20240111

 

 電車に揺られているときとか、あるいは朝日を横目に歩いているときとか。どこからともなく湧いてきた欠伸を噛み殺しながら、眠いな、って思うじゃん。あれと全く同じ感じで、死にたいな、って思う(ところで後半部分に記述してあるのだけれど、誤解を招くのはよくないと思うのでこの段階で補足しておくと、これは希死念慮とか自殺願望とかっていう話では全くなくて、もっとカジュアルな、全然シリアスではない感情。なので、精神状態が悪いとかでも全くない)。新年一発目の記事がこんな内容で大丈夫? と思うけれど、でも、そう思うものはそう思うんだからどうしようもない。というか、いつからだろうな。なんていうか、手の施しようがない感じのこのブログを認めるにあたって、明確に読み手の顔を想像するようになったのって。昔はそうでもなかった。昔はっていうか、二年くらい前? までかな。いや、書き始めた頃から読み手のことは意識するようにしていて、なるべく読みやすい文章を書くようにしよう、みたいな姿勢とか。誤字脱字はできる限り見逃さないように、とか。ところでそれって、読み手の顔を意識しているわけではないよな。どちらかというと気持ちとかじゃない、たぶん。だから、誰でもよかったし、誰でもなかったんだなと思う。完全な第三者。シミュレーションされた客観的視点。コナンの犯人とか、Twitter エッセイ漫画の一人称とか、そういうのと同じで、極度に抽象化された存在が読み手として想定されていた、はず。だから昔の自分は、なんていうか、日々のあれこれを好き勝手に書きまくっていたわけだし、いまの自分はそれをしなくなったわけなのだろうな、と思う。しなくなったというより、できなくなった? いや、それは責任転嫁しすぎか。しなくなった、のままで正しい。誰も悪くなく、自分が悪いわけでもなく、これはそういう変化の話だから。

 

 ちょうどいまお風呂が沸いたので入ってくる。冬の寒い日に浸かる湯舟が一番好きで、夏は夏で気持ちいいんだけど。今年は……、冬とまだ友達になれていないような気がする。毎年、仲良くやってたのに。これも変化って言うのかなあ。と思いはしたものの、別に冬と友達になっていたわけではないような。なんだろ。孤独? うわ、ありきたりな言葉。嫌だな。思うに、ありきたりな言葉のよくないところって、個々人によって定義が異なること。たとえば、自分の修士論文で真っ先に定義したもの、つまりそれを知らないと話が始まらないというものにアデールってのがあるんだけど。代数学、の特に数論かな、を齧った人になら一言、アデールと言えばそれだけでどんな場面を想定しているのかが伝わるんだよね。まあ、他の学問がどうなのかは知らないけど、多義的な言葉って精密な議論を行う上ではあんまりよくないだろうし(それでもたくさんあるんだけど)。だからまあ、新しい概念にはどんどん新しい名前をつけていって、名前と概念とが一対一に対応するようにしましょうねって話だと思うんだけど、翻って孤独。孤独って何? 「孤独って何?」って訊かれて説明できる人っているのかな。自分はできない、……たぶん。そもそも試みたことがないから分からないけれど、できないだろうなと思う。それでも、50,000 字分くらいの言葉を使っていいならもしかすると部分的に実行できるかもしれない。ここでいう "実行できる" というのは、万人にとって理解可能な形で示すことができるという意味ではなくて、自分なりの解釈を外部へ発信することができるという意味で。でも、なんかさ、そういうものじゃない? 孤独とかって。綺麗に整理された言葉の上じゃなくて、もっと奥深く、あるいは茫洋とした集合体としての、そういった曖昧な場所に重く漂っているもののような気がする。だけど、人の話を聞いているときとか、漫画を読んでいるときとか、あるいはこんな風にブログを読んでいるときとかってそこまで深くへ潜り込んだりはしないからさ、普通は。心の中にある電子辞書をパッと引いて、上のほうに出てきた用例だけをみて、「ああ、こんな感じの意味合いで使っているのかな?」くらいの理解で読み進めるじゃない。電子辞書が紙の辞書と違うところの一つよね、調べた単語にどのくらいの意味があるのかを一目で汲み取れないことは。ディスプレイの大きさまでしか表示できないから。自分たちは基本的にそういう風にしか他人の言葉を読み取ることができなくて、だからこそよくないと思う、ありきたりな言葉って。伝わるわけないじゃんね、そんなので。いや、伝わる必要がないという考えならそれでよくて。この世界にあるすべての喜怒哀楽が第三者に理解されて然るべきだとは思わないし、またそれらが正しい表現で形容されるべきだとも思っていない。伝わらないほうがいいものは多々あるし。話を戻す。ところで、別に自分は言葉の正しい意味を伝えたくてこんな長ったらしい注釈を添えているわけではなく。孤独という言葉にあてがう意味合いは人によって異なるよね、ということを伝えたかっただけ。冬は孤独と友達になれる季節なのかもな、って自分はそう思うんだけど。他の人たちにとっては、冬ってどんな季節なんだろうね。

 

 44 ℃ でお風呂を沸かすから、多少冷めたくらいがちょうどいいんだよね、と強がってみたりする。湯舟の中だと何も考えなくていいから楽だな、と思った矢先、ボディソープがそろそろなくなりそうなことに気づいたりする。

 

 本当に欠伸と同じ感覚だと思う。だから、全くもって深刻ではない。電車なら、まああるかもしれないけれど、でも外を歩いているときに欠伸をして「眠いな」と思ったとして、「よし、じゃあいまから寝るぞ!」とはならないでしょ。それと同じで、「よし、じゃあいまから死ぬぞ!」とはならない、全く。というか、あの、これはちゃんと明記しておかないと誤解されそうなのできちんと書いておくけれど、精神状態が不安定なわけでは決してなく、というかむしろ健康で、普通に生きていたいんだよな。欠伸をする人の中にだって、ちゃんと起きていたいという意思を持っている人はたくさんいるでしょ。そうじゃない人もたくさんいるかもしれないけれど。それと同じで、だから、なんていうか、生理的現象に近い、というニュアンスかもしれない。自分の意思とは一切関係のない領域で発生する類のもの。希死念慮とも違う。明確な動機がないという点においてはアナロジーがあるかもしれないけれど、だって、別に全然死にたくなんてないから。死にたいな、と感じるその一瞬だけを切り取ったとしても、別に死にたくはない。矛盾してる? でも、寝たくなくたって欠伸ってするじゃん。それと同じなんだよな、だから。記憶が確かならこのブログに何度か書いたはずで、この現象について。その、唐突にやってくる死への誘惑、的なもの。いや、何度でも言うけれど、全然死にたくないからね、本当に。言葉が物騒だからよくないのかな。欠伸的な死とでも呼ぼうかな、緩衝材として。まあその、呼び方は何だって構わないのだけれど、とにかく欠伸的な死について。欠伸的な死は、鮮烈な郷愁とほとんど同タイミングでやってくる気がする。地震でいう P 波が郷愁で、S 波が欠伸的な死。鮮烈、と言ったけれど、感覚的には焦げるような感じかもしれない。何が、って……心が? 焦がすとか焦がれるじゃないのかよと自分でも思うけれど、でも、感覚としては焦げるのほうが近しい。心が焦げる。どういう意味? 分からない。分からないけれど、これだなって感じがする。なんか、燃えている感じがする。郷愁……ってどうなんだろう。自分にとってこの言葉は、視覚的なイメージとリンクしているそれなのだけれど、その視覚的なイメージが燃えている感じ。火災現場を想起しているという意味ではなく。牧歌的な風景であっても、なんだかそれが燃えているようにみえる、気がする。と言いながら、その風景って何なんだよと尋ねられると、答えに窮してしまう。思い出せないんだよな、これが、困ったことに。欠伸的な死に気を取られた瞬間に、それまでにみていた景色の一切を忘れてしまって。ふと我に返ったとき、手元に残っているのは強烈なノスタルジーと漠然とした死への欲求だけ、みたいな。そういうことがよくある、昔から、布団の上で微睡んでいるときなんかに。この先の未来、ずっと遠くのことでも構わないけれど、科学技術が SF かよってくらいまで発展してさ。どんな景色でも手に入るようになってしまったら、生きる意志なんてものは簡単に手放してしまえるようになっちゃうんじゃないかな、って思ったりする。郷愁に伴う死への欲求って、だから多分そういう類のものなんだよな。自分がそれを欠伸的な現象だと思えているのは、だから、その郷愁が決して手には入らないことを分かっているからなのかも。電車の中でなら欠伸の眠気に従って目を閉じる人だっているし、路上では所かまわず眠ってもいいという価値観が備わった社会でなら、朝日に釣られた欠伸にも目を閉じてしまう人がいるかもしれないわけで。現実世界では、少なくとも日本ではそうではないから、そんな人はどこにもいないけれど。決して届くことのない郷愁も、それでも届くようになってしまったら、人は本当に簡単に死んでしまえるようになるんじゃないかな、って疑い。それは、現在の自分たちが考える死の枠組みとはまた異なったものなのかもしれないけれど、でも、この世界を諦めるという意味では死と同義なのかも。そういうことを考える。そういうことを考えるのが、だから冬って季節なんだよな。星を眺めて「綺麗だな」と思ったり、「このままみえなくなればいいのに」と思ったりする。郷愁と欠伸も同じこと。自分にとっての冬はそういう季節。

 

 帽子を買ったんだよね。これは本当に珍しいことで、コートとかスニーカーとかならまだしも、帽子って別に必需品ではないじゃんか。あってもいいし、なくてもいい。でも、買った。思うに、自分が初めて能動的に服を買いに行こうとしたのって、三年前の一一月? と思ったら一〇月だった。あるいは、九月かもしれない。たしかに、あのときはちょっと早めに冬服を買いに行ったんだった。どちらかといえば、まだ夏寄りの気候だったような気がする。少なくとも自分よりは服に詳しい友人へお願いして、所望のコートを探しに行って、帰りには鴨川沿いを並んで歩いた。西側の、普段はほとんど歩かないほうの道を。懐かしいな。やばいやばい、このままだとただの回顧録になっちゃう。そう、そのコートを買いに行ったことには明確な理由があって、なんていうか、憧れ? それをうまく着こなしている誰かをみて、「いいな~」と思って、それで自分も着てみたくなって、だから探しに行った。そんなことない人からしたら分からない感覚だろうけれど、自分の中では、これはかなり珍しい心の動き方。少なくとも、ファッションという点においてそういった作用がみられるケースはほとんどなかった(それがあるなら、初めて能動的に服を買ったのが三年前の一〇月なんてことにはならない)。でも、どういうわけだかそれが起こって、急に。で、今回の帽子もそうだった。知り合いにめちゃくちゃ帽子の似合う人がいて、前々から「かっこいいな~」と思ってたんだけど。なんとなく潜り込んだ LOFT で黒のキャスケットが売られているのをみつけてから、そうでもなかったのに何故か欲しくなってしまった。まあ、LOFT では買わなかったけど。こういうのも変化って言うのかな、と思いつつ、ところでこれはかなり好ましい変化だなと思う。自己実現? 結局、内面と外面とのどちらを優先的に顧みるかって話だと思うんだけど、内面についてはもうこの二〇と数年とで散々やった分、綺麗になった部分ともうどうにもならなさそうな部分とがある程度は明確になってきていて。自分自身の思考パターンとか行動原理とか? 与えられた事象に対して、何をどう考えて、どういった行動を起こすのか、みたいなところ。は、それなりに分かっている状態というか。だから、綺麗な部分だけを他人に提供するのは、主観的にはそれほど失敗していないように思う。本当かな? まあ、一旦は本当ということにしておいて。翻って、外面ね。過去の自分にとって目下の急務は内面を片付けることだったわけだけれど、いまはそうでもないから。というので、外面のほうも気遣っていこうという、そういう話になる。内面がめちゃくちゃなときに外面のこととか考えてらんないもんな。ところで、いまはそうでもない。そんなこんなで帽子を買ったはいいのだけれど思いのほか気に入らなかった、……なんてことは全然なく、というかむしろかなりお気に入りの装備と化している。自分の外見に関して、良いとか悪いとか好きとか嫌いとかって考えたことなかったんだけど、帽子を乗せているときの自分はかなり好きかもしれない。2023 年、最も買ってよかったものの一つ。

 

 適切な処置を施せば多少は気が晴れるってことに気づいたけれど、それをやっているということ自体に嫌気が差す。理想の対極に向かって歩いていくような感覚。これだから、誰かのことを嫌いになりたくないんだよな。いや、人に限らず、自分以外の森羅万象。自分にとっては、嫌いなものなんて少なければ少ないほどよくて、だって、嫌いなものがたくさんある世界がどんなにつまらないかはもう十二分に知っている。あんな索漠に逆戻りなんてしたくないし、だから何のことも嫌いになりたくない。嫌なところに目を向けるよりは、それ以上に好ましく思える部分をたくさんみつけたいなと思うし。そういう風に生きていけたらきっと幸せだろうなって思うし。そういう自分でありたい、主観的にも客観的にも。これは、難しい。どうしようのないものはこの世にたくさんあって、たった一言、そのステートメントを受け入れるだけのことがこんなにも難しいなんて。どうしようもないって切り捨てて、それで自分自身は護られるけれど、じゃあ切り捨てられた部分はどうなるんだって。ああ、だから、本当にずっと同じことばかりを考えているんだな。夜を歩く。コンビニの煌々とした灯りに意識がいって、そのままなんとなく廃棄場に目が向かう。それと同じこと。棚の奥の愛読書や埃をかぶったぬいぐるみとは勝手が違う。だって、思い出の中と違って谷底には安寧なんかないし。魔女だっていないしね、この世界には。

 

 朝起きて、外へ出て、空をみて。それでも心が動かなかったら、それが最期だと思っている。逆に言えば、そのくらい単純なことだとも思っている。実際には、単純なものなんかでは全くないということを承知の上で。もっと色んな人のことを愛せるようになれたらいいのにって思う、本当に。

 

 

 

20231219


 相手のことを同じ人間だと思わない、という解決法があるらしい。それはまあ、おおよそ効き目の見込めそうな対応ではあるなと思いはするものの、少なくとも自分の特性に適合したそれではないような気がする。そこら辺、上手い人は上手いよな。相手の事情へ適度に興味を持たないというか、なんだろう、適切な無関心? でもまあ、上手いとか上手くないとかの話ではないな。生まれたその時点から、あるいは幼少期の環境なんかによっておよそ先天的に決定されていて、要するに自分ではどうしようもないもので。そう考えれば、誰も彼も同じ穴の狢だって気がして笑える。いや、全然笑えない。自分は、なんていうか、自分自身の特性を好ましく思っていて。相手の素性に興味を持つのがかなり得意なのだと思う、恐らくは。この特性のせいで昔は結構大変だったのだけれど(嘘で、大変だったのは自分の周りにいてくれた人たちです。自分は人間関係に恵まれすぎている)、そのおかげで仲良くなることのできた人もたくさんいて、いまでは損失よりも利益のほうが圧倒的に大きいから、だから好ましく思える。使い方次第ってことかも。間違った地図も壊れた拳銃も、どの部分にどういった不具合があるのかを正確に理解していれば運用上の問題はないわけで。ハンドル、あるいは操縦でもある。結局、自分自身の扱い方を学び続けているような気がする、この二〇年とちょっとくらい。そういうのを死ぬまでずっと繰り返していくのかな、と思う。なんかやだな。

 

 相手のことを同じ人間だと思わない、はほとんど不可能に近い。その点、インターネットってすごいと思う。だって、ほんのちょっと角を折れたら、その瞬間に無根拠な誹謗中傷の嵐だもんな。すごい、本当に。どんな世界観だよ。もしかしてこの世界って実は人間のふりをした人形しかいないのかな、とか。話は変わるけれど、変わっているようで変わっていない地続きの話題なのだけれど、可哀想って言葉がかなり苦手。なんていうか、シンプルに他者を見下しているから。憐憫とかもそう。勝手に決めつけるなよ、と思う。自分以外のすべての他人には個々の人生があって、歴史があって、人格があるわけで。なのに、そのすべてを一瞬で否定してしまうような、そのくらい強い言葉。絶対に使いたくない。使いたくない、んだけど。いや、でも、なんかなあ。可哀想だなって、思っちゃうな、申し訳ないけれど。これは自分がよくない、人として。最近、人としてよくないことを考えすぎていて、人としてよくないが口癖みたいになってきた。実際には発声しているわけではないから、なんだろ、考え癖? みたいな。勝者の理屈、それは解る。偶然の巡り合わせ、運がよかった、環境に恵まれていた。まあ、そう。その通りでしかない。お前は運がよかっただけじゃん。返す言葉がない。そりゃ勿論、ある程度の努力はしている。受験勉強だって自分なりには頑張ったし、音楽とか、人間関係とか、色々と。その全部を、運がよかっただけでしょ、と一括りにされたとして、まあおよそ気分のいいものではない。でも、それは他者にそう指摘された場合の話であって、自責の場合は別よね。というか、そういう自責の矢は持っておいた方が健全であるような、そんな気がする。運がよかっただけ。だから、可哀想だとかって言葉は絶対に使っちゃいけない。と、思うんだけど。想像力の欠如とかじゃないんだろうな、ってようやく分かってきた。自分の手元にない、誰かの手元にはあるもの。そういう何かを認めることができない。救済とか、努力とか、気遣いとか、愛とか。同じ穴の狢。たしかに。多かれ少なかれ誰だってそうなはずで。でも、みんなどうにかこうにかでバランスをとっていて。一方で、それが崩れてしまった人もいて。それを指して可哀想とかっていうのは、やっぱり間違っていると思うけれど。でも、他の誰かを傷つける方向に足場が崩れてしまった人は、可哀想だなって思ってしまう、どうしても。だって、きっともう誰も助けないようとはしないでしょ、そうなったら。自分たちには自分たちの人生があって。貴方がそうであるように私もまた。向こう側を見下ろして、でも自分は傷つきたくないからって。運がよかっただけなのにな。

 

 谷底のことなんて考えなきゃいいのにな。向こう側の吊り橋なんて放っておいて、自分は舗装された道の上にいるんだからそれでいいじゃんって。そこまで簡単に割り切れる人はそれほど多くないだろうけれど、でも、割り切ったふりくらいはせめてできる人間でありたかったな。これは本当にそう思う。それさえできれば、あとは時間だとか記憶だとか、そういうどうしようもない構造がきっと何とかしてくれるだろうし。でも、なんていうか、そういう自分が何よりも嫌いかもしれないな。なりたい自分像とかは特にないけれど、なりたくない自分像なら思いつく。他者を切り捨てることに躊躇のない人間。じゃあ、どうすればいいわけって、そういう話になるよね、結局は。

 

 相手の気持ちが分からない人だっている。それはまあ、そう。責任能力のない人だっている。それもまあ、わかる。四方から追い込まれていてどうしようもないだっている。わかる。話の通じない人だっている。いるよね。わかる、わかるよ。全人類と仲良くなろうだなんて別に考えてもいないし、そりゃまあ、そうなれたらもっと楽しくなるだろうけどね、人生。でも無理でしょ。デジタル街の路地裏に一歩でも踏み込めば学べること。でもなんか、ああいう人たちも家ではぐっすりと眠って、朝食を食べて、学校や職場へ行って、それなりのことをして、クラスメイトや同僚と話をして、帰って、シャワーを浴びて、テレビを観たりして、そしてまた眠ったりしてって、そういう普通の生活をしてるのかなって思うと、なんていうか、なんていうか。残酷だよな。結局、全部が全部他人事でしかない。関係なさすぎるでしょ、だって。誰かに向かって石を投げた後の手で、また別の誰かを助けたりしてるかも、とか。考えたくないな。考えたくないわ。

 

 免罪符にはならないだろ、と思う。相手の気持ちが分からないから。責任能力がないから。追い込まれているから。話が通じないから。だから何? だから何なんだよ、としか思わないし思えない。同じ穴の狢、運がよかっただけ、だったとしても。ああ、いや、だから、相手のことを同じ人間だと思わないって解決法が出てくるわけだよね。犬に吠えられたからって怒ったり、雨に降られたからって天気を恨んだり、普通の人ならそんなことはしないもんな。いや、でも、人間でしょ。どれだけ話が通じなかろうが、人の気持ちが分からなかろうが、家ではぐっすりと眠って、朝食を食べて、学校や職場へ行って、それなりのことをして、クラスメイトや同僚と話をして、帰って、シャワーを浴びて、テレビを観たりして、そしてまた眠ったりして、そういうことをしている人間でしょ。怒るし、泣くし、嬉しいし、悲しいし、痛いし、傷つくし、同じ人間でしょ。違うなら違うって言ってくれたらそれはそれでいいけど。こっちは向こう側の吊り橋を人間だと思ってるわけ。昔、人に「君は他人に期待しすぎ」と言われたことをずっと覚えていて。いや、これ自体は本当にその通りだと思っていて、自戒ではないけれど、なんというか、悪い意味ではなく、ある種の指針として記憶していて。まあ、実際そうだと思う。期待しすぎ。相手が自分と同じ人間であることを期待しすぎている。でも、さあ、なんていうか。なんていうか、でしかないや。

 

 本当に意味が分からない。理由があれば、特定の個人の死を願ってもいいの?

 

 最近、ずっと楽しくないな。家にいても外にいても誰といても。もちろん楽しい瞬間はたくさんあるのだけれど、ふとした隙間に思い出して嫌な気持ちになる。朝に目が覚めたときとか、電車に揺られているときとか、階段に躓いたときとか。誰かと一緒にいればまだマシで、でも道を調べているときとか、自販機に向かった相手を待っているときとか、本当にたった少しの隙間なのに。そういえばブログに残したんだっけと思い出して開いてみたら、八月くらいの出来事だと思っていたそれはずっと前のことだった。そんな前だったんだ。この一年をかけて少しずつ、本当に少しずつだけれど、嫌な感情が徐々に蓄積されていって。最初はなんてことなかったのに、いまじゃとてもじゃないけれど手に負えない感じになっている。賭けてもいいよ、絶対に覚えてない。ストレス発散に枕を殴るのと同じで、意味もなく他者の死を願ったりするらしいから、人って生き物は。自分の発した言葉も忘れて、平気そうな顔でへらへら笑って。呑気だよね、ほんと。

 

 人を呪わば穴二つ、らしい。日々が楽しくないのって、だから結局はそういうことなんだろうな。健全じゃないし、それに人としてよくないよ、どう考えても。というか、どうなればいいのかも分かんないし。どうなればいいだろう。どうなればいいんだろうね? 少なくとも、奇跡じみた出来事が起きてほしいとは全く思わない。これ自体、精神が健康じゃない証拠と言われたら、それはまあそうかもしれない。

 

 幸いなことに、自分の周囲には素敵な人たちがたくさんいて、だからまあ大丈夫かな。それにどうせあと一年くらいで終わるんだし、このまま放っておいても遅かれ早かれなんとでもなる。向こう側の吊り橋はそのうち見えなくなって、自分と同じ方角へ歩いてくれる人たちが少なからずいて。擦り減った踵はそのままかもしれないけれど、でもまあ靴なんていずれはどこかで買い替えられるだろうから、その日までの辛抱で。とか。最悪。そんな人間にだけはなりたくなかったのに。

 

 

 

20231015

 

 雑記。最近のことについて雑に書きます。

 

 結婚そのものに興味があるわけではないんだよな、と思う。恋愛にしたってそうで、二〇と数年の人生においてそれ自体が目的になったことは、少なくとも自分が記憶している限りでは一度もない。特定の個人がいて、その結果として恋愛だったり結婚だったりが存在しているのであり、その逆である、恋愛だったり結婚だったりのために特定の個人があるという考え方は、なんというか、自分の主義には沿わない(そういう考え方があってもいいとは思うけれど、あくまで自分の考えには合わないというだけの話)。昔から、周囲の人たちの言葉を借りれば "純愛厨" 的な、そういった考え方を持っていたように思う。こういうのって、これまでに経験した出来事の内、いったいどのようなそれを以て規定されるんだろう? いま現在の自分が有している考えのいくつかは、自身の幼少期にそのルーツを見出すことができるように思うのだけれど、ところで、いわゆる恋愛的な価値観に関しては特に何の心当たりもない。不思議だ。

 

 こればっかりは明らかに自分の側がマイノリティであると自覚しているのだけれど、名前って本当にどうでもいいんだよな、自分にとっては。両親から貰った大切なものであるという認識は当然あって、なので軽んじているわけではない。ないのだけれど、なんていうか、なんだろうな。自分の名前を大切にするという感覚と、一方で名前なんてどうでもいいという感覚とは、一見矛盾しているようでいて、しかし自分の中ではきちんと両立している。気持ちとしては、血液型や出身地なんかが近いのかな。いや、それだって人によっては自身にとって欠くことのできない構成要素のひとつ足り得るのだろうけれど……。血液型も出身地も自分で決定することのできない、この世に生まれ落ちた時点で与えられている属性だけれど、自分からすると名前もそれらとほとんど同属性っていうか。もちろん、親が明確な意思を以て介入する余地のある(=命名権がある。一方で、たとえば血液型はどうしようもない)という意味では決して同じとは言い切れないのだけれど、先天的に与えられたものという意味では同じだよな、と思う。名は体を表すというけれどそんなのは漫画やアニメ、フィクションの中だけのお話であって。だから自分は本名というラベル(自分に対してもそうだし、他者に対しても)にあまり興味がないのかな、と思う。そうは言っても好奇心は、ただ知りたいという欲求そのものはある。けれど、そうして知った誰かの名前が自分の中に強大な存在感を残すということはなくて。そんなのどうでもいいって思っちゃうんだよな、どうしても。

 

 結婚に際して改姓という手続きがあるらしい。らしい、ではなく、ある、間違いなく。全然知らないけど、最近は夫婦別姓とかってあるんだっけ? ……と思ったけど、あれはだから、そうか。夫婦別姓が法的に認められていないからどうこうって運動が近年は盛んだって話で、つまり夫婦別姓自体は選択肢としてはいまのところなしなのか、なるほどね。いや、どうなんだろうな。実際のところ、女性の側が改姓を行うことの合理的な理由って現代日本において存在してるんだろうか。いや、当人たちが納得していればどんな選択でもいいだろうと思うし、96% の割合で女性側が改姓をするらしいという現代社会の抱える事実に対して一言申し上げたいわけでもなんでもないのだけれど……(それ自体はマジでどうでもいい)。ところで、合理的な理由ってあるのかな。慣習以外のなにか。……いや、なんていうか、なんだろうな。数週間前に結婚式へ出席する機会があったのだけれど、ご祝儀の記入が、なんていうか、本当にこれでいいのか……みたいな印象をどうしても持ってしまって。その、袋の中に幾ら入れたのかを袋に記入するんだけど、「金〇萬圓也」って書くのね。なんで? と思った。「金〇万円也」でよくない? ここで敢えて難しい漢字、正確には旧字体だけれど、を起用する合理的な理由はいったい何なんだよ、と思う、思った。前時代から全員がなあなあで続けている風習が今に残っているだけなのでは? いやまあ、それはいいんだよね、別にさ。これはあくまで一例として挙げただけで、ご祝儀の袋なんてひととおりの役目を終えたらいずれはゴミ箱へ行くんだから。でも、名字はそういうものじゃないじゃんか。どんなに自分がどうでもいいと思っていたって、世の中の大半の人にとってはそうじゃないし。自宅の表札、身分証明書、墓石、死ぬまで一生、死んだ後もなお付随するもの。その程度には主要であるはずの位置に据えられている要素が、慣習とかいうもののせいで一方のみに固定されているんだとしたら、端的に言って、気持ちが悪い。だって、亡霊たちの呪いでしかない、そんなの。過去は軽視してもいいって、そんなことを言いたいわけじゃない。でも、なんでもかんでも従えばいいってわけでもないような気がする。気がするんだけどな。

 

 名前のことをどうでもいいと思っているから、改姓のこともどうでもいいと思っていた。どうでもいいというか、別に名字を変えたからって何が変わるわけでもないしな、という。ところで、人によってはキャリアがどうだとか何だとかって話があるらしくて、なるほどな、と思った。一方で、だからその考え方も自分とは相容れないんだよな。いや、相容れなくはないか。たとえば、「明日からは『一葉』という名義を捨てて、新しい名義で活動してください」と言われたら、恐らく自分は首を振る。というのも、それは『一葉』という個人に一定の価値を見出してくれている全員との接続を断つに等しい行為であるからであり、匿名性に基づいて活動を行うインターネットにおいてそれはほとんど死を意味するからだ。ところで、現実世界はどうなんだろう、と思う。だから、相容れなくはないのだけれど、両者の間には若干のギャップがある。現実世界における改姓って、別に死を意味したりはしないんじゃないのか。だって、現実での人間関係においては匿名性なんてないのだから。……というところまで考えて、ああ、なるほど、と思い至った。つまり、改姓という行為をそれほどに重く捉える人もいる、という話なのかもしれない。それほどに、というのは先ほどのインターネット活動名義の話を指す。要するに、人格の死。名字を変更することによって、旧姓で生きてきた自分が消滅してしまうかのような感覚……なのかも。憶測でしかないけれど。けれど、いまの前提に基づくとするなら改姓という手続きは、なるほど決して軽々しく扱ってよいものではない。自分にとってはなんでもないことだけれど、自分以外の他人にとってはそうでもないかもしれないし。……大変だなあ、結婚って。

 

 誰かと一緒にいるために他人の、国の、神様の承認がいるなんて馬鹿げてるよな、と思う。目的でないこと。システムへの反駁。どちらも同じこと。一方で、それがルールなんだよな、とも思う。ルールだなんて言葉を持ち出すのも、よっぽど馬鹿げてると思うけど。なんていうか、そのことについて考えれば考えるほど今の在り方から、あるいは理想から少しずつ乖離していくような、そんな気がして。なんだかなあ。そうやってなにかを切り取って枠に嵌め込んでいくような、そういう生き方がどうしようもなく下手で、だからいまがこうなってるんじゃないのと思いつつ。ところで、そこを飲み込まないことにはここから先へは進めないらしい。難しいね。

 

 

 

20230929

 今日の分のブログの更新どうしようかなと思ったんですが、めちゃくちゃ眠く文章を書けるコンディションにないので、数学の問題を貼ってお茶を濁すことにします。電車での移動中に考えていた問題で、数 II の範囲で解くことができます。

 

問題
 n3 以上の整数とする.3 以上の整数 k に対して,以下のような条件を考える.

(条件):ある実数係数 n多項式 f \left( x \right) と実数 a があって,k 個の数 f\left( a \right), f\left( a+1 \right), f\left( a+2 \right), \dots, f \left( a+k-1 \right) はこの順に等差数列をなす.

\left( 1 \right) k \leq n ならば,条件を満たす多項式 f\left( x \right) および実数 a が存在し,k \geq n+1 ならば,条件を満たす多項式 f\left( x \right) および実数 a は存在しないことを示せ.
\left( 2 \right) n 個の数 f\left( a \right), f\left( a+1 \right), f\left( a+2 \right), \dots, f \left( a+n-1 \right) がこの順に等差数列をなし,n 個の数 f\left( b \right), f\left( b+1 \right), f\left( b+2 \right), \dots, f \left( b+n-1 \right) もこの順に等差数列をなすのであれば,a=b であることを示せ.

 

 以下,解答。

 \left( 1\right) について.

 まず,f\left( x \right)=\left( x-1\right) \left( x-2\right) \dots \left(x - n\right) とすると,f\left( 1\right)=f\left( 2\right)=\dots = f\left( n \right)=0 であり,これら n 個の数字は公差 0 の等差数列をなす.したがって,k\leq n の場合はこれで証明できた.

 k\geq n+1 のときについて考える.このとき,必要であれば平行移動を行うことで,f\left( 0 \right), f\left( 1\right), \dots, f\left( k-1 \right) がこの順に等差数列であるとしてよい.特に,f\left( 0 \right), f\left( 1\right), \dots, f\left( n-1 \right) がこの順に等差数列をなす.f\left( 0 \right)=p,公差を d とすると, l=0,\dots , n-1 に対して, f\left( l \right)=p+dl.ここで,g\left( x \right)= f\left( x\right) -\left( p+dx \right) とおくと,g\left( x\right)n多項式であり,x=0,1,\dots,n-1 を解に持つ.したがって,因数定理より g\left( x\right)=rx\left( x-1 \right) \dots \left( x- n+1\right) とかける.ここで r0 でない実数.ゆえに,f\left( x\right) =rx\left( x-1 \right) \dots \left( x- n+1\right) +p+dx と表せる.すると,f\left( n \right)=r \cdot n!+p+dn となるので,f\left( n \right) -f\left( n-1\right) =r \cdot n!+d であり,これは公差 d に一致しないので矛盾.したがって,仮定が誤りであり,k \geq n+1 のとき,条件を満たす多項式 f\left( x \right) および実数 a は存在しない.

 \left( 2\right) について.

 \left( 1\right) の後半と同様の議論により,a=0 としてよく,f\left( x \right)=rx\left( x-1 \right) \dots \left( x- n+1\right) +p+dx と表せる.このとき,b=0 であることを示せばよい.f\left( b+1 \right) - f\left( b \right)=rnb\left( b-1\right) \dots \left( b-n+2 \right) +d.また,f\left( b+2 \right) - f\left( b+1 \right)=rn\left( b+1\right) b \left( b-1\right) \dots \left( b-n+3 \right) +d.これらは公差として一致する.b\neq 0,\dots , n-3 であれば,r\neq 0 より,b-n+2=b+1 となるが,これは矛盾.よって,b=0,\dots , n-3 のいずれか.いま,f\left( 0 \right), \dots, f\left( n-1\right) は等差数列であることに注意すると,\left( 1\right) の結果より,f\left( n \right) はこの等差数列に含まれない.このことと,n 個の数 f\left( b \right), f\left( b+1 \right), f\left( b+2 \right), \dots, f \left( b+n-1 \right) がこの順に等差数列をなすことから,b=0 でなくてはならない.

 

 

 (2) は要するに「実数係数 n多項式において,等差数列は一ヵ所にしか作れない」ということですね。

 

 

 

20230927


 雑記。最近のことについて雑に書きます。

 

 近況。八月、九月はあんまり元気がなかった。どうしてだろうと考えてみて、理由らしきものはいくつか思いつくものの、決定的といえるほどのそれは見当たらない。本当にどうしてだったんだろう。ちなみにいまは元気。大例会でたくさんの人々と交流できたおかげでかなり浄化されたかもしれない。ああいう場が年一であるのはいいなって思う。ところで、自分はいつまで大例会に参加するんだろう。不明。でもまあ、OB 組で大例会に類するイベントが企画されるようになったりしてそう、近いうちに。いや、知らんけど。

 

 本当に文章を書かなくなったな、と思う。その証拠として八月、九月中は一切ブログを動かしていない。ところで、裏では吉音小説部と題して小説のような何かを書いていたりもして( 30,000 字ちょっとの)、別に文字を書くのが嫌になったというわけでは全くないな、と確認。というか、むしろ楽しかった。だから、文章を書かなくなった理由はネガティブなものではなくて、もっと別のところにある何かなんだろうなと思う。なんていうか、なんだろ。自分の中に在るものを言葉に起こす必要性がどんどん薄れてきたというか、本当かな。でも、感覚としてはそれが一番近いような気がする。かつて自分が文章をブログへ公開していた理由の一つとして、自分の考えていることを誰かに知ってほしかったから……という動機が全くなかったとは言い切れない。大なり小なりあったはず。でないと、外部に公開する必要なんてない。それが、だからいまはあんまりないんだよな、たぶん。嬉しいこと、楽しいこと、困ったこと、悲しいこと、いずれにしたってきちんと耳を傾けてくれる人が周囲にはたくさんいて。わざわざ言葉にしなくていいんだなと思えるようになってきたというか、それを実際に誰かへ共有するかどうかということは置いておいてね。実際に誰かへ話すことがなくてもそれはそれでよくて、ただ、そういう意味で頼ることのできる人たちが少なからずいるんだという自覚? それがあるから、という話かも。……って、ここまで書いてみて本当かなあって気持ちにもなってきた。単純に、自己の内面を言語化するという営みをサボっていただけかもしれない。だとしたら、んー、よくないな。よくないというか、あまりいいことではないかもしれないな、少なくとも自分にとっては。というわけで、そのうちにでもブログ強化月間をやれたらいいな~とぼんやり考えている。言語化を蔑ろにするのは、自分にとっては悪影響しかない気がするから。

 

 意味のあるものを作りたい、といつも思う。こう書くと、『意味のないもの』って何だよ、というツッコミが当然生じるけれど、そっちについてはよく分かっていない。ただ、それでも、意味のあるものを作りたい、と強く思う。意味のあるものというか、いや、だからこれは言葉が正しくないのかもしれないな。より正確を期すのであれば、納得のいくものを作りたい、かもしれない。不必要な妥協をしたくないし、不満の残る状態で終わらせたくない。もちろん、技術的に叶わないこととか、時間的に不可能なこととか、そういうのはたくさんあって。あるけれど、それはそれとして、いまの自分の手元にあるものは最大限に使って何かを作り続けたい、という欲求? 「これでいっか」って言いたくないんだよな、こと創作においては。コードワークとか、ドラムのフィルとか、ギターバッキングのボイシングとか、ストリングスのフレーズラインとか、自分の解像度が追い付いている部分は全部ちゃんと比較検討したい。IVm なのか IVm6 なのか IVm7 なのか IVmM7 なのか、みたいな話。VIIm7b5 なのか VIIm7 なのか、でもあるし、II7/#IV なのか #IVm7b5 なのか、でもあるし、Vsus4 なのか V7sus4 なのか V7sus4(9) なのか V7sus4(b9) なのか、でもある。その選択一つひとつに自分なりの意味を宿せたら素敵だなって思う。多分だけれど、自分が心を動かされる創作物というのは、音楽に限らずとも、そういった選択の連続にその作家なりの意思が透けているものなんじゃないかな、って気がする。気がするだけ。だけど、だから、自分もそういう風に向き合えるようになったらいいな、と思う。

 

 アイドルの交際相手って、マジでどんな気持ちなんだろう。男性でも女性でも性別はなんだっていいのだけれど、いちど話を聞いてみたい。アイドルって大なり小なり人々の目に晒される職業で、その中には至極真っ当に応援してくれる人がいれば、ちょっと行き過ぎた行動を起こす人だっているはずで。……怖くない? なんていうか、その、自分の交際相手がそういった視線の対象(ここでは後者のことを言っている)にされているという現状そのものって。いや、いや、いや、これは自分の精神が未熟なだけなのかも。でも、ちょっと、かなり、言葉を選ばずに言うなら、正直キツイものがある。八月、九月の結構なストレス源になっていたのが実を言うとこれで、うーん、どうなんだろうな。束縛したいわけではないし、独占したいわけでもないから、だからほとんどすべての同性に対しては何とも思わず(これは本当に何とも思わない)。ただ、ごく一部のケースに対して「それはどうなの……」と感じることがあるのも事実で。いや、シンプルに怖いんだよね。怖い。この言葉が一番近い。なんていうか、適切な距離感ってあるじゃん、という話で。異性に対する線の引き方って、一般的にあるといえばあるじゃない。その共通認識の通用しない人がいるというのは、まあ仕方がないこととして、それがいざ目の前に出てくると、やっぱりかなり身構えてしまう。インターネット一般匿名女性に異様に執着する謎のおじさんアカウントとかね……。怖いなあ、と思う。思うし、正直にいうと胃が痛い。本人に悪気はないんだろうな、と思うぶん尚更。いやでも、ごめん。自分がその人たちに直接何らかの害を与えられたわけではないけれど、でも、どうしても怖いと思ってしまう。大切にしたいものをちゃんと大切にしておきたいから、自分は。だから、世界中の全部を認めるわけにはいかない。難しい。つまるところ、結局は、椅子取りゲームって話なのかも。いや、全然違うか。

 

 

 

コード進行について色々8


 拙作『夕景、紛う、白昼夢』のコード進行について解説、というか「こうこうこういった意図に基づいてこのような進行にしました」という話を、自分自身の整理も兼ねて書いてみようと思います。

 ↓楽曲

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 前回の記事はこちらです。

kazuha1221.hatenablog.com

 

 この楽曲は最初から最後までずっと B major ( G# minor ) です。

 また、以下で何の断りもなしに「ド」や「ファ」などと書いている場合、それは移動ドでの音階を表すこととします。この楽曲の場合、絶対音でのシ、ド♯、レ♯、ミ、ファ♯、ソ♯、ラ♯を順にド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ(移動ド)と呼んでいます。

 説明が重複する部分(たとえば、繰り返し登場する間奏部分など)については、初回以降の登場では説明を省略しています。

 

 


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○ イントロ(「八月、水面に残響~」)

・chord
|| C#m7 --- | ---- | ---- | ---- |
|| G#m7 --- | ---- | ---- | ---- |
|| C#m7 --- | ---- | ---- | ---- |
|| G#m7 --- | ---- | ---- | ---- |

・chord(degree)
|| IIm7 --- | ---- | ---- | ---- |
|| VIm7 --- | ---- | ---- | ---- |
|| IIm7 --- | ---- | ---- | ---- |
|| VIm7 --- | ---- | ---- | ---- |

 

 イントロ部分、この楽曲で一番最初に生成されたパートです。このパートは 46 進行(と勝手に自分が呼んでいる) IVM7 - VIm7 - IVM7 - VIm7 を念頭に置いていて、これはたとえば以下の楽曲で聴くことができます。

ジョーカーに宜しく / PENGUIN RESEARCH

 B メロ( 0:37- )

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・Sing My Pleasure / ヴィヴィ (Vo.八木海莉)

イントロ+Aメロ( 0:05- )

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・第三の心臓 / はるまきごはん

イントロ+Aメロ(冒頭)

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 IVM7 と VIm7 とは構成音が三つ被っています(ラ、ド、ミ)。というので、展開感があんまりないコード進行なのかなと思います。個人的には、曖昧な浮遊感のあるコード進行だなとも思っています。曲想的にあまり激しい展開をしたくないパート、たとえば A メロや間奏部分なんかでの用例が多いかなという気がします。A メロとサビが強めに展開するので繋ぎとしての B メロではこの進行を組み込んで一旦落ち着かせる……みたいなのもありますね。

 ということを踏まえつつ、今回は IVM7 の部分を IIm7 に置き換えて使っています。IVM7 と IIm7 とは構成音が三つ共通しているので、自分はこれを 46 進行の派生として認識しています。モチベーションとして、イントロは曲の印象を決定する部分なので IVM7 の明暗曖昧な感じよりも露骨に暗い IIm7 の色が欲しかった、というのがあります。IIm7 - VIm7 - IIm7 - VIm7 で先述のあまり展開しない空気感(この曲は B メロとサビがかなり激しめにコードを回すので、全体のバランスをとるという意図です)を踏まえつつ、マイナーを連続で鳴らすことで曲全体の短調感を意識させられたらいいな~という気持ちでした。

 

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○ 間奏

・chord
|| EM7 --- | ---- | ---- | ---- |
|| G#m7 --- | ---- | ---- | G#m7 - Gm7 - F#m7 - Em7 - |

・chord(degree)
|| IVM7 --- | ---- | ---- | ---- |
|| VIm7 --- | ---- | ---- | VIm7 - #Vm7 - Vm7 - IVm7 - |

 

 イントロに引き続いての間奏。ここのコード進行は、「イントロから連続して入るパートである」+「この後くるサビの直後にも繰り返し組み込む想定だった」+「サビはコードを多めに回す」というところから、イントロ同様に 46 進行を起用しています。イントロでは IVM7 を IIm7 に読み替えて使っていましたが、こちらでは IVM7 のままで鳴らしています。理由としては「イントロ(とこの後くる A メロ)との差別化」+「ギターリフを映えさせたい」の二つです。後者について、間奏冒頭のギターリフはラとミを交互に鳴らすシンプルなものですが、IIm だとこれが 5th, 9th になるのに対して、IVM7 だと 3rd, M7th になります。自分は 3rd と M7th の音が大好きなので、ここでは IIm7 よりも IVM7 のほうが相応しいと判断しました。ざっくり話すと、3rd, M7th の音に対する自分の認識はそれぞれ「哀愁、情緒」と「切ない、カッコいい」で( M7th に対する印象は IV 限定かも)、それがこのパートだったりこの楽曲だったりで表現したいことに最も近かった、という話です。詳細は soundquest を参照してください。

soundquest.jp

soundquest.jp

 後半の VIm7 - #Vm7 - Vm7 - IVm7 は和音の平行移動による下降です。VIm - #Vm7 - Vm7 - I7 なんかはアニメポップスでよくみると思いますが、曲想的に I は使いたくないのでここを別の何かに置き換える必要があるなとなり、次にくる A メロの IIm7 との兼ね合いや平行移動の流れ等も考え、最終的に IVm7 が選ばれました。

 

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○ 1B メロ(「見抜かれないように~」)

・chord
|| Fm7b5 --- | F#/E -- Em6 | -- D#aug7 - D#7/G --- | G#7sus4(9) --- |
|| Em6/G - G#m/F# - | C#/F - F#/E - | B --- | ---- |

・chord(degree)
|| #IVm7b5 --- | V/IV -- IVm6 | -- IIIaug7 - III7/#V --- | VI7sus4(9) --- |
|| IVm6/bVI - VIm/V - | II/#IV - V/IV - | I --- | ---- |

 

 B メロ部分。頭から順に説明します。

 まず最初の四小節ですが、ここは 4536 進行(いわゆる王道進行)の派生です。4536 進行、つまり IV - V - IIIm - VIm ですが、この変化形として頻出のもの、かつ今回の記事に関連のあるものを以下にいくつか挙げます。用例については(紹介していないものもありますが)以下の記事を参照してください。

コード進行について色々7 - 感情墓地

 1:三小節目を III に置き換えた進行、IV - V - III - VIm。これが一番出てきます。こうすると通常のスケールには存在しないソ♯の音が登場し、こいつがラへの傾性を持つので、四小節目での VIm への解決がより気持ち良くなるという話。これのさらに派生として IV - V - III/#V - VIm もあります。こうするとベースラインがファ→ソ→ソ♯→ラと順次で動くのでさらに気持ちがいいという話です。

 2:二小節目を V - IV に置き換えた進行、IV - [ V - IV ] - IIIm - VIm。この場合、二小節目の IV は経過音的な用法で、こうするとベースラインがファ→ソと動いた後、ミへ行く前にファを経由するので滑らかに聴こえて嬉しい、という気持ちです。

 3:同じく二小節目を V/IV に置き換えた進行、IV - V/IV - IIIm - VIm。今度はベースラインがファから動かず、これについては通常の 4536 進行よりも展開感を弱めたバージョンだという認識を自分はしています。恐らくこの世に存在する様々なアーティストたちがこの進行を使っていますが、自分は BUMP OF CHICKEN から学びました。

 4:一小節目を #IVm7b5、二小節目を IVmM7 にそれぞれ置き換えた進行、#IVm7b5 - IVmM7 - IIIm - VIm。自分は田中秀和の楽曲で学びました(氏の楽曲だと、四小節目は大抵 VI7 ですが)。#IVm7b5 は IVM7 の構成音であるファを半音 "持ち上げた" 和音で、構成音はファ♯、ラ、ド、ミです。ファ♯、ラ、ドが dim を形成しているということも関係あったりするかもしれませんが、自分は "持ち上げた" のイメージ通りに切迫感のある和音だなと思っています。余談ですが、この上で鳴らすメロとしてはラとミがかなり好きです。

 5:四小節目を VI7 に置き換えた進行、IV - V - IIIm - VI7。これは通常 VIm へいくところを VI7 というメジャーコードへ進行することで、想定外の明るさを聴き手に与えるという効果が期待されたりされなかったりするみたいです。

 以上を踏まえて、B メロ冒頭四小節について説明します。

|| #IVm7b5 --- | V/IV -- IVm6 | -- IIIaug7 - III7/#V --- | VI7sus4(9) --- |

 まず原型としてあったのは IV - V - IIIm - VIm ですが、二小節目を弄って

|| IV --- | V - IV - | IIIm --- | VIm --- |

にします。次に一小節目を #IVm7b5 へ置き換えます。B メロの印象として、この和音の持つ切迫感が欲しかったからです。このとき、次の和音のルートはソ、シへ行くこともありますが、ファへ進んだ場合、半音下降の効果も相まってとても自然に聴こえる(気がする)のでそうします。

|| #IVm7b5 --- | V/IV - IV - | IIIm --- | VIm --- |

 次に三小節目へ III7 を組み込みます。この和音が持つ緊張感が欲しかったからです。このとき、ベースの流れとしてはファ♯→ファと来ているので、このままミへと半音下降したいところです。一方でソ♯→ラの動きもほしく、なので三小節目は III7 - III7/#V に置き換えます。

|| #IVm7b5 --- | V/IV - IV - | III7 - III7/#V - | VIm --- |

 二小節目と三小節目の接続ですが、ここでコードチェンジの雰囲気をそれほど出したくなかったので、前後の和音の構成音に共通音ができるように少しだけ弄ります。IIIm を III へ変更した理由であるソ♯を活かしたかったので、IV(ファ、ラ、ド)を IVm6(ファ、ラ♭、ド、レ)へ置き換えます。一方でド→シの動きはかなり露骨に雰囲気を変えてしまうような気がしたので、III7(ミ、ソ♯、シ、レ)を IIIaug7(ミ、ソ♯、ド、レ)へ置き換えます。これで IVm6(ファ、ラ♭、ド、レ)から IIIaug7(ミ、ソ♯、ド、レ)への進行となって、二和音間での変化はファ→ミの半音下降だけになりました。これはベースの動きと同じなので、ベース以外の楽器隊はこの部分ではソ♯、ド、レだけを鳴らしておけば、コードの変化感を最小限に抑えることができます(実際、この部分のピアノはソ♯+ド+レの三和音をずっと鳴らしています)。

|| #IVm7b5 --- | V/IV - IVm6 - | IIIaug7 - III7/#V - | VIm --- |

 最後に、四小節目を VI7sus4(9) へ置き換えます。一、二、三小節目では変なことをしていますが、ベース自体はファ♯→ファ→ミで半音下降しているだけだったり、コードも共通音を作って展開感を弱めていたりとあれだったので、III7 の緊張感から明ける四小節目は、B メロ後半への切り替わりということも踏まえ、ある種のフックにしたいところでした。なので弄りたいのですが、VI へ置き換えてしまうと不必要な(正しくは「過剰な」)明るさが生まれてしまって相応しくないという話があり、そこで第三音をさらに持ち上げて VIsus4 にします。sus4 は調性が不安定で云々といったことをよく言われますが、そのメジャーでもマイナーでもない雰囲気がフックとしてはちょうどいいという気持ちでの起用です。ただ、通常の sus4 では面白み(インパクト)に欠けるので 7th, 9th をテンションして VI7sus4(9) として組み込んでいます。特に 9th としてシの音を組み込むことで不鮮明な感じが増すな~と思います。

|| #IVm7b5 --- | V/IV - IVm6 - | IIIaug7 - III7/#V - | VI7sus4(9) --- |

 これで B メロ前半の進行になりました。

 後半について。

|| IVm6/bVI - VIm/V - | II/#IV - V/IV - | I --- | ---- |

 直前の和音が VI7sus4(9)、特にルート音がラだったので、ラ♭から順に二拍おきで半音下降していくと展開として面白いかなと思い、そのようにしました。なので気持ちとしては VIm からの半音下降です。VIm からの半音下降には色んなパターン、というか組み合わせがあって、スタートの一小節目は大抵 VIm ですが、二小節目以降は色んな和音を入れることができます。

二小節目: III7/#V、Iaug/#V
三小節目:I/V、VIm/V、V
四小節目:II7/#IV、#IVm7b5

 今回は、III7 の緊張感をもう使いたくない(前半で使ったので)というのと、Iaug/#V は用途がそもそも合わない(これは VIm7 - Iaug/#V - VIm/V - #IVm7b5 という流れでよく出てきて、こうするとすべての和音でドとミを共通音としつつ、ベースを半音下降させていくことができます)ということから別の和音を当てようという気持ちでした。半音下降のためにはソ♯、またはラ♭の音が組み込まれていると嬉しいというので、下降開始の和音としては IVm に白羽の矢が立つこととなりました。6th がついているのは自分の癖で、自分は IVm、IVmM7、IVm6 の中だと IVm6 が音として最も好みなのでそうしています。

 残りは自分の使いたい音に合わせて和音を選択していきます。ラの音を使いたかった(短調の主音を鳴らしておきたかった)ので I/V や V ではなく VIm/V を、II7 の明るさ的な裏切り要素(意外性)がほしかったので #IVm7b5 ではなく II7/#IV を、それぞれ起用しています。通常、ラから半音下降を始めるとファ♯で四つ分が終了しますが、今回はラ♭から始めたので四つ目のベースはファになります。そのことを踏まえつつここに組み込む和音を探すのですが、三小節目、四小節目ではサビへの溜めということで I へ着地しておきたかったので、I への解決欲求を持つ V7 を起用して V/IV としています。

 という感じのプロセスを経て、IVm6/bVI - VIm/V - II/#IV - V/IV - I という進行になりました。

 

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○ サビ(「夕凪いだ空~」)

・chord
|| EM7(9,#11) --- | E6(9,#11) --- | EmM7(13) --- | F# - E6 - |
|| D#m7 --- | F# - D#/G - | G#sus4 - F# - | Fm7b5 - G#/C - |
|| C#m7 --- | F# - C#m/F - | A#m - D#7 - | G#7sus4 --- - Fm7b5 -- | 
|| Em6 --- | D#/G --- |

・chord(degree)
|| IVM7(9,#11) --- | IV6(9,#11) --- | IVmM7(13) --- | V - IV6 - |
|| IIIm7 --- | V - III/#V - | VIsus4 - V - | #IVm7b5 - VI/#I - |
|| IIm7 --- | V - IIm/IV - | VIIm - III7 - | VI7sus4 --- - #IVm7b5 -- | 
|| IVm6 --- | III/#V --- |

 

 サビ。ここもぱっと見だとよくわからないかもしれませんが、基本的には 4536 の派生という認識です。

 まず前半について。

|| IVM7(9,#11) --- | IV6(9,#11) --- | IVmM7(13) --- | V - IV6 - |
|| IIIm7 --- | V - III/#V - | VIsus4 - V - | #IVm7b5 - VI/#I - |

 一小節目から八小節目にかけてでひとまとまりの 4536 という認識で、原型は

|| IV --- | IV --- | IV --- | V --- |
|| IIIm --- | IIIm --- | VIm --- | VIm --- |

です。これを B メロで紹介した変化形に基づいて、IV を IVm にしたり、V を V - IV の下降形にしたり、IIIm - VIm の間に III7/#V を挟んで緊張感を高めたりしたのが上の進行です(七、八小節目については後述)。

 前半の IV に乗っかっている M7th(ミ), 9th(ソ), #11th(シ), 13th(レ)は、とにかく長調的な IV の雰囲気をなるだけ消したいという意図でつけています(特に #11th )。バッキングギターが素直に IV を弾いている一方で、ピアノはミ+ソ+シ、ソ+シ+レ、ラ+レ+ミの三和音を弾いたりしていて、シンプルな IV の枠に収めないアレンジをしたいな~という気持ちでテンションを決めていました。

 七、八小節目は VIm(楽曲中では VIsus4 になっていますが)からの下降の気持ちで作っています。下降といっても半音下降ではありません。VIm の下降は色々とあって、たとえば VIm - IIIm/V - IV - I/III - IIm - VIm/I - VII - III7。自分は勝手にマイナーカノンと呼んでいますが、有名なやつだと『君をのせて / 井上あずみ』の A メロとかですね。

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あとは VIm - V - IV - I とか。用例は山ほどあると思いますが、いまぱっと思いついたのが『final phase / fripSide』の A メロだったので貼っておきます。

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気持ち的には二つ目の雰囲気で使っています。

 まず原型がこれ。

| VIsus4 - V - | IV - I - |

IV の部分でメロディがラに着地するんですが、ここは IV の上のラよりも #IVm7b5 の上のラのほうが(切実な感じがあって)合っていると感じたので #IVm7b5 に。すると後ろの I も必然的に変えなきゃな~となり、こういうときはだいたい IV へ進行するのですが、そのさらに後に来る(サビ九小節目の)和音が IIm なので IV はちょっと微妙かなとなりました。そこで、ベースがファ♯にあることからド♯へ進むと面白いなと思い(ファ→ドの動きと、やっていること自体は同じ)、さらにこうすると IIm(ルートがレ)への動きも自然になるということも加わって採用。そこでド♯の上に置く和音を探すわけですが、IIm へ進行したいので VI が適役と判断され(強進行)、というので VI/#I。

| VIsus4 - V - | #IVm7b5 - VI/#I - |

 以上で、この下降形になりました。

 サビ後半。

|| IIm7 --- | V - IIm/IV - | VIIm - III7 - | VI7sus4 --- - #IVm7b5 -- | 
|| IVm6 --- | III/#V --- |

 前半の四小節は 4536 の派生です。なので原型は

|| IV --- | V --- | IIIm --- | VIm --- |

です。まず、一小節目頭のメロディがファなんですが、IV の上のファよりは IIm の上のファのほうが好き、というか自分は IIm の上のファがめちゃくちゃに好きなので( IIm の上のファは 3rd。情緒、哀愁のバイブス)、ここは問答無用で IIm7 にします。自分はこれを 2536 進行と呼んでいますが、一応は 4536 の派生という認識をしています。

|| IIm7 --- | V --- | IIIm --- | VIm --- |

 次に B メロのところで紹介した諸々に基づいて二小節目の V を V - IV へ、三小節目の IIIm を III7 へ、四小節目の VIm を VI7sus4 へそれぞれ置き換えます。

|| IIm7 --- | V - IV - | III7 --- | VI7sus4 --- |

 二小節目の IV ですが、ここはド(長調の主音)をメインでは鳴らしたくなかったのと、自分がレの音が好きという理由から IV6 から 5th(ド)を omit してさらにベースをファに転回した形、 IIm/IV に置き換えます。

|| IIm7 --- | V - IIm/IV - | III7 --- | VI7sus4 --- |

 また、三小節目について、当楽曲のいたるところでソ→ファ→ミでベースラインを下ろしつつ、ミの部分では III7 を鳴らして VI 系統へ進行する……という流れを擦りまくっているのと、ここはメロディ的にもかなりフックにしたい(ラスサビだとここで最高音が来る)ところだったので、もう少しインパクトが欲しいなと思いました。そこで素直には III7 へ進行せず、一度 VIIm を経由することで VIIm - III - VIm の二連強進行の形を作り、全体の勢いを演出しようという発想です。これ自体は VIIm - III7 - VIm7 というテンプレがあって、それに乗っかかった形です。この進行を使っている曲としては、無限に思いつきますが、一番有名なのだと『 Lemon / 米津玄師』ですかね(サビの「苦いレモンの匂い」のところです)。

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 また、この場合 VII の形には VIIm7b5 か VIIm(7) かの選択があって、要するにファを使うのかファ♯を使うのかということですが、この場合はファ♯を含む和音のほうが適役と判断したので、VIIm を使っています。

|| IIm7 --- | V - IIm/IV - | VIIm - III7 - | VI7sus4 --- |

 この後、五小節目で IVm6、特に IV 系統の和音へ進行するので VI7sus4 の直後に #IVm7b5 を挟み込んで、ベースラインを滑らかにしています。ここでは II7/#IV との選択があります。#IVm7b5(ファ♯、ラ、ド、ミ)はだいたい II7/#IV(ファ♯、ラ、ド、レ)の類似で、VIm7 → II7 はドミナントモーションで自然に動くので、VIm7 → #IVm7b5 もだいたいそうという話ですね。VIm7 と #IVm7b5 は構成音が三つ被っているので、II7 ほどの劇的な進行感はなく、劇的な進行感が欲しいわけではなく単にべ-スラインを滑らかにしたかっただけなので、ここでは #IVm7b5 を使っています。

|| IIm7 --- | V - IIm/IV - | VIIm - III7 - | VI7sus4 - #IVm7b5 - |

 というので、上の進行になりました。

|| IVm6 --- | III/#V --- |

 最後のここについては  IV - III の動きを念頭に置いています。III7 の推進力を残したまま間奏へ雪崩れ込みたいという気持ちで、最後は III 。直前の IV は、IV そのものではなく IVm の物悲しさがほしいという気持ちと、いつも通りのレの音が好きという理由から IVm6 になっています。

 

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○ 2A メロ(「八月の残光~」)

・chord
(6/8)|| C#m7 -- | --- | --- | --- |
|| G#m7(9) -- | --- | A#m7b5 -- | D#7 -- |
(2/4)|| Cdim - |
(4/4)|| C#m7 --- | F#7 --- | D# --- | G#m --- |
|| A#m7b5 --- | D# --- | 

・chord(degree)
(6/8)|| IIm7 -- | --- | --- | --- |
|| VIm7(9) -- | --- | VIIm7b5 -- | III7 -- |
(2/4)|| #Idim - |
(4/4)|| IIm7 --- | V7 --- | III --- | VIm --- |
|| VIIm7b5 --- | III --- | 

 

 前半はイントロ部分とだいたい同じです。VIm7 に 9th(シ)をテンションしていますが、これはこれまでにも説明したとおり、シンプルな和音の枠から少しはみ出すという気持ちで乗せてあるテンションです。III7 - #Idim の部分は気持ち的には #Vdim - #Idim で、ソ♯→ド♯の強進行と同じ動きを作りつつ、それを dim コードでやっているという話です。また、この #Idim は直後にくる IIm7 へのパッシングでもあります。

 後半部分。
|| IIm7 --- | V7 --- | III --- | VIm --- |
|| VIIm7b5 --- | III --- | 

 まず、前半は4536 の派生であるところの 2536 進行です。後半は、先にも述べた通り、VIIm から III へ進行するやつです。ここの VIIm にファ♯の音は不要だったので、通常通りにファを用いる VIIm7b5 を起用しています。

 冒頭の IIm7 - V7 について、歌メロがファを連打するフレーズで、これも先述の通り、自分は IIm の上で鳴るファがとても好きなので、ここは問答無用で IIm7 にします。その流れを汲んで、V も V7 として演奏しています。V の 7th は鳴らしすぎると不協和になりがち(ファが傾性音だし)という印象ですが、ここではファに特有の不安定さがめちゃくちゃ欲しかったので、ここぞとばかりに鳴らしまくりたく、というので V7 を起用しています。

 

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○ 2B メロ(「太陽を夜が~」)

・chord
|| Fm7b5 --- | F# --- | D#m --- | G#sus4 --- |
|| A#m7b5 --- | D# --- | G#7sus4 --- | Fm7b5 --- |
|| C#m7 --- | F# --- | D#/G --- | Adim7 --- |
|| Fm7b5 --- | ---- | A#m --- | D# --- |

・chord(degree)
|| #IVm7b5 --- | V --- | IIIm --- | VIsus4 --- |
|| VIIm7b5 --- | III --- | VI7sus4 --- | #IVm7b5 --- |
|| IIm7 --- | V --- | III/#V --- | #VIdim7 --- |
|| #IVm7b5 --- | ---- | VIIm --- | III --- |

 

 まず前半。これは前から順に 4536 の派生、7-3 の動き、6 - 4# の動きで説明できます。後半について。

|| IIm7 --- | V --- | III/#V --- | #VIdim7 --- |

 これも原型は 4536 で、つまり元々はこうです。

|| IV --- | V --- | IIIm --- | VIm --- |

 一小節目、IV へ入る部分のメロがファを叩いているので、まずここを問答無用で IIm7 へ置き換えます。また、三小節目は III の緊張感(ソ♯の傾性)がほしかったので、そこも置き換えます。ついでに転回して III/#V にしてベースラインにソ→ソ♯という半音上昇の形を作ることで、次の和音への期待感をブースト。

|| IIm7 --- | V --- | III/#V --- | VIm --- |

 最後に四小節目、ここを #VIdim7 に置き換えます。「なんで?」と思われそうですが、ちゃんと説明します。この部分は、まず歌メロ側の要求が先行していました。というのも、どうしても歌メロでド♯の音を使いたかったんです。なので、それに従って和音も変更しなくてはならず、そこで最初に組んだのは次のような形でした。

|| IIm7 --- | V --- | III/#V --- | VI --- |

つまり、VIm(ラ、ド、ミ)を単に VI(ラ、ド♯、ミ)へ変更するという解決法。これ自体には別に何の問題もないんですが、ただ曲想的にちょっとよろしくなくて、ここまで短調らしさを前面に押し出し続けていたのに、ここにきて VI(基本的には「明るい」というラベリングでいい)を鳴らす、しかも経過音的にではなく露骨に(メロディが VIm と VI の差異である 3rd の音を思い切り叩くという意味でも)鳴らすというのは、曲全体の空気感を壊しかねないなと思い。そこで回避策を考えなくてはならず、というので #VIdim7 が登場します。#VIdim7 の構成音はラ♯、ド♯、ミ、ソで、VI7(ラ、ド♯、ミ、ソ)のルート音を半音上げたものになっています。メロディでド♯を使いたいという要求はこれでクリア。あとは和音自体の印象や前後の和音との接続関係ですが、dim のダーク感は楽曲の雰囲気にかなりマッチしており、また #VIdim7 は並び替えれば #Idim7 と同じなので、次にくる和音である #IVm7b5 との接続も、ド♯→ファ♯の強進行形を作れることでクリア。直前の III/#V からの接続については、ソ→ソ♯ときたベースラインが、ラへ解決すると見せかけて半音上のラ♯へ到達するという裏切り、および本来よりも半音高いということによる(?)浮遊感(?)が曲想的にも歌詞的にもめちゃくちゃちょうどいいと思ったので、というので #VIdim7 が起用される運びとなりました。

 実を言うとこの部分が、楽曲で表現したかったことを最も的確に出力できたっと感じているという意味で、曲全体でみてもめちゃくちゃお気に入りのポイントだったりします。

|| #IVm7b5 --- | ---- | VIIm --- | III --- |

 最後のこの部分については、サビ終わりでも使っていた IV - III を念頭に置いています。通常の IV よりも #IVm7b5 のほうが緊張感が増すという理由で、IV を #IVm7b5 へ置き換えます。また、素直には進行せずちょっとした意外性を入れたいというので、間に VIIm を挟み VIIm - III の強進行形を作っています。

 

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○ ギターソロ

・chord
|| EM7(9,#11) --- | E6(9,#11) --- | EmM7(13) --- | F# - E6 - |
|| D#m7 --- | F# - D#/G - | G#sus4 - F# - | Fm7b5 - G#/F - |
|| C#m7 --- | F# - C#m/E - | A#m - D#7 - | G#7sus4 --- - Fm7b5 -- | 
|| C#m --- | Ddim --- | F# --- | G#sus4 - G#7/C - |

・chord(degree)
|| IVM7(9,#11) --- | IV6(9,#11) --- | IVmM7(13) --- | V - IV6 - |
|| IIIm7 --- | V - III/#V - | VIsus4 - V - | #IVm7b5 - VI/#IV - |
|| IIm7 --- | V - IIm/IV - | VIIm - III7 - | VI7sus4 --- - #IVm7b5 -- | 
|| IIm --- | #IIdim --- | V --- | VIsus4 - VI7/#I - |

 

 ポップスあるあるであるところの、サビのフレーズをちょっとなぞるギターソロ、をやっています。というので、コードもサビとほとんど同じです。異なるのは、最後、次のパートへの繋ぎとなる部分ですね。

|| IIm --- | #IIdim --- | V --- | VIsus4 - VI7/#I - |

 ここはギターソロでレ→レ♯→ミの動きをやりたかったので、それにあわせてコードを IIm - #IIdim にしています。ところでこういうときはだいたい IIIm, III など III 系統へ進行すると思うのですが、III の雰囲気を出すにはちょっと早いなと思ったのと、リードギターがミへ行くのと同時にピアノとベースもミへ行くとちょっと愚直すぎるかなと思ったので、変化球として V へ進行しています。その後はいつも通りに VIsus4 を鳴らして、次のパートの頭の和音である IIm7 へ自然に繋がるように VI7/#I を置いて、ド♯→レのベ-スラインを作っています。

 

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○ Cメロ(「夕景、紛う~」)

・chord
|| C#m7 --- | F#7 --- | D# --- | G#m --- |
|| A#m7b5 --- | D#7 --- | G#m7 - F#m7 - | B7 --- |    
|| Fm7b5 --- | F# --- | D#m7 --- | Bm6/D --- |
|| C#m7 --- | Ddim7 --- | A#m7 --- | ---- |
|| D#sus4 --- | ---- |

・chord(degree)
|| IIm7 --- | V7 --- | III --- | VIm --- |
|| VIIm7b5 --- | III7 --- | VIm7 - Vm7 - | I7 --- |    
|| #IVm7b5 --- | V --- | IIIm7 --- | Im6/bIII --- |
|| IIm7 --- | #IIdim7 --- | VIIm7 --- | ---- |
|| IIIsus4 --- | ---- |

 

 前半は 2A メロとだいたい同じです。最後の VIm7 - Vm7 - I7 は自分がよく使う(自分に限らず、世の中の多くのアーティストが使っている)和音の流れで、「やっと使える!!」みたく切り札をきるという気持ちで組み込みました。これもフックの一つです。

 後半について。

|| #IVm7b5 --- | V --- | IIIm7 --- | Im6/bIII --- |
|| IIm7 --- | #IIdim7 --- | VIIm7 --- | ---- |
|| IIIsus4 --- | ---- |

 こちらは B メロの変化形です。

|| #IVm7b5 --- | V --- | IIIm7 --- | Im6/bIII --- |

 ここは 4536 の派生です。まず、一小節目の #IVm7b5 が IV の置き換えなのはいいとして、四小節目。この Im6/bIII は前後の IIIm7, IIm7 を繋ぐ目的で置いていて、ベースラインはミ→ミ♭→レと半音で下降します。B メロ通りに VI 系統の和音を置いてもよかったのですが、同じことをするのは芸がないかなと思い、ちょっとだけ捻った展開を作っています。

|| IIm7 --- | #IIdim7 --- | VIIm7 --- | ---- |
|| IIIsus4 --- | ---- |

 IIm7 - #IIdim については上昇感、というか緊張感の演出です。そのまま III へいくとちょっと早いので、VIIm7 を間に挟むことで展開を先延ばしにしています。#IIdim → VIIm については、#IIdim の中にファ♯が隠れているので、うまくやるとファ♯→シの強進行形が作れるので問題なく接続できるかなと思いました。

 

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○ ラスサビ最後(「わたしの心を~」)

・chord
|| Em6 --- | D#7 --- | G#m7 --- | F#7 --- - Fm7b5 -- |
|| Em6 --- | D#7 --- |

・chord(degree)
|| IVm6 --- | III7 --- | VIm7 --- | V7 --- - #IVm7b5 -- |
|| IVm6 --- | III7 --- |

 

 偽終止というよりは展開の延長です。同じフレーズを繰り返したいときにコードをどうするかみたいな話ですが、VIm や #IVm7b5 を使っていい感じに元の和音まで戻してやれば、フレーズをループさせることができます。ここは気持ち的には 4365 進行ですね。なので原型はこうです。

|| IV --- | III --- | VIm --- | V --- |

これに自分好みのテンションを足して、最後に #IVm7b5 をパッシング的に挟んだものが上の進行です。

 

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 以上でおしまいです。ここまでちゃんと読んだ人、いたらマジですごいな。おつかれさまでした+ありがとうございました。

 当楽曲が収録されている『 lycofos / MIRINN 』は Bandcamp 等で購入可能ですので、よければ是非(宣伝)。

mirinn.bandcamp.com

 

 

 

20230708

 

 数年前、身内の結婚式へと足を運ぶ機会があった。それからというもの、だいたいこれくらいの年齢になったら結婚云々という選択肢が出てくるのか、という認識が自分の中に生まれた。そうして、いざ実際にその年齢に到達してみての答え合わせが始まると、本当にいたるところから結婚に類する話題を耳にするようになった。ちょっと面白い。美容院にいる顔見知りの店員さんは二人とも結婚したらしいし、一つ上の従兄、それと大学時代、夜な夜な一緒に麻雀をやっていた同年代の誰かさんも。すごいな、と思う、純粋に。そんな、当たり前みたいに発生するイベントなのか、結婚とかって。地球上に何億の人間が生きているのかは知らないけれど、生涯で仲良くなれる人間の数なんてだいたい 200 とかそこらじゃなかったっけ。と思って調べてみたら 300 だった、大差ない。300。たった 300 の中で、……とはいえそれは個人の指向へ沿うように有象無象の中から選ばれた 300 人であって、無作為に選択されたものではないのだから、多少は確率が高いのかもしれないけれど、それにしても、たった 300 の中で「一生を添い遂げよう」と思えるような他人に出会うことができるのって、ほとんど奇跡みたいなもののように感じられるのだけれど。でも、だから、その奇跡みたいなものが起こりまくってるんだよな、この世の中、色んなところで。それも、携帯端末の向こう側の話じゃなくて、もっと身近なところで。すごいな、と思う、だから純粋に。いやまあ、確率といえば確率なのだろうし、どこかで何かの歯車を掛け違ったとて、結局は何かしらのゴールにたどり着くように設計されているのかもしれないけれど。ところで、自分たちはこの世界を主観的かつ不可逆的にしか経験できないわけで、その目的地が偶発的なそれでないことを、あり得たかもしれない並行世界の一切を全体集合として説明されたところで何かしらの納得を得ることができるだろうかといえば、ちょっと微妙。「この人と出会う以外のいまなんてきっとなかった」とかって思うでしょ、みんな。結婚って、つまりはそういう意思の顕れだろうと思うから。なんていうか、そういう、物語みたいな出来事が自分の知らないどこかで、知っているところででもたくさん起きてるんだな~と思うと、素敵だなと思うし、何がなくとも嬉しいような気持ちになる。空が青いこととか、星が瞬くこととか、そういうのと多分同じで、つまりはこの世界を諦めなくていい理由の一つ。

 

 生きる意味について。この言葉が初めて眼前に現れたのは、たぶん学部一回生のとき。といっても、そのことについて深く悩んでいたとかではなく、単に当時付き合いのあった人からそういった話題を投げかけられることが多かったというだけ。ここら辺の話はまあ大昔にブログへ書いた気がするので割愛。生きる意味。それって何なんだろうな。まあ、一つ明らかなことがあるとすれば、その形は人によって異なるということくらいだと思うけれど、いや、そんなに明らかでもない? 明らかでもないかもな。もしかすると、この世界のどこかには神様の隠した絶対的な真理があるのかもしれないし、人類がまだそれに気付いていないだけか、あるいは言語化する術を持ち合わせていないか。一万年後かくらいの未来では全員がその内容を教科書等で学んでいて、生きる意味について悩む人は誰一人としていなくなっていたりだとか、まあそういう未来もあるのかも。ところで、どうなんだろう。主観だけで物を言うのであれば、そういった絶対的な真理のようなものがあったとして、自分はあまりそのものの価値を見出すことができない。これは自分自身にとってはそうというだけの話であって、別にそれ以外の他人事情については一切言及していない。『クラスメイトに暴力をはたらいてはいけません、何故ですか?』。それが分からないから、小学生は喧嘩をする。いや、『クラスメイトに暴力をはたらいてはいけない』ことが絶対的な真理だと言いたいわけではない、そんな読み違いをする人はいないと思うけど。ここで言いたいのは、自分でない他者から一方的に与えられた言葉の意味を本当の意味で理解することが可能なのかどうか、ということ。『クラスメイトに暴力をはたらいてはいけません』は学校の先生だったり、道徳の教科書だったり、あるいは両親だったりの言葉であって小学生の言葉じゃない。他人を傷つけることが何故よくないことなのか。それを本当の意味で自分のものにするには、実際に誰かを傷つけたり、あるいは誰かに傷つけられたりするしかないのでは、と思う。喧嘩を推奨したいわけではなく、そんな読み違いをする人もまあいないか。だから結局のところ、自分で見つける以外に方法なんてない、というのが自分自身のスタンス。生きる意味に限らず、この世の全て。林檎がどういった果物なのか、それは他人の言葉によって理解されるようなものではないと思うし、自分の口で咀嚼する以外に手に入れられるものではないと思う。

 

 生きる意味について。どんな流れだったのかは思い出せないけれど、久しぶりに誰かとそういった話になった。結論から書くとして、自分にとってのそれは「ちゃんと悲しくなること」だと思う。これは自分自身にとってのそれを自分自身にとっての言葉で説明した結果のものであって、だから自分以外の全人類にとってはこの言葉に何の意味の宿らないということを理解した上で、それでも書いている。ちゃんと悲しくなること。それは、ちゃんと苦しくなることと同義であり、ちゃんと幸せになることと同義であり、そしてちゃんと生き抜くことと同義でもある。悲しむために生きているし、苦しむために生きているし、幸せになるために生きているし、生き抜いたと思うために生きている。そういう話。ちゃんと悲しめる人間でありたい、と思う。たとえば誰かと離れ離れになってしまうとき、正しい色の寂しさを感じられる人間でありたい。言語化が難しい、この辺りの感覚は。これを読んでいる誰かがいたとして、たぶん頭の中は疑問符だらけだろうな。申し訳ない。でもまあ、このブログってたぶんそんな文章ばっかりだろうし、いまに始まったことでもないか。悲しさとか、苦しさとか、寂しさとか、そういったものを避けて歩くような人生を選ぶことができたとして、その生涯に自分は意味を見出せない。これは、これに限らずだけれど、すべての文章の内には「自分にとっては」という但し書きが添えられていると思って読んでほしい。他の誰かの生き方を否定したいわけじゃない。ただ、自分の目の前にそういったマイナス感情を取り除くことのできる夢のような装置、あるいは魔法があったとして、少なくとも自分がそれに頼ることはきっとないだろうという、そういう話をしている。それは、だからさっきの話と同じだ。『クラスメイトに暴力をはたらいてはいけません、何故ですか?』。魔法の杖を一振りして、自分の人生から他者との諍いに関する記憶の一切を消去したとする。他者との諍いがよい思い出になるということはなくもないけれど、それでも大部分を占めるのは苦い記憶だ。だから取り除く。そうしてステッキを振り終えた後、そこに残っている自分はいったい誰? という話。90% くらいは自分だろう、恐らく。だとしても、10% くらいは自分じゃないのだし、それだけ違っていればもはや他人だ。他者へいいように振舞うことができるのは、何をどうしたら相手を傷つけることができるのか分かっているから。誰かを傷つけたり、あるいは誰かに傷つけられたり、そういった経験をたしかに覚えているから、だからこそ誰かを大切にすることだってできるのではという、そういう話。……書いてみて思ったこととして、それはともすれば究極の自己肯定なのかもな。自己肯定って言葉、全然好きじゃないんだけど。嫌なこと、悲しいも苦しいも寂しいも、そういう全部をちゃんと運んでいきたいっていう、ただそれだけの話で。そして、そのうえでちゃんと幸せになりたいっていう、だからまあ、結局はいつもの話に戻るのか。空っぽの空洞。心に穴が空いたようなあの感覚を、思い出すことはもうできない。けれどそれは、都合のいい魔法が自分の中からそういった要素だけを連れ去っていってくれたからじゃない。別にそんな解決法は、一度もないと言えば嘘になるけれど、でも望んでなんかいない。だって、それさえも失くしてしまった後の自分ってたぶん自分じゃないし。失くしたことを失くさない、って思うにそういうこと。ちゃんと悲しくなりたいな。ちゃんと苦しみたい。ちゃんと寂しくなりたい。そういう人生でありたい。でもこれはさ、いや、そんな注釈を今更添えるのかよって感じだけど、でも自分の中では自然にそうだから単純に忘れてしまっていたこととして。人生を、あるいはこの世界を、日常を、悲観的に捉えて生きているわけではまったくない。言葉のイメージに引きずられかねないなと思って、こんなタイミングではあるけれど補足しておく。悲観的じゃない、全然。かなり肯定的に世界を捉えているほうだと思う、主観的には。だから、なんだろ。悲しさとか苦しさとか寂しさとか、そういった負の感情を単に集めながら生きていきたいっていう話じゃなくてこれは。漠然と悲しくなりたいわけじゃなくて、ちゃんと悲しくなりたいんだよな。ちゃんと、という副詞は不可欠。正しい色の寂しさ。正しい色のそれらに出会いたいし、見逃さないでいたいし、ずっと遠くまで運んでいきたい。それ自体が自分にとっての生きる意味だし、だからこれが、ちゃんと幸せになることだったり、ちゃんと生き抜くことだったりと自分の中では同義になっている。だから、できるだけ多くのことを忘れないままでいたいと思うし、死にたくなんか全然ないな、とも思う。