20231015

 

 雑記。最近のことについて雑に書きます。

 

 結婚そのものに興味があるわけではないんだよな、と思う。恋愛にしたってそうで、二〇と数年の人生においてそれ自体が目的になったことは、少なくとも自分が記憶している限りでは一度もない。特定の個人がいて、その結果として恋愛だったり結婚だったりが存在しているのであり、その逆である、恋愛だったり結婚だったりのために特定の個人があるという考え方は、なんというか、自分の主義には沿わない(そういう考え方があってもいいとは思うけれど、あくまで自分の考えには合わないというだけの話)。昔から、周囲の人たちの言葉を借りれば "純愛厨" 的な、そういった考え方を持っていたように思う。こういうのって、これまでに経験した出来事の内、いったいどのようなそれを以て規定されるんだろう? いま現在の自分が有している考えのいくつかは、自身の幼少期にそのルーツを見出すことができるように思うのだけれど、ところで、いわゆる恋愛的な価値観に関しては特に何の心当たりもない。不思議だ。

 

 こればっかりは明らかに自分の側がマイノリティであると自覚しているのだけれど、名前って本当にどうでもいいんだよな、自分にとっては。両親から貰った大切なものであるという認識は当然あって、なので軽んじているわけではない。ないのだけれど、なんていうか、なんだろうな。自分の名前を大切にするという感覚と、一方で名前なんてどうでもいいという感覚とは、一見矛盾しているようでいて、しかし自分の中ではきちんと両立している。気持ちとしては、血液型や出身地なんかが近いのかな。いや、それだって人によっては自身にとって欠くことのできない構成要素のひとつ足り得るのだろうけれど……。血液型も出身地も自分で決定することのできない、この世に生まれ落ちた時点で与えられている属性だけれど、自分からすると名前もそれらとほとんど同属性っていうか。もちろん、親が明確な意思を以て介入する余地のある(=命名権がある。一方で、たとえば血液型はどうしようもない)という意味では決して同じとは言い切れないのだけれど、先天的に与えられたものという意味では同じだよな、と思う。名は体を表すというけれどそんなのは漫画やアニメ、フィクションの中だけのお話であって。だから自分は本名というラベル(自分に対してもそうだし、他者に対しても)にあまり興味がないのかな、と思う。そうは言っても好奇心は、ただ知りたいという欲求そのものはある。けれど、そうして知った誰かの名前が自分の中に強大な存在感を残すということはなくて。そんなのどうでもいいって思っちゃうんだよな、どうしても。

 

 結婚に際して改姓という手続きがあるらしい。らしい、ではなく、ある、間違いなく。全然知らないけど、最近は夫婦別姓とかってあるんだっけ? ……と思ったけど、あれはだから、そうか。夫婦別姓が法的に認められていないからどうこうって運動が近年は盛んだって話で、つまり夫婦別姓自体は選択肢としてはいまのところなしなのか、なるほどね。いや、どうなんだろうな。実際のところ、女性の側が改姓を行うことの合理的な理由って現代日本において存在してるんだろうか。いや、当人たちが納得していればどんな選択でもいいだろうと思うし、96% の割合で女性側が改姓をするらしいという現代社会の抱える事実に対して一言申し上げたいわけでもなんでもないのだけれど……(それ自体はマジでどうでもいい)。ところで、合理的な理由ってあるのかな。慣習以外のなにか。……いや、なんていうか、なんだろうな。数週間前に結婚式へ出席する機会があったのだけれど、ご祝儀の記入が、なんていうか、本当にこれでいいのか……みたいな印象をどうしても持ってしまって。その、袋の中に幾ら入れたのかを袋に記入するんだけど、「金〇萬圓也」って書くのね。なんで? と思った。「金〇万円也」でよくない? ここで敢えて難しい漢字、正確には旧字体だけれど、を起用する合理的な理由はいったい何なんだよ、と思う、思った。前時代から全員がなあなあで続けている風習が今に残っているだけなのでは? いやまあ、それはいいんだよね、別にさ。これはあくまで一例として挙げただけで、ご祝儀の袋なんてひととおりの役目を終えたらいずれはゴミ箱へ行くんだから。でも、名字はそういうものじゃないじゃんか。どんなに自分がどうでもいいと思っていたって、世の中の大半の人にとってはそうじゃないし。自宅の表札、身分証明書、墓石、死ぬまで一生、死んだ後もなお付随するもの。その程度には主要であるはずの位置に据えられている要素が、慣習とかいうもののせいで一方のみに固定されているんだとしたら、端的に言って、気持ちが悪い。だって、亡霊たちの呪いでしかない、そんなの。過去は軽視してもいいって、そんなことを言いたいわけじゃない。でも、なんでもかんでも従えばいいってわけでもないような気がする。気がするんだけどな。

 

 名前のことをどうでもいいと思っているから、改姓のこともどうでもいいと思っていた。どうでもいいというか、別に名字を変えたからって何が変わるわけでもないしな、という。ところで、人によってはキャリアがどうだとか何だとかって話があるらしくて、なるほどな、と思った。一方で、だからその考え方も自分とは相容れないんだよな。いや、相容れなくはないか。たとえば、「明日からは『一葉』という名義を捨てて、新しい名義で活動してください」と言われたら、恐らく自分は首を振る。というのも、それは『一葉』という個人に一定の価値を見出してくれている全員との接続を断つに等しい行為であるからであり、匿名性に基づいて活動を行うインターネットにおいてそれはほとんど死を意味するからだ。ところで、現実世界はどうなんだろう、と思う。だから、相容れなくはないのだけれど、両者の間には若干のギャップがある。現実世界における改姓って、別に死を意味したりはしないんじゃないのか。だって、現実での人間関係においては匿名性なんてないのだから。……というところまで考えて、ああ、なるほど、と思い至った。つまり、改姓という行為をそれほどに重く捉える人もいる、という話なのかもしれない。それほどに、というのは先ほどのインターネット活動名義の話を指す。要するに、人格の死。名字を変更することによって、旧姓で生きてきた自分が消滅してしまうかのような感覚……なのかも。憶測でしかないけれど。けれど、いまの前提に基づくとするなら改姓という手続きは、なるほど決して軽々しく扱ってよいものではない。自分にとってはなんでもないことだけれど、自分以外の他人にとってはそうでもないかもしれないし。……大変だなあ、結婚って。

 

 誰かと一緒にいるために他人の、国の、神様の承認がいるなんて馬鹿げてるよな、と思う。目的でないこと。システムへの反駁。どちらも同じこと。一方で、それがルールなんだよな、とも思う。ルールだなんて言葉を持ち出すのも、よっぽど馬鹿げてると思うけど。なんていうか、そのことについて考えれば考えるほど今の在り方から、あるいは理想から少しずつ乖離していくような、そんな気がして。なんだかなあ。そうやってなにかを切り取って枠に嵌め込んでいくような、そういう生き方がどうしようもなく下手で、だからいまがこうなってるんじゃないのと思いつつ。ところで、そこを飲み込まないことにはここから先へは進めないらしい。難しいね。