大学に進学して以来、故郷を歩く時間はずいぶんと減った。
大学院生を経て社会人となったいまもそれは変わらない。進学先の地に根を下ろすことに決めた私は、いまは在学中に借りていたアパートから自転車で一五分ほどのマンションに住んでいる。
今日は半年ぶりに故郷を訪れた。
本格的な炎天下というには、幾分か風の涼しさがある昼下がり。けれども、すれ違う子どもたちも、木陰の蝉たちも、そんなのはお構いなしといった様子で夏を象っていた。
夏休みか、と思う。
それもまた、大学に進学して以来、縁遠くなってしまったものの一つだった。インドアな私にとってさえ、かつて、夏休みという言葉には抗いがたい魅力があった。
わざわざ約束をしたりもした――たとえば、一緒に花火をみるだとか。
高校生のときだ。当時の通学路は高台に位置していて、郊外の花火大会を楽しむにはちょうどいいスポットだった。同じ高校に通っていて、そのことを知らない人はいなかった。
だから、というわけでもなかったように思うけれど。
その経緯がどうであれ、いつかの夏に私は友人と約束をした。
一緒に花火をみよう。たったそれだけの口約束を。
そして、今日。
その友人の命日に合わせて、私はここに来たのだった。
いま住んでいるところと地元とは、新幹線で二時間ほどの距離がある。
いくら夏の日が長いとはいえ、見慣れたマンションのオートロックを開くころには、辺りはすっかり夜の色で満ちていた。光に釣られたのか、エントランスのガラス扉に小さな虫がとまっている。虫は嫌いじゃない、害がないなら。
通りがかりに、宅配ボックスのモニターを確認する。
自室の番号が表示されていないことを確かめて、それからエレベーターを呼んだ。
五階の角部屋だった。
鍵を差し込んで、がちゃりと回す。玄関の明かりは点いていなかった。
「ただいま」
返事はない。珍しい。
ちらと靴箱に目をやる。並んだ靴の数から察するに、出掛けているわけではないようだ。
廊下のクローゼットに鞄をしまい、洗面所へと向かう。扉に近づくと、勢いよく弾ける水音がくぐもったまま耳に届いた。なるほど、シャワーだったか。
こんこん、とノックする。
それから、一応、呼びかけてみた。
一緒に暮らし始めてもう一年経つとはいえ、洗面所……というか脱衣所で鉢合わせることにはいまだに慣れない。
「陽奈。入るよ?」
やはり返事はない。つまり、浴室にいるということだ。
であれば問題ないだろう、と私は判断する。
がら、と引き戸をなるべくゆっくり開く。誰もいない。浴室のほうから、ふんふん、という鼻歌が聞こえていた。
私の気配にはすぐに気づいたようだ。磨りガラスの向こうで、水飛沫の音がぴたりと止んだ。
「ん、あれ、先輩? 帰ってきたの?」
隙間から漏れ出る湯気のせいか、なんだか湿って聞こえる声だった。
「うん。ただいま」
「おかえりー。ちょっと早かったね」
パンプス用の靴下を、手早く洗濯機へ放り込む。
洗面台の前に立つと、いつも通りのフローに従って自動的に手が動いた。
まずは腕時計を外して両手を軽く濯ぐ。その後、棚上に並べられた中から必要なものを取り出していく。
タオル、ヘアゴム、クレンジング……。
あれ? と首を捻るよりも先に浴室からの声が響いた。
「あ、ごめん。クレンジング、いまこっちに借りちゃってる」
なるほど、道理で見当たらないわけだ。
「もう使わないけど。渡そっか?」
「ううん、後ででいいよ。どうせすぐシャワー浴びるから――というか、今日はお休みなんじゃなかったっけ?」
「そのつもりだったけど、後輩くんたちのゼミに呼ばれちゃって」
「また? 相変わらず人気者だね」
「あー。先輩がいじわる言ってくるー」
そんなつもりではなかった。
とはいえ、陽奈も本気で言っているわけではないだろう。
メイクを落とすのはいったん諦め、洗面所を後にする。リビングの扉を開けると、廊下へ吹き抜ける冷気が全身を撫でた。ほどよい心地よさ。私の好みに合わせて、控えめに調整してくれていたみたいだ。
棚上の小物入れに鍵と腕時計を戻す。それからやや迷ったのち、私の脚は自ずとソファに向かった。
とすん、と腰を下ろす。そこでようやく、一日が終わったという実感が湧いた。
友人の命日に気を張っていた、わけではない。
なにせ、もう一〇年になる。夏休みの子どもたちを遠目に眺めるようになるのと同じだ。胸を焦がすような悲しみだとか何だとか、そういった全部はもう過去のものになってしまっていた。
けれど、どれほどの時間を重ねたとして、消えないものもあるわけで。
一年に一日、この日だけ、私はその在処に思いを馳せるのだった。
「せーんぱいっ」
呼ばれて顔を上げると、陽奈よりも先にTシャツにプリントされた猫と目が合った。白地のシャツで、ゆるキャラのごとくデフォルメされたイラストの下に大きな文字で『ねこ』と書かれている。陽奈のお気に入りだ。たしか、イラスト違いのものをあと三着くらい持っている。
緩くカールのかかった髪が肩口に落ちていた。薄手のTシャツに、淡い水色のショートパンツ。お風呂上がりの陽奈からすれば、いまの空調ではいささか物足りないだろう。
「いつの間に?」
「先輩がぼけーっとしてる間に」
「ごめん、気がつかなくて」
「いいのいいの。お疲れ様でしょ」
陽奈が笑う。彼女の笑顔は、春の朝日みたいに眩しくて暖かい。
「まだ何も飲んでないよね。用意するよ。緑茶でいい?」
「うん。ありがとう」
「私は何にしよっかなあ。ロゼがあるんだよね」
「またもらってきたの?」
「そ。例によって研究会の残りをボスたちがね。いやあ、福利厚生の行き届いた研究室で助かるね」
陽奈は満更でもない様子で応える。お酒を嗜むことを日々の楽しみとしている彼女にとっては、なるほどたしかに、それは福利厚生の一環といえるのかもしれない。
「はい。ここ、置いとくね」
正面のローテーブルに置かれたグラスが、からん、と音を立てる。
「あ、氷、入れないほうがよかった?」
「ううん。外、暑かったから。ありがとう」
「よかったあ」
陽奈は大げさに胸を撫で下ろして、自身のグラスをテーブルに置いた。それから、私の隣に腰掛ける。
ソファがぎゅっと沈む。その引力につられて、身体がわずかに傾いた。
なんとなしにグラスを眺めながら考える。陽奈の用意したそれは、どことなく金色に透けてみえた――たぶん、白ワインだろう。どうやらロゼは開けなかったらしい。それにしても、打ち上げに際してワインが用意される研究会って、なんだか想像がつかないな。
あるいは、当時の私が興味を向けていなかったというだけで、かつて参加した場にもそれなりの種類のお酒が用意されていたんだろうか――陽奈と暮らし始めて以来、そちらもある程度は嗜むようにはなったものの、私はどちらかといえばカフェインに囲まれているほうが性に合っていた。
ぴしっ、と氷の割れる音が響く。
散漫になっていた意識の焦点が合う。気づけば、陽奈の体温が近くにあった。まるで引き寄せられているみたいな……、と思ったけれど、私の位置は少しも変わってはいない。動いているのは陽奈のほうだ。
「陽奈?」
柑橘の香りが鼻腔をくすぐる。同じシャンプーを使っているはずなのに、陽奈のそれは私のそれよりもずっと甘く感じられる。
手首に陽奈の手が触れる。いや、たぶん掴まれている。力が弱すぎるから区別できないだけで。
「キス」
陽奈の声に、とくん、と心臓が小さく跳ねる。
「していい?」
彼女の言葉は、いつだって的確に私を射貫く。
「えっ、と。私、まだお風呂入ってないし……」
咄嗟にそんなことを口にする。
遅れて思考が追いついて、どういった心の動きがあったのかを理解する。
私は陽奈に対して正しくありたいのだと思う。自分で認めているよりもずっと強く――でも、正しいって何だろう?
誰にとっての正しさ?
仮にその主体が私であるとして、身の汚れを払うことが、私にとっての正しさなんだろうか?
いや、違う。たぶんそうじゃなくて。
いまのままの私が陽奈に触れること――それ自体が許せないのかも。
「変なの。キスするだけなんだから、関係ないよ」
柔らかな腕の感触が私の意識を無理やり引き上げる。
梳かれた前髪から覗く瞳は、なんだかすべてを見透かすみたいに揺れていた。
「で、でも。今日はずっと外歩いてたから、汗かいてるし」
「私は好きだけどなあ、先輩の匂い」
「そういう話じゃなくて……っ」
吐息が首筋にかかる。くすぐったくて、それに熱っぽい。思わず身を捩じらせて、少しでも離れようとする。けれど、私がそうすればするほど、陽奈との距離は却って縮まってしまうみたいだった。
こういう風に甘えてくる陽奈は珍しくない。思うに、彼女の中にある定規は、私のものよりもずっと細かく目盛りが刻まれている。私には区別できないような至近でだって、陽奈の息遣いは自然と馴染む。相手と自分との間に横たわる空白を、正確に見定めることができるから。
「どうしても?」
心臓を撫でるような声で陽奈が微笑む。
水溶性の日だまりに晒されているみたいに錯覚する。じんわりと滲む熱を纏って、自分と世界との境界線が曖昧になっていく。この体温はどちらのものだろう。そんなことも分からなくなるくらいに鼓動が近い。
なんとなく目を合わせていられなくて、ふっと視線を逸らす――私らしくない。陽奈からの好意を気恥ずかしく思うことなんてないのに。
答えないでいる私の反応そのものを回答として受け取ったのだろう。陽奈は頷くように言った。
「そっか。うん、わかったよ」
手首を掴む力がきゅっと強まる。
甘酸っぱいシャンプーの香りが立体的に立ち上がる。
溢れた水みたいに身を寄せた陽奈の、湿った息が下唇の辺りを掠める。
全部、同時だった。
「でも、だめ」
驚いた。言葉選びも、間合いも、表情も。何を切り取っても陽奈らしくないと思った。けれども、そんな考えはすぐにどこかへいってしまって、私は目を閉じて彼女を受け入れる。
「ん」
唇が触れる。言葉ほどの圧はない――穏やかで、優しくて、色んな気持ちを包み込む温もりがある。そういう意味では陽奈らしい。そんな陽奈の温度を、在り方を私は好きになったんだった。
柑橘の棘っぽい香りに紛れて、林檎のような青色の澄んだ味がする。さっきの白ワインかな、と思う。どうやら既に口をつけていたみたいだ。陽奈は分かりやすいようでいてそうじゃないから、近づくまで気づけないことがたくさんある。
「ん……っ」
柔らかい日差しが熱を連れて、少しずつ全身を解いていくみたいに、私にとっての陽奈もそうだった。その下に留まるのに理由を求めることはなくて、だってそれは当然だから。心地よく感じるのも、気持ちいいと思うのも、もっと欲しくなるのも、だから全部、全部。
「先輩、口開けて」
五感の全部が陽奈だけになる。胸の奥がじわりと痛んで、微熱にも似た浮遊感が背筋をつーっとなぞる。寄りかかる力がわずかに強まって、抗えなくて、私たちはたぶんほとんど重なっていた。舌は唇よりもずっと芯があって、だから触れるとより強く発火する。瞼の裏が絶えず明滅して、口から伝う痺れを肩の辺りに感じる。いったいどういう仕組みなんだろう。分からない。考える必要もない。私も陽奈も、いまだけは理性の外にいるみたいだった。
どのくらい経っただろう。流石に息が続かなくなって、少しだけ距離をとる。
同じように呼吸を乱した陽奈と目が合う。かと思えば、ふっと力が抜けたように倒れ込んできた。ぽすん、と陽奈の頭部が胸の近くに収まる。跳ねた毛先が首元に当たってむずむずする。
「嫌だった?」
くぐもった声だ。もこもこしている。でも不安げな様子ではない。どちらかと言えば、オーバーヒートしたノートパソコンのような印象だった。処理落ちしているみたいな。
なんとなく陽奈の頭を撫でる。
「嫌じゃないし、気持ちよかった」
「ふふっ。こういうときの先輩は素直だねえ」
「だって、どうせバレてるし……」
であれば隠したって無駄だ。
いまだってたぶん、心音を聞かれている。
「でも、びっくりした」
陽奈らしくないと感じたのは事実だった。
でも、いまならその理由も分かる気がする。
「陽奈、怒ってる?」
「ん」
訊くと陽奈は黙り込む。代わりに、埋まったままの頭がもぞもぞと動いた。
よりよいポジションをみつけたのだろう。しばらくすると、さっきよりも低い位置で止まった。
「どうだろう。ちょっと怒ってる、かも?」
「やっぱり」
「正しくは、怒ってたかも。……わかっちゃった?」
「陽奈のあんな声、初めて聞いたから」
「あんな声?」
「口開けて、って」
「――っ! あーあーあー! やめて、言わないで!」
定位置に収まったはずの頭が、ふたたび動き始める。今度はじたばたという表現のほうが合っていた。
飼い主の手から逃げようとする子猫みたい。
こういうところは可愛らしいと思う。
「うあー、恥ずかしい。ほんっとうに恥ずかしい。もう先輩の顔、直視できないよ」
「それは困ったね」
「もう……。あんなの私のキャラじゃないのに」
口を尖らせつつ、陽奈はおもむろに身体を起こす。
柔らかな輪郭線をなす頬は、たしかにずいぶんと紅潮してみえる。私からの視線に気づいた陽奈は、ぷいと顔を逸らす。けれどすぐに振り向いて、にへらとした笑顔を浮かべた。いつも通りの、私が好きな陽奈だった。
陽奈がグラスに手を伸ばしたので同じようにした。
淹れてもらった緑茶は、溶けだした氷でやや薄まったようだった。一口含むと、わずかな苦みと規格外の冷たさが口いっぱいに広がる。火照った身体がゆっくりと戻っていく。
「つまりね。私は拗ねてるんだと思う」
まだ飲んでいる途中だった。返事を待たずに、陽奈は続ける。
「きっと素敵な人だったんだろうな。じゃないと、そうはならないだろうから」
誰のことを言っているのかは文脈から明らかだった。
確認のために、その人物の名前を口にする。意識的に避けていたわけではないけれど、誰かの前でその名前を呼ぶのは本当に久しぶりのことだった。
「由夏のこと?」
由夏――本名は、水上由夏。
小学校からの付き合いで、同級生。
一緒に花火をみようと約束をした相手。
亡くなって今年で一〇年になる、私の友人。
彼女の命日。七月末の故郷を訪れる唯一の理由。
「端的に言うと、ムカついてるんだよ」
「むかついてる」
正面を見据えたまま、身体を預けるようにして寄りかかってくる陽奈。
対する私は、彼女の語彙からやや外れたその言葉の解釈に迷っていた。
「それは私に対して?」
「えっ、あ、違うよ。先輩にはちょっと怒ってただけ。ムカついてるのは自分に」
怒っていることとムカついていることは、陽奈の中では別種のものらしい。それに後者のほうが程度が甚だしいようだった。けれど私の目には、陽奈が自分自身をそのように評する根拠が見当たらない。
「私、たぶん嫉妬してるんだ。水上さんの居場所に」
「それは……」
当たり前のことなのではないか。
だからこそ私は、今日に至るまで由夏の話題を極力避けていた。
理由は様々あるけれど、何にせよ、陽奈にとって愉快な話にはなり得ないだろうから。
「当たり前だって思う?」
「うん。とても」
「だよね。私もそう思う」
「なら、何にムカついてるの?」
「それを伝えてもいないのに一人で拗ねてたこと、かなあ」
陽奈の語り口には一点の淀みもない。
繰り返し考えて、そのたびに推敲したんだろうと思う。私が帰ってくるまでの間に、きっと何度も。
「先輩、今朝どんな顔してたか、知らないでしょ」
「えっと、それはまあ」
「なんていうか、もう、……無っ! って感じだったよ」
「む」
「私、あんな表情の先輩、初めて見たもん」
陽奈はグラスを中途半端に持ち上げたまま、口元へ運ぶこともテーブルへ戻すこともしなかった。その視線は、微かに揺れる液面の辺りに落ちている。
「知らない先輩なら全部知りたいよ。笑ったとこも、怒ったとこも、可愛いとこも、適当なとこも。好きなとこも、嫌いなとこも、全部。全部、私のものにしたい」
陽奈らしい。
告白を受けたときにも同じことを言われた。嫌いなところまで、と尋ねた私に、陽奈は、だから全部だってば、と笑ったのだった。
人は変わらないものだと思う。
そして、それは私にも当てはまることだ。
「今朝みたいな先輩だって私は知りたい。でも」
「でも?」
「今朝は、……あはは。私の準備ができてなかったみたい。それでこう……、うあーってなっちゃった」
陽奈は結局、手元のそれには口をつけないまま身体を起こす。木製のテーブルに置かれたグラスが、ごとっ、と硬い音を鳴らした。
空調の風が頬に当たる。半透明の薄黄緑に沈む氷を眺めながら、私は、今日一日の陽奈について考えていた。空調の温度を設定するとき、緑茶に氷を入れるとき、私におかえりと返したとき、あるいはそれらよりもずっと前、陽奈はいったい何を考えていたんだろう?
私は陽奈に何を考えさせてしまったんだろう?
「……私は」
考えがまとまるよりも先に口が勝手に動いた。
視界の端、陽奈が小さく振り返って、目が合う。
「陽奈のことを信じられていなかったのかも」
何を言っているんだろう、そんなはずがないのに。
頭の内側で否定の声が反響する。けれど、いちど口を衝いたそれは自分でも驚くくらいに、すとんと腑に落ちるものだった。
由夏のことを話すのは、正しくないことだと思っていた。
由夏の記憶に近いまま、陽奈に触れるのは許されないことだと思った。
だけど、それは誰にとっての正しさなんだろう?
考えてみれば答えは明らかだ。なのにそうしなかったのは、私が陽奈の言葉を本心では信じ切れていなかったからであって、つまり――。
「――うわっ」
思わず声を上げる。
頬の辺りに何かが触れている。
みると、陽奈が覗き込むようにして私のことを突っついていた。
「まーたそうやって考え込む。もー、先輩の悪い癖」
「えっ、と、ごめん」
「やっぱり、五分おきにキスしないとだめかなあ」
悪戯っぽく笑いながら陽奈は言う。
陽奈はキスという行為を、私を素直にするための手段の一つとして捉えている節がある――おおよそ正しいので言い返せることは何もない。
思えば、先刻のそれも陽奈なりの精一杯だったんだろう。
彼女の表現に倣うなら、あのときは私の準備ができていなかったから。
「それに、私も先輩と同じだよ」
「なにが?」
「私も先輩のことを疑ってた」
「そんな風には……、一度も思ったことがないけれど」
「それはそうだよ。だって言ってないもん」
まるで明日の天気予報についてでも話しているみたいだ。ずいぶんと事も無げに口にするから、なんだか些末なことのようにも思えてくる。
それこそ、そんなはずがないのに。
「たとえば私が、水上さんとのことを聞かせてって言ったら、先輩はきっと隠さず話してくれたでしょ?」
「うん」
反射的に私は頷く。
陽奈が相手なら、私は訊かれたことのほとんどすべてに答えるだろう。
「たとえば私が今朝、私も一緒に連れて行ってってお願いしてたら、先輩はきっとそうしてくれたでしょ?」
「うん」
やや考えてから、私はやっぱり頷いた。由夏は怪訝な顔をするだろうけど。
やっぱりそうだよねえ、と陽奈は曖昧に笑う。
「だからさ、私はそうすべきだったと思うの。で、それができなかった自分に、……できなかったくせに一人で拗ねてた自分に、ずっとムカついてたの」
前半はゆっくりと、後半はやや早口で言い切った陽奈はようやくグラスに口をつけて、そのままぐいっと、勢いよく飲み干した。
ワインってそんな風に嗜むものだっけ?
「……ぐぇ。あっつ……」
まるで私の疑問に答えるみたいに陽奈は小さくむせた。
「大丈夫?」
「あ、っと気にしないで。いまのはその、心のムカムカを……おりゃ! ってするための儀式っていうか……」
「陽奈って自棄酒とかするタイプだっけ」
「初めてだよ。そしてもう二度とやらない……」
「ちょっと待ってて」
私はソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。
背丈より大きい冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、適当なコップに注いだ。
「はい、お水」
手渡すと、陽奈は焼けた声で感謝を示しつつ、またもやぐいっと飲み干した。
ついでに持ってきたペットボトルは早くも結露していた。それをテーブルの真ん中に置いて、ふたたびソファに腰を下ろす。想像よりも深く沈んだそれは、私たち二人をきゅっと近づけた。
沈黙した部屋の中を、空調のノイズと微かな呼吸音が埋めていた。呼吸と秒針とでは周期が違う。時間の流れがほとんど感じられなくて、まるで静止したフィルムの中にいるみたいで――世界に一人だけ。昔の私ならそう考えただろう。だけど、少なくともいまこの瞬間においては、私の隣には陽奈がいる。
座面の上、手持ち無沙汰な右手をほんの少し滑らせると、ざらついた布地の感触が手のひらに広がった。ふと目を向けると陽奈の手があって、私は何を考えるでもなく自分の手を重ねる。お風呂上がりだからか、彼女の手はしっとりとしていて柔らかい。気づいた陽奈が指を絡めるようにして握り返してきた。
右手が陽奈の温度に包まれる。
たぶん、私の温度も陽奈の左手を包んでいる。
ふと、幼い頃に読んだ小説の一節を思い出す。私たちは互いに異なる体温で生きている。それなのに、二人ともが繋いだ手に熱を感じるのはいったいなぜか?
いちど読んだはずの答えは思い出せない。
けれど、それはとても単純な問題で、つまり私はその答えを知っている。
「昔、よく言われたんだ。私の手は冷たいって」
結局のところ、どうしようもなく好きだからなんだろう。
繋いだ手に滲む誰かの体温は、私の内に巡る想いを返す鏡だ。だからこそ、その熱が愛しいのであって、特別なのであって――私にとって手を繋ぐという行為は、きっとそういうものだった。
そして、陽奈にとってもそういうものであったなら、それ以上に幸せなことはないと思う。
「私も、知ってほしい」
疑いようもない。
私は陽奈が好きだ――好きなんだ。
言葉が溢れそうになる。感情に思考が追いつかなくて、身体はずっと素直に動く。
結局、私はあの頃から何一つも変わってなんかいなくて。
そんな私を、佐々木深冬を、陽奈にも知ってもらいたい。
「私の大切な友達のこと。私の大切な友達とのこと」
「うん。教えて。私の知らない先輩のこと」
陽奈が破顔する。真っすぐ向けられた表情に私は、率直に言って見惚れていた。
彼女の笑顔なんて日々繰り返し目にしているはずなのに、不思議なことだと思う。
けれど、誰かを好きになるというのはそういうことなのかもしれない。
あるいは、それくらいのことでしかないのかも。
不思議なことだ。
でも私は、たしかに、そんな陽奈のことが好きなのだった。
「あ、でもちょっと待って、先輩」
陽奈が私を制するように口早に言う。それから、斜め下の辺りに目線を飛ばした。
家の鍵って閉めたっけ、とでも続きそうな抑揚だった。
とはいえ、その横顔は真剣そのもので、ここにホワイトボードがあれば様になっただろう。案外、研究室だとこんな感じなんだろうか――後輩諸氏に慕われる水瀬先輩はこのくらいクールなのかもしれない。
「どうしたの?」
訊くと、陽奈は若干の言い淀みを交えつつ答える。目は逸らしたままだった。
「あ、いや、えっと。水上さんの話、なんだけど」
「うん」
「その、水上さんが知ってるのに私が知らない先輩がもしいたら、……うーん。普通に妬いちゃうかもなあ、と思って」
「……なるほど」
陽奈らしいな、と思う。
それから、流石にたくさんいるんじゃないだろうか、とも思った。
私たちが知り合ってから六年ほど経つ。由夏と関わりのあった期間は、たぶんその倍くらい。もちろん、この世で陽奈しか知らない私だってたくさんいる。とはいえ、単純に考えるなら、逆もまた然りと思える程度に差があることは事実だ。
そんなことは陽奈も分かっているだろう。しかし、研究者の卵でもある彼女は、さっそく打開策を見出したようだった。顔を上げるや否や、ぺかーという効果音がどこからともなく聞こえてきそうな勢いで彼女は続けた。
「だからさ、一つずつ試していくっていうのはどうかな」
「試すっていうのは?」
「つまり、ほにゃららな先輩! ってトピックで順番に話してもらうのはどうかなって」
そうして知らない私を引き当てたなら、その部分を掘り下げようということか。
由夏との関係を言葉に直したことはほとんどない。簡単に説明できるものとも思えない。何を話すにしたって私は盛大に悩むだろう。そういう意味では、陽奈の知らない私、というテーマはちょうどいい手掛かりである気がする。
それに、急ぐことはない。時間ならいくらだってある。どれだけ丁寧に言葉を選んだって使いきることはない。夏の夜は長くないけれど、私たちは今日という一日だけに生きているわけじゃない。
明日も、明後日も、そのずっと先のいつかだって。
私は陽奈と同じ場所に帰ってくるのだろうから。
「うん。私もそのほうが話しやすいかも」
私は頷く。すると陽奈の表情が、ぱあっと一層明るくなった。
「やった! えへへ、どんな先輩について訊いちゃおっかなあ。どんな先輩もきっと素敵だろうから迷っちゃうね」
「ね、って言われても」
「可愛い先輩はたくさん知ってるし、ちょっぴり怒った先輩も……」
陽奈が、うーん、と小さな唸り声を上げる。かと思えば、目を瞑ったまま固まってしまう。時折、首を振って、いやいや……、と呟く。
表情がころころと変化して面白い。
第一案が打ち出されるにはしばらくの時間を要しそうだ――であれば、今のうちにできることを済ませておこう。
繋いだ手を解いて、私はソファから立ち上がる。
「ちょっとちょっと、佐々木さん。どこへ行こうっていうのさ」
私の離席を察知した陽奈が、芝居がかった口調で問いただす。
佐々木さんって。
一度も呼ばれた覚えがない。
いや、初対面のときは……どうだっけ?
「どこって、お風呂に」
帰ってきてから、まだシャワーも浴びていない。
およそ無視できる不快感ではあるにせよ、できるだけ早く汗を流してしまいたいというのも事実ではあった。
「あ、そっか。先輩、まだメイクも落としてないんだったね」
陽奈もまたソファから立ち上がる。そのままぐーっと身体を伸ばして、息を深く吐き出すとともに両腕をゆっくりと下ろした。
「よしっ。それじゃあ、その間にぱぱっとご飯作っちゃおっかな」
「え、悪いよ。陽奈ばっかり働かせて」
「いいのいいの。そっちのが効率的でしょ。それに、材料はもう用意してるんだよね」
陽奈は私の横をすたすたと通り抜け、そのままキッチンへと向かう。そして冷蔵庫の前に立つと、こちらを振り返って言った。
「当ててみてよ、先輩。さっき開けたでしょ?」
ミネラルウォーターを取ったときのことだろう。
正直、まったく覚えていない。ドアポケットの手前側しか視界に映っていなかった。
判断材料が一つもない。
なので、最も打率が高いと思われるものを回答することにした。
「じゃあ、ちゃんちゃん焼き」
陽奈が公言している得意料理の中でも、まあまあの頻度で食卓に並ぶのがちゃんちゃん焼きだ。鮭と野菜を味噌とバターで蒸し焼きにする料理で、陽奈曰く、家庭の味! らしい。私は陽奈と知り合うまで一度も食べたことがなかったけれど、いまでは密かな楽しみの一つだった。
対して陽奈は、そっちかあ、と言いたげな面持ちでこくりと頷く。
どうやら私の当てずっぽうは外れたらしい。
「ざんねーん。ヒントはねえ、さっき私が飲んでたやつ」
陽奈は冷蔵庫の戸を開けて、中から取り出したものを翳してみせた。
「じゃーん」
右手にはしらす、左手には大葉。
そして、ヒントが白ワインということは。
「レモンパスタ?」
「せいかーい。先輩、これ好きでしょ」
レモンパスタは元はといえば私の得意料理で、いつの間にか陽奈の得意料理にもなっていた――陽奈の口には和食の味付けが合うようで、レモンパスタも和風にアレンジしたものを好んでいた。けれど、白ワインを用意したということは、今夜は私の好みに合わせてくれるみたいだ。
なんだか、陽奈に気を遣わせてばっかりだ。食材売り場で頭を悩ませる陽奈の姿が容易に想像できた。
本人はきっと、そういった一つひとつを気遣いだとは思っていない。とはいえ、申し訳なさそうにするのも違う気がして、結局、私はなるべく素直な言葉を選ぶ。
「うん。大好き。ありがとう」
「ぉ、おお……?」
私の反応が意外だったのか、陽奈がぴたりと固まる。
やや遅れて、怪訝そうな私の視線に気づいた陽奈は、手にした食材を調理台へと置いた。それから、私のほうへと歩み寄ってくる。私の前まで来ると、右から左から、角度を変えて私の顔を覗き込んだ。まるで珍しいものでもみつけた子どもみたいだ。
「な、なに?」
いよいよ羞恥心に耐えかねて尋ねると、陽奈はいたって真面目なトーンで答える。
「いやあ。私って、先輩のことが本当に好きなんだなあ、と思って」
想定外の台詞だった。心臓が明確に跳ねて、全身がぶわっと熱を帯びていく。
上目遣いに窺う陽奈と目が合う。なぜだか逸らせないでいると、陽奈の目尻が緩んだ。
「おや。先輩、照れてるね?」
「……陽奈もでしょ」
「ありゃ」
バレてたか、とおどけたように笑う陽奈。その様子が可笑しくて私も笑った。
陽奈がキッチンへ戻ったので、私も入浴の準備に取り掛かった。着替えやバスタオルなどをさっと揃える。脱衣所へ向かおうと扉に手をかけたところで、陽奈の声がした。
「あー、ちょっと待って先輩」
「どうしたの?」
「ごめんね、呼び止めちゃって。さっきの。ひとつ思いついたんだー」
さっきのというと、私についての話だろうか。
陽奈が知らなくて由夏が知っている、そんな私について。
たくさんいるだろうと咄嗟に結論したものの、具体的に挙げるとなると言葉に窮してしまう。しかしながら、陽奈は早くも思い当たったようだった。
「そういえば私、先輩が泣いてるところ、一度もみたことないなあって思って」
「泣いてるところ?」
最初に思いつくのがそれなんだ。
内心で苦笑しつつも、私は記憶の糸を辿ってみる。
「……たしかに」
陽奈の前で泣いたことは一度もないかもしれない。というより、誰かの前で涙をみせた経験それ自体、ほとんど覚えがなかった。それこそ、感情の制御なんてできなくて当然という年齢にまで遡らない限りは。
喜怒哀楽に乏しいわけではない、……と思う。泣きたくなるときはある。言い表しようのない衝動が込み上げる瞬間だって、たぶん人並みにあるはずだ。けれど思い返せば、そういうときほど、私はなるべく自然に振舞おうと努めていた。
「水上さんなら、あるいはそんなレアな先輩も知ってるかも……? と思いまして」
「うーん」
「いかがでしょうか」
と言われても。
「どうだろう」
抑圧という悪癖は、むしろ由夏と一緒にいるときにいっそう顕著だったように思う。他でもない由夏がそうだったからだ。彼女は周囲の誰よりも心の機微に敏く、いつだって本当のことを隠していた。だから私も隠した。私は、私だけは、彼女と対等な関係でありたかった。
結局のところ、由夏はどのように感じていたのか。それを確かめる術はもうない。けれど、確かな事実として、彼女は一度だって涙をみせたりはしなかった。
だから、私も同じように――。
「…………」
デジャヴにも似た、ささやかな違和感が視界を揺らす。
なんだろう、と考えを巡らせることもなかった。これはいわゆる既視感とは違う。私はその正体を明確に認識して、正確に理解してもいる。つまり、私は由夏の前で泣いたことがあった。
――帰ろう。
あの夜、私の前に現れた由夏はそう言った。
忘れていたわけじゃない。
それにまつわる一連の出来事は最も鮮烈な記憶の一つとして、いまも私の奥深くに刻まれている。
ただ、それは由夏との出来事として語るにはおよそ非現実的であり、夢想的であり。
なにより、このことを誰かに話そうと思う日がくるなんて――そう思えるようになるときが訪れるなんて、私自身、考えてもいなかったというだけで。
喩えるなら、鍵が掛かっているものと思って手をかけたドアノブが、しかしすんなりと回ってしまったみたいな、そんな感覚。
「はあ」
小さく息をついて、手にした着替え一式を抱え直す。
思えばそれもまた、知らず知らずのうちに身に起きた変化の一つではあった。何年か前の私は、その相手が誰であれ、人前でため息をみせるような人間ではなかったはずだ。けれどいまは、その行いもまた自分にとって自然な振る舞いの一つであるとして、疑問を覚えることはない。
同じ仕組みなんだろう――鍵のない扉にせよ、隠さないため息にせよ。
私たちにはお互いを確かめあう術があるということ。
そして、それを実践してみせたのが彼女、水瀬陽奈であったということ。
とても単純で明快で、それくらいのことでしかないんだろう。
「どうやら私も大人になっていたみたい」
「ん、なんの話?」
「それとやっぱり、私は陽奈のことが好きみたい」
「な、なんの話っ!?」
「今日はまだちゃんと言ってなかったかも、と思って」
別に毎日伝えあうようなことでもないだろうし、その必要があるともあまり思えない。
たとえどれほどの変化が訪れたとして、私は私のままでしかなくて、私は陽奈ほど素直になることはできない。
けれど。
「話すよ、全部」
けれど、それでも確かめあうことには意味があると――いつでも確かめあえるという事実、それ自体を確かめることには意味があると、いまの私にはそう思えるのだった。
「それじゃ、お風呂もらうね」
忙しなく瞬きを繰り返す陽奈から目を離し、扉のほうへと向き直る。
ぐっと力を込めるまでもなくドアノブは滑らかに動いた。
そこには安堵も驚きもない。だってここは私たちの家なのだから。この扉には、鍵なんてそもそも備わっていないのだった。
廊下に出ると、生ぬるい空気が全身を覆った。
そういえば夏だった、といまさら思い出す。それから照明を点けようとして、いつかの私は夜道を苦手としていたことも思い出した。
いまはもう暗闇だって平気だ――だから陽奈はきっと知らないだろうし、あるいはそのことから話すのもいいかもしれない。夜道を怖がらない私が生まれたのは、たぶん、由夏の前で泣いたあの夜のせいだろうから。
伸ばしかけた手を引っ込めて、真っ暗な廊下から脱衣所に移る。
洗面台の小さな鏡には私の顔が映っている。
そんな鏡の中にいる自分と目が合って、私だな、と思う。
同じくらい当たり前のこととして、私は私で、由夏は大切な友人で、陽奈は大切な恋人で――そのことはこの先もずっと変わらない。
変わらないままでいられると思う。
「ただいま」
返事はない。それもまた当たり前のことだった。
リビングのほうから、小さく食器の触れ合う音が聞こえる。
私はもう一度、鏡に映る私と目を合わせて、選んだヘアゴムで後ろ髪を結んだ。