20240310

 

 なんとなく秘密にしておこうかと思ったのだけれど、ということに特別な理由はなくて。まあなんというか、なにかと不定な人間のほうが面白いかなと思って。これは知っている人にだけ伝わればいい例えだけれど、影縫さんとか忍野メメとか、ああいう立ち位置のキャラクターにものすごく憧れるというか。カッコいいな~って思う、普通に。ところで、だよな。有体に言って、本意でないんだよな。その、自分の不定性がどこかの誰かを心配させる要因になっているかもしれないという可能性そのものが。考えすぎ? あるいは自己中心的すぎるかも。でも、なくはない可能性だよな、と思う。というか、何回か訊かれたことあるしな、実際に。その全部がまあ、なんというか、深刻な心配に由来するものと受け取るほどの自分勝手もないけれど。それにしても、と思う。皆無というわけでもなさそうな雰囲気を感じ取ってはいる。というので、隠しておくってのもなんか違うよな……と思う、思った。さっきから何かを思いすぎだろ、同一単語の濫用は避けようね。話を戻すと、だからといって大々的に公言するようなものでもないから、というので、こんなブログなんかにしれっと載せておくことにする。便利だねえ、こういう場所があると。

 

 塾講のアルバイトをやめた。正しくは、まだ契約期間内ではあるのだけれど、とはいえ二月内に後の担当者へ一切を引き継いだため、実質的に三月はもうないようなものとなっている。件のバイトは自分が学部二回生のとき、当時付き合いのあった先輩に誘われて入ったのが最初で、それからなんだかんだ六年も続けてしまった。学生バイトではあるから、六年もいたら最年長なんじゃないかと思われるかもしれないけれど、実はそんなことなくて、自分よりも歴の長い人がまだ上に二人いた。結局、バイト先の人とはあんまり仲良くなれてないな。そもそも話をする機会がそんなにないからあれなんだけど。改めて振り返ってみると、めちゃくちゃ良い労働環境だったなと思う。そりゃまあ、行きたくないな~と思う日もないではなかったけれど、とはいえ、かなり前向きな気持ちで続けられたかな。少なくとも、本気でやめたいと思ったことは一度もないはず。六年も続けていれば色んな生徒に出会うというか、そもそもの話、自分が勤めていた場所はちょっと特殊で。簡単に言うと、何らかの事情で全日制高校に通っていない(通えない)高校生を相手に仕事をしていた。というので、単純に高校生の相手をするという場合よりも、ずっと色んな話を聞いたんじゃないかなと思う。もちろん、自分はそっちの道を通っていないので、想像の上でしか比較はできないのだけれど(まずもって比較自体に意味がないのだけれど)。なんていうか、案外普通なんだよね。あんまり想像の外にはないというか、その、やっぱり自分が不登校とかを経験せずに育ってきてしまっているから。だから、そういう環境にいる(ことを選んだ/選ばざるを得なかったに問わず)子たちのことを、なんていうか、ズレた視点からモデリングしてしまいがちになるのだけれど、でも、実際に当人たちと接してみると本当に自分の、高校生当時の自分とほとんど同一の延長線上にあるというか。そんな感じがしていた、六年間ずっと。もちろん、まあ、大なり小なりの事情があっていまこの場所に来ているわけだけれど、なんか、なんていうんだろうな、こういうの。そのことを悪い意味で特別視するのはなんか違う感じがしたというか、うーん。誰だってそうだよ、ってたぶん一番言っちゃいけない言葉だし、だから言わないし、言いたくもないけれど、でも、誰だってそうだよ、と思いはする。あるいは、誰だってそうだよ、っていつか心から思える日が来たらいいね、と思いながら話していた、他人事のように。自分事じゃないから他人事なのはそりゃそうなんだけど。人間、というと主語が大きいけれど、でも人間、誰だって得意なことと苦手なこととがあって。たとえば、自分は部屋を片付けるのが苦手だし、約束の時間を守るのも苦手。それが得意、……ってのも違うか。得意とかじゃなく、何の苦労もなしにこなしてしまう人だってこの世にはたくさんいるのだろうけれど、でも、たぶんそういう人たちだって苦手としていることがあるはずで。そして、その中のいくつかは自分が何の苦労もなしにこなしてしまえるものなんだろうな、と思ったりする。当たり前の話すぎるって思うよね。そう、当たり前の話すぎるんだけど、とはいえやっぱり高校生くらいまでの頃って、もちろん早熟な子もいる一方で、どうしたって考え方が自己中心的であってしまうというか。これはいわゆる自己中とかの意味ではなくて、原義通りの自己中心的、あるいは天動説という意味で。だって、触れることのできる人間の数が限られてるもんね。インターネットが普及してそんなこともなくなったのかもしれないけれど、でもやっぱりインターネットを介して接するのと生で接するのとだとコミュニケーションの質が(どっちがいいとか悪いとかではなく、単純な話として)違うわけだし。自分という人間のライブラリは日々増えていく一方で、自分でない他者に関する情報はあまり蓄積されないがちな年頃というか、そういう意味で自己中心的。これが、だから大学へ入ったり就職したり、よりもっと多様な人間関係を構築できる(せざるを得ない)環境へ移ったらまた話は変わるよねと思うのだけれど、でも高校生の頃は(一般には)そうじゃないし。というので、難しい時期だよなって思う。そういう状況にある誰かへ向かって、もうその場を脱した側である別の誰かが、誰だってそうだよ、だとか言ったところで何になるんだろう。何にもならないよね、別に。人は一人で勝手に助かるだけ、らしい。本当にそうだと思う。だから別に自分は何もしなかったし、何もしないなりにできることはした、……つもりではある。うまくいっていたかは知らないけれど。だからあとはもう、祈るくらいしかできないな。全員の人生がよりよいものになることを祈るしかない。人生がよくなるっていうのは良い大学へ合格するとか大金持ちになるとかそういうんじゃなくて、ちゃんと納得のいく道を選ぶことができるということ。後悔のない選択とかは無理だと思うけど、というか後悔のない一生なんてたぶんどこにもないと思うけれど、でも、そういうのもきちんと肯定していける、そういう人生になったらいいね、って祈るくらいしかできない。幸い、今年度担当していた生徒の内、受験学年だった人はみんな合格したし、残りの人たちは……バイトをやめる以上どうなるか見届けることはもうできないけど。まあ頑張ってくれや、と思う。俺も俺で勝手に頑張るので、君も君で勝手に頑張ってくれ、みたいな。何様だよって感じ。何様だよって感じだけど、でも、全人類に対してこういうスタンスでありたいなって思う。一人でも多くの人と仲良くなること。それが一生を賭しての自分の目標なのだけれど、でもそれって結局のところ、あとは勝手にしろよって思える人の数を増やすってことだよな~って自分は思うし。あとは勝手に幸せになってね、って感じだ、本当に。

 

 というので塾講をやめたのだけれど、それと同時に就職することにもなった。ワロタ。自分の身近(リアル)にいる知り合いとかはワロタって感じだろうけど、インターネット上でだけ繋がりのある人からすると意味わかんないよね。というのも、大学を出てからおよそ一年間、定職につかずに過ごしていたという話がある、実は。まあ先述の塾講はやっていたのだけれど、逆に言うとそれしかやっていなかった。せっかくそこそこの大学出てるのに勿体ないね~みたいなことを知人の結婚式のときに言われたけれど、うん、いや、分かる。でも、だから、その、そういうのが本当に心底嫌だったんだよな。ところで、まあ、そうは問屋が卸さない状況となってきたので流石にね、という話。就職の運びとなった理由はいくつかあるけれど、たとえば、例の塾講は言っても大学生向けのバイトだったから。自分の知る限り、博士後期課程の人がいたこともあったから、だから最長で九年くらいは在籍できたのだろうし、それに人手が足りているわけでもなかったから厄介払いされることもなかっただろうけれど、でもまあそんなの遅かれ早かれだし。いつまでも留まっているわけにはいかないし。それと、普通にお金の問題とかもある。一人で生きていくならお金とか、まあ別にいいんだけど。何処へも出かけずに霞だけ食べて生きてればいいんだから。でもまあ、そうじゃないし。あとは、将来のこととかか。何事もなければ数年以内に結婚とかしてるのかな~みたいな予感があって、でもそういう可能性を想定する場合、定職についていないというのは流石に問題がありすぎるというか。自分ひとりで勝手に破滅するならそれは自由だけれど、たぶんこれから緩やかに自分ひとりのための人生ではなくなっていくんだろうな、みたいな薄らとした予感。ひとりで勝手に破滅する人生もたぶん面白くて、というか自分はそういう生き方を(意識的なり無意識的なり)選んできたつもりだったけれど、あれよこれよという間にそうではないルートに乗っかっていて。悪い気はしないし、これでよかったとも思うし、自分で決めたことだし。でも、だとしたらそれに見合うだけの、なんていうか、代償を支払う覚悟は必要だよな~、みたいな。代償って言葉はよくないか。でも、代償だしな。とはいえ、なんだろうな。これだけはちゃんと言葉にしておきたいのだけれど、いつかの自分が死んでしまったって感じは全然ないんだよね。昨夜の夜、人とそういう話になって色々考えてみたのだけれど、でも、やっぱりそんな感じはいまのところしない。というかむしろ、ものすごく正しい道へ進んでいるような感じがする。これまでの自分と整合性が取れているというか、一貫性があるというか、少なくとも、何かを殺しながら日々を生きていくようなことにはならなさそうな、そんな予感がある。まあ、一年とか二年とか経ってからじゃないと分かんないってのは本当にそうなんだけど、あくまでいまのところの話。もしもの話、一年とか二年とかが経って自分が闇落ちしていたら、そのときは、じゃあ、どうしようかな。飲みとかに誘って話聞いてやってください。たぶん、それが一番効くので。そんなことにはならないよう努めるけども。

 

 というので、来年いっぱいは京都にいるかな。その次からは大阪に住んでるかも。まだちょっと分かんない。少なくとも関西圏にはいると思う。親しい人間がみんな関東に行っちゃって寂しいので、全員もれなく関西に骨を埋めてくれやと思いながら、ここ最近は生活をしている。勝手にしろよとかって口では何とでも言えるけれど、でも本当に会えなくなっちゃうと寂しいよな、それはそう。直近で有名な方々の死が相次いで、有名っていうか、単に有名ってだけじゃなくて自分が幼少期からよく触れていたような人たちが。なんていうか、他人の死によってでしか死に向き合えない自分が嫌だって気持ちは十二分にあるんだけど、そういうのは一旦置いておくとして、寂しいときはちゃんと寂しくなったほうがいいし、会いたい人には会えるときに会っておいた方がいい。あまりにも当たり前の話すぎる。あまりにも当たり前の話すぎるけれど、それが難しいんだよな。だって、他人だしな。関係ないし、勝手にしろよの精神だし、そしてそれが一番ちょうどいいと思ってもいて。だから難しい。でも、ちゃんと寂しくなるのはかなり上手くなってきたと思う、大学へ来てからの七年間で。要するに、ちゃんと終わらせるということ、だと思う。なあなあにしない。けじめをつける。エンドロールを受け入れる。その白紙から先の景色がどうなるのかは知らない。まあセカンドシーズンがあるならあるで望むところだし、ないならないで本棚の一番奥へ大切にしまっておけばよくて。だから、白紙にビビってるのが一番よくない。よくないなって思う。何の話だよ。寂しさと仲良くなろうねって話。あるいは、冬と仲良くなるって話でもあるし、ペンを折るなって話でもあるか。そういえば、数日前に通りがかった道、もう桜が咲いてて笑っちゃったんだよな。春が来るらしいよ、近いうちに。卒業とか入学とか、別れとか出会いとかの季節がまた来るんだなーって思うと、なんていうか、楽しみだなって思うよね。

 

 この文章を書いている途中にそういえば思い出して、何だっけ。もういつ言われた言葉なのかも覚えてないけれど、「一葉さんにとっての青春の終わりが、自分にとっての青春の終わり」みたいな。なんかの帰り道だっけ、そういう言葉を向けられた記憶があって。いや、でも、だったら終わんないよ。ずっとかは分かんないけど、少なくともまだしばらくは終わんない。終わらせてたまるか。って、つまるところそういう気持ちなんだよね、だからいまは。就職ワロタとかって言いはしたけれど、でもそこにネガティブな気持ちは本当に一切なくて。延長戦なんだよ、だからここから先は。社会性とかって普遍のパラダイムは勿論あるだろうけど、でも別にそこへ収まろうとしているわけでは全然なくて、なんていうか、なんていうんだろうな。言語化が難しいけれど、でも、終わらせる気なんか全然ないということだけは強く主張しておきたい! 二年後とかの自分がどうなっているかは分かんないので、こういうことは言えるうちに言っておく。過去からの声は何も知らないから勝手な事ばかり、って藤原基央も言ってるし。というか良い曲なのでよかったら聴いていってください、BUMP OF CHICKEN の pinkie 。

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 という話で終わりです、今回は。余談、なんやかんやで就活をサボり散らかして最終的に行きついた職業、そこそこ、というかかなり自分の中では納得のいく結論になっていて。これまでの自分との整合性とか一貫性とかって途中では言ってたけど。だから、暇だったら予想してみてほしいかもな、面白そうだし。当てようと思えば全然当てられる範囲内な気がするし、一級問題かもだけど。