追記:2026.03.11 の日記。
従兄弟の母が危篤で、土曜、山口へ向かった。
何年か前に癌を患って手術をしたと聞いた。それからしばらく経って、再発したという話を聞いた(実態は転移だろうけど)。この春が越せるかどうかは怪しいという話を聞いたのは、今年の二月、2/21 のことだった。どれも母親づてに聞いた話だった。
木曜日の夕方、母親からの電話が鳴った。自分は、もちろん職場のデスク前にいた。母は大抵の連絡をLINEかTwitterのDMで済ませるので、電話をかけてくることは滅多にない。よほどの緊急時か、あるいは自分が連絡を無視し続けているかのどちらか。後者だとして、明らかに勤務中である時間帯にかけてくることはまずない。なので、よほどの緊急時であることは明らかだった。すぐに折り返し、そして冒頭の話を聞いた。今晩が峠らしいと、そう言っていた。
両親はすぐに車で山口へ向かうようだった。自分と姉は金曜日の仕事を空けられなかったため、土曜日に合流することになった。金曜日、もしかすると月曜出社できないかも、とできるだけ仕事を終わらせてから帰った。結果、睡眠周期がめちゃくちゃになった。
土曜日、気は重かったけれど、金曜日の朝に比べれば幾分かマシだった。山口へ着いた両親から、ひとまず無事である旨を聞かされていたからだと思う。行きの新幹線では普通に作業をしていた。来週分の仕事を程々に進めつつ、作詞をしつつ、みたいな感じで。向こうに着いたのは昼すぎだった。父親が駅まで迎えに来てくれるはずだけど一向に既読がつかないな、と不安だったけれど、ちゃんといた。暖かい格好でこい、と言われていたのにいつも通りの服できたことを揶揄われた。父親の様子は、たぶん普段とそんなに変わりなかった。
海のみえる病室だった。日本海。六階建ての最上階。六人も入ると身動きが取れなくなりそうな個室。痛み止めには麻薬を使っていると聞いた。なので意識がやや混濁していて、視界も二重に映っていると。入室した自分が名乗るよりも先に、従兄弟の父が自分を紹介してくれた。すると目があって、手が触れて、声を聞いた。わざわざありがとう、みたいなことを言っていたように思う。あんまり覚えていない。自分は、いったい何を話せばいいんだろう? 病室の椅子へ腰を下ろす段階になってようやく、自分はそのことを考え始めた。
病室の外、待合室には祖母、母親、姉貴、従兄弟(妹)とその夫の五人がいた。しばらくして従兄弟(兄)とその妻、とその子ども(赤ん坊)の三人が来た。こうしてみると、なんだか小さかった頃のことを思い出した。祖母がいて、自分の両親がいて、従兄弟の両親がいて、従兄弟と姉貴と自分がいて。この集まりが嫌いだった。あんまりいい思い出がない。その光景が手の届かないものになりつつあるという現実。ひどく慣れ親しんだものがアーカイブ化されていくみたいな。それ自体は初めての経験ではないにせよ、その過程にこんなにも自覚的だったことはないと思う。それくらい、なんていうか、絶対的なものだった。
その日の夜は、従兄弟の両親が暮らす家に泊めてもらうことになった。祖母と、姉貴と、自分と。この集まりも嫌いだった。なんならこの集まりが一番嫌いだった。ただまあ、いまはそんなことはない*1。ゆで卵を待ちながら、祖母と野球の話をした。まだ初戦が終わったところだが、WBCが熱いらしい。たしか韓国対日本の話を聞いた。祖母が野球好きであることを、自分はそこで初めて知った。従兄弟の両親の家には飼い犬が一匹いて、ポメラニアン。毛を刈ったばかりらしく比較的シュッとしていて、想像するポメラニアンではなかった。ボムちゃんというらしい。ボムちゃんの世話は姉貴がしていた。姉貴が教職員をやっているという事実が自分には信じられず、こんなに愛想悪いのに? と。ボムちゃんを人形で吊っている姉貴の様子は楽しげで、もしかしてこの人、学校だとこんな感じなのか、と思った。寝室として与えられたのは従兄弟(父)の部屋で、未開封の酒が大量に保管されていた。従兄弟(父)は、それはもう大の酒好きで、従兄弟(妹)も祖母も、兄である父親でさえ手を焼いていた。テレビの上には家族写真と一緒にモルカーのフィギュアが陳列されていた。四体もいると思ったら、バカでかいプーさんのぬいぐるみに覆われる形で五体目が顔をのぞかせていた。一つひとつが薄らと埃を被っていて、この部屋の一部分なんだな、と思った。
日曜日、朝。父親の車でもう一度、病室へ向かった。また会いに来るから、と姉貴は言っていた。自分には言えなかった。その後、姉貴と自分は帰りの新幹線乗り場へと向かい、両親は大阪までの八時間ドライブへと旅立った。姉貴は昼ご飯を買ってきた、スーパーで売られている弁当を、二人分。失礼ながら、何のつもりだ、と思った。こんな人だっけ? 感謝の意を伝えつつ、大して確かめることもせずに片方を選び、そそくさと受け取った。姉貴と自分は別々に新幹線を予約していたが、姉貴と同じ便で帰るのは気まずかったから、自分は当日の予定を両親から聞いた上ですこし遅めの便をとった。そして、それも込みで同じ便で帰ることになった。同行したのはお土産売り場までで、ホームでは別々の場所で列車を待った。そういう距離感だった。睡眠周期がめちゃくちゃになっていたせいでひどく眠たく、新幹線ではぐっすり眠るつもりだった。なので、車両へ乗り込んですぐに弁当を取りだした。さっさと食べてさっさと寝ようと思って。蓋を開くとそれは角煮丼で、どうみたって半熟の目玉焼きがふたつ乗っていた。失敗したと思った。
子どもの頃、自分が大人として認識している十数名の中で、従兄弟(母)は教職員を含めても若々しく、そして実際に若かった。自分の中で従兄弟(母)のイメージはその当時のままで、という話を母にしたら、それ聞いたら喜ぶと思うよ、と笑っていた。従兄弟(母)と最後に会ったのは、二、三年くらい前に催された従兄弟(兄)の結婚式だった。従兄弟(兄)夫妻は山口県在住だが、結婚式は何故か大阪で行われた。奥さんが関西の出身らしい。その帰り道、従兄弟(父)の運転する車に乗って、従兄弟(母)と自分との三人で帰った。当時、自分はまだ就職しておらず、絶賛ふらふら期の真っ只中であった。そのことそれ自体についてどうこう言われることはなかったものの、あまり両親のこと心配させんようにね、とそれこそいかにも心配げなトーンで言われたことは覚えていた。
石切の巨大公園の近くにはファミリーマートがあって、従兄弟(兄)の結婚式からの帰り道、そこで車を停めて、三人で大量の酒を買った。従兄弟(父)の持つ籠の中には気づいたら大量の酒が入っていて、シンプルにウケた。それ、今夜で全部飲み切るつもりですか? と訊くと従兄弟(母)は、あんなん好きに買わせたらいいんよ、と笑っていた。後にも先にも、親族のいる場でお酒を飲んだのはあの日だけのような、と思う。姉の結婚式と従兄弟(兄)の結婚式との形式的な飲酒を除けば。べろべろに酔ったと思う、日本酒を飲んだのは間違いないし、たぶんいつもより多く飲んだ。何を話すべきだろうと思いながら、病室の片隅、椅子の上。従兄弟(母)と自分とは、最後にそういう話をした。
*1:子どもとは、自分にとって居心地のよい場所を選ぶ生物で、嫌いになるとしたらそれは選べなかったもの。そして、そのようなものはおよそ限りがある。それだけの話。