っておいた方が健全であるような、そんな気がする。運がよかっただけ。だから、可哀想だとかって言葉は絶対に使っちゃいけない。と、思うんだけど。想像力の欠如とかじゃないんだろうな、ってようやく分かってきた。自分の手元にない、誰かの手元にはあるもの。そういう何かを認めることができない。救済とか、努力とか、気遣いとか、愛とか。同じ穴の狢。たしかに。多かれ少なかれ誰だってそうなはずで。でも、みんなどうにかこうにかでバランスをとっていて。一方で、それが崩れてしまった人もいて。それを指して可哀想とかっていうのは、やっぱり間違っていると思うけれど。でも、他の誰かを傷つける方向に足場が崩れてしまった人は、可哀想だなって思ってしまう、どうしても。だって、きっともう誰も助けないようとはしないでしょ、そうなったら。自分たちには自分たちの人生があって。貴方がそうであるように私もまた。向こう側を見下ろして、でも自分は傷つきたくないからって。運がよかっただけなのにな。

 

 谷底のことなんて考えなきゃいいのにな。向こう側の吊り橋なんて放っておいて、自分は舗装された道の上にいるんだからそれでいいじゃんって。そこまで簡単に割り切れる人はそれほど多くないだろうけれど、でも、割り切ったふりくらいはせめてできる人間でありたかったな。これは本当にそう思う。それさえできれば、あとは時間だとか記憶だとか、そういうどうしようもない構造がきっと何とかしてくれるだろうし。でも、なんていうか、そういう自分が何よりも嫌いかもしれないな。なりたい自分像とかは特にないけれど、なりたくない自分像なら思いつく。他者を切り捨てることに躊躇のない人間。じゃあ、どうすればいいわけって、そういう話になるよね、結局は。

 

 相手の気持ちが分からない人だっている。それはまあ、そう。責任能力のない人だっている。それもまあ、わかる。四方から追い込まれていてどうしようもないだっている。わかる。話の通じない人だっている。いるよね。わかる、わかるよ。全人類と仲良くなろうだなんて別に考えてもいないし、そりゃまあ、そうなれたらもっと楽しくなるだろうけどね、人生。でも無理でしょ。デジタル街の路地裏に一歩でも踏み込めば学べること。でもなんか、ああいう人たちも家ではぐっすりと眠って、朝食を食べて、学校や職場へ行って、それなりのことをして、クラスメイトや同僚と話をして、帰って、シャワーを浴びて、テレビを観たりして、そしてまた眠ったりしてって、そういう普通の生活をしてるのかなって思うと、なんていうか、なんていうか。残酷だよな。結局、全部が全部他人事でしかない。関係なさすぎるでしょ、だって。誰かに向かって石を投げた後の手で、また別の誰かを助けたりしてるかも、とか。考えたくないな。考えたくないわ。

 

 免罪符にはならないだろ、と思う。相手の気持ちが分からないから。責任能力がないから。追い込まれているから。話が通じないから。だから何? だから何なんだよ、としか思わないし思えない。同じ穴の狢、運がよかっただけ、だったとしても。ああ、いや、だから、相手のことを同じ人間だと思わないって解決法が出てくるわけだよね。犬に吠えられたからって怒ったり、雨に降られたからって天気を恨んだり、普通の人ならそんなことはしないもんな。いや、でも、人間でしょ。どれだけ話が通じなかろうが、人の気持ちが分からなかろうが、家ではぐっすりと眠って、朝食を食べて、学校や職場へ行って、それなりのことをして、クラスメイトや同僚と話をして、帰って、シャワーを浴びて、テレビを観たりして、そしてまた眠ったりして、そういうことをしている人間でしょ。怒るし、泣くし、嬉しいし、悲しいし、痛いし、傷つくし、同じ人間でしょ。違うなら違うって言ってくれたらそれはそれでいいけど。こっちは向こう側の吊り橋を人間だと思ってるわけ。昔、人に「君は他人に期待しすぎ」と言われたことをずっと覚えていて。いや、これ自体は本当にその通りだと思っていて、自戒ではないけれど、なんというか、悪い意味ではなく、ある種の指針として記憶していて。まあ、実際そうだと思う。期待しすぎ。相手が自分と同じ人間であることを期待しすぎている。でも、さあ、なんていうか。なんていうか、でしかないや。

 

 本当に意味が分からない。理由があれば、特定の個人の死を願ってもいいの?

 

 最近、ずっと楽しくないな。家にいても外にいても誰といても。もちろん楽しい瞬間はたくさんあるのだけれど、ふとした隙間に思い出して嫌な気持ちになる。朝に目が覚めたときとか、電車に揺られているときとか、階段に躓いたときとか。誰かと一緒にいればまだマシで、でも道を調べているときとか、自販機に向かった相手を待っているときとか、本当にたった少しの隙間なのに。そういえばブログに残したんだっけと思い出して開いてみたら、八月くらいの出来事だと思っていたそれはずっと前のことだった。そんな前だったんだ。この一年をかけて少しずつ、本当に少しずつだけれど、嫌な感情が徐々に蓄積されていって。最初はなんてことなかったのに、いまじゃとてもじゃないけれど手に負えない感じになっている。賭けてもいいよ、絶対に覚えてない。ストレス発散に枕を殴るのと同じで、意味もなく他者の死を願ったりするらしいから、人って生き物は。自分の発した言葉も忘れて、平気そうな顔でへらへら笑って。呑気だよね、ほんと。

 

 人を呪わば穴二つ、らしい。日々が楽しくないのって、だから結局はそういうことなんだろうな。健全じゃないし、それに人としてよくないよ、どう考えても。というか、どうなればいいのかも分かんないし。どうなればいいだろう。どうなればいいんだろうね? 少なくとも、奇跡じみた出来事が起きてほしいとは全く思わない。これ自体、精神が健康じゃない証拠と言われたら、それはまあそうかもしれない。

 

 幸いなことに、自分の周囲には素敵な人たちがたくさんいて、だからまあ大丈夫かな。それにどうせあと一年くらいで終わるんだし、このまま放っておいても遅かれ早かれなんとでもなる。向こう側の吊り橋はそのうち見えなくなって、自分と同じ方角へ歩いてくれる人たちが少なからずいて。擦り減った踵はそのままかもしれないけれど、でもまあ靴なんていずれはどこかで買い替えられるだろうから、その日までの辛抱で。とか。最悪。そんな人間にだけはなりたくなかったのに。