呼吸

 

 こういうことを言うと普通に引かれそうだなと思うので言わないようにしているけれど、人の寝息を聞いていると自分はとても安心する。それがどんな人間であれ、生きているということは本当で、だから息をしているということだって本当で、たったひとつそれだけは絶対に疑わなくていいと思えるから。日常生活の大部分を支配している言葉というものを本当に信用していなくて、自分は。広く言語一般をその人らしさが顕れる媒体と信じているのは本当で、だけどそれと同じくらい、あるいはそれ以上に強く、言葉という概念そのものを信用していない。何も感謝していなくたってありがとうと言えるし、何とも思っていなくたって愛していると言えるし、理由はそれだけ。それだけでも十分すぎる。自分の言動に対して疑いの目を向け続けている自分自身がいて、それと同じように他人の言葉を疑い続けている自分がいる、どこかに。事実はいくらだって美化できるし、悲劇的に語ることだってできるだろうし、話し手のさじ加減一つで。相手の言葉に寄り添うという行為は、恐らくは優しさと呼ばれる謎の何かが析出した一つの形で、それはとても素敵なことだと思っている、心の底から。だけど、自分にとっての正しさって何だろうなと考えてみたとき、それが答えになることはまずない。相手の言葉に寄り添うということは、つまり相手の言葉を一旦受け入れるということだと思う。すべてを事実として認める。怒りだとか、悲しみだとか、喜びでも何でも構わないけれど、それらを自分の内側へ迎え入れるという行為。尊いことと思うし、偉大なことだとも思う、皮肉とかではなく、本心から。自分にとっての正しさでないというだけで、ものすごく綺麗な在り方だと思う、それは。自分は、そのままで受け入れるということをしない、絶対に。疑ってかかる、そのために五メートルのラインを引いている。理由。それが自身の深くに息衝いた問題であればあるほど、主観的にしか語れなくなってしまうことを知っているから。相手の言葉をそのままで受け入れるというのは、だから相手の問題を一人称的に解釈しようと試みる行為だと思う。共感。同情。問題意識の共有。そういうの。自分たちは本質的に孤独であるということを何となく知っていて、相手のことを本当の意味で理解することは、氷山の一角だって叶わないことも知っていて、そんな大層な領域まで風呂敷を広げることもないけれど、だから結局、相手の言葉をそのままで受け入れるという行為は、相手の心理状態を一先ず分かったこととして、その上で同じ問題に向き合う行為と同義のように映ってしまう、自分の眼には。綺麗だと思う。相手の気持ちを丸ごと飲み込むのって、この世界にいる全人類ができるようなことではないだろうから。一方で、自分にとっての正しさではない。嘘を吐いているなと思ってしまうから、相手に。何も分かってなんかいないのに、全部を分かったような気になって。本当に嫌。小説。だから、三人称的に捉えようと努めることが自分にとっての正しさで、自分に扱える唯一の方法。五メートル。傍観者。地の文を読みながら、会話を目で追いながら、それが誰かにとって大切なものであればあるほど強く疑う。自分なんかのところへ持ってきたお前が悪いと思いながら、どこまでなら信じることができるかなと考える。色々。ときどき息が切れていた。目的地はあれど、急ぐような歩調でもないのに。ところどころ声が震えていた。寒いから? たまに躓く。足下がみえていない。事あるごとに笑う。どうして笑えるんだろう。まるで言い聞かせるみたいに、整然と並んだ言葉。誰のためのもの? それでも滲む、知らなかった誰かの口調。知らないな、と思った。言葉の外で探す。冒頭の話。呼吸は疑わなくていい。心臓は嘘を吐かない。アヒル役の相槌を打ちながら、目は合わせないけれど、目なんて合わせなくたってできる、それくらいのこと。目を覚まして、それからも少し探した。「誰かに話すだけでも気が楽になる」という主張を生きていればどこかしらで耳にするはずだけれど、だけどあれって普通に嘘だよなーと思う。それが事実なら今頃、地球上からありとあらゆる悩みの種は消失している。任意のカウンセラーは御役御免、宗教だって目的を見失う。だけど、現実はそうなっていないし、それが当たり前みたいに。どこの誰にいったい何をどんな多くの言葉を割いて話したって、本当のところでは微塵も理解してもらえるはずがなくて、伝わらなくて、分かりきっているはず、そんなこと。何も解決しない。せめて誠実ではあろうとする、自分なりに。大切にするくらいなら頑張れるし、というかそれしかできないから。だから、勝手に助かってほしいと思う、本当に。何もできないし、何をするつもりもないけれど、一度信じた分くらいは祈るから。「全部が上手くいけばいいと思う」。本当に上手くいけばいいのにな、全部。