20240111

 

 電車に揺られているときとか、あるいは朝日を横目に歩いているときとか。どこからともなく湧いてきた欠伸を噛み殺しながら、眠いな、って思うじゃん。あれと全く同じ感じで、死にたいな、って思う(ところで後半部分に記述してあるのだけれど、誤解を招くのはよくないと思うのでこの段階で補足しておくと、これは希死念慮とか自殺願望とかっていう話では全くなくて、もっとカジュアルな、全然シリアスではない感情。なので、精神状態が悪いとかでも全くない)。新年一発目の記事がこんな内容で大丈夫? と思うけれど、でも、そう思うものはそう思うんだからどうしようもない。というか、いつからだろうな。なんていうか、手の施しようがない感じのこのブログを認めるにあたって、明確に読み手の顔を想像するようになったのって。昔はそうでもなかった。昔はっていうか、二年くらい前? までかな。いや、書き始めた頃から読み手のことは意識するようにしていて、なるべく読みやすい文章を書くようにしよう、みたいな姿勢とか。誤字脱字はできる限り見逃さないように、とか。ところでそれって、読み手の顔を意識しているわけではないよな。どちらかというと気持ちとかじゃない、たぶん。だから、誰でもよかったし、誰でもなかったんだなと思う。完全な第三者。シミュレーションされた客観的視点。コナンの犯人とか、Twitter エッセイ漫画の一人称とか、そういうのと同じで、極度に抽象化された存在が読み手として想定されていた、はず。だから昔の自分は、なんていうか、日々のあれこれを好き勝手に書きまくっていたわけだし、いまの自分はそれをしなくなったわけなのだろうな、と思う。しなくなったというより、できなくなった? いや、それは責任転嫁しすぎか。しなくなった、のままで正しい。誰も悪くなく、自分が悪いわけでもなく、これはそういう変化の話だから。

 

 ちょうどいまお風呂が沸いたので入ってくる。冬の寒い日に浸かる湯舟が一番好きで、夏は夏で気持ちいいんだけど。今年は……、冬とまだ友達になれていないような気がする。毎年、仲良くやってたのに。これも変化って言うのかなあ。と思いはしたものの、別に冬と友達になっていたわけではないような。なんだろ。孤独? うわ、ありきたりな言葉。嫌だな。思うに、ありきたりな言葉のよくないところって、個々人によって定義が異なること。たとえば、自分の修士論文で真っ先に定義したもの、つまりそれを知らないと話が始まらないというものにアデールってのがあるんだけど。代数学、の特に数論かな、を齧った人になら一言、アデールと言えばそれだけでどんな場面を想定しているのかが伝わるんだよね。まあ、他の学問がどうなのかは知らないけど、多義的な言葉って精密な議論を行う上ではあんまりよくないだろうし(それでもたくさんあるんだけど)。だからまあ、新しい概念にはどんどん新しい名前をつけていって、名前と概念とが一対一に対応するようにしましょうねって話だと思うんだけど、翻って孤独。孤独って何? 「孤独って何?」って訊かれて説明できる人っているのかな。自分はできない、……たぶん。そもそも試みたことがないから分からないけれど、できないだろうなと思う。それでも、50,000 字分くらいの言葉を使っていいならもしかすると部分的に実行できるかもしれない。ここでいう "実行できる" というのは、万人にとって理解可能な形で示すことができるという意味ではなくて、自分なりの解釈を外部へ発信することができるという意味で。でも、なんかさ、そういうものじゃない? 孤独とかって。綺麗に整理された言葉の上じゃなくて、もっと奥深く、あるいは茫洋とした集合体としての、そういった曖昧な場所に重く漂っているもののような気がする。だけど、人の話を聞いているときとか、漫画を読んでいるときとか、あるいはこんな風にブログを読んでいるときとかってそこまで深くへ潜り込んだりはしないからさ、普通は。心の中にある電子辞書をパッと引いて、上のほうに出てきた用例だけをみて、「ああ、こんな感じの意味合いで使っているのかな?」くらいの理解で読み進めるじゃない。電子辞書が紙の辞書と違うところの一つよね、調べた単語にどのくらいの意味があるのかを一目で汲み取れないことは。ディスプレイの大きさまでしか表示できないから。自分たちは基本的にそういう風にしか他人の言葉を読み取ることができなくて、だからこそよくないと思う、ありきたりな言葉って。伝わるわけないじゃんね、そんなので。いや、伝わる必要がないという考えならそれでよくて。この世界にあるすべての喜怒哀楽が第三者に理解されて然るべきだとは思わないし、またそれらが正しい表現で形容されるべきだとも思っていない。伝わらないほうがいいものは多々あるし。話を戻す。ところで、別に自分は言葉の正しい意味を伝えたくてこんな長ったらしい注釈を添えているわけではなく。孤独という言葉にあてがう意味合いは人によって異なるよね、ということを伝えたかっただけ。冬は孤独と友達になれる季節なのかもな、って自分はそう思うんだけど。他の人たちにとっては、冬ってどんな季節なんだろうね。

 

 44 ℃ でお風呂を沸かすから、多少冷めたくらいがちょうどいいんだよね、と強がってみたりする。湯舟の中だと何も考えなくていいから楽だな、と思った矢先、ボディソープがそろそろなくなりそうなことに気づいたりする。

 

 本当に欠伸と同じ感覚だと思う。だから、全くもって深刻ではない。電車なら、まああるかもしれないけれど、でも外を歩いているときに欠伸をして「眠いな」と思ったとして、「よし、じゃあいまから寝るぞ!」とはならないでしょ。それと同じで、「よし、じゃあいまから死ぬぞ!」とはならない、全く。というか、あの、これはちゃんと明記しておかないと誤解されそうなのできちんと書いておくけれど、精神状態が不安定なわけでは決してなく、というかむしろ健康で、普通に生きていたいんだよな。欠伸をする人の中にだって、ちゃんと起きていたいという意思を持っている人はたくさんいるでしょ。そうじゃない人もたくさんいるかもしれないけれど。それと同じで、だから、なんていうか、生理的現象に近い、というニュアンスかもしれない。自分の意思とは一切関係のない領域で発生する類のもの。希死念慮とも違う。明確な動機がないという点においてはアナロジーがあるかもしれないけれど、だって、別に全然死にたくなんてないから。死にたいな、と感じるその一瞬だけを切り取ったとしても、別に死にたくはない。矛盾してる? でも、寝たくなくたって欠伸ってするじゃん。それと同じなんだよな、だから。記憶が確かならこのブログに何度か書いたはずで、この現象について。その、唐突にやってくる死への誘惑、的なもの。いや、何度でも言うけれど、全然死にたくないからね、本当に。言葉が物騒だからよくないのかな。欠伸的な死とでも呼ぼうかな、緩衝材として。まあその、呼び方は何だって構わないのだけれど、とにかく欠伸的な死について。欠伸的な死は、鮮烈な郷愁とほとんど同タイミングでやってくる気がする。地震でいう P 波が郷愁で、S 波が欠伸的な死。鮮烈、と言ったけれど、感覚的には焦げるような感じかもしれない。何が、って……心が? 焦がすとか焦がれるじゃないのかよと自分でも思うけれど、でも、感覚としては焦げるのほうが近しい。心が焦げる。どういう意味? 分からない。分からないけれど、これだなって感じがする。なんか、燃えている感じがする。郷愁……ってどうなんだろう。自分にとってこの言葉は、視覚的なイメージとリンクしているそれなのだけれど、その視覚的なイメージが燃えている感じ。火災現場を想起しているという意味ではなく。牧歌的な風景であっても、なんだかそれが燃えているようにみえる、気がする。と言いながら、その風景って何なんだよと尋ねられると、答えに窮してしまう。思い出せないんだよな、これが、困ったことに。欠伸的な死に気を取られた瞬間に、それまでにみていた景色の一切を忘れてしまって。ふと我に返ったとき、手元に残っているのは強烈なノスタルジーと漠然とした死への欲求だけ、みたいな。そういうことがよくある、昔から、布団の上で微睡んでいるときなんかに。この先の未来、ずっと遠くのことでも構わないけれど、科学技術が SF かよってくらいまで発展してさ。どんな景色でも手に入るようになってしまったら、生きる意志なんてものは簡単に手放してしまえるようになっちゃうんじゃないかな、って思ったりする。郷愁に伴う死への欲求って、だから多分そういう類のものなんだよな。自分がそれを欠伸的な現象だと思えているのは、だから、その郷愁が決して手には入らないことを分かっているからなのかも。電車の中でなら欠伸の眠気に従って目を閉じる人だっているし、路上では所かまわず眠ってもいいという価値観が備わった社会でなら、朝日に釣られた欠伸にも目を閉じてしまう人がいるかもしれないわけで。現実世界では、少なくとも日本ではそうではないから、そんな人はどこにもいないけれど。決して届くことのない郷愁も、それでも届くようになってしまったら、人は本当に簡単に死んでしまえるようになるんじゃないかな、って疑い。それは、現在の自分たちが考える死の枠組みとはまた異なったものなのかもしれないけれど、でも、この世界を諦めるという意味では死と同義なのかも。そういうことを考える。そういうことを考えるのが、だから冬って季節なんだよな。星を眺めて「綺麗だな」と思ったり、「このままみえなくなればいいのに」と思ったりする。郷愁と欠伸も同じこと。自分にとっての冬はそういう季節。

 

 帽子を買ったんだよね。これは本当に珍しいことで、コートとかスニーカーとかならまだしも、帽子って別に必需品ではないじゃんか。あってもいいし、なくてもいい。でも、買った。思うに、自分が初めて能動的に服を買いに行こうとしたのって、三年前の一一月? と思ったら一〇月だった。あるいは、九月かもしれない。たしかに、あのときはちょっと早めに冬服を買いに行ったんだった。どちらかといえば、まだ夏寄りの気候だったような気がする。少なくとも自分よりは服に詳しい友人へお願いして、所望のコートを探しに行って、帰りには鴨川沿いを並んで歩いた。西側の、普段はほとんど歩かないほうの道を。懐かしいな。やばいやばい、このままだとただの回顧録になっちゃう。そう、そのコートを買いに行ったことには明確な理由があって、なんていうか、憧れ? それをうまく着こなしている誰かをみて、「いいな~」と思って、それで自分も着てみたくなって、だから探しに行った。そんなことない人からしたら分からない感覚だろうけれど、自分の中では、これはかなり珍しい心の動き方。少なくとも、ファッションという点においてそういった作用がみられるケースはほとんどなかった(それがあるなら、初めて能動的に服を買ったのが三年前の一〇月なんてことにはならない)。でも、どういうわけだかそれが起こって、急に。で、今回の帽子もそうだった。知り合いにめちゃくちゃ帽子の似合う人がいて、前々から「かっこいいな~」と思ってたんだけど。なんとなく潜り込んだ LOFT で黒のキャスケットが売られているのをみつけてから、そうでもなかったのに何故か欲しくなってしまった。まあ、LOFT では買わなかったけど。こういうのも変化って言うのかな、と思いつつ、ところでこれはかなり好ましい変化だなと思う。自己実現? 結局、内面と外面とのどちらを優先的に顧みるかって話だと思うんだけど、内面についてはもうこの二〇と数年とで散々やった分、綺麗になった部分ともうどうにもならなさそうな部分とがある程度は明確になってきていて。自分自身の思考パターンとか行動原理とか? 与えられた事象に対して、何をどう考えて、どういった行動を起こすのか、みたいなところ。は、それなりに分かっている状態というか。だから、綺麗な部分だけを他人に提供するのは、主観的にはそれほど失敗していないように思う。本当かな? まあ、一旦は本当ということにしておいて。翻って、外面ね。過去の自分にとって目下の急務は内面を片付けることだったわけだけれど、いまはそうでもないから。というので、外面のほうも気遣っていこうという、そういう話になる。内面がめちゃくちゃなときに外面のこととか考えてらんないもんな。ところで、いまはそうでもない。そんなこんなで帽子を買ったはいいのだけれど思いのほか気に入らなかった、……なんてことは全然なく、というかむしろかなりお気に入りの装備と化している。自分の外見に関して、良いとか悪いとか好きとか嫌いとかって考えたことなかったんだけど、帽子を乗せているときの自分はかなり好きかもしれない。2023 年、最も買ってよかったものの一つ。

 

 適切な処置を施せば多少は気が晴れるってことに気づいたけれど、それをやっているということ自体に嫌気が差す。理想の対極に向かって歩いていくような感覚。これだから、誰かのことを嫌いになりたくないんだよな。いや、人に限らず、自分以外の森羅万象。自分にとっては、嫌いなものなんて少なければ少ないほどよくて、だって、嫌いなものがたくさんある世界がどんなにつまらないかはもう十二分に知っている。あんな索漠に逆戻りなんてしたくないし、だから何のことも嫌いになりたくない。嫌なところに目を向けるよりは、それ以上に好ましく思える部分をたくさんみつけたいなと思うし。そういう風に生きていけたらきっと幸せだろうなって思うし。そういう自分でありたい、主観的にも客観的にも。これは、難しい。どうしようのないものはこの世にたくさんあって、たった一言、そのステートメントを受け入れるだけのことがこんなにも難しいなんて。どうしようもないって切り捨てて、それで自分自身は護られるけれど、じゃあ切り捨てられた部分はどうなるんだって。ああ、だから、本当にずっと同じことばかりを考えているんだな。夜を歩く。コンビニの煌々とした灯りに意識がいって、そのままなんとなく廃棄場に目が向かう。それと同じこと。棚の奥の愛読書や埃をかぶったぬいぐるみとは勝手が違う。だって、思い出の中と違って谷底には安寧なんかないし。魔女だっていないしね、この世界には。

 

 朝起きて、外へ出て、空をみて。それでも心が動かなかったら、それが最期だと思っている。逆に言えば、そのくらい単純なことだとも思っている。実際には、単純なものなんかでは全くないということを承知の上で。もっと色んな人のことを愛せるようになれたらいいのにって思う、本当に。