20210908


 高校生くらいの頃の自分を振り返ってみて思うこととして、ものすごく狭い物事の捉え方をしていたなというのがあって。広けりゃいいってものでもありませんけれど。なんていうか、良くも悪くも自分基準っていうか(良くはない)。「自分ならこうするのに」という前提でしか他人を理解しようとしていなくて、たとえば、高校生当時の自分は教室の扉の前に突っ立って平然と喋っている同級生が結構苦手でした。だって、それが他の人の邪魔になるって、ほんの少し考えてみれば分かることだと思っていたし。でもなんか、こう、今となれば思うこととして、たとえばそういう「他の人の邪魔」みたいな感情って全然正確じゃなくて、だってそれはただ単純に「自分がみていて不快」というだけの話で、その苛立ちを「他の人の」という言葉で覆い隠しているだけだなって。他の人がどう思っているのかなんて何も知らないくせに、他人の一挙手一投足にイライラしている自己を認めたくないからって、そういう。他人に苛立ちを覚える理由って人それぞれかと思いますけれど、かつての自分に限って言えば、それって単純に自分がつまらない人間だったからなんだろうなとしか思えなくて。誰かに認めてもらいたがってるくせに、誰のことも認めようとしないし。自分以外の他人を理不尽に嫌うくせに、自分以外の他人から自分が嫌われるのは嫌で。そういうの。一言で言えば自分勝手、あるいは我儘。いやまあ、そういうやつだったんです、本当に。それがまあ、様々な様々による影響を受けまくった結果、いまみたいな感じに変化していったというのが顛末で。「自分ならこうするけどな」くらいのことは今でも思いますけれど、それをまあ押し付けたいとは思わないし、イライラも別にないし。なんでもかんでも変えていければいいってものでもないと思いますけれど、ただ、いまの自分の考え方を好意的に捉えてくれている人も少なからずいるわけで、だから変われて良かったなと思っています、いまのところは。

 

 最近、自分のブログに関する言及を耳にする機会がなにかと多く。「え、読んでたの?」みたいな人からのそれもあったりして。どれもこれも暇つぶしに書いているだけのアレですけれど、でも、こんなので何処かの誰かが前向きになれたり少しでも変われたり、あるいは何も変わらなくたって何かを思ってくれていたりするのであれば、それはとても嬉しいことだなと思うし。谷川俊太郎でしたっけ、『一生はいくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わるけど、そのひっかきかたに一生がかかっている』みたいなことを書いた人。偉人の文章を引用(曖昧な記憶を頼りに書いたので、正確には引用ですらない)(曖昧な知識で物を語るな 2021 )して何かを表明したつもりになるの、あんまり好きじゃないんですけど、ただ、これについては自分も本当にその通りだなと思っていて。自分に限った話じゃありませんけれど、自分みたいに創作(というか表現?)をやっている人たちからすると。それを至上命題にしているというわけではなくて、中心にあるのは「自分の中のものを形にする」という意識なのですけれど、ただまあ、だからそのついでに誰かのこともひっかけたらそれはいいことだよなって、そう思ったり思わなかったり。形にするだけでいいのなら、ブログなんて必要ないわけで。だからまあ、こうして出力された考えだったり言葉だったりで、ほんの一瞬でも何処かの誰かが何かを思ってくれたのなら、自分みたいな人間からすると、だからそれはめちゃくちゃに嬉しいことなんですよ、実際。……とはいえ、だからそれを狙って何かを書く、みたいなことは絶対にないんですけど。意味ないし。というか、「自分の文章のどこをどう読めばそのような結論に……?」みたいな感想も結構あったりして、それはそれで万華鏡みたいで面白いなと思っていて。なんか、言葉に起こす以上、読み手の反応を想像することは必須ですけれど、ただ狙い撃ちにするのは違う(し、そもそもできない)と思っていて。違うっていうか、誠実じゃない? 自分の言葉で言うなら、嘘っぽい、っていうか。やっぱり『勝手にしなよ。自分も勝手にするからさ』みたいな関係がいちばん性にあっていて、誰とだって。だからまあ、はい。これからも気が向いたら何かを書く程度に続けていけたらいいなって、そんな感じで。

 

 

 

選ぶ

 これから先の人生がどうなるかなんて分かんないですし、このブログもまあいつまで動かし続けるんだろうなって気持ちはあるんですけど、ただまあ今のところ、こうやって自分の考えだったり何だったりを放流して、それを周囲の誰かしらに読んでもらうというのは自分にとっては悪くないことで。なんか、現実世界で会ったときにブログの内容だったり何だったりに言及されるのってなんだかむず痒いというか、単純に恥ずかしいんですけど、でもまあ、だからそれもまた悪い気はしないという話で。こうしてただ書きなぐっただけの文章を、それでも読んでくれる人がいるというのは嬉しいことだし、飛んでくるリアクションだってそう。当たり前じゃないということをちゃんと知っているのなら、それを大切にしていかなきゃいけないなって、改めてそう思うなどしました。何の話?

 

『たった一つを特別として選ぶ』という行為を、覚えている限りにおいて、自分は人生で恐らく一度もやったことがなくて。たとえば音楽、文章、イラストといった創作行為は自分にとって間違いなく特別なものですけれど、「選んだ」という感覚は全くなくて。気付いたときにはそうなっていたっていうか、誰だってそんなものなんじゃないのかなと思いはするんですけど。幼い頃から野球というスポーツに触れて育ってきて、中学生くらいの頃にはプロになることを意識し始めて、甲子園だったり何だったりを通過し、そしてめでたくプロの野球選手になった……みたいな人がいたとして、でも、そのスタート地点はといえば、この世界に数多くあるスポーツの中から野球というたった一つを能動的に選んだわけでもなかった、ということだってあるわけじゃないですか。「親とキャッチボールをよくしていたから」とか「テレビでよく流れていたから」とか、初めはそれくらいの動機だった、みたいな。自分にとっての創作がそうで、創作以外に続いているものもほとんど全部がそう。ただ、上の例のようにプロまで到達するような人はきっとどこかで何かを選択しているのだろうなとも思うんですよね。たとえば、野球の強い高校へ進学するとか、その環境下で野球にあり得ないくらいのリソースを割くとか、そういう他の可能性を捨ててでもそれに賭けるという意思。一方の自分は、そういうのをめちゃくちゃ避けるっていうか、純粋に怖いっていうか。だって、たった一つを選んで、あとになってそれが間違いだったと知ってしまう可能性を思うと竦むじゃないですか、脚が。自分が大学受験で悩まなかった理由の一つには、京都大学というブランドが一般的に確立されていて何をどうやっても間違いにはならなさそうだった、というのもあるはずで、主観に依らない精度で「正しい」と思えないと選べないっていうか。中学の部活動すら結局決められなくて帰宅部でしたし、まあそれはそれで楽しかったからいいんですけど。とにかく選べない。たった一つを選んでしまうと、それ以外の全部が選べなくなってしまうから。これだけじゃない、もっとたくさんの理由があったりなかったりするんですが、だから『やがて君になる』という作品において自分が最も共感できたのは主人公の小糸さんでした。恋人とかいうのは『たった一つ』の極地にあるような概念と自分は思っていて、だって、場合によっては自分が死んでしまう瞬間までずっと運んでいかなきゃいけないものになったりもするわけじゃないですか。中学の部活とか最終学歴なんかとは違って、忘れることは絶対にできないもの。実際にそうなるかどうかとかはさておいて、でも万が一にでもそういった可能性を含有する選択を、二〇か三〇そこらでしなきゃいけないのが人生だっていうんなら、なんていうか、もう終焉って感じじゃないですか? たった一つ、その選択だけで五、六〇年先の未来まで全部決まってしまうかもしれないのに、それでも手を伸ばして選ばなきゃいけないもの。自分にとってそれは、あり得るかもしれない全部の可能性を捨てることに同義のように思えてしまって、だから怖くて、普通に。冒頭でいつまでブログを続けるんだろうって話をして、でもこれからも続けていくならどこかで触れることになるのだろうなと思うのでいま書いておくんですが、まあ、友人の一人と付き合うことに決めて。相手は自分のことを好きだと言ってくれたし、自分も相手のことが好きではあるし、少なくとも自分は「この人となら幸せだろうな」と思ってもいて、だけど、それを決めて相手に伝えて、その後の夜はめちゃくちゃに怖くなって。過去一の恐怖でした。上で言ったようなことだったり何だったりが一気に押し寄せてきたような。胸の真ん中あたりが意味もなくざわついたり、風邪を引いたときみたいな寒気に襲われたり、漠然とした不安が意識を覆いつくす感じ。「選ばない」ということを選んだときにはやって来なかった、呆然と立ち尽くしてもいられないくらいの感情の嵐。それまで自分はそういった選択を避け続けて生きてきたので、だから知らなくて。これ以上ないと思える結末でも、自分自身の手で選び取ってしまうのはこんなにも怖いことなんだって。今年で二四になるらしいですけど、なんか、初めて知りました、そういう感覚を。いまもまだ少し怖くて、そのうち慣れたりするのかなとは思うんですけど、でも世の中の人間って全員こんな恐怖感と一緒に恋愛してんのかなとも思ったり。だとしたら、こんなものを積み重ねて今日まで続いてきたのだとしたら、本当にすごいと思います、人類とかいうの。あり得ないです、正直。

 

 

 

20210822


 全然眠れなかった。思うに、想像以上にきたんだと思う。いや、わかんないけど。でも、眠ろうと思ってベッドへ入ってみても、なんとなくそればっかりが頭の中をぐるぐると回っていて。なんていうか、言葉があふれてくる感じ? 誰一人も聞いてなんかいないのに、今にも虚空へ向けて話し始めてしまいそうな、そんな感じの夜。一時間だけ寝た……、と思う。曖昧だけど、多分。今日バイトなのに大丈夫なのかと思うけれど、まあ、そうは言っても眠れないものは仕方ないし。こういうときは意識を一度睡眠から切り離して、しばらくしてからまた入眠の構えになるとよいことが経験則としてあって。だからいま文字を打ち込んでる。めちゃくちゃ眠いのに。いつも以上に後先考えずに文章を書いている気がする。だって、そもそも丁寧語というか、普段の文体じゃないしこれ。マジで普通に喋ってる感じじゃん。なに、なんていうか、あの、あれ、ボイスメモ? そういうのをそのまま文字へ起こしているみたいな感じ。変なの。でも、めちゃくちゃ楽だな、こうやって文章を書き続けるの。なんていうか、普段からずっとこんな感じだし、何か考え事をしてるときって。次から次へとああだこうだって声が浮かんでくるみたいな、処理が追い付かない、普通に。追いつけなかったものは、そもそも認識さえできてないのだろうな。忘れているとかですらない、多分。そのまますり抜けてる。何考えてたんだろ、さっきまで。さっきって言っても、もう三時間くらい前だけど。人間関係。勝手に変わっちゃうんだな、本当に。なんか、どうなんだろう。改めて振り返ってみても、自分がどんな風に考えていたのか思い出せないな。気づかれないと思ってたのかな。思ってた気がする。いや、わかんない、どっちだろ。気づかれないっていうか、気づかない? 自分が黙っていればこのまま緩やかに終わりへ向かっていくのだろうな、っていう。そんな予想はあったかもしれない。かもじゃないな。あった、間違いなく。なんていうか、特別を望んでいたわけではなくて、これは本当。たとえばの話、自分にそんな事象がなくたって、自分でない他の何かに何かしらの変化があって、それで全部が終わってしまうという未来は、可能性なんてものですらない、見据えておくべきルートの一つではあったし、実際、それでいいと思ってたんだよな、本当に。というか、途中までそのルートに乗っかっていたはずで。会えなくなったって死にはしないし。寂しいとは感じるだろうけれど、その事実を受け入れられないなんてことは絶対にないし。だから、それでいい。みたいな結論に至った気がする、三年くらい前に。恋という言葉には自分なりの定義があって、それはなんていうか、あえて一言で表すなら『欠落』。元々持っていたものをなくしたのか、あるいはそもそも持っていなかったのかはさておき、いまの自分の手元にはない何かをそれでも探し出そうとする感情のこと。本来ならもっと言葉を割くべきだけれど、自分はそんな風の理解をしていて。だったら、それはもはや恋とかですらない。自分がどっちなのかは知らないけど、たしかに何かを探していたと思う。四年くらい、あるいはそれよりも少し後のこと。探して、探して、探し回って。結局、何を見つけたのかといえば、何にもないことを見つけた、という感じで。前に書いたじゃんか、このブログのどこかで。「空っぽのままでも生きていけるし」みたいな。「その空っぽすら愛せるようになる」みたいな。いや、あれは別に気取ってそんな文章を書いたわけでもなく、実際にそうで。昔の自分はそれを『欠落』として捉えたのだと思う、恐らくは。でも、だから、それを埋める何かを探し続けた結果、手にした答えは「それって『欠落』でも何でもないんじゃないの」みたいな、それまでの全部を根底から覆してしまうようなもので。もう何年前だろ、三年? 当時の自分がどれだけ考え抜いてその答えに至ったのかはもう忘れちゃったけれど、でも、たしかにそうだったって思った気がする。なんか、今でも覚えてるし。なんだっけ。京都芸大の敷地に勝手に入り込んで、小さな公園みたいな場所から夕焼けを眺めてたんだよな、そのとき確か。そこで色々考えて、たしかその帰り道だったような。たぶんそう。二年近く抱え続けていた諸々が、たった一瞬で全部消えちゃった感じがして。消えたっていうか、なんだ。透明になった? みたいな。嬉しいもないし、イライラもないし、悲しくも楽しくもない。ほんとうにただそこにあるだけの、空気みたいな感情。それ自体にどうこうってことはなかったけど、それを見つけられたことは嬉しくて。生きるのが楽しくなったし、間違いなく。というか、自分の作った曲はだいたい全部あの辺の感覚から生えてきてるし。大切なものではある、間違いなく。……みたいな気持ちになったのが数年前のことで、以降はずっとそのまま。だから、誤解を恐れずに言えば、本当に終わってしまってもよかった。そりゃまあ、事故だの病気だのは嫌だけど、もちろん。でも、生きてさえいるなら会えなくたっていいんじゃないのって、そんな感じの。だから、なんだろ。いや、そう。だからそうで。なんていうか、有体に言えば「今更それに気づいちゃうんだ」と思ったのだと思う、たぶん。今更なんて言葉は流石に失礼かもしれないけれど、でも今更じゃん。終わってしまってもそれはそれでいいって、いまでもそう思ってるし。本当、どうなっちゃうんだろうな。

 

 

 

後悔ではない何か

 

 後悔というわけではないんですけど、何となしに過去を振り返って「あのとき、自分はどうするのがよかったんだろう」と、それでも考えることは結構あって。とはいえ、どれだけ考えてみたって大局的には自分の結論が変わることはなくて、どうもこうもなく、その瞬間へ至るまでに十分な猶予が与えられたとしても、結局は今へ繋がるんだろうなあって、そう思うことがほとんどですけれど。ただ、「もっとやりようがあったんじゃないか」って、そう思うことも同じ数くらいあって。ゴールが同じだとしても道筋は変えられたんじゃないかって。通る道が変わっていれば、ゴールの向こう側に続く景色も多少は変わっていたりしてたんじゃないかなって、そういう。なんていうか、そのうちの一つをとある作品を読んでいる最中に思い出したっていうか、今回はそういう話なんですけど。その、作中のとある人物が同じ部活の先輩に告白をするんですよ。まあ振られるんですけど。そのときの理由が「いまは部活に集中したいから」というような内容で、しかし後になってこれが嘘であることが発覚して……っていう。それで、その話を聞いていた登場人物の一人がめちゃくちゃに怒るんですよね。具体的な台詞はさておき要約すると「勇気を出して告白してきた人間に嘘を吐くのは間違ってるだろ」みたいな感じで。作中だと一連の話はそこで一区切りで、かたや読み手の自分は「だよなあ」と思うなどして。それが先に言っていた後悔ではない何かですけれど。高校まではともかく大学に入ってからの自分は人間関係もそれなりにそれなりだったので、告白だなんだってイベントが皆無だったというわけでもなく、断ったんですが。初めに言っていた通り、その選択の正当性を疑っているというわけではなくて、仮に人生を 100 万回やり直したとして 100 万回とも同じ結果なんだろうなと本心から思っていて、ただ、方法がよくなかったというか。その一点だけは割とずっと引きずっていて、なのでその作品を読んでいる最中に、なんていうか、めちゃくちゃ責められてるような気持ちになって、ただの被害妄想ですけれど。いやでも、それはそうだよなと思って。というか反省して。反省はこれまでにし尽くしたつもりだったんですけど、自分と関係のない他人の出来事として客観的に捉えてみると、これはたしかに怒られても文句の言えない、というか自分も第三者の立場なら同じようなことを(言いはしないかもしれないけど)きっと思うだろうな、と思って。なんか、そんな感じのアレもありつつだったので、もうめちゃくちゃな気分のままで読み進めていました。……たしかに、嘘を吐くのは良くないことだよなと思ってはいて、そう思っているからこそ未だに引きずってるんですけど、でも、これもさっきのと同じように、何度やり直したところで自分は 100 万回分の嘘を吐くだけなんじゃないかなあって気がしていて。というのも、その状況下でどういった行動を起こすのか正解だったのか、自分は今でもよく分かっていないままだから。なんていうか、思っていることがそのままで伝わればいいのになって思うことが結構あって。自分以外の他人へ何かを伝えるためには言葉を頼る必要があって、でも自分は言葉をあまり信用してなくて、なんだか曖昧じゃないですか、言葉って。「興味がないから」は本当のことだけど、でもこれだけだと嘘になる。自分がどういった意味で『興味がない』という言い回しを用いているのかだとか、あるいは『興味がないから』と結論との間にある些細なギャップだとか、そういった全部が欠けていて。だから言葉って苦手なんですけど、だけど自分たちの主要なコミュニケーションツールといえばこれしかないから、頑張って探して。でも、見つかんなくないですか。その、相手のことを無下にするに足る言葉なんて、どこにも。本当のことを伝えるとして、どれだけ多くの言葉を選んだところで相手を傷つけるだけだろうなって気が自分はどうしてもしてしまって。それならたとえ嘘だとしてもかすり傷程度の言葉を選んだほうがいいんじゃないかと、まあ、当時の自分はそのように考えたわけで。でも、今でこそ思うこととして、それって悲しんだり傷ついたりする権利を相手から一方的に奪うことと同義なんだなと思って、しかもそうとは自覚させないうちに。なんていうか、それってめちゃくちゃ卑怯だなと思うし、失礼だなとも思うし。全部が全部、今となってはの話でしかありませんけれど。というところまで考えはしても、それでも言葉は見つかんないし。だから「どうしたらよかったんだろう」って、そんな感じのことを考えたり考えなかったりして。そのたった二文字を伝えることがどれだけ難しいかって、そんなことはちゃんと知っていたはずなのに。あの一瞬をやり直したいだなんてほんの一度だって考えたことはありませんけれど、ただ、だからこそ他人の気持ちにもっと正面から向き合える人間にならなきゃいけないって、後悔ではない、その思いだけはどこまでも引きずっていくことになるんだろうなって、死ぬまでずっと。

 

 

 

どうにもならない

 

 しばらくの間考えていたことがあって、でも Twitter に書くようなことじゃないかなと思ったので、そんなわけでブログに載せておこうと思います。なんていうか、まあ何についての話かくらい先に書いておいたほうが見通しが良いのかなとは思うのですけれど、でも、なんだろ。何の話なんだろうな、これは。ただまあ、何年か前から折をみて触れている話題ではあって、だから要するに以前から繰り返し考え続けているテーマということなのですけれど。まあ、はい、そんな感じです。本題。……と言ってもそんな大それたものでもないのですけれど、いや、先に予防線を張っておくか。何というか、自分はアレなんですよ。あの、個々人がどういった主義・思想に従って生きていてもいいと思っていて。なんか、色々あるじゃないですか。〇〇イストとか〇〇主義者とか、ああいうの。いや、もう本当に何だっていいと自分は思っていて。何だっていいというか、どのような主義・思想であれ、それに従って生きるくらいの自由は全人類に保障されているべきと考えるといいますか。もちろん基準はありますよ。危険思想だとか過激思想だとか、そういった分類は自分の中にも当然あって。でも、それがその思想を無条件に排除する根拠にはなり得ないっていうか、少なくとも自分にとってはそうで。みたいな。いや、だから、なんだろうな。本当にどうだっていいんですよ、別に。自分でない他人が何を信じて、何に縋って、何を求めて生きていようが、どうだって。それ自体に口を挟む権利なんて自分にはないし、そんなことをするつもりもないし、したいわけでもないし。右でも左でも上でも下でも、別に好きにしたらいいんじゃないのって、自分は本気でそう思ってるんですよね。……なんていうか、これは別に突っぱねるわけじゃなくて、単純に自分が普段からそういう風に感じつつ生きているからという理由に基づくものなのですけれど、何かしらの強い主義・思想を持っている人からすると到底想像の及ばない事象なのかもしれませんが、自分にはそういったものが本当になくて。いや、嘘です。ある。あります。ありますけれど、自分が強く信じているそれといえばほとんど空想のようなもので。なんていうか、現実的な部分に対してあまり関心がないっていうか。だから右も左もないし、多数も少数もないし。どちらにも属さないというよりは、どちらでも構わないっていうか。どちらか一方だけが正しいという風に自分は考えられなくて、同様にどちらか一方だけが間違っているという風にも考えられなくて、だから、片方にだけ肩入れすることはしないっていうか。いやまあ、だからどうだっていいんですよね、結局。というかそもそもの話、これは以前の記事でも触れたことがあると思うんですが、絶対的に正しいものなんてこの世界には存在しないと自分は思っていて。道徳だとか、倫理観だとか、そういったものですら時代やら環境やらで変化していって然るべきものだよなって。人類が絶滅してしまったらそんなものに価値はなくなってしまうわけだし、という主張はあまりにも極論が過ぎますけれど、でもそんな感じで。信じたいものを信じていればいいと思うんですよね、だから。というより、誰だってそうなんだということに気づいてほしいっていうか。ああ、いや、これはだから自分の信じているものを前提としてしまっているということになりますね。『絶対的に正しいものなんてない』っていう、そういう信念に。ここが色んな人と食い違うんだろうなって気はしていて。なんていうか、あの、別に自分の周りの人間がそうだって話をしたいわけじゃないんですよ。そうじゃなくて、ただ Twitter なんかをぼけーっと眺めていて思うこととして、「多くの人って、自分の信じているものこそが絶対的に正しいんだと、そんな風に信じていたりするのかなあ」という疑問があって。というのも、みんな好きじゃないですか、自分の主義・思想を振りかざして他人を殴りつけるやつ。具体例を挙げることは控えますけれど、ああいうのって自分の信じているものが絶対的に正しいと、そういう風に考えているからそういった行動を起こせるのだろうなって。いや、『そういう風に考えている』かどうかは微妙で、だって考えていない可能性、あるいはそもそも考えられない可能性もあるから。馬鹿にしてるわけじゃなくて、いたって真剣に。この前、精神病棟へ入れられた人の話を聞く機会があったんですけど、その、統合失調症っていう、名前だけなら知っている人も多いんじゃないかという症状を持っていた(厳密には、いまも持っている)人の話を。なんか、自分も大概狭い考え方をしていたなって、そのときに実感させられたんですけど、その、ありもしない虚構を真実だと認識してしまう(と本人が言っていた)人が一定数いて。それはどうしようもないことで、本人の意思とか関係なく。信じるとか、信じないとか、そんな選択肢が眼前に提示されることもなく、なんていうか、まるで脳に直接インプットされたみたいに『そう』としか考えられなくなってしまう人。そういう人がいるんだなって、いや、知ってはいましたけれど、でもこうして会って話せるくらいの距離にいるんだって、そういうことをそのときに初めて知って。だから、「自分の信じているものこそが絶対的に正しいのだと信じている」ではなくて、「自分にとって正しいものこそが絶対的に正しいのだと、そういう風にしか思えない」という人も結構数いるのかもしれないなって。そこに選択権なんて端から存在しないというパターン。……他人の在り方に対してどうこう言うのって基本的に失礼なことだなと思っていて、自分は。「あいつは不幸な人間だ」とか何だとか。幸せかどうかなんて他人が定義するものじゃないし、本人以外の誰も触れるべきでないものだろうし。自分は本心からそう思っていて、という前置きをした上で、しかし誤解を恐れずに言うのであれば(できることなら誤解されたくはないけれど)、それって不幸なことだなって、自分は思ってしまうんです、どうしても。だって、その考え方の行きつく先って破滅じゃないですか。「自分の考え方こそが絶対的に正しいんだ!」と主張する人たちがどういった末路を辿るのかって、インターネットの海を少し徘徊してみれば、その例はいくらだって拾うことができるわけで。そういう未来をどうしても想像してしまって、口に出しはしませんし、別に見下しているだとかそういうのでもなく、なんか、純粋に「不幸だな」と思ってしまって。だから、なんだろう。どんな主義・思想でも信じること自体は自由で、それを絶対的に正しいと思うことも本当は自由。だけど、後者の考えに行きついてしまうと、次は自分の主義・思想に沿わない人間への不当な攻撃に手を染めてしまう可能性が高くって。なんか、一度そこへ落ちてしまうと取り返しがつかなくなっちゃうっていうか。不当に攻撃された人間は当然のこと、それを傍目にみている人たちも決して良い思いはしないだろうし、となると周囲からはどんどん人が離れていって、嫌われていって、すると自分の考えが正しいと思っているその誰かは「なぜ自分は認められないのか。自分は正しいのだから、間違っているのは奴らのほうだ」と更なる過激思想へ転落していって……、という負のスパイラル。いやもう、こんなのインターネットじゃ日常的に発生していることじゃないですか。あまりにもテンプレすぎるっていうか、でも、だからこそ気をつけなきゃいけないことでもあるのですけれど、それはまあさておくとして。だから、その、なんていうか、「あの人、そのスパイラルの一歩手前にいるっぽいな」と察してしまったときに、自分は手を指し伸ばすべきなのかなって、そういうことをもうここ数年考え続けているって、結局はそういう話で。そのスパイラルから必ず連れ出せるというわけではないにせよ、でもいま手を伸ばさなければいつ手遅れになったっておかしくないのに、そういうことを分かっていてもなお躊躇ってしまう自分がいて。そして、足踏みする理由の大半を占めているのが『面倒だから』という感情なんですよ。言葉通りの意味ではありませんけれど。なんていうか、それってめちゃくちゃに時間がかかることなんですよ、きっと。人って簡単には変わらなくて、一瞬の雷鳴程度じゃ何一つも変えることはできなくて。それこそお医者さんとかカウンセラーの方々とか、そういった専門職がわざわざあるくらい、長い時間をかけて付き合わなきゃいけないものだと思うんです、自分は。加えて、本人が問題を正しく自覚しない限りは決して先へ進まないものだとも思っていて、だからまずその相手へ正面から問題点を突き付けるための覚悟が必要だし、しかもこっちがその気で相手に向かい合ったからといって、相手がそれに乗ってくれるとも限らないわけで。そのスパイラルから抜け出すって、要は自分自身を否定し続ける作業に等価で、自分が正しいんだって思って過ごすよりも遥かに苦痛を伴うことだと自分は思っていて。だから、自分が行動を起こしたからって何かが変わるとは限らなくて、というかむしろ悪化する可能性さえあるんですよね。自分の考えこそが絶対的に正しいと思っている人に「いや、そうとも限らないんじゃないの?」と言ってみたらどうなるかって、そんなの想像力とかの話ですらないじゃないですか。でも、その人がスパイラルから抜け出すためには言わなきゃいけないんですよ、誰かが、その言葉を。ここまで言えばもう「誰がわざわざそんなことすんねん」という気持ちにしかならないっていうか、だから見て見ぬ振りが正解で、というか自分以外の人間がどんな人生を送ろうが知ったことじゃないしって、そうやって割り切ってしまうのが賢い生き方なんじゃないかなと自分も思うんですが。でも、自分にはそれができなくて、どうしても。だからって手を伸ばすこともできない、リスクがあまりにも高すぎるから。……どうすればいいんだろう、本当に。どうにかできるものなのかな。どうにもできなくないですか? ……なんていうか、これは冗談だと思って聞き流してもらって構わないんですが、自分がどうにかしてもらった側の人間なんですよね、多分ですけれど。といっても、別に右だの左だのに傾倒していたわけではなくて、もっと別のところで。今でも覚えてるんですが、まあ、あれやこれやと色々な様々を言っていたんですよね、その、有体に言えば不満のようなものを。すると、それを聞いていたもう一人に「それって貴方自身と何が違うの?」というようなことを言われて。当時の自分がどう思ったのかは忘れてしまったんですが、後々になってから、そういうことを正しく指摘してくれる友人がいるのって本当に恵まれていたんだなと強く思って。要は運が良かったんですよね。偶然。ラッキー。別に自分が何かをしたというわけでもなく、ただいつからか仲良くしていた相手がそういう人だったというだけの話で。いやまあ、もちろんさっき上で話したように、それから今に至るまで本当に自分が何もしてこなかったのかいえば、そんなことは決してないのですが……。ただ、最初の一歩は完全に幸運だったという話で。その友人が正確な鏡になってくれていたから、自分の持っている何が正しくて何が間違っているのかを、時間はかかりましたけれど、それなりに知ることができたっていうか。だから、その、鏡があればいいんだろうなって思うんです。自分を映す鏡。抽象的ですけれど、本当に必要とされているものが仮にあるとするならば、きっとそういうものなのだろうなって。でも、それっていまからでも間に合うものなのかなと思ってしまって。高校生の頃、毎晩毎晩夜更かしして、色んなことを話し合って、そのたびに考え方を整理していって。そんなことを繰り返して自分はいまのようになったのですけれど、でも、社会人への期限が迫った今、そんなことをする余裕なんて本当にあるのかって、やっぱりそう思ってしまうというか。ただの言い訳ですけれど、こんなの。なんていうか、だからもう、奇跡的な何かの到来を祈るくらいのことしかできなくて。誰でもいいから、あの人の鏡になってあげられる誰かがいつか現れますように、みたいな。自分じゃそうはなれないから、自分がそうだったみたいに、偶然が救ってくれることを期待するしかないっていうか。……いや、何度も言うように全部が全部、ただの言い訳なんですけど。でも、なんていうか、もうそうするしかできなくねって気持ちが結構あって。まあ、はい、そんな感じです。人間関係、ムズすぎ。嫌になっているわけでもないけれど、だけど、それにしたって報われなさすぎる。どうすればいいんだろ、本当に。

 

 

 

辞書


 皆さん、辞書を読んだことはありますか? ここでいう『読んだ』というのは、たとえば文庫本や漫画を指してそう言うように、『最初から最後まで目を通した』という意味合いで、つまりは読了ということです。ありますか? ちなみに僕はないです、当然ながら。辞書を読むのが好きだって人、一定数は間違いなくいるだろうと思うのですけれど、ただ、恐らくマジョリティではないですよね。んー、どうなんだろ。たとえば、この国の人間の半分以上が辞書を読了したことのあるような世界線がどこかにあったとして、そうすれば今と少しは違った社会になってたりするのかなあって考えてみたりもするんですけど、んー。あんまり変わんなさそうな気もしますね。いやまあ、それはいいです、どうだって。辞書の話はここで一旦さておくとして、別の話。いわゆるところの議論ってやつがあるじゃないですか。議論。まあ会議でも裁判でも、対話を伴うものであればその実なんだって構わないのですけれど。ああいった場で最も重要なことって何だろうなと考えてみたときに、その候補の一つとして『前提条件の共有』があるように思うんですよね。それがたとえば X という企画を通すべきか否かという話し合いの場であるなら、まず X そのものが何であるかといったことや、そもそもの話、その企画の意図はいったいどこにあるのかという大前提の共有は当然のように必須として。その話し合いの場がどういった理由から設けられたのか、つまり現状どういった問題が想定されているのかということの共有ももちろん必要で、それを知らずに話し合いに参加している人間が一人でもいれば話は拗れていく一方でしょうし、話し合いの目的を見失ってしまう可能性も十分にあって。だから、こう、「何かについての話をしよう」となれば『話の前提を全員が共有している』という状況が望ましいんだろうなって、理想ばかりを言ってもよいのなら自分はそのように思うんです。思うんですよ。……そこで最初の話と繋ぐんですけど、自分は辞書を『読んだ』ことがないんですね、先述の通り。そして自分以外でも、恐らく多くの人が辞書を『読んだ』ことがないはずで。だけど僕らは日常的に言葉を交わすわけじゃないですか。「おはよう」。「そういえば、昨日借りた漫画、面白かったよ」。「本当? よかった。家に続きがあるから、また持ってくるよ」。みたいな感じで。なんか、いや、考えすぎだってのはまあ分かってるんですけど、これってめちゃくちゃ怖いなって思いません? 個人的なことを言うと、なんていうか、『偶然にも同じ音素で似たような意味合いの言葉がたくさんある、でも本当は全く別の言語を使っている人』と喋ってるみたいな気持ちになるっていうか、……なりませんか? たとえば自分は A という言葉を a という意味で定義していて、一方の相手はそれを α という意味で定義していて、a と α で意味合いは微妙に異なるはずなのに、でも大局的にはだいたい同じ感じだから、両者ともその食い違いに気づけないままで会話を進行させてしまう、みたいな。でも、こう、そういうのを積み重ねていくうちにいつの間にかすれ違ってしまっていて、「あれっ?」みたいな。そういうの、めちゃくちゃ怖いよなあって自分は思っていて。そう、だから対話のためには『話の前提を全員が共有している』という状態が理想であるはずなのに、そもそも自分たちは言語の定義時点ですれ違っている可能性がとても高いよなって、そういう話です。なんか、なんだろ。こういったことをめちゃくちゃ考えるようになったきっかけは明確にあるんですが、まあでも、それよりも以前からこの感覚は知っていて。作詞なんかをやっている人なら分かるんじゃないかなって思うんですけど、表現ってあるじゃないですか。表現。その、ちょっと大雑把に言いすぎた感がありますけれど、まあ比喩だとか何だとかって適当に読み替えてください。その数多くの表現の中でも、特に自分に馴染んでいるという何かが、たとえば作詞をやってたりという人には少なからずあるんじゃないかなと自分は思っていて。なんだろう、たとえば自分は『きっと』という表現が好きで、っていう話は昔ブログで書いたんですけど、たしか。その、たとえば『きっと届く』と言った場合、自分の想定していることとしてはどちらかというと真逆で『届かない』なんですよ、本当のところは。「届くわけがないよな」と思っていて、だけど、だからこそ『きっと届く』と唄うことに意味が生まれるんじゃないかって感覚があって。ここら辺の気持ちを言語化するの、正直かなり難しいのでめちゃくちゃ雑に書いてますけど。なんていうか、そういった『決して叶わない』という現実へ抗う意思の象徴というか、そんな感じの意味合いで自分は『きっと』という表現を組み込むことが多々あって。『きっと届く』だとか『きっと愛せるよ』だとか、もちろん、そういうんじゃなくて普通の『きっと』として用いることもあるのですけれど。……みたいな感じで。特に気に入っている表現というのが、普段から言葉を弄って遊んでいる人たちには少なからずあるんじゃないかと思っていて、いやだけどって話なんですけど、それらが意味するところって本人しか分かり得ないものだったりするじゃないですか、往々にして。いま説明した『きっと』だって、この国に住まう全員がこのような意味表現を『きっと』という副詞に対して定義しているというはずもなくて。でも、自分にはそれが馴染んでしまっているから、日常会話とかで使ってしまったりするわけですよ、そういうのを。『きっと』に限らない、様々な様々を。自分や、たぶん作詞だ文章だのなんだかんだをやっている人たちは、恐らくそういった『自分だけの言葉』にまだ敏感なほうなんじゃないかと思ってはいて、ただそれでも結構な数のオリジナル用語を見落としてしまっているのだろうなという自覚もあるにはあって、だから結局なにを言いたいのかという話ですけれど。僕らってお互いに自分勝手な定義を採用した言語で会話をしていますよね、恐らく。ここに至るまでだらだらと書いてきたこの文章にしてもそうで、読み手ごとに比較的意味のぶれにくいものにしたいというモチベーションが自分には多少あるので、なるべく平易な言葉を使いまくるという風のスタイルを採用しているのですけれど、でも、それにしたってきっとどこかしらで情報が欠落するなり、あるいは余計に付加されるなりして読み手に受信されているのだろうなという気はしていて。小学生でさえ知っている程度の簡単な言葉ですら、きっと正確に伝えあえはしないのだろうなって。考えすぎ? 考えすぎではあるな、実際。でも、いや、どうなんだろ。これは僕個人の考え方なので、別に正しい正しくないの話じゃないんですが、相手のことを不必要に勘違いしてしまうということを本当に避けたくて、自分は。勘違いっていうか、なんだ。自分の定規で測ることばかりをしたくないっていうか、バイアスをなるべく回避したいっていうか、中立的に向き合いたいっていうか。なんだろ。相手の内側から飛び出してきた単語を自分の手元にある辞書で逐一翻訳して、そうして解読された言葉っていったい誰のものなんだろうって、そういう感覚がめちゃくちゃあって。それは少なくとも相手のものではないなって感覚があって。さらに言えば、それは自分の言葉でしかないよなって感覚もあって。だから、それだけを根拠として相手を理解しようとしたら絶対にどこかで間違えてしまうのだろうなって、そんな風に自分は思っていて。難しいですけど、それを避けるのって。だから、なんていうか、話をするだけじゃダメなんですよね、きっと。相手のことを理解しようとする意志がないとダメで。……みたいなことを、誰かの話を聞いているときに自分は考えていたりいなかったりするっていう、そういう話なんですけど。いや、なんていうか、『誰かの話を聞くのが好き』とよく言っていますけれど、自分は。でもそれは単純にお喋りをしたいというだけのことではなくて。自分の場合、考えるところまでがセットというか、そうでないと意味がないというか。「この人はいったい何を言おうとしているのだろう?」ということを、とりあえずは自分の辞書を片手に、必要であれば相手の辞書にはどういったことが書かれているのかも訊いてみて、それが自分にとっての『会話』というか、『話を聞く』という行為の指すところだったりします。自分と相手とで、手持ちの辞書がどのくらい異なっているのかを確認する作業? みたいな。……ということを、さっき久しぶりに歌詞を読み込んでいて改めて思いました。それらを自分の辞書で訳してしまっていいのなら簡単だけれど、書いた本人の辞書に照らしてみたら一体どんな文章になるんだろうなって。……いや、冒頭のほうで『用語の定義すら一致していない状態で会話するの、普通に怖くね?』みたいなことを散々書きましたけれど、でも、本当のことを言えば、自分はそれを常としている世界が結構好きなんですよ。A という言葉に対し全員が全員 a という意味を定義として採用していてほしいだなんてことは全く思っていなくて、いや、だってそれだと他人と話をする意味がなくなっちゃうじゃないですか。すれ違うことがなくなって、そこはまあいいのかもしれませんけれど、でも林檎は林檎、葡萄は葡萄、蜜柑は蜜柑って。つまんなくないですか、それ? と思っていたりもします、自分は。相手の言葉をすべて自分の辞書で読み解けてしまうのなら、じゃあ歌詞なんて別に読まなくたっていいんだよな。それこそ紙の辞書を引けばいいってことになるんだし。お互い、その実全く異なる言葉を話しているからこそ、相手のことを知ってみたいという気持ちも自ずと湧いてくるわけで。それがだからコミュニケーションなわけじゃないですか、つまるところ。……っていうだけの話でした、今回は。

 

 

 

どこからどこまで?


 今回はちょっと長いです。時間のあるときにどうぞ。

 ポイ捨てってしたことあります? 生まれてこの方一度もしたことないって人、いるのかな。普通にいそうではあるけれど、自分はまあ、あるんですよね、これが。いまでも明確に覚えていてたまに思い出すんですが、中学生の頃、一度ポイ捨てをしてしまって、なんか、家に帰ってからめちゃくちゃに後悔したんですよね、それを。なんでそんなことしたんだろって。以来、ポイ捨ての類はしなくなりました。なのでまあ、自分が覚えている限りで言えば『一度だけしたことがある』ということになるのですけれど、どうなんでしょう。単純にそれ以前の幼い頃のことなんて忘れちゃってるだけなのかもしれません(というか多分そうで、一度だけってことはないと思う)。でもまあ、件の一件以来は一度もしたことがないはずです、恐らく、記憶の限りでは。……なんてことを、何故いきなり話し始めたのかというと、ここ最近に考えていたことへ話題を持っていくための前振りです(と言っても、あまり関係ない)。まあせっかく質問箱(リンク先)も置いてみたことだし、なんか、そういう『不特定多数へ向けて意見を訊いてみる』みたいな記事があってもいいかなーって(いま来ている分はまだ回答を保留して(=考えて)いる)。といっても、返信が来ることにあまり期待はしていなくて、いやだって、好きな作家さんの漫画のアンケートすら書いたことないですし、僕。質問箱を使ったことがなかったって話をどこかでしたように思いますけれど、結局、ああいった類のものを自発的に送ろうという気に自分はあまりならなくて。だから、他人にも同様に期待しないっていう、そういう話です。自分がやりもしないことを他人へ求めるのは良くないですしね。「まあワンチャン来たらいいか」程度のそれです。はい。……冒頭の話へ戻りましょうか。冒頭の話っていうか、そもそも最近の自分が何を考えていたのかというところから話したほうがいいように思うのでそうするのですけれど、いや、別にそんな込み入った話という訳でもなくって、ざっくりと言えば『理性と感情って明確に二分できるものなのか?』というのが最近のテーマです。理性の対義語は感情。感情の対義語は理性。それ自体はまあ良いとして、両者を確と区別することは果たして可能なのかって、そういう。なんていうか、いや、これは苦言を呈したいわけでなければアンチテーゼというわけでもなくって、ただ単に事実としてそうであると述べたいだけなんですが、ありがちじゃないですか? その理性がどうこう感情がどうこうっていう主張。……もっと言えば、『人間は須らく理性的であるべき』という行き過ぎた主張ですけれどね。いや、まあ、それ自体は別にいいんですよ、どうだって。どのような主義思想を持っていようが、それは個々人の自由なので。わざわざ食いついたりしませんし、否定したいとも思いませんし、どうでもいいので。でもまあ、だからと言ってそういった主張を目にして何も思わないわけではなく、それがだから『理性と感情って明確に二分できるものなのか?』という疑問だったりします。感情で動く人間を極端に忌み嫌う人たちがいるじゃないですか(昔の自分も大概そんな感じだった)。それこそ、想起することさえ憚られるような言葉を幾つも並べ立てて。……いやまあ、分からなくはないんです、そういうのも。別に、深淵を覗き込むような悪趣味は持ち合わせていないので、Twitter なんかで流れてきた炎の断片を流し読む程度の接点しかありませんけれど。たとえば、つい最近もありましたよね。某数年に一度の大会で何かしらを担当する作曲家の過去がどうこう、みたいな。そこでまあ『感情的』になって某大会の何かしらへの批判を並べ立てたりする人たちだとか、あるいは似たような名前の作曲家が風評被害を受けているって話もありましたけれど、だからまあそういったことを『感情的』にやってしまう人たちだとか。そういうのをみて「うげー」と思うことは、まあ別にそれほど気を病むようなことでもない、おおよそ健全な反応であると、少なくとも自分はそのように思いますけれど。しかし、まずもってそれらを『感情的』と断じてしまってよいのかという疑問は当然あり(だから、わざわざ二重括弧をつけてある)、それはそれとして、そういった人たちへ向けて「『理性的』であれ」と声高に主張する(思うことは自由。でも、それを原因に他者を一方的に否定したら同じ穴の狢じゃない?)人たちの『理性的』が意味するところは一体何なのだろうっていう。いちいち訊いたりしませんけど、そんなこと。面倒ですし。だからまあ、こうやってブログなんかへ適当に放流してそれで満足するんですけど。……ああ、というか完全に忘れていましたが、冒頭の話へ戻りますね。その、ポイ捨ての話ですけれど、ちょっと前に早朝の鴨川デルタへ散歩へ行ったんですよ。深夜帯にあの辺りへ散歩へ行ったことのある人なら分かるだろうと思いますけれど、結構な夜遅くでも人(おそらくは大学生)が集まって騒いでるんですよね、デルタって。いやまあ、それ自体はどうでもいいんですが、そういった集団のすべてが十全なマナーとモラルを兼ね備えていると期待するのはちょっと夢をみすぎっていうか。もちろん、そういう人たちだっていると思いますけれど、でもまあ、全部が全部そうではないっていうか。早い話、早朝のデルタってめっちゃくちゃにゴミが散乱してるんですよ。当然、日にも依りますけれど。飲みかけの缶ビールとか、空のペットボトルとか、煙草の吸殻とか、花火の残骸とか。稀にライターなんかも落ちていますけれど、そういう、人工的な廃棄物? 要はポイ捨て。そういうのがあちこちにあって。そして、その、早朝に散歩へ出た日もそうでした。入ってすぐ手前にあるベンチの脇に缶ビールの残骸があって、いつも座っているベンチの足元には空のペットボトルと煙草の吸殻。だからってまあ、それらを拾おうとしなかった自分も同罪みたいなものなので、だからポイ捨てをする人たちを非難できる立場に自分はありませんし、そもそもそんなことをするつもりも、したいとさえ思っていませんが。デルタへ入って、いくつかのゴミを視認して、「まあ、こんなもんよな」と思って、それでおしまい。別に何もしない。そうやっていつものベンチまで歩いて、座って、しばらくの間は朝日を眺めて、そうしているうちに一人の女性がデルタへ入ってきて。軍手にゴミ袋を携えて。そのとき初めて「ああ、この場所も掃除する人がいるんだ」と思って。いや、普通に考えたら当たり前のことで、実際、日中にデルタへ行っても早朝ほどのゴミを視認することはあまりなく、自然の浄化作用にも限度があるでしょうから、ということは誰かが片づけをしているということで。自分はその日が初めての遭遇でした。デルタって上の公園と下の石床ゾーンと先端とで三つの領域に分けられるじゃないですか。その女性は先端のほうから清掃を開始するっぽくて、自分は何となくその背中をぼけーっと眺めていて。なんていうか、なんだろ。何であの人が片づけなきゃいけないんだろうな、と思って。その、ポイ捨てされたゴミ群を。いや、昔めっちゃくちゃ嫌だったことがあるんですけど、あの、小学校とかでよくやらされる地域ボランティアみたいな。要はゴミ拾いなんですけど。公園とかへ行って、そこに落ちているゴミを拾うっていう。あれ、意味わかんなくないですか? いや、そう、そういえば当時からめちゃくちゃポイ捨て嫌いだった気がしますね、自分(その割に、中学のころに一度やってしまっているんですが……)(他人のことを言えない)。「なんで、顔も名前も知らない人間(しかもマナーがなっていない)の尻拭いを自分たちがしなきゃいけないの?」って。いや、尻拭いだなんて語彙は持っていませんでしたけれど、当然ながら。でもなんか、そういった理不尽に対するある種の怒りをめちゃくちゃに感じていたなあと、その女性の背中を眺めながらふと思い出して。……小学生のボランティアだったら労ってもらえるじゃないですか。担任の先生だか校長先生だか町内会の人だか知りませんけれど、誰かしらには、恐らく。でも、じゃあその早朝に現れた女性を労ってあげる人って誰かいるのかなあと思って。そこへゴミを捨てた当人たちからの感謝が来るわけでは当然なく、というか、後片付けをする人間の存在を察知できる想像力があればポイ捨てなんかそもそもしないはずだし、まあそんなもんでしょって感じで。同じだなあと思って、小学生の頃の自分と。だからまあ、結局、自分はその女性の手伝いをしたんですけど、その朝。というのも、どこかの誰かの不手際をその女性一人だけが背負う理由はどこにもないはずで、だったらそこに居合わせた自分が『それを手伝ったほうがよい』のは明確だし、それはそれとして、以上で述べたような理由から『それを手伝いたい』と思ったこともまた事実で。……とまで振り返ったところで生じる疑問として、これは『理性』に基づいた行動なのか、あるいは『感情』に基づいた行動なのか、果たしてどちらなんでしょう? 『自分も手伝うべき』という理性? 『自分が手伝いたい』という感情? そのどちらでも構いませんけれど、いずれか一方のみに基づいた行動であると、本当にそう断言することができるのかなって。『人間は須らく理性的であるべき』と過激な主張を行う人々(『過激な』という修飾語は必要)をみて、だから自分がよく思うのは「人間の行動は『理性』と『感情』の両者に依存しているものが殆どじゃない?」ということだったりします。それがだから「理性と感情って明確に二分できるものなのか?」という疑問の正体で。まあ絶対に表じゃ言いませんけれど、面倒なので。……その、たとえば「感情的にしか動けない人間は愚か」という主張を行う人がいたとして、そういう人って恐らくは『自分は理性的に動いている人間だ』という自負があるのだろうなと思うんですよ。でないと、そんなことを声高に唱えるはずも(それによって他者を不必要に攻撃するはずも)ないじゃないですか。でも、少し前の記事でも書いてましたけれど、その、『自己申告による評価を自分は信用していない』みたいな話。それと同じような話で、だからまあ有体に言ってしまえば、『自分は理性的に動いている人間だ』という自己評価が『感情』に基づいていないという根拠はどこにあるのだろうって。自分はまあ、そんな風に思ったり思わなかったりします。絶対に言いませんけど。面倒だし、どうでもいいので。……みたいなことを今日のバイトへ行く途中に考えていて、一つ思ったこととしては、恐らく自分とそういった人たちとで『理性』と『感情』の定義が異なるのだろうなあって。自分の傾向として、これは以前の記事で書きましたけれど、その、物事の境界線を排していくというものがあるような気がしていて、だから『理性』と『感情』の境界もまた曖昧になっているのかもと思ったり。つまり、『理性』と『感情』の所在を明確に二分するような定義があるのかもという期待があって。所在っていうか、個人が起こす行動との因果関係かな。「これは『理性』によるものだ」、「これは『感情』によるものだ」って、ゴミを袋に分別するときみたいに、機械的に区別できるような定義があるのかもしれないっていう、そういう。……どうなんでしょうね。ちなみに、上のようなことを書きましたが、正直に言えば自分はちょっと懐疑的です。自分の考えが絶対的に正しいという沼には陥りたくないので、修正パッチ用の隙間はちゃんと残しているつもりで、だから色んな人の意見を聞いてみたいなと思ってもいる(冒頭の質問箱はそういう意図)(ただし、自分からは絶対に切り出さない)のですけれど、とはいえ、そんなものはどこにも無いんじゃないかって気持ちがやっぱり強くて。……なんだろうな。社会という存在の解釈は様々があるだろうと思いますが、自分は『感情の集合体』という風に捉えている節が若干あって。それはつまり、人間が究極的には感情的にしか動けないから、というバイアスが自分には備わっているせいだろうと思いますけれど。そして、人間という生命体がそんなだから、規則だとか法だとかの『機械的な理性』の制定が一般には求められるんじゃないのかなって、そんな風に思っていて(もっとも、その制定も運用も人間のなすところですけれど)。いや、真面目な話、誰だって一人くらいなら殺せるんじゃないですか? 二人以上はまあメンタルの問題なんかもあるのであれでしょうけれど、時と場合が整えば一人くらいはやってしまいそうな気がします。人間という生命体に対してそう考えているということは、もちろん自分自身もまたそのような存在であると評価しているわけで。たとえばの話、自分ともう一人がどこかの誰かに拉致されて、どちらかだけを助けてやると言われたとしたら、自分は間違いなく自分を助けようとします。実際、そのような状況に陥った際にそういった判断をするかはその瞬間の自分に依りますし、本当にそのような状況が実現したら様々な葛藤があったりなかったりするのでしょうけれど、でも、何ら一つの危険も身に迫らない思考実験の上でなら、自分は間違いなく『自分を助ける』という風に答えます。だって、自分の知っている自分ならそうしないはずがないから。……まあ、別にそんな究極的な状況を仮定しなくたって、人間なんて基本は感情に支配された生き物じゃんって認識が個人的にはあって。程度の差はあるでしょうけれど、些細なことで喜んだり悲しんだり、怒ったり笑ったり、そういったことをできるのが人間なんじゃないのという気持ちがあって。もちろん自分は、それらにばかり囚われて不必要に他人を攻撃するだとか何だとか、そういった行為を許容する立場を取っているというわけではなくて。そういったものに対して、強い言葉で書いてしまえばある種の嫌悪感を抱くような人間ではあります、自分もまた。でも、だから、その矛先を『感情の否定』に向ける理由が分からないって話で。だって、その矢って全部自分に返ってくるじゃないですか。「感情的にモノを語る人間は愚かだ」。その主張は「感情的にモノを語る人間は不愉快だ」という感情に基づいたものではない? 「事実を述べたまでだ」。それは「『感情的にモノを語る人間は愚か』という一意見を事実ということにしてしまいたい」という感情に基づいたものではない? 堂々巡りですよ、こんなの。……いやまあ、どこかで堂々巡りになると分かっているから、こういうことを表じゃ絶対言わないようにしてるんですけどね。別に喧嘩したいわけじゃないし、というか、何度も言ってますけど、どこの個人がどれだけ過激な主張をしていようがまあどうだっていいんで……。その人の人生ですし、博愛主義というわけでもないので、自分は。いやでも、まあ、それはそれとして考えはするわけですよ。だから、「そういった人たちは自己の『理性』と『感情』とを、どのようにラベリングしているのだろう」って。手の内にある『理性』と『感情』とのそれぞれに、どのくらい深い理解を宿しているのかなって。だから一度そういうことを訊いてみたいって好奇心は正直かなりあるんですけど、でもしないんですよね、面倒なので。いやまあ自分は他人と話をするのが、というか他人の話を聞くのが結構好きで、どうでもいい話でも大切な話でも、何でも。相手が普段どういったことを考えて生きているのかを知るということが、自分にとってはかなり重要なテーマになっていて。だから、いくらだって話に付き合いたいと思うんですけど、でもまあ、この世の多くの人はそうでもないんだろうなあって理解もちゃんとあって。もちろん、大概面倒な自分に話して聞かせてくれる人たちはちゃんといて、幸いなことに。だから、自分の周りの人間をみてそういうことを言ってるんじゃないよって弁明をしたかっただけなんですが、だから単純に生まれてから二〇と数年生きてきて感じたこととして、深いところでの話し合いを好まない人も当然いるよなって。というか、自分と異なる考え方の人間と会話することを避ける人も当然いて、それが悪いってことでは全くないんですが、そういった人たちと自分みたいな人間との相性って体感かなり悪くて。こっちがどれだけ話に付き合うつもりでも、向こうにその気がなければ意味がないって話で。無理に付き合わせるようなものでもないですし。だからまあ、街頭アンケートばりに知人であれば誰彼構わずといった具合でこれまでに書きまくったような話をするのかといえば、まあしないんですね。だから、不特定多数へ向けて公開するブログに色々と書き殴ってみて、そうして自分と同じような人間(こういったどうでもいいことを延々と考えてしまう人間、という意味)を探し出そうと、そういう側面はあります、割と。なんか、最後のほう、関係ない話しちゃったな。洗濯機を回し終えるまでの繋ぎとしてちょっと書こうと思って書き始めたんですが、もう 1 時ですよ。洗濯機を回したのは 20 時前。どうして? ……バイトへ行く途中に考えていたことは他にももっとたくさんあったんですが、とりあえず今日はここまでにしておきます。普通に書きすぎた。