20240518

 

 時間旅行者のキャンディボックスを買った。

 

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 自分の好きなものを、綺麗だと感じるものを他者と共有したいという自然な欲求は、当然ながら自分の内側にも一定の質量で存在していて。ただ、そこには期待があってはならないのだと思う。自分にとって、手紙というものは常に一方通行であって。それを誰かへ手渡すことは、その言葉へのレスポンスを求めることと同値では決してない。返事なんか来なくたってよくて、ただそれが彼ないしは彼女の手元へ届きさえすればいい。良いとか悪いとかじゃなく、これはもうどうしようもない領域の話として、どうしたってそういう風に考えてしまう癖が自分にはある。だから、自分の好きなものの話を誰かへ伝えることにあまり躊躇いがない。それはあくまで自分にとっての好印象というだけであって、いま眼前に対峙する他人がその印象を受け入れようが受け入れまいが、あるいはそもそも見向きさえしなかろうが、自分にとってはさほど大きな問題ではないから。もちろん、だからって誰彼構わず手あたり次第に話をするわけじゃなくて。この人ならこれを気に入ってくれるかも、くらいの推測と、思惑と、そして、それらと等量未満の期待がある。期待しないのは無理、人間だから。本当に返事なんか来なくていいと思っているなら、そもそも手紙なんか出す必要がない。それでも、誰かに言葉を、文章を、自分の内側にある何かを届けようと思うのは。そういうささやかな魔法の存在を、きっと誰だって信じていたいからだよな、と思ったりする。

 だけど、というよりは、だから、なんだろうけど。だけど、だから、却って何も話せなくなることがある。自分にとっての特別を他者と共有するという行為を、逸脱を躊躇う瞬間がある。そんなのは誰にだってあるはず、閾値が違うだけで。自分は、たとえば空が好きで。一昨日の夕焼けはとても綺麗だった。雲に滲んだ茜の色が街の一面に零れていて、子どもの頃にみる夢みたいな水彩のビル群に囲まれて。橙と藍と赤紫と、遠くに鈍色の雲。複雑な空に跨がった橋を歩きながら、ふと、海へ行きたいなと思った。電車で 30 分もあれば行ける。そういう場所にいるから。でも、いまから行っても向こうへ着くときにはもう日は暮れちゃってるんだろうな、とか考えて。あとは、どうしようもなく眠かった。言い訳ばかり上手くなる。結局、いつもの電車へ乗って、目を閉じて、気がついたら終点で。そしたら、海へ行きたいと思っていたことなんて、こうして文字に起こすいまこの瞬間まで忘れてしまっていたけれど。でも、海である必要はない。別に、河だっていいんだよな。鴨川とかね、ちょうど近くにあるんだし水辺であればいい。水の音が好きなんだよね。あと、星も好きだし、冬も好き。だから、真冬の夜の川辺には自分の好きなものがすべてある。空、水、星、冬、全部。本当に全部がある。そこに、たとえば一人ぼっちで突っ立っている自分を想像してみるとして、それは寂しいものだろうか? 『ひとりきりは寂しいって言うけどさ じゃあ、孤独じゃない人間なんて何処にいるんだろうね?』。……孤独ではあっても寂しくはないな、と思う、自分は。孤独ではあっても寂しくはない。孤独と寂しさは全然違う。世界に自分だけしかいないと錯覚するような孤独が堪らなく嬉しい夜があれば、好きな人たちに囲まれて、なのに名前のない寂しさを覚える帰り道だってある。真冬の夜の川辺に自分が一人で突っ立っているとして、じゃあその隣に誰かがいてほしいか? 場合による。状況による。文脈による。相手による。気分による。体調による。予定による。そんなケースバイケースは当然だけれど、ただ、これまでの自分からまっさきに想定されるものを答えとして挙げるなら、自分は、たぶん、どちらかというと一人でいたい気持ちのほうが大きいかもな、と思う。難しい。難しいんだよ、冬の夜って。ものすごく孤独と近い。だってそもそも冬は死に近い。死とは究極的な孤独であって、だから冬はものすごく孤独と近い。誰にだってそういう場所や時間があるのだろうけれど、自分にとってはそれが冬で、夜で、水辺で、という話。孤独の近くに他人がいてほしいか? いてほしいときもある。でも、そうじゃないときもある。そして、そうじゃないときのほうがずっと多い。愛とは、他者の孤独を自身のものとすること、……だっけ? もうあまり覚えていないけれど、たしか以前読んだ本にそんな感じのことが書かれてあったようななかったような。だとして、どうだろう。自分は、自分の孤独をはたして他者に受け入れてほしいと思っているのか? 場合による。この件はもういいや。でも、そんなことないかもなって気持ちのほうがやっぱり強いかな、どうしても。冬の夜の川辺、隣に誰かがいてほしいか? いると嬉しいかもしれない。話が弾むかも。温かい飲み物を買ってみたりして、寒いねって笑いながら。吐息は白く解けて、耳の縁のほうが痛くなって、冬だなあって思って、隣の誰かに相槌を打って。そういう幸せだって十分に考えられるし、それを幸せだと判るだけの材料も揃っていて。でも、どうなんだろうな、と思う。冬の夜の川辺には、やっぱり自分は一人でいたいのかもしれない。自分にとっての孤独はこういう形であって、その領域を無遠慮に侵されたくはない、……と思う。空も、水も、星も、冬も、全部。そういう一切合切の在処を、だから、他人へ伝えることを躊躇ってしまう。これは期待なんかじゃない。不信でもない。空だったり、水だったり、星だったり、冬だったり。そういったものを、自分にとっての大切を、自分と同じくらいには繊細に扱ってもらえないという可能性がどうしたって捨てきれないから。期待じゃない。期待なんかそもそもしていない。不信でもない。信用だって端からしていない。結局のところ、自分が自分であるということだけが重要なのであって、他人のことなんて二の次で、自分はそういうしょうもない人間で、だから一人になりたい瞬間がいまだってずっと多くて。ふと海へ行きたくなるのだって、だから、出処はまったく同じなんだよな。

 

 For the GHOSTs に触れた。何も言いたくない。傷つきたくないし、嫌いになりたくもない。ただ、これを生み出そうと考えて、時間と心、あるいはその両方を削った人がこの世界のどこかにいて。そして、その結晶がいま自分の手元にあるという事実。それはゲームという媒体に限ったことじゃない。映画、小説、漫画、テレビ番組だってそうだし、自分の領域で話すなら音楽だってそう。なんなら、娯楽に限った話でもない。家電、小物、楽器、教科書、手帳、指輪、踏切、宇宙船。資本主義のレイヤーに留まったっていいけれど、でも、この世界に在る自分自身以外の一切は、誰かが何かを願い、大なり小なりの命を文字通りに削って生まれたものであるという事実には何も変わりがなくて。要するに、そんなのは当たり前のことで。だってそうでしょ。当たり前のこと。当たり前のことなんだよ。でも、そんな当たり前のことを思うだけで、なんていうか、とても胸が締め付けられる。分からない。制作者の意図なんか知らないし、自分が勝手にそう思っただけでしかないし。だけでしかない、のだけれど。これを生み出そうと考えて、時間と心、あるいはその両方を削った人がこの世界のどこかにいて。そして、その結晶がいま自分の手元にある。そんな当たり前のことが、なんだか、あるいはとても奇跡的なことのように思える。思えた。そのくらいに素敵だった。

 こういった感情面での衝動を、直接、特定の個人へ伝えることは難しい。冬の夜の川辺に一人でいたいのと同じで、傷つきたくないし、嫌いになりたくないから。だから、こういう不特定多数の目につく、それでいて物好きしか訪れないような場所へひっそりと残しておくことにする。

「印象に強く残っている作品は?」と訊かれる。記憶の本棚からいくつかの断章を取り出して、なるべく綺麗に並べ立てようとする。そのとき、自分は恐らく、今後ずっと、死ぬまでの間、その何番目かにこの名前も挙げることになるんだろう。確信とかですらない。だって、実際にそうなるのだろうから。波の音は元々好きだった。でもきっと、それが意識に介入するたびに思い出す。金木犀の匂いは知らない。これはラベル付けがなされていないだけであって、どこかで知ってはいるんだろうけど。紅茶に触れてみるのもいいかもしれない。実はアールグレイ以外の紅茶を飲んだことがない。グラハム・トーマスならみたことがある、夜の調べも。ブルーグラビティは知らなかった、一度くらいみに行きたい。でも、いきなり全部をやるのは難しいし、それにきっとできないだろうから。だから、時間旅行者のキャンディボックスを買った。孤独の形が人それぞれであるように、物事への向き合い方も十人十色であって。その中で、自分はこういう結末を選んだという。これは……だから、これ自体が手紙なんだよな。別に、誰に宛てたものでもない。返事なんか来なくていい。そういうものじゃない。これは、だから、自分のためだけのものでしかない。本は一週間後、土曜日には届く。

 

 

 

20240501

 

 突然ですが、MIRINN 5th Album "ステラチャート" がリリースされました。マジ気合い入れて作ったので、よかったら買ってやってください。

mirinn.bandcamp.com

 

 

 以下、どうだっていい話。

 音楽を続けることって全然当たり前じゃなくて。より一般的な話をするのなら、明日も今日と同じように生きていけることって全然当たり前じゃなくて。一人でだってそうなのに、六人となれば尚のこと。いつまでも続くものなんてないし、いつか終わってしまうものばかりだし、この世界は。自分も、MIRINN だってそうで、そうなはずで。それがいつのことなのかは知らないけれど、でもまあ、どこの誰が何をどう願ったところで最後の瞬間は一方的に訪れるもので。こればかりはどうしようもない。終わるものは終わる。それは仕方のないこと。でも、なんていうか、だからこそ、自分たちが自分たちでいたことの意味、……みたいなものを常に問い続けていたいというか。結局何だったの? っていう。別に終わったっていいんだよ。これは心の底から本当にそう思う。本当はいつ終わったっていい。何もかもが終わってしまっても、それを続けてきたことの意味が自分の中にあればそれでよくて。失くせないもの。そういう灯りみたいなものが、たった一つでも手の中にあればそれだけでいいんだよな、本当は。

 意味なんてない、はじめから。たまたま同じ場所に居合わせただけでしかないし、たまたま一緒に音楽をやることになっただけだし、そこに必然だとか運命だとかってドラマチックが介入する余地は一切なくて。偶然。ただの偶然でしかない。でも、偶然だよねって簡単に割り切ってしまうことを躊躇うくらいには、ずいぶん遠い場所まで来てしまったような、そんな気がして。だから、自分なりの答えを一度くらいは、きちんと形にしておきたかったというか。リスティラはすべての起点だけれど、でも、そこにいるのは自分たちじゃなくても、本当は誰だってよかったから。だから今度はちゃんと、自分たちでないと意味を成さない音楽をやりたいとずっと思っていて。あの日、ステージ上で演奏された未完成の春。ステラグロウと、それらを受けてのリスティラ。ステラチャートという楽曲がそのすべてに対するアンサーであるというのは本当にそうなのだけれど、でも何よりも、MIRINN という場所そのものへのアンサーなんだよな。自分なりの、自分のためだけのアンサー。マジで独善。でも、それが創作ってやつだよな~と思う。そもそも誰かのために何かを生み出すことなんてできないし、生まれてくるものは全部が全部、自分のためのものでしかないじゃんか。でも、そうであっても、そうして出来上がった何かが誰かのためのものにもなったならそれは素敵なことだなって、そう思うし、そうなってくれたらいいと願いもする。誰かの夜に届けばいいって、それこそ流れ星に祈るように。だけどそれもまた、創作とかいう悪魔に宿った奇跡の一つなのかもしれなくて。そんな魔法の在処を信じていたいし、そんな魔法がこの世界には溢れているということを忘れないでいたいな、とも思う。

 

 MIRINN という場所に自分は、意味とか、言葉とか、喜びとか、言葉じゃ足りないくらいたくさんのものを貰っていて。だからもう、ただ偶然集まっただけの六人です、って感じじゃないんだよな、もはや。替えなんていくらでも利くし、こんな世界にとっては、いまこの場所に立っているのは自分たちじゃない別の誰かだって構わないのかもしれないけれど、でも、だけど、そういうことじゃない。そういうことじゃないんだよな、って。そう思う。そう思います。

 

 

 

20240327


 来週から生活スタイルが緩やかに変化するということで、今年度(正しくは来年度だけど)の目標をとりあえず思いつく限り書いてみる。なんというか、いや、別にこれまでの自分のスタイルが貫けなくなること自体は構わないのだけれど、それにしたってなくせないものの一つや二つくらいはあるだろうという話で。そういうものをとりあえずリストアップしておく。まあ、なくしてしまったらなくしてしまったで、そのときはこのリストを思い出せばいいか……みたいな感じで。

 

 

○ 歩く

 歩くことをやめてはいけない! 決して比喩的な意味ではなく、徹頭徹尾物理的に。そりゃまあ、歩くのしんどいな~と思う日はまあ少なからずあるだろうけれど、そうであっても、そんな日がマジョリティを占めるようになってはいけない気がする! これは健康面での話とかではなくて、いやまあ、そういう側面もなくはないけれど。とはいえ、これは単純に、自分の生活がもはや散歩ありきのものになってしまっているから、というだけの話。これを捨てた後の生活を想像することができないし、そうなってしまってはいけない気がする。そういう意味で、歩くことをやめてはいけない! と思う。これはかなり緊急度の高い目標。

 というので、とりあえず四月の間は週平均 5km、月平均 6km の歩行をそれぞれ維持することを目標にする。まあ、どうだろう。これまでの生活を振り返ると週平均 9km 前後くらいなら普通にいくので、かなり抑えめに見積もっての目標ではある。ところで、いきなり高い目標を設定すると大変だし、というより、最大の目的は散歩というルーチンワークを維持することにあるので、達成難易度はほどほどに低いほうがいいだろう、という算段。本当に、これだけはなくしたくない。

 というか、シンプルに末永く健脚でありたいという気持ちもかなりある! いつまでも散歩を通じて世界を楽しむことのできる人生でありたい。

 

○ 深夜徘徊をする

 深夜徘徊をやめてはいけない!! これはもう本当にそうで、少なくとも月に一回は深夜徘徊をする。無人の駅へ行く。寝静まったブランコに乗る。大学生の騒いでいる鴨川デルタを睨みつける。夜と仲良くなる。月に一回は絶対にこれになる。

 

○ 自炊をする

 自炊をやめてはいけない、……ことはない! 別にやめてもいい。やめてもいいんだけど、これはなんていうか、なんだろうな。家へ帰ってきて、なのに食事を作る気力も残ってないみたいな状況を避けたい、という意味合いのほうが強い、……かもしれない。将来的に、体力は次第に衰えていくはずで、であればいまこの時点で帰宅→自炊の流れを定着させられなかった場合、この先に待っているものってあまり良い結果ではないような。というので、これは努力目標の範囲で構わないのだけれど、家に帰ったら自分で自分の晩御飯を作る、という習慣を身に着けていきたい。これはもう、何とかしようという意思を以て何とかするしかない。本当に病気にだけはなりたくない!

 というので、なるべく自炊をするぞという気持ち。

 

○ 日付が変わるまでに寝る

 平日は日付が変わるまでに寝たほうがいい! と最近思うようになった。ところで、それをするとショートスリーパー人格のせいで深夜二時とかに目が覚めることがある。助けて~。

 さっさと寝てしまって、朝起きてから家を出るまでの間に作業をしたほうが断然効率がいい、という話でもある。普通に考えて、日中動いて疲れ切った夜より、いちど睡眠を挟んだあとの朝のほうが集中できるし。あと、「まだ寝たいけど、そろそろ家出なきゃ~」みたいなのが本当に嫌! だって、寝たいときに寝たいし。たまーにめちゃくちゃ眠りの深い日があって、そういうときに遅寝早起きを強いられると本当に苦痛。全然起きるけどさ。起きるけど、嫌なものは嫌。というので、そのリスクヘッジも兼ねて、さっさと寝たほうがいい! というか、ここ一ヶ月くらいの生活習慣は実はそんな感じになっていて、明らかにこっちのほうが生活を回しやすいような気がしている! というので、これの継続は目標のひとつ。

 

音ゲーをする

 音ゲーをやめてはいけない! いけなさすぎる、あまりにも。と言いながら、実は大学へ入ってから三年間くらい、何の音ゲーにも一切触れていなかった時期があるのだけれど、いまはもう毎週のようにやっている。ところで、これがかなり自分のメンタルケアによい効果をもたらしていそうという気が薄々している。音ゲー、成長するしな。いいスコア出たら嬉しいし、昔の自分より上手くなってるな~って実感したら嬉しいし、なにより、音楽に合わせて何らかの動作をするのはシンプルに楽しい! というので、週に一回は音ゲーのできる人生でありたい。あってくれ~。

 

○ 映画を観る

 月に一作は絶対に映画を観る! できることなら映画館へ行きたいけれど、……どうだろう。果たして自分がそこまでするかなあ、という気はするし、三ヶ月目くらいで面倒になってそう。ところで、映画館の音響は映画館にしかないので、映画館で映画を観たい気持ちは存分にある!

 小説とかもそうだと思うけれど、創作の摂取ってどうしたって時間との勝負になるから、だから若いうちに触れられるだけ触れておきたい……という気持ちがある。ただでさえ、自分はこれまで映像作品の類に触れてこなかったので……(もったいない)。

 

○ 人間関係を維持する

 これはかなり難しい! なぜなら、人間関係は放置していると自動的に疎遠になるため。いや、放置って言い方はよくなくて。なんというか、お互いの時間の共通部分が減ると、当然ながら交流頻度も同時に減っていって、結果的に疎遠になるというのが正しい。誰も何も悪くない。ところで、これは本当にもったいない。というか、自分の中の人生観にあまりにも反している! 色んな人の話を聞きたいというのがそもそもの根底にあり、そのためには人間関係を維持する必要があり……ってそんな義務的なものでもなくてさあ。もっとポジティブに、何の特別感もなく仲の良いままでいたいなと思う、様々な人たちと。そして、これは自分の側に努力の余地が多分にあり、なのでなんとかする。なんとかするしかない!

 

マインスイーパーをもっと上手くなる

 別にマインスイーパーじゃなくてもいい! マインスイーパーじゃなくてもいいんだけど、現状、マインスイーパーがいちばん上手くなりたいのでマインスイーパーを挙げておく。いや、これは本当に何でもよくて、とにかく、自分が無心で打ち込めるものを一つ持っておく、という意味。無心というのは多分あんまり辞書通りじゃないんだけど、その、締切とか、クオリティとか、点数とか、評価とか、そういうのと全然関係ない領域にある何かを一つ持っておくという意味! 自分にとってのマインスイーパーはマジでもう純粋に、いかに早く解けるかという自分との勝負でしかない! なので、表題の文言は、自分自身と勝負し続ける、と言い換えていいのかも(本当に?)。

430時間?

 

○ ブログを続ける

 ブログをやめてはいけない! このブログの更新が止まるのは、はてなブログのサービスが終わったときか、インターネットが滅んだときか、自分が死んだときか、世界が滅亡したときかのいずれかです。誰が読んでいようと、誰に読まれていなくとも、自分だけの言葉で何かを記述するという営みを放棄してはいけない! という気持ち。これは「歩く」と同じくらい緊急度が高い目標。なのだけれど、この目標が達成困難になるというビジョンがあまりにみえなさすぎて、最後の最後まで出てこなかった。

 

 

 以上! というわけで、米が炊けたのでいまから炒飯を作ります。

 

 

 

図書館、灯台

 

 自分のことをある程度知ってくれている人からすると、何を今更、という話かもしれないけれど。という前置きから始まる、あまりにも今更すぎる話として、地位とか名声とか、いわゆる出世欲? みたいなのが全然ない。全然ないというのは、なんだろ、将来的にそうなりたくないみたいな、そういう話ではなくて。自分の未来にそれがないかもしれない、と考えたとして、そうであってもある種の不安感に襲われるようなことがほとんどない、というのが正しいかもしれない。そりゃまあ、地位とか名声とか、あればあるだけいいのかもしれないけれど、いやでも、別になくてもいいかな……っていう。お金は……、生きていく上でどうしたって必要だから、それについては一定の不安が残るけれど。だからって、億万長者になりたいわけじゃないしな。と考えを進めてみると、自分が本当にやりたいことって何なんだろう、という、これもまた今更すぎる問いに対して向き合うための、その取っ掛かりくらいにはなるのかな、と思う。いや別に、それをいままでやってこなかったってわけじゃなくて、というか多分誰だってそういうのを無意識的にやっていて。ただ、明確に(言葉で)意識したことはそんなになかったかも、という話。とまあ考えてみると、家庭とかも、なんていうか、別にあれだなってことに気づく。どうでもいいというわけではないけれど、でも、自分の未来にそれがないから何なんだって気持ちはかなりあるな……みたいな。全然ないっていうのは、だから無関心の一種ではあるのだけれど、ところで無関心の一種でしかなくて。論争の種になりがちだけどさ、その、関心と無関心とを対比させるときって。要するに、関心と無関心とのいったいどの部分を対比させているのかという話ね。関心って、まあ、大きく分けて二つの要素があると思っていて、具体的には高校数学で習うベクトルなんだよな(ところで、現行過程ではベクトルは数Cに飛ばされたね)。向きと絶対値。向きを対比させると、いわゆる好きと嫌いとの対比になって。絶対値を対比させると、いわゆる関心と無関心との対比になるんだよね。今回は後者。だから、冒頭に書いたように、将来的にそうなりたくないとかいう話ではなく、その有無が自身の精神にそれほど影響を及ぼさないという話で、そういう意味で無関心ではある。ところでまあそもそもの話として、自分自身、未来の出来事に対して無頓着がちという傾向があるなとは思っていて。良くも悪くも。極度に悲観的になったりはしないし、一方で過度な楽観に根拠があるわけでもない。ざっくり言ってしまうなら、未来に期待なんかしていないというだけの話なのかもしれないな。これまた、良くも悪くも。

 

 じゃあ、自分にとって大切なことって何だろうなと考えてみて。つまりは、自分の未来にこれが欠けていたら……と考えると不安で仕方のないものって何だろうなと考えてみて。その一点を突き詰めると、最終的には、図書館になりたいんだよな、という結論へどうしたって行きついてしまう。図書館になりたい。意味は通らないけれど、間違ってもいない。音楽はまあ……、別に続けてなくてもいいや。いや、続けていてほしくはあるけどね、未来の自分に勝手なことを願うなら。ところで、なにか一つだけしか選べない状況にあるとして、当然のようにぎりぎりまで迷って、そして最後には道端に置いていくような、自分にとってはそういうものであってもいいとは思う。よくないんだけどね、全然。よくないけど、でも、そういう選択もあるのかなと思いはする。ところで、ところでなんだよな。ところで、図書館になりたいという欲求は捨てられないかも。図書館になりたい。より嚙み砕いて言えば、自分以外の一切を記録する場所でありたいんだよな。場所であることは一つのポイントで、カメラとかパソコンとか、そういった装置めいたものになりたいわけではなく。なんていうんだろうな。個々人が所有するような類じゃなくて、もっと大きな、万人にとって開かれている場所になりたいというか。それでいて、様々な記憶を保有するような。それってつまり図書館だよな~っていう。博物館とかはちょっと違う。あれは、既に潰えてしまった歴史を保存する場所だから。そうじゃなくて、いまこの瞬間を生きている人だったり物だったり景色だったり、そういうのを記憶していたいんだよな、たぶん。それが自分の未来に欠けているとしたら、……まあ、嫌だな~って思うかな。色んなものを記憶したいとは言ったけれど、別に、ずっと近くにいたいわけじゃないんだよな。比喩として図書館を選んでいることからもわかると思うけれど。週一で飲みに行きたいとか、そういう話では全くなくて。というか、別に全然会えなくたってそれはそれでよくて。なんていうか、そういった部分までを含めて、だから全部を記憶していたいっていう。その、もう全然会わなくなっちゃった人のこととかを忘れたくないっていうのは、まず間違いなくあるし。それは、自分にとっての図書館の一側面。自分だけが覚えているのでもよくて。約束は誰かと作るものらしいけれど、でもまあ、片方だけが持っていたっていいじゃんか、それはそれで。だから、その、なんていうんだろうね。言葉にしてみれば別にそんなつもりもないんじゃないと思いはするけれど、どこかの誰かが約束を忘れたときに、その存在を思い出すことのできるような場所でありたい、が一番近しいのかもな。そういう場所でありたいし、そういう人間でありたいし。それが、だから、図書館になりたいって欲求の本性かもしれない。とまあ、ここまで書いてみれば、これまでの自分がだらーっと書き続けてきた歌詞と照らし合わせてみて。……まあ、ずっと同じこと言ってんな~って気持ちにもなる。いつからなんだろうね、こういう風に考えるようになったの。間違いなく、大学入学以降のことだとは思うのだけれど。でもやっぱり、そういう人間でありたいな、少なくとも自分自身は。色んな人とかものとか景色とか、そういうのを記憶しておいて。それで、どこかの誰かがそれを失くしてしまったら、その在処を伝えてあげられるような、そういうものになりたい。なりたいわ。というか、だとすれば図書館じゃなくて灯台でもいいのかも、とは思った、いま。真っ先に思いついたのが前者だったというだけで、自分の中では、どちらも全く同じものの象徴ではあるわけだから。

 

 

 

20240310

 

 なんとなく秘密にしておこうかと思ったのだけれど、ということに特別な理由はなくて。まあなんというか、なにかと不定な人間のほうが面白いかなと思って。これは知っている人にだけ伝わればいい例えだけれど、影縫さんとか忍野メメとか、ああいう立ち位置のキャラクターにものすごく憧れるというか。カッコいいな~って思う、普通に。ところで、だよな。有体に言って、本意でないんだよな。その、自分の不定性がどこかの誰かを心配させる要因になっているかもしれないという可能性そのものが。考えすぎ? あるいは自己中心的すぎるかも。でも、なくはない可能性だよな、と思う。というか、何回か訊かれたことあるしな、実際に。その全部がまあ、なんというか、深刻な心配に由来するものと受け取るほどの自分勝手もないけれど。それにしても、と思う。皆無というわけでもなさそうな雰囲気を感じ取ってはいる。というので、隠しておくってのもなんか違うよな……と思う、思った。さっきから何かを思いすぎだろ、同一単語の濫用は避けようね。話を戻すと、だからといって大々的に公言するようなものでもないから、というので、こんなブログなんかにしれっと載せておくことにする。便利だねえ、こういう場所があると。

 

 塾講のアルバイトをやめた。正しくは、まだ契約期間内ではあるのだけれど、とはいえ二月内に後の担当者へ一切を引き継いだため、実質的に三月はもうないようなものとなっている。件のバイトは自分が学部二回生のとき、当時付き合いのあった先輩に誘われて入ったのが最初で、それからなんだかんだ六年も続けてしまった。学生バイトではあるから、六年もいたら最年長なんじゃないかと思われるかもしれないけれど、実はそんなことなくて、自分よりも歴の長い人がまだ上に二人いた。結局、バイト先の人とはあんまり仲良くなれてないな。そもそも話をする機会がそんなにないからあれなんだけど。改めて振り返ってみると、めちゃくちゃ良い労働環境だったなと思う。そりゃまあ、行きたくないな~と思う日もないではなかったけれど、とはいえ、かなり前向きな気持ちで続けられたかな。少なくとも、本気でやめたいと思ったことは一度もないはず。六年も続けていれば色んな生徒に出会うというか、そもそもの話、自分が勤めていた場所はちょっと特殊で。簡単に言うと、何らかの事情で全日制高校に通っていない(通えない)高校生を相手に仕事をしていた。というので、単純に高校生の相手をするという場合よりも、ずっと色んな話を聞いたんじゃないかなと思う。もちろん、自分はそっちの道を通っていないので、想像の上でしか比較はできないのだけれど(まずもって比較自体に意味がないのだけれど)。なんていうか、案外普通なんだよね。あんまり想像の外にはないというか、その、やっぱり自分が不登校とかを経験せずに育ってきてしまっているから。だから、そういう環境にいる(ことを選んだ/選ばざるを得なかったに問わず)子たちのことを、なんていうか、ズレた視点からモデリングしてしまいがちになるのだけれど、でも、実際に当人たちと接してみると本当に自分の、高校生当時の自分とほとんど同一の延長線上にあるというか。そんな感じがしていた、六年間ずっと。もちろん、まあ、大なり小なりの事情があっていまこの場所に来ているわけだけれど、なんか、なんていうんだろうな、こういうの。そのことを悪い意味で特別視するのはなんか違う感じがしたというか、うーん。誰だってそうだよ、ってたぶん一番言っちゃいけない言葉だし、だから言わないし、言いたくもないけれど、でも、誰だってそうだよ、と思いはする。あるいは、誰だってそうだよ、っていつか心から思える日が来たらいいね、と思いながら話していた、他人事のように。自分事じゃないから他人事なのはそりゃそうなんだけど。人間、というと主語が大きいけれど、でも人間、誰だって得意なことと苦手なこととがあって。たとえば、自分は部屋を片付けるのが苦手だし、約束の時間を守るのも苦手。それが得意、……ってのも違うか。得意とかじゃなく、何の苦労もなしにこなしてしまう人だってこの世にはたくさんいるのだろうけれど、でも、たぶんそういう人たちだって苦手としていることがあるはずで。そして、その中のいくつかは自分が何の苦労もなしにこなしてしまえるものなんだろうな、と思ったりする。当たり前の話すぎるって思うよね。そう、当たり前の話すぎるんだけど、とはいえやっぱり高校生くらいまでの頃って、もちろん早熟な子もいる一方で、どうしたって考え方が自己中心的であってしまうというか。これはいわゆる自己中とかの意味ではなくて、原義通りの自己中心的、あるいは天動説という意味で。だって、触れることのできる人間の数が限られてるもんね。インターネットが普及してそんなこともなくなったのかもしれないけれど、でもやっぱりインターネットを介して接するのと生で接するのとだとコミュニケーションの質が(どっちがいいとか悪いとかではなく、単純な話として)違うわけだし。自分という人間のライブラリは日々増えていく一方で、自分でない他者に関する情報はあまり蓄積されないがちな年頃というか、そういう意味で自己中心的。これが、だから大学へ入ったり就職したり、よりもっと多様な人間関係を構築できる(せざるを得ない)環境へ移ったらまた話は変わるよねと思うのだけれど、でも高校生の頃は(一般には)そうじゃないし。というので、難しい時期だよなって思う。そういう状況にある誰かへ向かって、もうその場を脱した側である別の誰かが、誰だってそうだよ、だとか言ったところで何になるんだろう。何にもならないよね、別に。人は一人で勝手に助かるだけ、らしい。本当にそうだと思う。だから別に自分は何もしなかったし、何もしないなりにできることはした、……つもりではある。うまくいっていたかは知らないけれど。だからあとはもう、祈るくらいしかできないな。全員の人生がよりよいものになることを祈るしかない。人生がよくなるっていうのは良い大学へ合格するとか大金持ちになるとかそういうんじゃなくて、ちゃんと納得のいく道を選ぶことができるということ。後悔のない選択とかは無理だと思うけど、というか後悔のない一生なんてたぶんどこにもないと思うけれど、でも、そういうのもきちんと肯定していける、そういう人生になったらいいね、って祈るくらいしかできない。幸い、今年度担当していた生徒の内、受験学年だった人はみんな合格したし、残りの人たちは……バイトをやめる以上どうなるか見届けることはもうできないけど。まあ頑張ってくれや、と思う。俺も俺で勝手に頑張るので、君も君で勝手に頑張ってくれ、みたいな。何様だよって感じ。何様だよって感じだけど、でも、全人類に対してこういうスタンスでありたいなって思う。一人でも多くの人と仲良くなること。それが一生を賭しての自分の目標なのだけれど、でもそれって結局のところ、あとは勝手にしろよって思える人の数を増やすってことだよな~って自分は思うし。あとは勝手に幸せになってね、って感じだ、本当に。

 

 というので塾講をやめたのだけれど、それと同時に就職することにもなった。ワロタ。自分の身近(リアル)にいる知り合いとかはワロタって感じだろうけど、インターネット上でだけ繋がりのある人からすると意味わかんないよね。というのも、大学を出てからおよそ一年間、定職につかずに過ごしていたという話がある、実は。まあ先述の塾講はやっていたのだけれど、逆に言うとそれしかやっていなかった。せっかくそこそこの大学出てるのに勿体ないね~みたいなことを知人の結婚式のときに言われたけれど、うん、いや、分かる。でも、だから、その、そういうのが本当に心底嫌だったんだよな。ところで、まあ、そうは問屋が卸さない状況となってきたので流石にね、という話。就職の運びとなった理由はいくつかあるけれど、たとえば、例の塾講は言っても大学生向けのバイトだったから。自分の知る限り、博士後期課程の人がいたこともあったから、だから最長で九年くらいは在籍できたのだろうし、それに人手が足りているわけでもなかったから厄介払いされることもなかっただろうけれど、でもまあそんなの遅かれ早かれだし。いつまでも留まっているわけにはいかないし。それと、普通にお金の問題とかもある。一人で生きていくならお金とか、まあ別にいいんだけど。何処へも出かけずに霞だけ食べて生きてればいいんだから。でもまあ、そうじゃないし。あとは、将来のこととかか。何事もなければ数年以内に結婚とかしてるのかな~みたいな予感があって、でもそういう可能性を想定する場合、定職についていないというのは流石に問題がありすぎるというか。自分ひとりで勝手に破滅するならそれは自由だけれど、たぶんこれから緩やかに自分ひとりのための人生ではなくなっていくんだろうな、みたいな薄らとした予感。ひとりで勝手に破滅する人生もたぶん面白くて、というか自分はそういう生き方を(意識的なり無意識的なり)選んできたつもりだったけれど、あれよこれよという間にそうではないルートに乗っかっていて。悪い気はしないし、これでよかったとも思うし、自分で決めたことだし。でも、だとしたらそれに見合うだけの、なんていうか、代償を支払う覚悟は必要だよな~、みたいな。代償って言葉はよくないか。でも、代償だしな。とはいえ、なんだろうな。これだけはちゃんと言葉にしておきたいのだけれど、いつかの自分が死んでしまったって感じは全然ないんだよね。昨夜の夜、人とそういう話になって色々考えてみたのだけれど、でも、やっぱりそんな感じはいまのところしない。というかむしろ、ものすごく正しい道へ進んでいるような感じがする。これまでの自分と整合性が取れているというか、一貫性があるというか、少なくとも、何かを殺しながら日々を生きていくようなことにはならなさそうな、そんな予感がある。まあ、一年とか二年とか経ってからじゃないと分かんないってのは本当にそうなんだけど、あくまでいまのところの話。もしもの話、一年とか二年とかが経って自分が闇落ちしていたら、そのときは、じゃあ、どうしようかな。飲みとかに誘って話聞いてやってください。たぶん、それが一番効くので。そんなことにはならないよう努めるけども。

 

 というので、来年いっぱいは京都にいるかな。その次からは大阪に住んでるかも。まだちょっと分かんない。少なくとも関西圏にはいると思う。親しい人間がみんな関東に行っちゃって寂しいので、全員もれなく関西に骨を埋めてくれやと思いながら、ここ最近は生活をしている。勝手にしろよとかって口では何とでも言えるけれど、でも本当に会えなくなっちゃうと寂しいよな、それはそう。直近で有名な方々の死が相次いで、有名っていうか、単に有名ってだけじゃなくて自分が幼少期からよく触れていたような人たちが。なんていうか、他人の死によってでしか死に向き合えない自分が嫌だって気持ちは十二分にあるんだけど、そういうのは一旦置いておくとして、寂しいときはちゃんと寂しくなったほうがいいし、会いたい人には会えるときに会っておいた方がいい。あまりにも当たり前の話すぎる。あまりにも当たり前の話すぎるけれど、それが難しいんだよな。だって、他人だしな。関係ないし、勝手にしろよの精神だし、そしてそれが一番ちょうどいいと思ってもいて。だから難しい。でも、ちゃんと寂しくなるのはかなり上手くなってきたと思う、大学へ来てからの七年間で。要するに、ちゃんと終わらせるということ、だと思う。なあなあにしない。けじめをつける。エンドロールを受け入れる。その白紙から先の景色がどうなるのかは知らない。まあセカンドシーズンがあるならあるで望むところだし、ないならないで本棚の一番奥へ大切にしまっておけばよくて。だから、白紙にビビってるのが一番よくない。よくないなって思う。何の話だよ。寂しさと仲良くなろうねって話。あるいは、冬と仲良くなるって話でもあるし、ペンを折るなって話でもあるか。そういえば、数日前に通りがかった道、もう桜が咲いてて笑っちゃったんだよな。春が来るらしいよ、近いうちに。卒業とか入学とか、別れとか出会いとかの季節がまた来るんだなーって思うと、なんていうか、楽しみだなって思うよね。

 

 この文章を書いている途中にそういえば思い出して、何だっけ。もういつ言われた言葉なのかも覚えてないけれど、「一葉さんにとっての青春の終わりが、自分にとっての青春の終わり」みたいな。なんかの帰り道だっけ、そういう言葉を向けられた記憶があって。いや、でも、だったら終わんないよ。ずっとかは分かんないけど、少なくともまだしばらくは終わんない。終わらせてたまるか。って、つまるところそういう気持ちなんだよね、だからいまは。就職ワロタとかって言いはしたけれど、でもそこにネガティブな気持ちは本当に一切なくて。延長戦なんだよ、だからここから先は。社会性とかって普遍のパラダイムは勿論あるだろうけど、でも別にそこへ収まろうとしているわけでは全然なくて、なんていうか、なんていうんだろうな。言語化が難しいけれど、でも、終わらせる気なんか全然ないということだけは強く主張しておきたい! 二年後とかの自分がどうなっているかは分かんないので、こういうことは言えるうちに言っておく。過去からの声は何も知らないから勝手な事ばかり、って藤原基央も言ってるし。というか良い曲なのでよかったら聴いていってください、BUMP OF CHICKEN の pinkie 。

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 という話で終わりです、今回は。余談、なんやかんやで就活をサボり散らかして最終的に行きついた職業、そこそこ、というかかなり自分の中では納得のいく結論になっていて。これまでの自分との整合性とか一貫性とかって途中では言ってたけど。だから、暇だったら予想してみてほしいかもな、面白そうだし。当てようと思えば全然当てられる範囲内な気がするし、一級問題かもだけど。

 

 

 

言葉

 

 加害性、ねえ。いつの頃からか、インターネット男女論、あるいはインターネット恋愛論の文脈においてそういった用語が散見されるようになったような気がするけれど、それってどうなんだろうという気はしている、個人的に。中二病という言葉がむかし流行って、いまでも使ってる人っているのかな? いやまあ、いるか。いるだろうな。いや、別にその用語自体はどうだって構わないのだけれど、構わなくもないのだけれど、なんていうか、自分はあの言葉をどうにも好きになれなかった。と文字に起こしながら思い出すのは、ちょっと前の冬、人と歩いていたときのこと。「言葉に対して好きとか嫌いとかって気持ちがあまり分からない」。その言葉を耳にしたとき、そういう感覚の人も当然いるよな、と思った。ところで、自分は(そこまで明確ではないにせよ)苦手な言葉というのが少なからずある。当然だけれど、これはどちらがいいとか悪いとかという話ではなくて、またどちらが優れている劣っているという話でもなくて、つまりは完全なるイーブンとして、そういった二分がたしかに存在はしているという話。中二病という言葉自体に思うところがあっても、その言葉を使っている人に対して何らかの感情を抱くことはまあないし、あくまで言葉そのもの、あるいはそれが用いられる文脈に対する若干の嫌悪感というだけであって。話を戻す。昨今そこかしこで囁かれるようになった加害性という言葉は、何年か前に流行した中二病という言葉にどこか似ているな、と思う。具体的には、ある意味では普遍的ともいえる属性に名前を与える、という点において。名前が与えられると何が起こるか? 一言で言うと、理解が可能になる、のだと思う。誤解のないように断っておくと、名称が付与された瞬間に理解が発生すると言っているわけではないし、ここでいう『理解』が真の意味での理解であるとも限らない。あるいはそれは、古来の日本において、未知の現象や妖怪変化の類に対する解決法が命名であったことと同じなのかもしれない、と思う。類型化、と言ってもいい。そうして、本来であれば個々人に帰属していたはずの問題意識が、幅広く認知されるまでの名称を獲得することによって、それは社会全体に共有された問題意識となる。そういった一連のプロセスそのものが、なんていうか、自分にとってはあまり正しいことと思えないというのがある、あるな。では、社会全体に共有されることで何が起こるか? これは簡単なことで、その名称に付随する最大公約数的な認識こそが語義の第一事項であると広く周知されるようになる。中二病という言葉はまさしくそうだった。いわゆる、ちょっとイタい感じの子ども、という認識。それは、大枠においては間違っていないとは思う。だから、ここまでならまだいい。ここまでならまだよくて、問題はその先にある。何よりも自分が忌避感を抱くのは、それは、そうして社会全体で共有された問題意識を一個人のもとに還元してしまうこと、あるいはそういう社会の仕組みそのものに対してだった。だって、順序が逆だから。いわゆる少年期(という言葉を使うが、男子に限った話をしたいわけではない)に起こりがちな事象全般を中二病という言葉で理解することは構わない。ただ、その理解に基づいて、いま目の前にいる少年あるいは少女を理解しようとすることは間違っている、と思う。仮にその『中二病』と称される症状に類似性をみるような何かが起こっていたとして、そうであっても、その問題は個々人に固有のものであるという認識を強く持つべきだと、少なくとも自分はそう思う。要するに、他人のことを属性的に捉えようとしてはいけない、という話。なぜなら、それは最も理解からかけ離れた行為であると、少なくとも自分はそう考えるから。同じような語句で言うなら『メンヘラ』とか、あとは最近流行りの漢字四文字とかもそう(該当の文字列が自分のブログ内に記載されているという状態がかなり嫌なのでぼかしているだけで、それ以上の意図はない)。なんていうか、すでに出来上がったストーリーラインにあてはめて理解するのは簡単なんだよ。誰にだってできる。だって、人間の抱え得る感情なんておよそこの世には出尽くしてるのだから、映画や小説、漫画、舞台、なんだって構わないけれど、いくつか当たればクリティカルと思える事例にはすぐ出会えるはず。それが昨今ではインターネットになっているというだけの話で、そういう意味でこれはインターネットの功罪とはいえない。ただ、インターネットにはインターネットに固有の問題があるような気がしていて、それは、ありえない速度で一般化が行われ、ありえない速度でその結果が普及するということ。みんな、議論が好きだもんね。議論っていうか、レスバ。レスバっていうか、マウンティング。マウンティングっていうか、自己防衛。自己防衛っていうか、無自覚の加害。なんだって構わないけれど、とにかく、(現実がどうであるかは一旦置いておくとして)自分と無縁(と少なくとも当人は思っているよう)な現象に対しても真摯でいられるような人はさほど多くなくて、その結果として浮かび上がってくるのが最大公約数的な理解であるという認識を自分は持っている。要するに、負の側面ばかりを詰め込んだ呪いだということ。インターネットをみていれば誰だって分かる。インターネット上で何らかの言葉が創出されるとき、特にここ近年は、決まってよくないものとして扱われてばかりいる。『中二病』はまだマシな部類に留まっていて、たとえば『メンヘラ』なんかはもっと酷い。いまや呪いのハッピーセットみたいになっている。そして、そういう言葉がこの社会に満ちている。しかも、個々人に帰属するはずの問題意識の一般化として、だ。そうして抽出された呪いをもう一度、各々の人の手元へ還元するということが、果たしてどれほどに罪深い行為か、という話だよな。それは決して本質的な理解なんかじゃない。でも、他人のことなんか心の底ではどうだっていいから、そんな相手の問題意識だって本当のところはどうだってよくて、だからこそ、そうした問題意識をほんの一言で要約してしまう便利な言葉がこんなにも広く用いられる。まあ、自分たちはカウンセラーじゃないからさ。他人のことをある程度割り切って考える必要があるという主張は、それは本当にそうなんだよ。ただ、それは本当に正しいのかな、とは思う、少なくとも自分は。……ただ実際のところ、より深刻な問題はそっちじゃないんだよな。『中二病』という言葉が広く定着することによって、その言葉に宿る呪いを自分自身に自ずから還元してしまう人が出てしまうこと。「自分はまさしくこういう人間だ」と自分自身を類型化してしまうこと。これが一番よくない。本当によくない。マジでよくないよ。何度だって繰り返すけれど、それは本質的な理解から最もかけ離れたものだと思う、少なくとも自分は。その類型化を行ってしまった時点で出口のない迷路に迷い込んでしまっているのと同義だから、本当に何とかしてさっさと抜け出す方法を探したほうがいい。だって、だから、世間で取沙汰されているそれは、社会の構成員である個々人の抱えている問題意識の共通部分をとってきただけのものに過ぎないんだよ。それも、大抵の場合は悪とされる領域のそれをとってきている。だから本当は、そうして語られる領域の内、どの程度の割合が自分の中の問題意識と共通するのかまでを熟考しないといけない。いけないはずなんだよ、本当はさ。中二病だって、別に悪い側面ばかりじゃない。ここではないどこかに焦がれる感情、あるいはそういった初期衝動、それを原動力に生み出された素晴らしいものだってこの世にはたくさんあるのだし、なんなら創作なんてその最たる例だろう。そうやって、自分の中にあるかもしれない(勿論、ないかもしれない)可能性をどこかの誰かが振りまいた呪いなんかで簡単に見失うなよって、そう思っちゃうんだよな、自分は。でも、これには難しいところがある。というのも、この社会の在り方がそういう風に出来すぎている。なんていうか、なんていうんだろうな。あらゆる属性を自身に還元しやすい構造というか、鏡写しの構造というか、見当違いの納得を手に入れてしまいやすい環境というか。色んな人間が色んな方法でその属性を説明しようとする。それは時には音楽であったり、映画であったり、漫画であったり、小説であったり、劇であったり、イラストであったり、評論であったり、学問であったり、まあ色々とある。SNS の時代と言ってもいい現代において、最も優先的に目に付くのは言葉だろう。自分のことなんて顔も名前も知りもしない第三者たちが日夜ああだこうだと言葉を尽くして、その属性に対しての説明を与えようとする。その断片に触れ続けることによって、自分の中の何かが詳らかにされたような気持ちになってしまう。ものすごく自然な心の動きだと思う。それと同時に、ものすごく危険な考えだとも思う。第三者たちは自分自身のことなんてそもそも考えちゃいない、という視点がすっかり抜け落ちている場合に限るけれど。そこは、なんていうか、マジで、なんていうんだろうな。他人を属性で理解しようとするな、みたいな話を上のほうで散々書いたけれど、それと同じくらい、自分自身を属性で理解することも間違っているような気がする。というか、なんならそちらのほうがより健全でないようにも思える。結局、自分のことは自分の言葉で説明するしかないのだと思う。中二病とかメンヘラとか、あるいは加害性とか、そうして広く一般化されてしまった名称で説明のつく事象なんて、現実世界にはおよそ一つだって存在しない。一方で、これは、なんていうか、強すぎる意見だとは思う。強いというのは言葉が強いとかって意味じゃなくて、なんていうんだろ、精神的な面で。言ってしまえば、自分の問題は自分の力でなんとかしろよ、って意見なわけだからこれは。だから別に他人へそれを求めようとは思わないし、そうすべきだと主張したいわけでもない。誰にだってできることではないと思うから。ただ、いま SNS で流行している漫画、およびそれに付随する議論(引用ツイート等)をざっと追いかけて感じたこととして、以上のようなものがあったというだけ。

 

 恋愛なんて、加害ありきのものだと思うけれど、実際はどうなんだろうね。だからといって開き直っていいものでは決してないのだけれど、思うにそもそも恋愛って、あるいは一般に人間関係って、お互いの心を双方的に近づけていく過程なわけで。ところで、自分たちって別に他の誰かのコピーじゃないからさ。だから、相反するところとか気に食わないところとか、そういうのは大なり小なり出てくるはずで、そういったすれ違いを根拠に何らかの精神的な負担を背負う、あるいは背負わせることになる可能性があるというのは、なんていうか、可能性があるとかないとかの話じゃなく、もうほぼほぼ確実に起こり得る事態で。むしろ向き合うべきは、そういった必然をどうやって乗り越えるかということなんじゃないのかな、と思う。回避なんてできるはずがない、だって互いに人間なんだから。どちらが悪いとかの話でもない。そういうことはいつだって、誰が相手だって起こり得るのであって。強いて言うのなら、それを乗り越えようとしないことは罪に近いと、少なくとも自分はそう思う。自分の世界観では、それは相手のことを信じていないのと同義だから。この人とであれば何であれ乗り越えられると、そういう認識を常に更新し続けていくことが、それこそが(結婚とかを念頭に置いた)恋愛なんじゃないのかなって、少なくとも自分はそう思うから。

 

 一方で、例の漫画は上の話とは異なる軸のことを問題にしていたな、と思う。あれはだから、交際関係が開始するよりも前の話だった。だから、上の話とは切り分けて考えなきゃいけない。……立場を表明しておくと、例の漫画については先輩側にも後輩側にも明確な非はないと自分は思っていて。恐らく、例の漫画は後輩側の問題点を抉り出す意図で描かれたものだろうとは思う。いや、執筆時点での意図までは汲めないけれど、少なくともリリースの順番ではそうなっていた。一般に物語作品において、同場面の別視点での描き直しというのは、それが対等な視点であるということが確約されている場合(群像劇など)を除いて、大抵は後半に描かれるものであればあるほど真実に近いということを意図して用いられる技法だから。つまり、あの順番でページが並べられていたということは、先輩視点で語られる後半部分のほうが、少なくとも順番を決めた人間の意識としては真実に近いものなのだろうということ。まあ、それ自体はどうだっていいか。とりあえず、自分は先輩と後輩とのどちらにも明確な非はないという立場であるという話。一言、悲しいすれ違いだったね、で終わってしまう。ただ、強いて言うなら、最後のシーン、(実際に本人に誤解なく伝わる形で行われたのか、かなり怪しいが)告白を断られても結局諦めない点については、それだけは明確に悪だと感じた。それ自体が、相手のことを真正面から捉えきれていないことの証左、あるいは裏付けであるとさえ思う。真正面から捉えるというのは、つまり、相手のことを自分と同じ人間であるとみなすということ。自分自身の中にある種の意思決定が存在するように、自分以外の全ての他人の中にも意思決定が存在していて。相手のことを本当に好きだというのなら、そこは受け入れなきゃいけないラインなんじゃないのかと思う。それを受け入れられない、あるいは受け入れようと努めない時点で、なんていうか、……難しいものがあるなと思ってしまう。代替可能な人間関係なんてない、それはそう。ただ人間関係というのは、場合によってはお互いの感情のぶつけ合いであって。自分の気持ちを受け入れてほしいと願うなら、相手の気持ちだってちゃんと受け入れなきゃいけないはずで。うわ、ずっと同じ話してる。何年前からこの話をし続けてるんだってくらい、ずっと同じことを書いている。でも、それくらい自分にとっては大切な規範なんだよな、これが。受け入れるというのは、相手を自分の領域内に連れ込むって意味じゃない。そもそも、どこかの時点で完了する類のものでもない。思うにそれは、相手の気持ちを正確に汲み取ろうと努め続けること。要するに、だからさっきまでの話と同じだよ。相手を真正面から捉えること。相手のことを自分と同じ人間であるとみなすということ。自分自身の思い込みで相手を(あるいは自分を)決めつけないこと。自分がこういった話題を扱うと、結局は、だからそういう話に帰着されてしまうんだな、良くも悪くも。例の漫画において、先輩側はその努力をしているように描写されていた(少なくとも前半は)。一方で後輩の側は、その人なりに努力しているのだろうと推察できる描写はたくさんあった(し、その結果は認められるべき)。ただ、それは先輩の方向を向いているものではない。いや、後輩の意識としては、つまり主観的には先輩に向けられたものだったのかもしれないが、客観的にはそうでない。事実、先輩側の機微にはついに何一つも気づくことができなかったわけで、その時点で人間関係としてズレてしまっている。先輩の側に落ち度があるとすれば、自分の抱えている違和感を当人へ直接伝えなかったこと。ただ、これはほとんど不可能と言っていい。同じ研究室にいたのなら尚更そうで、さらに女性側であるならもっと難しい。そのくらいは誰にだって想像できるはず。だから、これを落ち度というのはものすごく気が引けるし、できればしたくない(し、仮に実行へ移したとして、事態が悪化するという可能性が無視できない程度にはあるので、純粋な落ち度であるとも言いづらい)。一方、後輩の側にも落ち度を見出すことはできるだろうけれど、ただ、これもクリアすることはほとんど不可能であったと思われる。でなければ、例の漫画はあんな結末にはなっていない。だからこそ、悲しいすれ違いだったね、で片づける他ない。それ以上の答えは、少なくとも例の漫画に描かれた情報からは引き出すことができない。ただ、何度でも言うけれど、やっぱり最後のシーンだけは明確に間違っていると思う。あの結末を美しいものだとは、少なくとも自分には全く思えない。

 

 最後に。もう四年半も前のことになるけれど、古の自分が書いた作品をパッと貼り付けて終わりにする。別に読まなくていいし、わざわざ読んでほしいわけでもなく、それなりに長いしね。ただ、上記に関連するような問題意識は自分の中にはずっと昔からあって、それに対する自分なりの答えもみつかってはいて、というだけの話をするためだけに残しておく。自分のことは自分の言葉で説明するしかない、それが何であれ。

 まあ、この作品自体は何度かブログで紹介(紹介?)しているので「またかよ」と思う人が少なからずいるかもしれないけれど、とはいえ、だから、自分自身のものすごく根幹にあるものを描こうとしたものだったから、これは。だから、手探りで掘り進めていくと、結局ここに当たっちゃうみたいなことが結構あるんだよな。というので、暇な人だけ読んでください(拙い作品ですが)。

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「あの人の答えが何であれ、できることなら、わたしはそれになりたいと思ってたんすよ。なんだか嘘みたいっすけど、多分本気で」

 

 いまの自分だったら、ここの『多分』は『たぶん』で書くだろうな。

 

 

 

観た映画2

 

 前回はこちら。

kazuha1221.hatenablog.com

 

 

 

グレイテスト・ショーマン (2017)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07CWKBNWT

監督:Michael Gracey
脚本:Jenny Bicks,Bill Condon

 

 作詞のリファレンス……というわけではないけれど、気持ちを固めたいという目的で選んだ作品。舞台というかショーというか、登場人物全員を巻き込んでの大団円みたいなのを一度思い出しておきたくて(インド映画とかを観てもよかったのかもしれない(本日の固定観念))。過去に一度観ていて、そのときにかなり感動した覚えがあったので、というので選んでみた。

 This Is Me が好きすぎる! spotify で配信されているので是非いちど聴いてみてほしい。

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ところで、この曲は曲単体としてもかなり好きなのだけれど、当映画の中で流れるシーンと文脈があまりにも熱すぎるんだよな。アニメオタクみたいなこと言うけど、いや、でも実際そう。文脈込みだと一層楽しめるものというのは、確実にこの世に存在する、ゲームミュージックとかね。

 グレイテスト・ショーマンの舞台設定を簡単に説明しておくと、そもそも、これは P・T・バーナム(Phineas Taylor Barnum)という 19 世紀のアメリカ人の生き方を基にして作られたものらしい。彼は興行師で、その内容というのが、言い方を選ばないのなら "人を見世物にする" というものだった。実際にはもうちょっと非人道的な様相(時代観によるところではあるので判断が難しい)だったみたいだけれど、映画においては現代の価値観にある程度迎合した演出がなされている(少なくとも著しく気分を害するような展開はない)。とにかく、そういった、何かしらの身体的特徴を有する人を集めてサーカスを行うというのが、映画のメインストーリーとなっている。そういった理解の上で This Is Me の歌詞の話をしたくて、サビなんだけど

I am brave, I am bruised
I am who I'm meant to be, this is me

本当にすごい。このテーマの映画にこのタイトルでこの詞を唄う楽曲が存在するということ自体がすごすぎる。this is me って、たったの三単語なのにな。胸に突き刺さったまま抜けない。本当にすごいと思う。これを食らうためだけにでも『グレイテスト・ショーマン』を観てほしいと思うくらいには。

 余談。以下の楽曲が流れるシーンが本当に激アツ。文脈とかじゃなく、純粋に映像がカッコいい。

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ラ・ラ・ランド (2017)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0714LYZ3G

監督:Damien Chazelle
脚本:Damien Chazelle

 

 監督の人、『セッション』の人だったのか。あまりにも映像作品を通らずに生きてきたので申し訳ないながら観たことはないのだけれど、名前くらいは知っている。名作と名高い、はず。というか、『バビロン』の人でもあるんだな。どちらも気になっていて、あとで観る用のリストへ入れている作品だった。すご。

 公開当時にいたるところでその名前を耳にしたことからも、当然のように存在は把握していたのだけれど、ただ『グレイテスト・ショーマン』と違って、こちらは観たことがなかった(何故か冒頭の数分だけ見覚えがあった。なんで? ティザーとか?)。ところで、先述の『グレイテスト・ショーマン』と並んで語られることの多い作品という認識が(正しいかはともかく)あったので、こちらも作詞のリファレンスとして観てみることにした。

 結論から言うと、かなり好きだった。扱うテーマが異なる以上、比較という行為には何の意味もないのだけれど、そのことを承知の上で言うのなら『グレイテスト・ショーマン』よりも好みだったかもしれない。冒頭のシーンを最後に回収するというのは物語の構成としてはよくある(時間軸が錯綜しがちな作品によくみられる)ものの、その組み込み方が上手い! いや、自分が知らないだけでこういう例はたくさんあるのかもしれないけれど。ただ「え、もしかしてそこへ戻る?」という驚愕と「そうやって繋げるのか……」という感動とがあった。だって、これはタイムリープものじゃないし、まさかそんな展開が待っているとは思ってなかったから……。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『STEINS;GATE』を通ったことのある人なら本当に一瞬で解る、「あ、これ来るな」って。本当に感動した。

 お互いに自己実現を掲げる男女の恋愛模様という点でも面白かった。それと、これまでに物語中で提示された情報を使って、次の展開へと繋いでいく構成もかなり鮮やかだった(特に図書館のくだりが好き)。伏線を伏線と思わせないのが上手い。これが(アマプラだと)無料で観れるの、流石におかしいだろ。どうなってんの。

 余談。「ようこそ、セブズへ」のシーン、本当に痺れた。いわゆる見せ場的なシーンにおいて必要十分な台詞を選ぶことはかなり難しいと思っていて。狙いすぎな気取った感じのしない、そうであって的の中心を正確に射貫くもの。この台詞は、そういう意味で完璧。たったの一言で、これまでの物語のすべてに意味を与えている。感動した。

 

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー (1985)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00YTNH4V2

監督:Robert Zemeckis
脚本:Robert Zemeckis,Bob Gale

 

 往年の名作枠ね。子どもの頃に観て、いまに至るまでずっと好きな作品。そんな、何十回も観たとかではないはずと思うのだけれど、それでも物語の展開をそこそこ思い出せる程度には繰り返し観ていたんだろう。昔のことすぎて思い出せない。

 これね、あの、最初に言っておくと、本当にすごい。何がすごいって、物語の構成が完璧すぎる。というのも、作品の中で発生する出来事がすべて雪だるま式になっているというか、連鎖反応的に進行していくんだよな。要するに、すべての出来事が関連性をもって次へと繋がっていく。無駄なものが一つもない。そして、その枠組みの中に立ったままで、「これはどうなっちゃうんだ!?」と観客をハラハラさせるような山場を構築している。ジョージがマーティと一芝居演じようと思ったら、行き違いでビフに喧嘩売っちゃうシーンとかね。あとは、マーティーがトランクに閉じ込められることと、ビフが成敗されるだけでは未来が書き換えられないこととが繋がる理由とか。本当にすごい、し、その山場自体にも物語的にちゃんとした意義が与えられており、もう流石にスタンディングオベーション

 あと、あまりにも一筋縄じゃいかなさすぎる展開も、改めて観返すと好きだったな。これ、実際に物語的なものを一度でも夢想したことがある人は分かると思うんだけど、一つのメインストーリーを進めながらそれに付随する複数のサブミッションを用意するのって、本当に難しいんだよな。その点、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はすごい。最後の、「あとは未来へ帰るだけだな!」ってシーンでさえ全然ウイニングランじゃない。しかも、そこで起きる障害が「ああ、たしかにそれはそうなるよね……」って納得できるものばかりで、うわ~。22 時 4 分に落雷が起きることは事前に知っていて、天気が荒れることも知っていて、ということはこういった事態が当然起こり得るよね、っていう。

 昔に好きだった作品はいま観ても好きなままだったし、昔よりも場面構成に対する解像度がずっと上がっていてよかった。また何年後かに観れたらいいな。

 余談。この企画を始めてから、洋画は基本的に字幕版で観ているのだけれど、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だけは吹替版で観た。懐古厨の宿命からは逃れられない……。

 

 

○ ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー (2023)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B8S4LYY6

監督:Aaron Horvath,Michael Jelenic
脚本:Matthew Fogel,上田誠

 

 知り合いからの勧めで観た。かなりの深夜に観ていて、2 時とかから観始めたんだっけ? というので、途中で寝落ちしてしまった。翌日、起きてから改めて観たのだけれど、終盤も終盤で寝落ちしていた。悔しい。ちゃんと眠くないときに観ようね。

 なんか、テーマパーク的な面白さがあった。マリオが好きな人なら、いや、特別好きというわけでなくとも何度かプレイしたことのある人なら、かなりニヤッとできるような構成になっているように思えた。序盤の、工事へ向かう途中の横スク要素とか。何気ないところに「これは!」と目が向くような要素が散りばめられていた。個人的には、門番のノコノコ(たしかノコノコだったと思う)がちゃんとコインをかすめ取っていたシーンが好き。おもろい。

 というか、ピーチ姫が強すぎる! ピーチ姫って、なんていうか、ああいうキャラクター性でいいんだ。もうちょっとたおやかな感じを想像していたから、生まれてからこの方ずっと。いやまあ、たしかにスマブラでは武闘派だけれども。でもなんか、あんなイケイケな感じなんだ、と思った。ところで、どちらかというと前に立って歩いていく風のピーチ姫はかなりカッコよく、かなり好きだった。たしかに、マリオの立ち位置をああいう風に設定するのなら、世界のことについて説明する強キャラポジが必要で、それを旅へも同行するピーチ姫に委ねようとすれば、必然的にああいったキャラクターメイキングになるのかな。

 全体的に、ユニバのマリオゾーンみたいな感じの映画だった。あれで感動する人は、たぶんこっちでも感動できる。

 余談。レインボーロードってそういう壊れ方するんだ……、と思った。ていうか、壊れるんだ。あんなにボム兵とかトゲ甲羅とかが散々飛び交ってるのに。

 

 

○ 翔んで埼玉 (2019)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07X8RXWHN

監督:武内英樹
脚本:徳永友一
原作:魔夜峰央

 

 名前は知っているけれど通ったことのなかった作品シリーズ。どういったコンセプトの作品なのかということもある程度は知っていて、アマプラをぐるぐる巡っていたら「そういえば」と目に留まったので観ることに。

 結論から言うと、もう本当に面白かった。エンタメとしてすごすぎる。特に感動したのが、物語の枠組みの外に冷静なツッコミ役(つまり観客と同じ目線のキャラクター)を置くことで、ともすれば不快感へも繋がりかねない展開を続けまくる本編とのバランスを取るという作品構成。これによって観客は物語の外側からの視点を獲得して、物語の中で語られている内容は一言一句取るに足らないものである、という理解のもとでスクリーンへ臨むことができる。すごい。wikipedia によると、これは原作にないオリジナルパートらしく(というか、そもそも原作は未完のままで連載が中断されたらしい)、つまりは監督と脚本の手腕。というか、この二人って『電車男』や『のだめカンタービレ』で組んでるんですね。そりゃ面白いわ……。

 肝心の本編はどうだったのかというと、こっちは終始バカなことをやっていて、本当によかった。真面目な顔で明らかに頓智気なことを言うもんだから、しかも登場人物全員が。面白くないはずがない。ただ、それを「面白くないはずがない」の領域に留めておかないところがすごい。つまり、単にシュールギャグをやり続けるのではなく、物語としての骨格を与え、最後にはちゃんと爽快感のある結末を用意するという、作品が作品たるための一連の手続きをかなり丁寧に踏んでいる。そのおかげで、恐らくはメインディッシュと思われる埼玉弄りネタにも飽きがこない。「ああ、これはもうこういうものなんだな」という納得感さえあった。

 これは本当に面白かったのでオススメ。アマプラなら無料で観れる。いまだけかもしれないけど。

 余談。某ロックバンドの某が出てきたところでシンプルに爆笑した。あの、なんだっけ。海外のなんとかってホラー系映画で、その分野の巨匠をしょうもない一発ネタのためだけに呼びつけたみたいな、それと同じタイプの笑い。

 

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2 (1989)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00G31E33U

監督:Robert Zemeckis
脚本:Robert Zemeckis,Bob Gale

 

 初代に引き続き PART2。初代のほうで色々書いちゃったからもうあんまり書くことないかも。

 ところで、思いついたことは書く。初代でも触れた、連鎖的にイベントが起こっていく構造は健在だった。個人的には、初代のあの "引き" から、PART2 のメイン舞台を未来へ設定しなかった判断がすごいなと思う。自分だったら、未来の世界でどういった物語を展開していくか、という考えに固執してしまいそう。実際には、「未来で色々やっちゃったせいで現代(未来からみた過去)が変わっちゃった!」的なことが起こる。過去改変によって未来が書き換わるというのは様々な作品で目にするけれど、その逆については一聴すると「そんなことある?」って感じ。ところで、そんなことあるんだな、これが。まあ、実際には未来での出来事が直接的に過去へ関与するわけではなくて、起こっていることとしては過去改変なのだけれど、その起点が未来にあるという話。詳しくは、実際にその目で確認してほしい。

 後半の展開は終始、息を呑むとしか言えない。すごすぎる。物語の後半戦では初代と同じ舞台へと場面転換をし、つまり、初代のストーリーラインが進行している裏で PART2 のストーリーラインも同時に進行させるという構造を取っている。これがもう本当に素晴らしいの一言。この手の作品ではよくある禁則事項として、「過去の出来事を変えてはならない」、「過去の自分に遭遇してはならない」の二つがある。その制約のもと、PART2 における最大の目的を果たすために主人公が孤軍奮闘する、という構成。しかも、初代におけるイベントの発生現場を回避する形ではなく、むしろそこにぶつけていく形で展開を作っているのがすごすぎる。要するに、初代での出来事をきちんと活かしたような構成になっている。本当にすごいし、普通に感動した。こんな綺麗に物語って作れるんだ、しかも 1 時間 48 分で(オープニングとエンドロールがあることを考慮すれば、実際には 1 時間 40 分程度のはず)。

 本当にすごかった。そりゃ名作と呼ばれるわけだな……と思った。

 余談。初代でも登場したあの超絶ギターパートがまた聴けてよかった。

 


 今回はこんな感じ。冒頭の二作品『グレイテスト・ショーマン』と『ラ・ラ・ランド』について、じゃあ実際に作詞へ活かすことはできたのかという話を最後にしておくと、実際にできた。言語への接続というよりは、映像的想像への寄与が大きかったかな。架空の人物を想定して、その人物が楽しそうに街を歩いてるところとか、そのときに見えそうなものとか感じそうなこととか、そっち方面の想像を膨らませることにかなり役立っている、ような気がしている。

 というので、当初の目的はもうこの時点でかなり果たされてしまった。けれど、映画鑑賞はいまのところまだ面白いので、引き続き観ていきたいわね、という感じ。