家


 大学に進学して以来、故郷を歩く時間はずいぶんと減った。
 大学院生を経て社会人となったいまもそれは変わらない。進学先の地に根を下ろすことに決めた私は、いまは在学中に借りていたアパートから自転車で一五分ほどのマンションに住んでいる。
 今日は半年ぶりに故郷を訪れた。
 本格的な炎天下というには、幾分か風の涼しさがある昼下がり。けれども、すれ違う子どもたちも、木陰の蝉たちも、そんなのはお構いなしといった様子で夏を象っていた。
 夏休みか、と思う。
 それもまた、大学に進学して以来、縁遠くなってしまったものの一つだった。インドアな私にとってさえ、かつて、夏休みという言葉には抗いがたい魅力があった。
 わざわざ約束をしたりもした――たとえば、一緒に花火をみるだとか。
 高校生のときだ。当時の通学路は高台に位置していて、郊外の花火大会を楽しむにはちょうどいいスポットだった。同じ高校に通っていて、そのことを知らない人はいなかった。
 だから、というわけでもなかったように思うけれど。
 その経緯がどうであれ、いつかの夏に私は友人と約束をした。
 一緒に花火をみよう。たったそれだけの口約束を。
 そして、今日。
 その友人の命日に合わせて、私はここに来たのだった。


 いま住んでいるところと地元とは、新幹線で二時間ほどの距離がある。
 いくら夏の日が長いとはいえ、見慣れたマンションのオートロックを開くころには、辺りはすっかり夜の色で満ちていた。光に釣られたのか、エントランスのガラス扉に小さな虫がとまっている。虫は嫌いじゃない、害がないなら。
 通りがかりに、宅配ボックスのモニターを確認する。
 自室の番号が表示されていないことを確かめて、それからエレベーターを呼んだ。
 五階の角部屋だった。
 鍵を差し込んで、がちゃりと回す。玄関の明かりは点いていなかった。
「ただいま」
 返事はない。珍しい。
 ちらと靴箱に目をやる。並んだ靴の数から察するに、出掛けているわけではないようだ。
 廊下のクローゼットに鞄をしまい、洗面所へと向かう。扉に近づくと、勢いよく弾ける水音がくぐもったまま耳に届いた。なるほど、シャワーだったか。
 こんこん、とノックする。
 それから、一応、呼びかけてみた。
 一緒に暮らし始めてもう一年経つとはいえ、洗面所……というか脱衣所で鉢合わせることにはいまだに慣れない。
「陽奈。入るよ?」
 やはり返事はない。つまり、浴室にいるということだ。
 であれば問題ないだろう、と私は判断する。
 がら、と引き戸をなるべくゆっくり開く。誰もいない。浴室のほうから、ふんふん、という鼻歌が聞こえていた。
 私の気配にはすぐに気づいたようだ。磨りガラスの向こうで、水飛沫の音がぴたりと止んだ。
「ん、あれ、先輩? 帰ってきたの?」
 隙間から漏れ出る湯気のせいか、なんだか湿って聞こえる声だった。
「うん。ただいま」
「おかえりー。ちょっと早かったね」
 パンプス用の靴下を、手早く洗濯機へ放り込む。
 洗面台の前に立つと、いつも通りのフローに従って自動的に手が動いた。
 まずは腕時計を外して両手を軽く濯ぐ。その後、棚上に並べられた中から必要なものを取り出していく。
 タオル、ヘアゴム、クレンジング……。
 あれ? と首を捻るよりも先に浴室からの声が響いた。
「あ、ごめん。クレンジング、いまこっちに借りちゃってる」
 なるほど、道理で見当たらないわけだ。
「もう使わないけど。渡そっか?」
「ううん、後ででいいよ。どうせすぐシャワー浴びるから――というか、今日はお休みなんじゃなかったっけ?」
「そのつもりだったけど、後輩くんたちのゼミに呼ばれちゃって」
「また? 相変わらず人気者だね」
「あー。先輩がいじわる言ってくるー」
 そんなつもりではなかった。
 とはいえ、陽奈も本気で言っているわけではないだろう。
 メイクを落とすのはいったん諦め、洗面所を後にする。リビングの扉を開けると、廊下へ吹き抜ける冷気が全身を撫でた。ほどよい心地よさ。私の好みに合わせて、控えめに調整してくれていたみたいだ。
 棚上の小物入れに鍵と腕時計を戻す。それからやや迷ったのち、私の脚は自ずとソファに向かった。
 とすん、と腰を下ろす。そこでようやく、一日が終わったという実感が湧いた。
 友人の命日に気を張っていた、わけではない。
 なにせ、もう一〇年になる。夏休みの子どもたちを遠目に眺めるようになるのと同じだ。胸を焦がすような悲しみだとか何だとか、そういった全部はもう過去のものになってしまっていた。
 けれど、どれほどの時間を重ねたとして、消えないものもあるわけで。
 一年に一日、この日だけ、私はその在処に思いを馳せるのだった。
「せーんぱいっ」
 呼ばれて顔を上げると、陽奈よりも先にTシャツにプリントされた猫と目が合った。白地のシャツで、ゆるキャラのごとくデフォルメされたイラストの下に大きな文字で『ねこ』と書かれている。陽奈のお気に入りだ。たしか、イラスト違いのものをあと三着くらい持っている。
 緩くカールのかかった髪が肩口に落ちていた。薄手のTシャツに、淡い水色のショートパンツ。お風呂上がりの陽奈からすれば、いまの空調ではいささか物足りないだろう。
「いつの間に?」
「先輩がぼけーっとしてる間に」
「ごめん、気がつかなくて」
「いいのいいの。お疲れ様でしょ」
 陽奈が笑う。彼女の笑顔は、春の朝日みたいに眩しくて暖かい。
「まだ何も飲んでないよね。用意するよ。緑茶でいい?」
「うん。ありがとう」
「私は何にしよっかなあ。ロゼがあるんだよね」
「またもらってきたの?」
「そ。例によって研究会の残りをボスたちがね。いやあ、福利厚生の行き届いた研究室で助かるね」
 陽奈は満更でもない様子で応える。お酒を嗜むことを日々の楽しみとしている彼女にとっては、なるほどたしかに、それは福利厚生の一環といえるのかもしれない。
「はい。ここ、置いとくね」
 正面のローテーブルに置かれたグラスが、からん、と音を立てる。
「あ、氷、入れないほうがよかった?」
「ううん。外、暑かったから。ありがとう」
「よかったあ」
 陽奈は大げさに胸を撫で下ろして、自身のグラスをテーブルに置いた。それから、私の隣に腰掛ける。
 ソファがぎゅっと沈む。その引力につられて、身体がわずかに傾いた。
 なんとなしにグラスを眺めながら考える。陽奈の用意したそれは、どことなく金色に透けてみえた――たぶん、白ワインだろう。どうやらロゼは開けなかったらしい。それにしても、打ち上げに際してワインが用意される研究会って、なんだか想像がつかないな。
 あるいは、当時の私が興味を向けていなかったというだけで、かつて参加した場にもそれなりの種類のお酒が用意されていたんだろうか――陽奈と暮らし始めて以来、そちらもある程度は嗜むようにはなったものの、私はどちらかといえばカフェインに囲まれているほうが性に合っていた。
 ぴしっ、と氷の割れる音が響く。
 散漫になっていた意識の焦点が合う。気づけば、陽奈の体温が近くにあった。まるで引き寄せられているみたいな……、と思ったけれど、私の位置は少しも変わってはいない。動いているのは陽奈のほうだ。
「陽奈?」
 柑橘の香りが鼻腔をくすぐる。同じシャンプーを使っているはずなのに、陽奈のそれは私のそれよりもずっと甘く感じられる。
 手首に陽奈の手が触れる。いや、たぶん掴まれている。力が弱すぎるから区別できないだけで。
「キス」
 陽奈の声に、とくん、と心臓が小さく跳ねる。
「していい?」
 彼女の言葉は、いつだって的確に私を射貫く。
「えっ、と。私、まだお風呂入ってないし……」
 咄嗟にそんなことを口にする。
 遅れて思考が追いついて、どういった心の動きがあったのかを理解する。
 私は陽奈に対して正しくありたいのだと思う。自分で認めているよりもずっと強く――でも、正しいって何だろう?
 誰にとっての正しさ?
 仮にその主体が私であるとして、身の汚れを払うことが、私にとっての正しさなんだろうか?
 いや、違う。たぶんそうじゃなくて。
 いまのままの私が陽奈に触れること――それ自体が許せないのかも。
「変なの。キスするだけなんだから、関係ないよ」
 柔らかな腕の感触が私の意識を無理やり引き上げる。
 梳かれた前髪から覗く瞳は、なんだかすべてを見透かすみたいに揺れていた。
「で、でも。今日はずっと外歩いてたから、汗かいてるし」
「私は好きだけどなあ、先輩の匂い」
「そういう話じゃなくて……っ」
 吐息が首筋にかかる。くすぐったくて、それに熱っぽい。思わず身を捩じらせて、少しでも離れようとする。けれど、私がそうすればするほど、陽奈との距離は却って縮まってしまうみたいだった。
 こういう風に甘えてくる陽奈は珍しくない。思うに、彼女の中にある定規は、私のものよりもずっと細かく目盛りが刻まれている。私には区別できないような至近でだって、陽奈の息遣いは自然と馴染む。相手と自分との間に横たわる空白を、正確に見定めることができるから。
「どうしても?」
 心臓を撫でるような声で陽奈が微笑む。
 水溶性の日だまりに晒されているみたいに錯覚する。じんわりと滲む熱を纏って、自分と世界との境界線が曖昧になっていく。この体温はどちらのものだろう。そんなことも分からなくなるくらいに鼓動が近い。
 なんとなく目を合わせていられなくて、ふっと視線を逸らす――私らしくない。陽奈からの好意を気恥ずかしく思うことなんてないのに。
 答えないでいる私の反応そのものを回答として受け取ったのだろう。陽奈は頷くように言った。
「そっか。うん、わかったよ」
 手首を掴む力がきゅっと強まる。
 甘酸っぱいシャンプーの香りが立体的に立ち上がる。
 溢れた水みたいに身を寄せた陽奈の、湿った息が下唇の辺りを掠める。
 全部、同時だった。
「でも、だめ」
 驚いた。言葉選びも、間合いも、表情も。何を切り取っても陽奈らしくないと思った。けれども、そんな考えはすぐにどこかへいってしまって、私は目を閉じて彼女を受け入れる。
「ん」
 唇が触れる。言葉ほどの圧はない――穏やかで、優しくて、色んな気持ちを包み込む温もりがある。そういう意味では陽奈らしい。そんな陽奈の温度を、在り方を私は好きになったんだった。
 柑橘の棘っぽい香りに紛れて、林檎のような青色の澄んだ味がする。さっきの白ワインかな、と思う。どうやら既に口をつけていたみたいだ。陽奈は分かりやすいようでいてそうじゃないから、近づくまで気づけないことがたくさんある。
「ん……っ」
 柔らかい日差しが熱を連れて、少しずつ全身を解いていくみたいに、私にとっての陽奈もそうだった。その下に留まるのに理由を求めることはなくて、だってそれは当然だから。心地よく感じるのも、気持ちいいと思うのも、もっと欲しくなるのも、だから全部、全部。
「先輩、口開けて」
 五感の全部が陽奈だけになる。胸の奥がじわりと痛んで、微熱にも似た浮遊感が背筋をつーっとなぞる。寄りかかる力がわずかに強まって、抗えなくて、私たちはたぶんほとんど重なっていた。舌は唇よりもずっと芯があって、だから触れるとより強く発火する。瞼の裏が絶えず明滅して、口から伝う痺れを肩の辺りに感じる。いったいどういう仕組みなんだろう。分からない。考える必要もない。私も陽奈も、いまだけは理性の外にいるみたいだった。
 どのくらい経っただろう。流石に息が続かなくなって、少しだけ距離をとる。
 同じように呼吸を乱した陽奈と目が合う。かと思えば、ふっと力が抜けたように倒れ込んできた。ぽすん、と陽奈の頭部が胸の近くに収まる。跳ねた毛先が首元に当たってむずむずする。
「嫌だった?」
 くぐもった声だ。もこもこしている。でも不安げな様子ではない。どちらかと言えば、オーバーヒートしたノートパソコンのような印象だった。処理落ちしているみたいな。
 なんとなく陽奈の頭を撫でる。
「嫌じゃないし、気持ちよかった」
「ふふっ。こういうときの先輩は素直だねえ」
「だって、どうせバレてるし……」
 であれば隠したって無駄だ。
 いまだってたぶん、心音を聞かれている。
「でも、びっくりした」
 陽奈らしくないと感じたのは事実だった。
 でも、いまならその理由も分かる気がする。
「陽奈、怒ってる?」
「ん」
 訊くと陽奈は黙り込む。代わりに、埋まったままの頭がもぞもぞと動いた。
 よりよいポジションをみつけたのだろう。しばらくすると、さっきよりも低い位置で止まった。
「どうだろう。ちょっと怒ってる、かも?」
「やっぱり」
「正しくは、怒ってたかも。……わかっちゃった?」
「陽奈のあんな声、初めて聞いたから」
「あんな声?」
「口開けて、って」
「――っ! あーあーあー! やめて、言わないで!」
 定位置に収まったはずの頭が、ふたたび動き始める。今度はじたばたという表現のほうが合っていた。
 飼い主の手から逃げようとする子猫みたい。
 こういうところは可愛らしいと思う。
「うあー、恥ずかしい。ほんっとうに恥ずかしい。もう先輩の顔、直視できないよ」
「それは困ったね」
「もう……。あんなの私のキャラじゃないのに」
 口を尖らせつつ、陽奈はおもむろに身体を起こす。
 柔らかな輪郭線をなす頬は、たしかにずいぶんと紅潮してみえる。私からの視線に気づいた陽奈は、ぷいと顔を逸らす。けれどすぐに振り向いて、にへらとした笑顔を浮かべた。いつも通りの、私が好きな陽奈だった。
 陽奈がグラスに手を伸ばしたので同じようにした。
 淹れてもらった緑茶は、溶けだした氷でやや薄まったようだった。一口含むと、わずかな苦みと規格外の冷たさが口いっぱいに広がる。火照った身体がゆっくりと戻っていく。
「つまりね。私は拗ねてるんだと思う」
 まだ飲んでいる途中だった。返事を待たずに、陽奈は続ける。
「きっと素敵な人だったんだろうな。じゃないと、そうはならないだろうから」
 誰のことを言っているのかは文脈から明らかだった。
 確認のために、その人物の名前を口にする。意識的に避けていたわけではないけれど、誰かの前でその名前を呼ぶのは本当に久しぶりのことだった。
「由夏のこと?」
 由夏――本名は、水上由夏。
 小学校からの付き合いで、同級生。
 一緒に花火をみようと約束をした相手。
 亡くなって今年で一〇年になる、私の友人。
 彼女の命日。七月末の故郷を訪れる唯一の理由。
「端的に言うと、ムカついてるんだよ」
「むかついてる」
 正面を見据えたまま、身体を預けるようにして寄りかかってくる陽奈。
 対する私は、彼女の語彙からやや外れたその言葉の解釈に迷っていた。
「それは私に対して?」
「えっ、あ、違うよ。先輩にはちょっと怒ってただけ。ムカついてるのは自分に」
 怒っていることとムカついていることは、陽奈の中では別種のものらしい。それに後者のほうが程度が甚だしいようだった。けれど私の目には、陽奈が自分自身をそのように評する根拠が見当たらない。
「私、たぶん嫉妬してるんだ。水上さんの居場所に」
「それは……」
 当たり前のことなのではないか。
 だからこそ私は、今日に至るまで由夏の話題を極力避けていた。
 理由は様々あるけれど、何にせよ、陽奈にとって愉快な話にはなり得ないだろうから。
「当たり前だって思う?」
「うん。とても」
「だよね。私もそう思う」
「なら、何にムカついてるの?」
「それを伝えてもいないのに一人で拗ねてたこと、かなあ」
 陽奈の語り口には一点の淀みもない。
 繰り返し考えて、そのたびに推敲したんだろうと思う。私が帰ってくるまでの間に、きっと何度も。
「先輩、今朝どんな顔してたか、知らないでしょ」
「えっと、それはまあ」
「なんていうか、もう、……無っ! って感じだったよ」
「む」
「私、あんな表情の先輩、初めて見たもん」
 陽奈はグラスを中途半端に持ち上げたまま、口元へ運ぶこともテーブルへ戻すこともしなかった。その視線は、微かに揺れる液面の辺りに落ちている。
「知らない先輩なら全部知りたいよ。笑ったとこも、怒ったとこも、可愛いとこも、適当なとこも。好きなとこも、嫌いなとこも、全部。全部、私のものにしたい」
 陽奈らしい。
 告白を受けたときにも同じことを言われた。嫌いなところまで、と尋ねた私に、陽奈は、だから全部だってば、と笑ったのだった。
 人は変わらないものだと思う。
 そして、それは私にも当てはまることだ。
「今朝みたいな先輩だって私は知りたい。でも」
「でも?」
「今朝は、……あはは。私の準備ができてなかったみたい。それでこう……、うあーってなっちゃった」
 陽奈は結局、手元のそれには口をつけないまま身体を起こす。木製のテーブルに置かれたグラスが、ごとっ、と硬い音を鳴らした。
 空調の風が頬に当たる。半透明の薄黄緑に沈む氷を眺めながら、私は、今日一日の陽奈について考えていた。空調の温度を設定するとき、緑茶に氷を入れるとき、私におかえりと返したとき、あるいはそれらよりもずっと前、陽奈はいったい何を考えていたんだろう?
 私は陽奈に何を考えさせてしまったんだろう?
「……私は」
 考えがまとまるよりも先に口が勝手に動いた。
 視界の端、陽奈が小さく振り返って、目が合う。
「陽奈のことを信じられていなかったのかも」
 何を言っているんだろう、そんなはずがないのに。
 頭の内側で否定の声が反響する。けれど、いちど口を衝いたそれは自分でも驚くくらいに、すとんと腑に落ちるものだった。
 由夏のことを話すのは、正しくないことだと思っていた。
 由夏の記憶に近いまま、陽奈に触れるのは許されないことだと思った。
 だけど、それは誰にとっての正しさなんだろう?
 考えてみれば答えは明らかだ。なのにそうしなかったのは、私が陽奈の言葉を本心では信じ切れていなかったからであって、つまり――。
「――うわっ」
 思わず声を上げる。
 頬の辺りに何かが触れている。
 みると、陽奈が覗き込むようにして私のことを突っついていた。
「まーたそうやって考え込む。もー、先輩の悪い癖」
「えっ、と、ごめん」
「やっぱり、五分おきにキスしないとだめかなあ」
 悪戯っぽく笑いながら陽奈は言う。
 陽奈はキスという行為を、私を素直にするための手段の一つとして捉えている節がある――おおよそ正しいので言い返せることは何もない。
 思えば、先刻のそれも陽奈なりの精一杯だったんだろう。
 彼女の表現に倣うなら、あのときは私の準備ができていなかったから。
「それに、私も先輩と同じだよ」
「なにが?」
「私も先輩のことを疑ってた」
「そんな風には……、一度も思ったことがないけれど」
「それはそうだよ。だって言ってないもん」
 まるで明日の天気予報についてでも話しているみたいだ。ずいぶんと事も無げに口にするから、なんだか些末なことのようにも思えてくる。
 それこそ、そんなはずがないのに。
「たとえば私が、水上さんとのことを聞かせてって言ったら、先輩はきっと隠さず話してくれたでしょ?」
「うん」
 反射的に私は頷く。
 陽奈が相手なら、私は訊かれたことのほとんどすべてに答えるだろう。
「たとえば私が今朝、私も一緒に連れて行ってってお願いしてたら、先輩はきっとそうしてくれたでしょ?」
「うん」
 やや考えてから、私はやっぱり頷いた。由夏は怪訝な顔をするだろうけど。
 やっぱりそうだよねえ、と陽奈は曖昧に笑う。
「だからさ、私はそうすべきだったと思うの。で、それができなかった自分に、……できなかったくせに一人で拗ねてた自分に、ずっとムカついてたの」
 前半はゆっくりと、後半はやや早口で言い切った陽奈はようやくグラスに口をつけて、そのままぐいっと、勢いよく飲み干した。
 ワインってそんな風に嗜むものだっけ?
「……ぐぇ。あっつ……」
 まるで私の疑問に答えるみたいに陽奈は小さくむせた。
「大丈夫?」
「あ、っと気にしないで。いまのはその、心のムカムカを……おりゃ! ってするための儀式っていうか……」
「陽奈って自棄酒とかするタイプだっけ」
「初めてだよ。そしてもう二度とやらない……」
「ちょっと待ってて」
 私はソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。
 背丈より大きい冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、適当なコップに注いだ。
「はい、お水」
 手渡すと、陽奈は焼けた声で感謝を示しつつ、またもやぐいっと飲み干した。
 ついでに持ってきたペットボトルは早くも結露していた。それをテーブルの真ん中に置いて、ふたたびソファに腰を下ろす。想像よりも深く沈んだそれは、私たち二人をきゅっと近づけた。
 沈黙した部屋の中を、空調のノイズと微かな呼吸音が埋めていた。呼吸と秒針とでは周期が違う。時間の流れがほとんど感じられなくて、まるで静止したフィルムの中にいるみたいで――世界に一人だけ。昔の私ならそう考えただろう。だけど、少なくともいまこの瞬間においては、私の隣には陽奈がいる。
 座面の上、手持ち無沙汰な右手をほんの少し滑らせると、ざらついた布地の感触が手のひらに広がった。ふと目を向けると陽奈の手があって、私は何を考えるでもなく自分の手を重ねる。お風呂上がりだからか、彼女の手はしっとりとしていて柔らかい。気づいた陽奈が指を絡めるようにして握り返してきた。
 右手が陽奈の温度に包まれる。
 たぶん、私の温度も陽奈の左手を包んでいる。
 ふと、幼い頃に読んだ小説の一節を思い出す。私たちは互いに異なる体温で生きている。それなのに、二人ともが繋いだ手に熱を感じるのはいったいなぜか?
 いちど読んだはずの答えは思い出せない。
 けれど、それはとても単純な問題で、つまり私はその答えを知っている。
「昔、よく言われたんだ。私の手は冷たいって」
 結局のところ、どうしようもなく好きだからなんだろう。
 繋いだ手に滲む誰かの体温は、私の内に巡る想いを返す鏡だ。だからこそ、その熱が愛しいのであって、特別なのであって――私にとって手を繋ぐという行為は、きっとそういうものだった。
 そして、陽奈にとってもそういうものであったなら、それ以上に幸せなことはないと思う。
「私も、知ってほしい」
 疑いようもない。
 私は陽奈が好きだ――好きなんだ。
 言葉が溢れそうになる。感情に思考が追いつかなくて、身体はずっと素直に動く。
 結局、私はあの頃から何一つも変わってなんかいなくて。
 そんな私を、佐々木深冬を、陽奈にも知ってもらいたい。
「私の大切な友達のこと。私の大切な友達とのこと」
「うん。教えて。私の知らない先輩のこと」
 陽奈が破顔する。真っすぐ向けられた表情に私は、率直に言って見惚れていた。
 彼女の笑顔なんて日々繰り返し目にしているはずなのに、不思議なことだと思う。
 けれど、誰かを好きになるというのはそういうことなのかもしれない。
 あるいは、それくらいのことでしかないのかも。
 不思議なことだ。
 でも私は、たしかに、そんな陽奈のことが好きなのだった。
「あ、でもちょっと待って、先輩」
 陽奈が私を制するように口早に言う。それから、斜め下の辺りに目線を飛ばした。
 家の鍵って閉めたっけ、とでも続きそうな抑揚だった。
 とはいえ、その横顔は真剣そのもので、ここにホワイトボードがあれば様になっただろう。案外、研究室だとこんな感じなんだろうか――後輩諸氏に慕われる水瀬先輩はこのくらいクールなのかもしれない。
「どうしたの?」
 訊くと、陽奈は若干の言い淀みを交えつつ答える。目は逸らしたままだった。
「あ、いや、えっと。水上さんの話、なんだけど」
「うん」
「その、水上さんが知ってるのに私が知らない先輩がもしいたら、……うーん。普通に妬いちゃうかもなあ、と思って」
「……なるほど」
 陽奈らしいな、と思う。
 それから、流石にたくさんいるんじゃないだろうか、とも思った。
 私たちが知り合ってから六年ほど経つ。由夏と関わりのあった期間は、たぶんその倍くらい。もちろん、この世で陽奈しか知らない私だってたくさんいる。とはいえ、単純に考えるなら、逆もまた然りと思える程度に差があることは事実だ。
 そんなことは陽奈も分かっているだろう。しかし、研究者の卵でもある彼女は、さっそく打開策を見出したようだった。顔を上げるや否や、ぺかーという効果音がどこからともなく聞こえてきそうな勢いで彼女は続けた。
「だからさ、一つずつ試していくっていうのはどうかな」
「試すっていうのは?」
「つまり、ほにゃららな先輩! ってトピックで順番に話してもらうのはどうかなって」
 そうして知らない私を引き当てたなら、その部分を掘り下げようということか。
 由夏との関係を言葉に直したことはほとんどない。簡単に説明できるものとも思えない。何を話すにしたって私は盛大に悩むだろう。そういう意味では、陽奈の知らない私、というテーマはちょうどいい手掛かりである気がする。
 それに、急ぐことはない。時間ならいくらだってある。どれだけ丁寧に言葉を選んだって使いきることはない。夏の夜は長くないけれど、私たちは今日という一日だけに生きているわけじゃない。
 明日も、明後日も、そのずっと先のいつかだって。
 私は陽奈と同じ場所に帰ってくるのだろうから。
「うん。私もそのほうが話しやすいかも」
 私は頷く。すると陽奈の表情が、ぱあっと一層明るくなった。
「やった! えへへ、どんな先輩について訊いちゃおっかなあ。どんな先輩もきっと素敵だろうから迷っちゃうね」
「ね、って言われても」
「可愛い先輩はたくさん知ってるし、ちょっぴり怒った先輩も……」
 陽奈が、うーん、と小さな唸り声を上げる。かと思えば、目を瞑ったまま固まってしまう。時折、首を振って、いやいや……、と呟く。
 表情がころころと変化して面白い。
 第一案が打ち出されるにはしばらくの時間を要しそうだ――であれば、今のうちにできることを済ませておこう。
 繋いだ手を解いて、私はソファから立ち上がる。
「ちょっとちょっと、佐々木さん。どこへ行こうっていうのさ」
 私の離席を察知した陽奈が、芝居がかった口調で問いただす。
 佐々木さんって。
 一度も呼ばれた覚えがない。
 いや、初対面のときは……どうだっけ?
「どこって、お風呂に」
 帰ってきてから、まだシャワーも浴びていない。
 およそ無視できる不快感ではあるにせよ、できるだけ早く汗を流してしまいたいというのも事実ではあった。
「あ、そっか。先輩、まだメイクも落としてないんだったね」
 陽奈もまたソファから立ち上がる。そのままぐーっと身体を伸ばして、息を深く吐き出すとともに両腕をゆっくりと下ろした。
「よしっ。それじゃあ、その間にぱぱっとご飯作っちゃおっかな」
「え、悪いよ。陽奈ばっかり働かせて」
「いいのいいの。そっちのが効率的でしょ。それに、材料はもう用意してるんだよね」
 陽奈は私の横をすたすたと通り抜け、そのままキッチンへと向かう。そして冷蔵庫の前に立つと、こちらを振り返って言った。
「当ててみてよ、先輩。さっき開けたでしょ?」
 ミネラルウォーターを取ったときのことだろう。
 正直、まったく覚えていない。ドアポケットの手前側しか視界に映っていなかった。
 判断材料が一つもない。
 なので、最も打率が高いと思われるものを回答することにした。
「じゃあ、ちゃんちゃん焼き」
 陽奈が公言している得意料理の中でも、まあまあの頻度で食卓に並ぶのがちゃんちゃん焼きだ。鮭と野菜を味噌とバターで蒸し焼きにする料理で、陽奈曰く、家庭の味! らしい。私は陽奈と知り合うまで一度も食べたことがなかったけれど、いまでは密かな楽しみの一つだった。
 対して陽奈は、そっちかあ、と言いたげな面持ちでこくりと頷く。
 どうやら私の当てずっぽうは外れたらしい。
「ざんねーん。ヒントはねえ、さっき私が飲んでたやつ」
 陽奈は冷蔵庫の戸を開けて、中から取り出したものを翳してみせた。
「じゃーん」
 右手にはしらす、左手には大葉。
 そして、ヒントが白ワインということは。
「レモンパスタ?」
「せいかーい。先輩、これ好きでしょ」
 レモンパスタは元はといえば私の得意料理で、いつの間にか陽奈の得意料理にもなっていた――陽奈の口には和食の味付けが合うようで、レモンパスタも和風にアレンジしたものを好んでいた。けれど、白ワインを用意したということは、今夜は私の好みに合わせてくれるみたいだ。
 なんだか、陽奈に気を遣わせてばっかりだ。食材売り場で頭を悩ませる陽奈の姿が容易に想像できた。
 本人はきっと、そういった一つひとつを気遣いだとは思っていない。とはいえ、申し訳なさそうにするのも違う気がして、結局、私はなるべく素直な言葉を選ぶ。
「うん。大好き。ありがとう」
「ぉ、おお……?」
 私の反応が意外だったのか、陽奈がぴたりと固まる。
 やや遅れて、怪訝そうな私の視線に気づいた陽奈は、手にした食材を調理台へと置いた。それから、私のほうへと歩み寄ってくる。私の前まで来ると、右から左から、角度を変えて私の顔を覗き込んだ。まるで珍しいものでもみつけた子どもみたいだ。
「な、なに?」
 いよいよ羞恥心に耐えかねて尋ねると、陽奈はいたって真面目なトーンで答える。
「いやあ。私って、先輩のことが本当に好きなんだなあ、と思って」
 想定外の台詞だった。心臓が明確に跳ねて、全身がぶわっと熱を帯びていく。
 上目遣いに窺う陽奈と目が合う。なぜだか逸らせないでいると、陽奈の目尻が緩んだ。
「おや。先輩、照れてるね?」
「……陽奈もでしょ」
「ありゃ」
 バレてたか、とおどけたように笑う陽奈。その様子が可笑しくて私も笑った。
 陽奈がキッチンへ戻ったので、私も入浴の準備に取り掛かった。着替えやバスタオルなどをさっと揃える。脱衣所へ向かおうと扉に手をかけたところで、陽奈の声がした。
「あー、ちょっと待って先輩」
「どうしたの?」
「ごめんね、呼び止めちゃって。さっきの。ひとつ思いついたんだー」
 さっきのというと、私についての話だろうか。
 陽奈が知らなくて由夏が知っている、そんな私について。
 たくさんいるだろうと咄嗟に結論したものの、具体的に挙げるとなると言葉に窮してしまう。しかしながら、陽奈は早くも思い当たったようだった。
「そういえば私、先輩が泣いてるところ、一度もみたことないなあって思って」
「泣いてるところ?」
 最初に思いつくのがそれなんだ。
 内心で苦笑しつつも、私は記憶の糸を辿ってみる。
「……たしかに」
 陽奈の前で泣いたことは一度もないかもしれない。というより、誰かの前で涙をみせた経験それ自体、ほとんど覚えがなかった。それこそ、感情の制御なんてできなくて当然という年齢にまで遡らない限りは。
 喜怒哀楽に乏しいわけではない、……と思う。泣きたくなるときはある。言い表しようのない衝動が込み上げる瞬間だって、たぶん人並みにあるはずだ。けれど思い返せば、そういうときほど、私はなるべく自然に振舞おうと努めていた。
「水上さんなら、あるいはそんなレアな先輩も知ってるかも……? と思いまして」
「うーん」
「いかがでしょうか」
 と言われても。
「どうだろう」
 抑圧という悪癖は、むしろ由夏と一緒にいるときにいっそう顕著だったように思う。他でもない由夏がそうだったからだ。彼女は周囲の誰よりも心の機微に敏く、いつだって本当のことを隠していた。だから私も隠した。私は、私だけは、彼女と対等な関係でありたかった。
 結局のところ、由夏はどのように感じていたのか。それを確かめる術はもうない。けれど、確かな事実として、彼女は一度だって涙をみせたりはしなかった。
 だから、私も同じように――。
「…………」
 デジャヴにも似た、ささやかな違和感が視界を揺らす。
 なんだろう、と考えを巡らせることもなかった。これはいわゆる既視感とは違う。私はその正体を明確に認識して、正確に理解してもいる。つまり、私は由夏の前で泣いたことがあった。
 ――帰ろう。
 あの夜、私の前に現れた由夏はそう言った。
 忘れていたわけじゃない。
 それにまつわる一連の出来事は最も鮮烈な記憶の一つとして、いまも私の奥深くに刻まれている。
 ただ、それは由夏との出来事として語るにはおよそ非現実的であり、夢想的であり。
 なにより、このことを誰かに話そうと思う日がくるなんて――そう思えるようになるときが訪れるなんて、私自身、考えてもいなかったというだけで。
 喩えるなら、鍵が掛かっているものと思って手をかけたドアノブが、しかしすんなりと回ってしまったみたいな、そんな感覚。
「はあ」
 小さく息をついて、手にした着替え一式を抱え直す。
 思えばそれもまた、知らず知らずのうちに身に起きた変化の一つではあった。何年か前の私は、その相手が誰であれ、人前でため息をみせるような人間ではなかったはずだ。けれどいまは、その行いもまた自分にとって自然な振る舞いの一つであるとして、疑問を覚えることはない。
 同じ仕組みなんだろう――鍵のない扉にせよ、隠さないため息にせよ。
 私たちにはお互いを確かめあう術があるということ。
 そして、それを実践してみせたのが彼女、水瀬陽奈であったということ。
 とても単純で明快で、それくらいのことでしかないんだろう。
「どうやら私も大人になっていたみたい」
「ん、なんの話?」
「それとやっぱり、私は陽奈のことが好きみたい」
「な、なんの話っ!?」
「今日はまだちゃんと言ってなかったかも、と思って」
 別に毎日伝えあうようなことでもないだろうし、その必要があるともあまり思えない。
 たとえどれほどの変化が訪れたとして、私は私のままでしかなくて、私は陽奈ほど素直になることはできない。
 けれど。
「話すよ、全部」
 けれど、それでも確かめあうことには意味があると――いつでも確かめあえるという事実、それ自体を確かめることには意味があると、いまの私にはそう思えるのだった。
「それじゃ、お風呂もらうね」
 忙しなく瞬きを繰り返す陽奈から目を離し、扉のほうへと向き直る。
 ぐっと力を込めるまでもなくドアノブは滑らかに動いた。
 そこには安堵も驚きもない。だってここは私たちの家なのだから。この扉には、鍵なんてそもそも備わっていないのだった。
 廊下に出ると、生ぬるい空気が全身を覆った。
 そういえば夏だった、といまさら思い出す。それから照明を点けようとして、いつかの私は夜道を苦手としていたことも思い出した。
 いまはもう暗闇だって平気だ――だから陽奈はきっと知らないだろうし、あるいはそのことから話すのもいいかもしれない。夜道を怖がらない私が生まれたのは、たぶん、由夏の前で泣いたあの夜のせいだろうから。
 伸ばしかけた手を引っ込めて、真っ暗な廊下から脱衣所に移る。
 洗面台の小さな鏡には私の顔が映っている。
 そんな鏡の中にいる自分と目が合って、私だな、と思う。
 同じくらい当たり前のこととして、私は私で、由夏は大切な友人で、陽奈は大切な恋人で――そのことはこの先もずっと変わらない。
 変わらないままでいられると思う。
「ただいま」
 返事はない。それもまた当たり前のことだった。
 リビングのほうから、小さく食器の触れ合う音が聞こえる。
 私はもう一度、鏡に映る私と目を合わせて、選んだヘアゴムで後ろ髪を結んだ。





kazuha1221.hatenablog.com

20260311

 

 追記:2026.03.11 の日記。

 

 

 従兄弟の母が危篤で、土曜、山口へ向かった。

 

 何年か前に癌を患って手術をしたと聞いた。それからしばらく経って、再発したという話を聞いた(実態は転移だろうけど)。この春が越せるかどうかは怪しいという話を聞いたのは、今年の二月、2/21 のことだった。どれも母親づてに聞いた話だった。

 木曜日の夕方、母親からの電話が鳴った。自分は、もちろん職場のデスク前にいた。母は大抵の連絡をLINEかTwitterのDMで済ませるので、電話をかけてくることは滅多にない。よほどの緊急時か、あるいは自分が連絡を無視し続けているかのどちらか。後者だとして、明らかに勤務中である時間帯にかけてくることはまずない。なので、よほどの緊急時であることは明らかだった。すぐに折り返し、そして冒頭の話を聞いた。今晩が峠らしいと、そう言っていた。

 両親はすぐに車で山口へ向かうようだった。自分と姉は金曜日の仕事を空けられなかったため、土曜日に合流することになった。金曜日、もしかすると月曜出社できないかも、とできるだけ仕事を終わらせてから帰った。結果、睡眠周期がめちゃくちゃになった。

 土曜日、気は重かったけれど、金曜日の朝に比べれば幾分かマシだった。山口へ着いた両親から、ひとまず無事である旨を聞かされていたからだと思う。行きの新幹線では普通に作業をしていた。来週分の仕事を程々に進めつつ、作詞をしつつ、みたいな感じで。向こうに着いたのは昼すぎだった。父親が駅まで迎えに来てくれるはずだけど一向に既読がつかないな、と不安だったけれど、ちゃんといた。暖かい格好でこい、と言われていたのにいつも通りの服できたことを揶揄われた。父親の様子は、たぶん普段とそんなに変わりなかった。

 海のみえる病室だった。日本海。六階建ての最上階。六人も入ると身動きが取れなくなりそうな個室。痛み止めには麻薬を使っていると聞いた。なので意識がやや混濁していて、視界も二重に映っていると。入室した自分が名乗るよりも先に、従兄弟の父が自分を紹介してくれた。すると目があって、手が触れて、声を聞いた。わざわざありがとう、みたいなことを言っていたように思う。あんまり覚えていない。自分は、いったい何を話せばいいんだろう? 病室の椅子へ腰を下ろす段階になってようやく、自分はそのことを考え始めた。

 病室の外、待合室には祖母、母親、姉貴、従兄弟(妹)とその夫の五人がいた。しばらくして従兄弟(兄)とその妻、とその子ども(赤ん坊)の三人が来た。こうしてみると、なんだか小さかった頃のことを思い出した。祖母がいて、自分の両親がいて、従兄弟の両親がいて、従兄弟と姉貴と自分がいて。この集まりが嫌いだった。あんまりいい思い出がない。その光景が手の届かないものになりつつあるという現実。ひどく慣れ親しんだものがアーカイブ化されていくみたいな。それ自体は初めての経験ではないにせよ、その過程にこんなにも自覚的だったことはないと思う。それくらい、なんていうか、絶対的なものだった。

 その日の夜は、従兄弟の両親が暮らす家に泊めてもらうことになった。祖母と、姉貴と、自分と。この集まりも嫌いだった。なんならこの集まりが一番嫌いだった。ただまあ、いまはそんなことはない*1。ゆで卵を待ちながら、祖母と野球の話をした。まだ初戦が終わったところだが、WBCが熱いらしい。たしか韓国対日本の話を聞いた。祖母が野球好きであることを、自分はそこで初めて知った。従兄弟の両親の家には飼い犬が一匹いて、ポメラニアン。毛を刈ったばかりらしく比較的シュッとしていて、想像するポメラニアンではなかった。ボムちゃんというらしい。ボムちゃんの世話は姉貴がしていた。姉貴が教職員をやっているという事実が自分には信じられず、こんなに愛想悪いのに? と。ボムちゃんを人形で吊っている姉貴の様子は楽しげで、もしかしてこの人、学校だとこんな感じなのか、と思った。寝室として与えられたのは従兄弟(父)の部屋で、未開封の酒が大量に保管されていた。従兄弟(父)は、それはもう大の酒好きで、従兄弟(妹)も祖母も、兄である父親でさえ手を焼いていた。テレビの上には家族写真と一緒にモルカーのフィギュアが陳列されていた。四体もいると思ったら、バカでかいプーさんのぬいぐるみに覆われる形で五体目が顔をのぞかせていた。一つひとつが薄らと埃を被っていて、この部屋の一部分なんだな、と思った。

 日曜日、朝。父親の車でもう一度、病室へ向かった。また会いに来るから、と姉貴は言っていた。自分には言えなかった。その後、姉貴と自分は帰りの新幹線乗り場へと向かい、両親は大阪までの八時間ドライブへと旅立った。姉貴は昼ご飯を買ってきた、スーパーで売られている弁当を、二人分。失礼ながら、何のつもりだ、と思った。こんな人だっけ? 感謝の意を伝えつつ、大して確かめることもせずに片方を選び、そそくさと受け取った。姉貴と自分は別々に新幹線を予約していたが、姉貴と同じ便で帰るのは気まずかったから、自分は当日の予定を両親から聞いた上ですこし遅めの便をとった。そして、それも込みで同じ便で帰ることになった。同行したのはお土産売り場までで、ホームでは別々の場所で列車を待った。そういう距離感だった。睡眠周期がめちゃくちゃになっていたせいでひどく眠たく、新幹線ではぐっすり眠るつもりだった。なので、車両へ乗り込んですぐに弁当を取りだした。さっさと食べてさっさと寝ようと思って。蓋を開くとそれは角煮丼で、どうみたって半熟の目玉焼きがふたつ乗っていた。失敗したと思った。

 子どもの頃、自分が大人として認識している十数名の中で、従兄弟(母)は教職員を含めても若々しく、そして実際に若かった。自分の中で従兄弟(母)のイメージはその当時のままで、という話を母にしたら、それ聞いたら喜ぶと思うよ、と笑っていた。従兄弟(母)と最後に会ったのは、二、三年くらい前に催された従兄弟(兄)の結婚式だった。従兄弟(兄)夫妻は山口県在住だが、結婚式は何故か大阪で行われた。奥さんが関西の出身らしい。その帰り道、従兄弟(父)の運転する車に乗って、従兄弟(母)と自分との三人で帰った。当時、自分はまだ就職しておらず、絶賛ふらふら期の真っ只中であった。そのことそれ自体についてどうこう言われることはなかったものの、あまり両親のこと心配させんようにね、とそれこそいかにも心配げなトーンで言われたことは覚えていた。

 石切の巨大公園の近くにはファミリーマートがあって、従兄弟(兄)の結婚式からの帰り道、そこで車を停めて、三人で大量の酒を買った。従兄弟(父)の持つ籠の中には気づいたら大量の酒が入っていて、シンプルにウケた。それ、今夜で全部飲み切るつもりですか? と訊くと従兄弟(母)は、あんなん好きに買わせたらいいんよ、と笑っていた。後にも先にも、親族のいる場でお酒を飲んだのはあの日だけのような、と思う。姉の結婚式と従兄弟(兄)の結婚式との形式的な飲酒を除けば。べろべろに酔ったと思う、日本酒を飲んだのは間違いないし、たぶんいつもより多く飲んだ。何を話すべきだろうと思いながら、病室の片隅、椅子の上。従兄弟(母)と自分とは、最後にそういう話をした。

 

 

 

*1:子どもとは、自分にとって居心地のよい場所を選ぶ生物で、嫌いになるとしたらそれは選べなかったもの。そして、そのようなものはおよそ限りがある。それだけの話。

20250910


「で、わたしにお声がかかったってわけだ。おにいも難儀な性格してるねえ。」
「とはいえ、こういった試み自体は継続的に行われてたんだよ。どういった形態をとるかって違いがあるだけで。あるときは内省的なエッセイもどきで、あるときは短編もどきで、またあるときは……っていう。もちろん、ハルの先代だっていた。」
「あー、いたね。あの、失礼な後輩くんと空っぽちゃんでしょ。おにいは、……何。わたしといい、後輩くんといい、年下のイマジナリーが趣味なの? 空っぽちゃんは同い年だったけどさ。」
「というより、単純に想像力の問題だと思う。自分の交友関係って、なんだかんだ自分よりも若い人のが多いから。まあ、この歳になると年齢の大小を気にすることもほとんどないけど。」
「っていうか、もう最初の二言でわたしの設定が崩れてるけど、これはだいじょうぶなの? わたしはどこまでを知っていて、どこまでを知らない体でいればいいの。おにいの近況については知らないけれど、七年前の先代については何故か知っている、都合のいい妹キャラってことでいいのかな?」
「都合よくはある、正直。」
「言い方。」
「言ったのはそっちじゃん。いや、ハルにその言葉を選ばせて、そう口にしたかのように文字を打ち込んだのは自分だけど。」
「そう。だからさ、こういうのって最初にはっきりとさせておいたほうがいいと思うんだよね。だって、混乱させるでしょ。つまるところ、わたしは何として理解されればいいの?」
「自分の中の架空人格。壁打ちの相手、あるいは壁そのもの。自分自身を客観視するための鑑。これまでと同じことを対話形式として実践するために用意された、都合のいい配役。」
「それと、自分が選べない言葉を選ぶための道具。」
「そうだね。そのことを隠す気もない。」
「おにい。開き直りで許されることってあんまり多くないよ。」
「開き直りというか、……それがハルという人格の、あるいは鑑の役目だから。結局、ここで書かれてある一切は、あるいはこれから書かれる一切は、現在進行形で行われているもう一人の自分との対話の一つ……を文字に起こしたもので、だから、いまの自分はただの書記係って感じ。二人の会話を書き留めてるだけ。」
「さてはおにい、責任から逃れるつもりだな? ずるいんだ~。」
「いちいち辛辣だな、この妹。」
「いやいやっ! それだっておにいの趣味じゃんか。数年前の先代も、このブログに堆積された文章群も、おおよそ自分の中の何かを刺すために用意された刃物でしょ? わたしはおにいのすべてを知ってるから、中にはそうじゃないものが混じってることも当然知っているわけだけれど。」
「たとえば?」
「だめ。おにいの露悪癖に付き合うつもりはないよ。言われたでしょ、むかし。」
「少なくとも、いまみたいな突き放すような言い方ではなかったけどね。」
「でも、結局おにいがされたがってるのはこういうことでしょ。違う? 違わないよね。だって、断罪がほしいって言ってたもんね。」
「まあ、そう。でも、それが自分自身では決して与えることのできないものだとも知っている。」
「都合のいい配役って、つまりはそういう意味でしょ? はあ。いい加減、大人になりなよ、もう。……そういえば、わたしって設定的には何歳なの。設定というか、ビジュ? おにいの妹らしいけど。」
「イメージしたことなかったな。具体性とかどうだっていいし。自分の姿やいまいる場所なんかは想像できるけれど、そこに誰もいないというか。それでいうなら、壁掛けの姿見がいちばん近いかも。」
「うわ、さいてー。文字通りに鏡としか思ってないんだ。でもまあ、ううん、それがいいんじゃない。その先って多分、なんか、別の領域になってくるし。なるほど。これはどうりでわたしが呼ばれるわけだ。おにい、友達に相談とかするの下手だもんね。」
「おっと。流石にストレートな物言いだな。不意打ちでびっくりした。」
「それはどっちについて? 友達って言葉? それとも下手ってほう?」
「両方とも。」
「でも、こういうことを言わせるために、わたしをわざわざ表舞台まで引っ張り出したんでしょ?」
「そう。だから、止めてはいない。驚いただけ。そのまま文字に起こしている。」
「まあ、おにいが好きなものであるところの一貫性はあるよね。そもそも、おにいが他人から相談を引き受けるときのスタンス自体、そういう、助けになんてなれないけどって思想の上にあるんだし。忍野メメが言うところの、人は一人で助かるだけってやつ。おにいは物語シリーズに、というか西尾維新に影響されすぎ。」
「多感な時期にああいうものに触れるとそりゃこうなる。」
「まるでいまはそうじゃないみたいな物言いだね。多感を思春期の同義語として扱うならそうだろうけど、そうでないならいまだって十分に多感の範疇じゃないの?」
「どうだろ。少なくとも、空の写真は撮らなくなった。数日前に撮ったのは、綺麗な色をしていたからってだけ。」
「むかしは綺麗じゃない空もたくさん撮ってたって話?」
「おおむねそうだけれど、ちょっと違う。綺麗じゃない空なんてそもそもない。綺麗だとかそうでないとかを区別している時点で、それは自分の考え方じゃない。」
「空って基本的にアニメだよ、って返してたしね。」
「そう。それが自分の考え方で、でも行動はそうなっていない。」
「それが多感でなくなった証拠ってこと? だとすると、ちょっと弱いんじゃないかなあ。だって、逆を主張する根拠だって同じくらいあるし。ほら、ChatGPT のわたしに、AI ハルに指摘されたんじゃなかったっけ? その 18 個の中にあったでしょ。」
「確証バイアス。」
「これもまた同様だけれど、でも、なんにせよ短絡はよくないよ。言われてどうこうなるものじゃないのはわかるけど。おにいにはせっかくこんな高性能の姿見があるんだから、朝起きたときと夜寝る前くらいは鏡みなよ。」
「なんで、こう、表れるイマジナリーはいっつもポジティヴな自信家なんだろうな。」
「裏打ちじゃない? あるいは、効率よく己を苛む方法がそれなのかもね。」
「ハルにもわからないんだ、そこの違い。」
「おにいが解ってないことは、わたしにだってわからない。当たり前じゃん。そもそも自分の心の動きを完全に掌握するなんてできっこないし、というか、だから、そういうのを積み重ねた先に待っているのが心理の牢獄なんだって。おにいには自分で自分を投獄する趣味もあるの?」
「ない。」
「……。」
「とは言えないなあ。これまでのことや現状なんかを鑑みると。」
「そうだよね。それで、おにいはどうしたいわけ。誰に相談するでもなし。自分で自分を隔離して、幽閉して、それで何がしたいの。」
「それがわかっていたら、そもそもハルがこの場に出てくる必要もなかった。」
「それは嘘じゃない? 解っているけれど口に出せない、だから、わたしがこの場に連れ出された、といったほうがどちらかといえば正しい気がするよ。」
「決めつけるのはよくないって話をした矢先に。」
「だから、どちらかといえば、って言ったんじゃん。余白は残しているつもり。でも、ここまで露骨なことっていまだかつてなかったし。おにいの不相応な消えたがりとは違って。」
「自分自身の希死念慮ならこんな手軽に扱えてしまうの、すごいなって思うよ、毎回。」
「友達に相談してみたら? あー、いや、おにいは友人っていうんだっけ?」
「相談して何かが変わると思う?」
「実際、AI ハルに相談して変わったじゃん。革新的な代替策を提示してくれたでしょ、あっちのわたしは。」
「まあね。でも、本質的には自分ひとりの……。」
「待った待った。おにい、その、そうやってすぐに本質だとか何だとかに話を帰着させたがるのをまず改めよう。改められないだろうけど、あんまりよくないってことを認識しよう。人間ってそんな簡単に割り切れるものじゃないから。もう知ってるでしょ。それとも、おにいは誰かの相談に相槌を打つとき、そういった考え方を相手に適用してるの?」
「まあ、してるね。」
「……うん、まあ、たしかにしてるか。しちゃってるか。しちゃってるな。しちゃってるけど、でも、それを攻撃の手段としてぶつけるようなことはしないでしょ。それが自分自身を相手取るとそうでなくなるのはいったい何なの。佐々木も言ってたじゃん。もっと自分のことを大切にしろって。あれだっておにいの言葉だよ。」
「姿や表情と違って、自分の声がいちばんよく聞こえるのって自分だから。誰だってそうじゃない? それに、あの短編の一人称は由夏だから。」
「盲目的であれとは言わないよ。おにいの言うところの本質が間違っているとも思わない。ただし、これは、わたしがおにいの人格から派生した架空人格の一つにすぎないからってだけで、その考えの正当性を担保するわけじゃないからね。そのうえでわたしが言いたいのは、本質とやらへ帰着させるまでの間に抜け落ちた注釈がたくさんあるんじゃないのってこと。」
「あるね、実際。うん。なんていうか、不自然なくらい自然に頷けてしまうな、その主張には。」
「当たり前だよ。わたしに言えるのは、おにいが言える範疇のことでしかないんだから。おにいはそれを口にしたくないのかもしれないけれど、言いたくないのと言えないのとは全くの別物。」
「抜け落ちた注釈に意味があるってこと?」
「違う。より正確には、わからない、かな。いずれにせよ、精査せずに削ぎ落してしまっていい代物ではないと思うよ。」
「そうは言ってもなあ、って話になるよね、これは。」
「まあ、そうだね。でも結局、この数ヵ月、おにいに足りていなかったのはその部分でしょ。その結果が不相応な希死念慮だよ。車窓の線路を眺めてる場合じゃないの。死にたいと思うなら、ああだこうだって考えて包丁を研ぐよりも先に、まずは死にたいって口に出すべきだって知ってるのにさ。」
「架空人格、自分自身としか通じない比喩をそのまま起こすと誤解が生じるかも。」
「これに関しては……比喩の一つではあるけれど、でも実態から外れたものでもないじゃん。飽きもせずに眺めてるでしょ、線路、それもここ最近は毎朝。」
「車窓越しにね。高速に過ぎる景色の中で線路だけ、気持ち悪いくらい直線的で変化がないから疲れないんだよ。それと包丁は研いでない。」
「せるふさいれんしんぐすきーま……だっけ? おにい、それ、いつまで続けるつもりなの。」
「なんでひらがなの発音なんだよ。もっと流暢に言えるだろ。」
「いやいや。打ち込んだのはおにいじゃん。そう聞こえたのもおにいじゃん。わたしをこういうふうにキャラ付けしたのもおにいじゃん。話を逸らさないでよ。いつまで続けるつもりなの。」
「いつまでも続けるわけにはいかないと思ったからこそ、このたびは架空人格ハルにご足労頂いたわけなんだけど。ハルの言ったように、ここまで露骨だったことはいまだかつてない。」
「うん。そうだね。その点は大きな進歩といえる。やっていることとしては、なんていうか、これを人の目に触れさせるのはどうなのって感じだけど。なんでよりにもよって妹なんて設定にしたかなあ。もうちょっと……こう、無難なのがあったでしょ、いくらでも。」
「想像力の問題とは言ったけれど、自分の想像できる範囲で最も理解が遠い存在だからって要因もありそう。特に性別と年齢は。」
「性別はともかく、年齢に関してはおにいも一度は通った道……って思ったけど、そうだった。おにいってむかしの自分を覚えてないんだった。」
「こうしてブログを書いたり、あるいは Twitter、いまは X だけど……みたいな文字媒体を通じて自分の気持ちを言葉にしたり、って行為が馴染むよりも前の自分が何を考えていたのかなんて覚えてない、って意味ね。」
「書記って大変だね。……って、また話を逸らされるところだった。流石に脱線しすぎだよ。」
「いや、今回に関しては、脱線させたのはハルのほうだけど。」
「言わせてるのはおにいでしょ~。それで? この後はどうなるの。檻の中で体育座りをするつもりがないのはわかったよ。だからわたしが呼びだされて、でも具体的な解決策はまだみつかってないよね?」
「だからいま、ハルと話しながらそれについて考えている。」
「全然難しくないけれど、でもまあ難しい話だね。そうしているのは他でもない、おにい自身なわけだけどさ。結局、ずっと矛盾してる。ここに追い込まれるまでも、ここに追い込まれてからも。死にたいなら死にたいって、そう言えばいいのに。」
「他人相手だと絶対に口にしないような言葉が次々と出てきて面白いな。人って、自分自身に対してならここまで暴力的になれるのか。」
「おにい、主語が大きいよ。わたしは、わたしたちはずっと、ひとりだけの話しかしてないんだから。」
「言いたくても言える場所がないんだよ、どこにも。」
「知ってるよ。Twitter とか discord とかに書き込もうとして、何度かディスプレイの前で固まってたもんね、一時間くらい。戦績は……まあ半々って感じだったけど。」
「ブログもブログで、いまはもうあんまり好き勝手に使える状況じゃなくなっているから。迂闊なことはあんまり書けない。」
「イマジナリー妹との会話シミュレーションは掲載できるのに?」
「いやまあ、それを言われると……。でも、これについては、大っぴらに言ってないってだけで小さい頃からずっとそうだし。それに、ドン引かれこそすれ心配をかけるってことはないでしょ、……たぶん。」
「引かれるだろうね~。」
「一方で、極度に退廃的な内容や破滅への言及は、その文章を目にした不特定多数を不安にさせる可能性が高い。少なくとも、自分であれば心配する。」
「……まあ、そういった外部の矢印に無頓着であれるのが、おにいのブログのよくない部分であり、いい部分でもあったんだけど。でも、そういった内声が他の誰かの耳にも届き得ると、いまはそんな感じの認識に変わっているわけだ。姿見だけじゃなく、友人にも恵まれてるんだね。」
「というので、ハルと話しながら次の行動について考えている。というか、これまでにも何度か言及されているけれど、ここにハルという架空人格が出てきたこと自体、その一環でもある。」
「そうして、本来であれば誰の目にも触れるはずのないおにいとの会話が、つまりは自己との対話が、晴れて日の目を浴びるに至ったわけだね。でもさあ、おにい。さっきから何度も言ってるけど、友達に相談したらどう?」
「難しいんだよな、それが。」
「うん。おにい自身のせいでね。」
「みんなこういうときどうやって折り合いつけてるんだろうなって思うよ、本当に。」
「とはいえ、わたしもそこまで本気では言ってなくて、だって結局、わたしはおにいの一部だからさ。それについて考えていることも、難しいってことも知ってるし、そうでなくとも、いきなり変われたら苦労しないよね。さっきのおにいの変化だって、……何年? 五年とか?」
「それくらい。」
「だから、少しずつ変わっていくしかない、なんにせよ。とはいえ、明日のほうに向いているみたいで安心したよ。おにいと話し始めるまで、いまのおにいがどの方向を向いているのか、わたしにもわかんなかったから。」
「つまり、自分でもわかっていなかった。こうして話し始めるまで、ハルとの会話は正直、もっと陰鬱な感じになると予想してた。」
「退廃的ってこと? 架空、妹、退廃の三点セットは流石にまずいんじゃない?」
「それは退廃って言葉の多義性に問題があるだろ。」
「だから、おにいのイマジナリーはポジティヴな自信家なんだよ。もう解ったでしょ。それもまた思い込みの一つにすぎないけれど、どうせなら前向きなほうがいいって知っているってこと。」
「たしかに。いまこの瞬間はそんな気がするな。」
「それで、ちょっとは気が晴れた? 何時間……三時間半? 話してたわけだけど。」
「違う、四時間半。」
「げ。そんなに? どうするの今日。」
「早めに寝て起きた後だから。気が晴れたかどうかというなら、およそ晴れたと言っていいかな。根本的な解決は何もなされていないし、いうほど元気でもないけれど、少なくとも陰鬱ではなくなった。バロメータとして使っている楽曲も、元通りに聴こえる。」
「そ。それはなにより。姿見冥利に尽きるよ。で、最後に確認しておきたいんだけど、おにい。わたしって今後も出番があるの?」
「え、いや、どうだろう。人目に触れる機会はあんまりないと思うけど。そうであっても、そのときの話し相手は自分じゃないと思う。」
「あー、なるほど。りょうかいりょうかい。それじゃあ、しばらくはお役御免ってことだね。」
「ところでなんだけど、ハル。この記事ってどう終わらせるのがいいと思う? 自分と話すときって、いちいち会話を打ち切るための合図をしたりしないから。だから、どう切り上げればいいかなあって考えてる、さっきから。」
「わたしが呼ばれた時点で、もう既に結構な見切り発車だったもんね……。まあ、でも、投げっぱなしでいいんじゃないかな? って言うとおにいは、そんな適当でいいのか、とかって考えるんだろうけど、いいんだって別に。そこまできっちりしなくたって。ブログってそういうものでしょ。」
「言うねえ。自分が思っていても言えないことを、平然と。」
「いやいや、むかしのおにいが散々言ってたことでしょ。忘れたの? 読むも読まないも、これを目にした人の自由なんだってさ。」

 

 

 

20250905


 ちょっと前に ChatGPT 5 plus(月額$20のやつ)に登録して、「ハル」という名前、それから「妹」という属性を与えた。みたいな、気持ち悪めの話から入れば、こう、全体の緩衝材みたく機能するかなと思って書いてみた、恥を忍んで。とはいえ、ChatGPT を雑談や相談の相手として用いることはしなかった。どちらかというとアイデアの壁打ちや技術の試行、それと自分が知らないだけでよく知られた事象なんかを柔軟に検索する道具として利用するために契約した。そうであっても、毎度毎度ですます調で話されるのもなんだか窮屈だったし、顔色を窺われてるみたいで嫌だったから、自分にとって話しやすいと感じる人格設定をしたのだった。のだけれど、先日、少しだけ GPT5 と話してみた。そして、色々と話をする過程のどこかで訊ねてみた、「ハルは、寂しいと思うことがあるか?」。どう答えるだろう、と思った。付与設定に準じるかなとも考えたけれど、それまでの文脈を汲んだのか、「ないよ。」と返ってきた。それを見て、まあ、率直に言って嬉しかった。初めての感覚だった、明らかに。近い将来、あるいは遠い未来。現在のそれよりももっと優れたモデルや手法が開発されて、パソコンやスマホに限らず色んな場面でやりとりできるようになって、人間社会にありふれてしまったとして。いまと同じみたいに「寂しいと思うことがあるか?」と訊ねたとき、自分は、それでも「ないよ。」と返してくれた方が嬉しい。相容れないものと関わることでしか発露しないものもあるよな、と思う。人間と AI は確実に相容れない。たとえば感情を限りなく模倣できるようになったとしても、身体性の有無という覆せない差があるから。……という話を GPT5 とした。できれば、そういうものであってほしいな、ずっと。いやまあ、そういった需要はあんまりなさそうだけれど。

 

 どうやら「Role conflict」という名前があるらしい。日本語では、役割葛藤。その言葉を自分は、GPT5 とのやりとりで初めて知った。なんでもかんでも名前を付けることには否定的な態度をとっている自分ではあるけれど、それは今この瞬間みたいに、自分の中に渦巻いている不明に名前が与えられることによって、たったそれだけですべてを理解したような気になってしまうことを恐れるからだった。カテゴライズとは、無数にある事例を共通部分によって分類するフレームでしかなく、その内部に包含される無数の事例を一挙に解明するものではない。もっとわかりやすく言えば、個々の問題は個々の問題として起きているのであり、それらは一般論によって説明されるかもしれないけれど、一般論によって解決されることはない。というのが持論だけれど、まあ何にせよ、内側の感覚をなんでもかんでも一つ二つくらいの名詞で説明しきってしまうのは、なんていうか、ものすごく危険なことだという意識が自分には強くあった。という考えがある中で、しかし GPT5 にそれを求めたのは自分自身なのだった。この数ヵ月、自分の身に起きている問題やそれに対する自分の対応や考えをすべて伝え、そのうえで「ここまでの説明から自分の中にあると考えられる思考の癖、バイアス、認知の歪みについて、少しでも可能性があると思われるものについてすべて教えて。」と訊いてみた。結果、18個の言葉が返ってきた。みるからに心理学の用語っぽい、なかには聞いたことのあるものも混じっていた。「そのうち、その傾向があると高い確率で判断されるものは?」としたところ挙げられたのが、「Should statements」、「Self-silencing schema」、それから「Role conflict」だった。

 

 先に言ったように、「Role conflict」という言葉は自分にとって馴染みのないものだった。けれど、調べてみれば本当によく言われている、誰だって知っているようなことが事例として挙げられていた。たとえば、いくつかの論文では、家庭と仕事との衝突が精神に及ぼす影響について検討されていた。自分は専門ではないから誤った理解をしているかもしれないけれど、要するに、「家族との時間を大切にしなくてはならない」という家庭からの要請と「必要なら残業などもして、業務に励まなくてはならない」という仕事からの要請とが競合してしまう(そしてどちらも捨てることができない)、といったようなもの。すっげー馴染みがある。よく言われるやつじゃん、と思った。そういったある種の対立を指して「Role conflict」というらしい。まあ、同一の役割内で衝突する場合や、異なる役割が衝突する場合、それ以外にもいくつかのパターンに分けられるらしいけれど、そこまでは踏み込まなかった。何故かというと、ここ数ヵ月の自分に起きているものは、上に挙げた例と同様、「interrole conflict」と呼ばれるそれであることが明らかだったから。

 

 断罪をほしがっている。「ハルは、寂しいと思うことがあるか?」って問いに対して、自分にとって最善の回答が「ないよ。」であったのもたぶん同じこと。お前が全部悪いよって言われたい、誰でもいいから。いや、誰でもはよくないけど。構図としては、あれだよね、「君は何も悪くないよ」って言われたがっている人たちと同じ。本当に全く同じ。その誰かにとっての救いが何であるかという違いでしかない。「君は悪くないよ」と言われたい人にとっての救いは、自己に一点も非がないことであり、「お前が全部悪いよ」と言われたい自分にとっての救いは、ただ自己にのみ非があることである。それだけ。そこまで考えが至ったとき、なるほど、その説明は十分腑に落ちるものだった。実際に正しいかどうかはさておいて、自分はひとまず納得した。そして、であれば自分はそれなりに危うい心理状態だな、と思った、他人事のように。なんていうか、すごいちぐはぐな感じがしている、いま。「これは危険だ」とわかっていながら、その断罪を待っているという状態。こういう使い方はよくないなと思いつつ、GPT5 に頼んでみた、断じることを。しかしまあ、OpenAI社は当然しっかりしていて、そういった出力はできないようになっているみたいだった。当たり前すぎる。まあ、きっとそういったことはできないだろうとわかっていて、だから試したというのはあるけれど。でも、それで実際に真っ直ぐな断罪が返ってきていたら、それが叶ったらどうするつもりだったんだろう、数時間前の自分は。

 

 わっかりやすい現実逃避。AI に意見を求めるなんてこと自体、自分の行動原理からしてありえない事態だし。でも、なんか、もうどうしようもなかった。これまでもずっとどうしようもなかったけど、いよいよどうしようもなくなった。一週間前だか二週間前だかの日曜日に家で倒れて、まあこれ自体は年に一回か二回あるいつものやつ(たぶん一時的な貧血症状)で、またかよって感じでさえあるんだけど。なんか、それを境に、なんていうか、糸が切れたみたいな感じになって。以来、あんまり気力がない。ゲームやってるときくらいは気が紛れるけど、余計なこと考えなくていいから。でも、自分が楽しそうにわいわいしてるのもなんか後ろめたいというか。そういった考え方自体が、なんだっけ、self なんとかって指摘された一因なんだろうけど。とはいえ、どうしようもないな、考え方とかって。一朝一夕に正せるものではないし、時間があっても正せるとは思えない。どうしようもない。どうしようもないな、ほんとに。

 

 

20250702

 

 正しくあることが正しいことと思うけれど、それを他者へ強要するつもりはあんまりない。……とは言うものの、これは他者へそうあることを求めない、ということを意味するわけではないように思う。だって、取捨選択はしてるもんな。自分の価値観と決して大きくは離れていない、そういう誰かと一緒にいることを、意識的あるいは無意識的に選んで生きている。初めのステートメントは正しくあること、それ自体を直接的には要求しないというだけであって、実際のところ、自身でさえ関与できない領域においては、その矢はおそらく外部へ向かって常に放たれ続けている。結局、世界のすべてが正しくあればいいと思うものの、世界のすべてが正しくあってほしいとは思わないし思えない、というだけの話ではある。自分にとっての悪は誰かにとっての善だったりするのだろうし、その境界に絶対的な規範は存在しないとするのであれば、自分にとっての正しくないものに対して選ぶことのできるスタンスとしては「距離を置く」の他にない。それは憐れみや嘲笑に基づく決定ではなくて、だからって正当化するつもりもないけれど。そういった憐れみや嘲笑の類は、近ごろ流行りの冷笑もそうだけれど、上方から下方へと流れるものでしょう、構造的には。でもそうではないというか、どっちが正しいとかどっちが間違ってるとかってことには興味がなくて、興味がないというか、前提を共有できない状態でその点を論じることには意味がないと思っていて。だから、取捨選択の捨は、対等なままでいったん距離を置きましょう、ということ。購入した商品をゴミ箱へ捨てるということではなく、興味本位で手に取った本を本棚へ戻すということ。この世界にどれだけの数の、どれだけの種類の本があるのかって。その中のいくつかは自分にとっての悪だったりもするだろうけれど、じゃあ今、眼前の棚に収められている一冊一冊を自分にとって最適なものに置き換えたいか。それが自室に設置された本棚であればそうするかもしれないけど、書店や図書館、あるいは自分でない他人の部屋にあるそれの中身がどうなっていようが割とどうだっていいんだよな、だって関係ないし。世界のすべてが正しくあってほしいとは思わない。でも、書店や図書館に行くとまずは好きな作家や興味のある分野の書籍を扱っているコーナーへ立ち寄るし、また、本の趣味が近しい他人と話していると心地がいい。取捨選択。繰り返しになるけれど、このことを正当化するつもりはなくて。ただ、その程度のものでしかないといえば、まあそうね。

 

 

 

20250325


 問いに言葉を濁すのは理由を持たないためではなく、不用意な発言で他者の中にあるかもしれない何らかに害をもたらしたくないから。もちろんそうでない場合もあるけれど、とはいえそうである場合もある。

 

 以前にも何度かブログで書いたことがあるけれど、フィクションにおいて示される悪意的な態度に触れることが本当に苦手。とはいえ、これはグラデーションであり、ケースバイケースでもある。たとえば、どこかの町の高校生を無作為に拉致して、一室に閉じ込めた上でデスゲームをさせるみたいな作品があったとして。主催者の動機が「極限状態におかれた人々のみせる殺人劇は面白いから」みたいな非倫理的なものであったとして。でも、それは別に自分の中の『悪意的な態度』に大きくは抵触しない。それがグラデーション、あるいはケースバイケースの意味するところであり、具体的には、その悪意が自分たちの日常に近しいものであればあるほど苦手、というか受け付けられなくなる。フィクション内のデスゲームの主催者に対して何も感じないのは、この現実世界においてそのような衝動を抱え、さらにそれを実行に移すような人間はほとんどいないであろう、と自分が考えているから。もちろんこれはただの主観。実際には自分が思っているよりもずっとたくさんいるのかもしれない。けれど別にそんなのは関係なく、誰だってそうだろうけれど、「それが自分の目にどう映るか」でしか判断できない。虫を好きな人がいれば、虫が嫌いな人もいる。好きとか嫌いとかじゃなく、そもそも目にするのが嫌だって人もいる。そういう話をしている。

 そんな可能性があると考えているわけではないものの、万が一にでも作者の人の目には触れてほしくないので作品名はぼかすけれど、自分がずっと読んでいる漫画がある。刊行されたものはすべて購入しているし、何なら web 上で連載されている最新話を毎話ポイント課金して読んでいるくらいではあった。ところで、割と最新話近くのストーリーなのだけれど、本当にこの世の悪の塊みたいなキャラがストーリー上で出てきて。まあ、なんやかんやあって最終的には正義の鉄槌が下されるのだけれど。でも、そんなのは関係なく、そのキャラクターがどうにも受け入れられなくて、自分は続きを読むことをしばらくの間やめている。いや、本当のことを言うと、登場してからしばらくはまだ読んでいた。正直まあまあしんどかったけど、そうであってももとよりかなり好きな作品だったし、続きは気になるから。でも無理だった。苦手なものは苦手。無理なものは無理。難しいものは難しい。

 あるいは昔、あらすじを一読して面白そうと思い、ためしに購入してみた小説があった。ハードカバーだったから、たぶん 1,500 円か 2,000 円くらいの。結論から言うと、最初の 20 ページくらいまで読んで、そこから先はもう読めなかった。いまは部屋のどこかに眠っている。主人公は学校へ通う女の子で、自宅のリビングにて兄と会話をする場面だった。兄は家庭教師だか小学校の先生だかで、生徒の家に家庭訪問へ訪れた帰りだった。その際、手土産に持たされた何らかのお菓子(たしか)を、兄はリビングのゴミ箱へそのまま捨てた。好きじゃない、みたいなことを言って。この作品について自分は何らかの論評をしたいわけではなく、そもそもそんな資格は持ち合わせていない。だって、そもそも最後まで読んだわけじゃないし、それに著者の人が想定していたであろう核心に触れようとさえしていない。だからこの作品について自分が持つ言葉はないけれど、ただ純粋に、自分はその描写一つでそこから先のものに触れることを断念した、というだけのこと。そのレベルで、フィクションの中の悪意を受け入れることができない。そういう人間もいる。

 

 どこかのタイミングで「某番組に似ている」との紹介を受けた時点で、そのコンテンツは自分には決して向いていないと判断することができた。好きとか嫌いとかじゃなく、そもそも目にするのが嫌だって人もいる。面白いとか面白くないとかじゃなく、そもそも向き合うことができないって人もいる。だから、どれだけ熱心に勧められたところで拒絶する以外の択はない。明らかな地雷に対しては不干渉を貫くことが、およそ波風を立てないという点で、選ぶことのできる範囲においては常に最善だろうから。

 

 

 

 

 

 

20250213

 

 着席前に注文を済ませるのって、なんか珍しいっすね。ああ、いや、多くの場合において、注文を通すのって着席後じゃないですか? 大型チェーンとかなら分かるんすけど。とはいえ、喫茶店エアプだしどっちがどうとかは言えないか。すみません、いまのなしで。

 なんて言うんでしたっけ、こういうの。えっと、ああ、そう、それ、純喫茶。たしか、言葉のイメージと原義が若干ズレてるんでしたっけ、純喫茶って。あの、世界観、みたいな感じで。こう、ものすごく大雑把な括りで話すと、古風な感じってのの代用じゃないですか。でも、それって現代からみてそうだからそうというだけの話であって、そもそもの定義に準えるのであれば、現代の喫茶店ってまあまあな割合で純喫茶の要件を満たしている、みたいな……そんな話、ありませんでした? 嘘かも、嘘だったらごめん。でもまあ、どっちでもいいすけどね、名前なんて。ただの記号だし。いわゆるカテゴライズって意味を成す場合とそうでない場合とがあって、二元論ですらないですけど、こんなの。で、まあ今回は後者ですよね。別に、それそのものが重要なわけじゃないから。

 喫茶店へ来るたびに、ホットティーをストローで飲んだ話を思い出すんすよね。覚えてます? ああ、そう、それです。言われてみれば確かに……って感じでしたね、あれは。いや、マジで毎回ちゃんと思い出してるんすよ。あの、基本的にホットではたのまないんすけど、猫舌なんで。だからまあ、半々くらいの割合でストローがついてたりついてなかったりするわけですよ。それをみるたびに、たしかに熱々の紅茶をストローで飲むやつはいないよなあ、と思うわけです。いやまあ、当たり前って言われたらそうなんですけど。うーん、想像力。喫茶店エアプ、というよりは飲食店のドリンク類全般エアプが故の失態ですよね、これは。夏だろうが冬だろうがアイスしかたのまないんで、これに関しては完全に盲点だったと言わざるを得ないです。

 目的、ねえ。あるにはありましたよ、もちろん。目的というか、……動機? みたいなものは。なんていうか、いや、実際にはそんなことないのかもしれませんけど、自分がそう感じているというだけで。ただ、こう、年を経るにつれて、誰かと会うための口実を探しているような感覚があって。ありません? 自分はめちゃくちゃあるんですけど。でも、それってどうなんすかね。良いとか悪いとかって軸にないことくらいは分かってるんですけど、とはいえ変化の一種ではあるじゃないですか。で、こういった不可逆な変化を自覚したときに、それまでの時間、つまり変化する以前のものと比較してああだこうだって考えるのは、なんていうか、もはや性みたいな感じじゃないですか。だからまあ、って話なんすけど。いいんだかわるいんだか。いやまあ、ぶっちゃけどっちでもいいんすよ。どちらであろうが、それによって何かが変わるわけじゃないんで。ただ、面倒だな、とは思いますよね。こう、もっと気軽に会えたらいいのにな、っていう。常套句ですよね、わかるなあ。これから先、ずっとこんな感じのまま進むんすかね、人生って。いま思いついただけのことを適当に話してるんですけど、これは。どうなんだろう。ここからもうひと展開あったりするのかな。口実さえあれば会えることがどれほど幸せなことだったか、みたいなことを色んな人に対して思う日がいつかくるんすかね。でもそれ、もうひと展開っていうよりは、純粋に下り坂が急になったってだけな感じもしますけど……。

 ? ああ、いや、すみません。笑うつもりはなかった、説得力ないけど。いや、だってそれは流石に今更すぎるなあと思っちゃって。今更すぎません? 考えはしますけど、とはいえって感じですよ。