20230602


 最寄りのスーパー、自動化されたレジ、受け取られないままで放置されたレシート。なんてことはない。いつもよりもちょっと長い、倍の長さくらいのレシートが手元に出てくるというだけの話で、そもそも自分はレシートを持ち帰らない。捨てるだけなら手間は変わらず、長さがどうかなんて関係ない。ところで。ところで、何とも思わないわけでもないなと思う。嫌、というと少し違う。当然ながら、怒りとかでもない。この感情はいったいなんだろうな。別に名前なんてなんだっていいけれど、なんていうか、なんだろ。「ああ、自分のひとつ前にこのレジを使った人は、次にここへ来る人について何とも思わなかったんだな」と思う。理由は、まあ色々とあるか。帰りを急いでいたのかもしれないし、上で言ったように手間は変わらないのだから放置しておいても問題ないだろうと考えたのかもしれないし、あるいは単に他の人のことを考えられない人なのかもしれない。自分には知る由もないこと。倍の長さになったレシートを受け取り口から切り取りつつ考える、もし三つ目だったら嫌だなあ。自分がよければそれでいいという考え方、あまり支持できないんだよな。そりゃまあ、大なり小なりみんなそうだろうし、自分だってそうだけれど。でも、そうやって自分の視界には映らない周囲の様々を切り捨てていって、そうして最後に残るものって恐らくは底なしの孤独だろうしな。それでいいなら、それはそれでいいけれど。自分はそうはなりたくない。そうはなりたくないなって思う、放置されたレシートを自動レジから切り離すたびに。

 

 自分のことを理解してくれる人なんて誰もいないな、と本気でそう思っていた時期がある。あった。あったはず。あったはず、と思う。言葉を濁すわけは、本当にそうだったかどうかを疑ってしまうくらいには、そういった考え方をする自分自身の存在が曖昧になっているから。世界中の全員がまるで敵みたいにみえていた頃が、たしかに自分にもあったはず。ところで、当時の自分はそんな状況にありながら、周りの人間のことを敵だとは思っていなかったし、つまり自分の状態を客観視することができていなかった。なので、まあ他の人たちもそうなんだろうな、と思う。そもそもの話、本当の意味で『自分のことを理解してくれる人』のいる人なんてこの世界のどこにいるんだろうみたいな話はあるけれど、そこまでは広げなくていい。もっと、小さな枠組みでの話。理解されない理由は人や状況によって様々あるはずで、でも、どうなんだろう。自分が誰に理解されなかったとして、相手のことを理解しようとする姿勢を放棄してしまったら終わりだよな、とは思う。相手のことを理解しようとする、ということの意味を正確に定義することは困難だし、ここで発生する行き違いもこの世には無数にあるだろうけれど。ただ、そうだとして、自分でない他人のことを諦めてしまったら、自分のことを諦めないでいてくれる人に出会うことのできる確率ってものすごく下がってしまうような気がする。そうでもない? ……ああ、ちょっとだけ前提が抜けてしまっているので、その補足。『相手を理解する』って『相手を諦めない』とほとんど同義と思うんだよな。だって自分じゃない他人のことを本当の意味で理解することなんてできるわけがないし、もし仮にそれが果たせたと思う瞬間があったとすればそれはただの驕りだ。少なくとも、自分は自分にそう言い聞かせている。叶うわけではないし、楽なわけでもないし、というかそれを投げ捨てたって生きていく上で大きな不都合が生じるわけでもない。それが、自分でない他人を理解しようとする行為そのものの性質だし、だから、それでも続けようとするその姿勢は『諦めない』と表現してもいいよな、という話。話を戻す。ところで、どうなんだろうね。自分は、自分のことを諦めないでいてくれる誰かに出会いたかったし、だから他の誰かのことも諦めたくなかったから。覚えてる、二回生か三回生かの頃、深夜の百万遍すき家に四人くらいで集まってそういう話をした。だから、そういう風に思うというだけで、案外、色んなものを諦めていった先にも幸せの類は転がっているのかもしれないな。それは自分にとっての幸福ではないというだけで、万人にとってのそれではないということにはならないし。だからまあ、結局はそれだけの話か。

 

 最近ブログをあんまり更新しなくなったね、と言われる。言われて、過去これまでの更新履歴を辿ってみたけれど、月に 2,3 しか書いていないことなんて、この五年間で別に珍しいことでも何でもなかった。なので、数字としてどうこうというよりは体感としての話。自分としても、あんまり書かなくなったな、とは思う。書かなくなったというより、書こうという気持ちがあまり起こらなくなった、のほうが近いかもしれない。でもこれは、主観としてはとても自然な心の動きでこのようになっているような気がしていて、いやまあ実際に考えてそうなったってわけじゃないんだけど、後付けの動機として。このブログの目的については開設当初の記事に記載されていて、恥ずかしいから誰も読まないでほしいんだけど、要約すると、友人がほしかった。ここでいう友人は辞書通りの意味ではなくて、なんだろうな。それこそさっきの話と同じで、自分のことを理解しようとしてくれる人に出会いたかった、が近いか。自分に少しでも興味を持ってもらえるように、くらいの表現でもいい。誰が読んでいるのかなんて知らないし、そもそも別に読まれたいわけでもなく。感想なんかいらなくて、ただそういう場所があればいいと思って。大学に入ってからというもの、本当に様々な出会いがあって、様々なものを自分は受け取って。六年間の、まあブログを書き始めたのは二回生の五月だから実際は五年だけど、その流れの中の大きなところにこのブログがあったんだな、ということを卒業シーズンの周辺で実感して。だから、ブログを書こうという気持ちがあまり起こらなくなったのは、端的に言うならお役御免という、そういうポジティヴな話だと思っている。実際がどうなのかは知らないけれど、後付けの動機としてはこんなところ。役目をしっかり果たしてくれたんだな、っていう。なので感謝すべきは、昔の自分か。何の役に立つかも分からないのによくもまあ書き続けてくれた。そのおかげで素敵な人たちと何らかの縁を持つことができたんだと思うと、いつかの自分が選んだ『諦めない』という選択は正しかったんだな、と思う。生存バイアス。だとしてもいいか、別に他の誰かに同じことをやれとかって言いたいわけじゃないんだし。ほんと、ここまで書き続けてきてよかったなって思う、感情墓地とかいう意味不明な名前のブログに対して。さっきも言ったように書き始めたのが二回生の五月で、だから実はしれっと六年目に突入してるんだけど、このブログ。実際のところ、いつまで続くんだろうね。飽きるとかあるのかな。それと最近、言葉にしたいな~と思うことが思索の類というよりは自分の近辺状況にまつわることばかりで、だから却って何も書けないという状況に陥っているという話もあるにはあって。どうなんだろうな、これも。もうちょっとプライベートなことも文字に起こしていけたら、それはそれで面白いのかもしれない。

 

 

 

20230516


 小学生の頃、あるいは中学生でも構わないけれど、風邪で学校を休んだ次の朝の教室へ足を踏み入れた瞬間の感覚を思い出すことはもうできない。そもそもの話、自分が記憶を捏造していなければ、学校を休むようなことは一年に一度あるかないかくらいだったはず。高校生の頃はもう少しあった、三ヶ月に一度くらい。つまりはその感覚を覚える機会自体が滅多になく、だから思い出せないとしてもおかしなことではないだろうとも思うのだけれど、ところで思い出せないものは思い出せず、なんていうか、ちょっとだけ寂しい。自分が将来家庭を持つことがあったとして、子どももいたとして、いや、その仮定に意味なんてあるか? と脳内人格がしきりにツッコんでくるけれど、そんな一切は一先ず置いておくとして。仮定の話だって言ってるだろ。で、まあそういった状況になっていたとして、時間軸上、現時点からみて未来側に立っているいつかの自分が。それが果たしていつになるのかまでは考慮する必要がなく、とりあえず明日とか一年後とか、そういった規模感でないということが重要で。となれば、それほど時間的に先へ進んでしまったいつかの自分は、風邪で学校を休んだ次の朝の教室へ足を踏み入れた瞬間の感覚を、思い出すことができないということさえ思い出せなくなっているのではないか、という危機感がある。危機感、はちょっと違うか。なんか、各々で良い感じの表現に読み替えてほしい。とにかくそういった感覚があって、いやまあ、忘れたことを忘れたままで生きていられるならそれはそれでいいのだろうけれど、だからここで仮定の話へ戻るとして、自分の子どもがその、休んだ後の教室に漂う疎外感にも似た何かについて言及してきたとき、そしてその感覚の存在をいつかどこかで手放してしまったことを自覚させられたとき、いったいどんな気分になるんだろうなっていう。懐かしいと思うかな。思わない気がするな。だって、思い出せもしないものに対して懐かしさも何もない。ああ、そう、だから、そういうのが寂しいなって思う。たしかにあったはずなんだよな、なかったはずがないから。でも思い出せない。喧嘩の後の気まずさとか、仲直りの仕方とか、通学路とは思えないくらい狭い路地とか、授業を聞かずに書いていたノートの中身とか、放課後の誰もいなくなった校舎とか、中途半端に破られた選挙ポスターとか、友達と遊びに出て帰りが遅くなってしまったときの焦燥とか、灯りが少なくてやたらと薄暗かった帰り道が怖かったこととか。かろうじて記憶に残る当時の行動や出来事を振り返ると、そういう感覚はたしかにちゃんとあったはず、なのに。やったこと、その出来事自体を思い出すことはできても、その瞬間の最大風速的な感情を思い出すことまではできない。最近考えていたことの一つ。これまではずっと逆のことを考えていた。瞬間最大風速的な感情を忘れてしまったとしても、それを自分に与えてくれた出来事のことはいつだって思い出せるから、みたいな。『ステラグロウ』とか『リスティラ』とかが露骨にそうだし。ところで、その気持ちはいまも全く損なわれてなんかいないのだけれど、そこに一切の寂しさが伴わないというわけではないんだよな、という話。というので、自分の中にある気持ちは何であれ、別に人の目につく場所である必要はまったくないけれど、ちゃんとメモしておかないとダメだなと思うなど。ここ最近、ブログをサボりがちだったから尚更。いや、サボろうと思ってサボってたってわけでもないんだけど。水道の蛇口へ手が届かなかった頃のことは流石にもう思い出せないけれど、たとえば数十年後の自分がいまの自分と同じことを考えたときに、その手助けになれるくらいの何かは残せておけたらいいな、と思う。

 

「何者かになりたいと思ったことってある?」。およそ四年前に書いた小説(もどき)の書き出しへ思いを馳せる機会が、五月中のどこかにあった。これは高校生当時の自分にあった問題意識の言語化。いま読み返すと、「自分の文章だな」という気持ちが半分、「懐かしいな」という気持ちがそのさらに半分、「いまの自分じゃ書き切れないだろうな」という気持ちが残り全部。書けないだろうな。別に、いまだって『何者か』になってしまったというわけではないと思うけれど、でも、高校生の頃よりは、あるいはそれを書いた学部三回生の頃よりは、ずっと『何者か』としての要素を手に入れてしまっているような。それ自体は喜ばしいことで、なんていうか、ちゃんと報われてきたんだなと思う、色々な様々が。でも、いや、別にそんな当たり前の言い回しをさも得意げに持ち出して、そうして何かを言ったような気になりたいというわけではないのだけれど、でも、何かを手にいれるってつまりは何かを手放すことなのか、とは思う。この小説を書いた当時の自分へはもう戻れないし、いや、未練なんてないけどね。本当に一切ない。ただ、ちょっと寂しいなと思うだけで。だから、なんだろうな。中学の頃に親しくしていたアイツと久しく会ってないな、くらいの感覚。たまにあるいはごく稀に、会いたいなと思う瞬間があるし、顔を合わせて話してみたいこともそれなりにあるっていう、そういう距離感。分かるかな。これを書いたときの自分が何を考えてたのか、普通に気になるんだよな。だって、44,000 字もあるんだよ。信念とか決意とか、そんな大それたものは特にないかもしれないけれど、でも、何かしらはあったんだろ、きっと、当時の自分なりの何かしらが。いやでも、もう覚えてないんだよな、残念ながら。マジで、こんなことならもうちょっとブログで自分語りしておくんだったな。作者が作品のことについてべらべら言及するのってあんま良くないかな、と当時は考えていたということもあって、本当に書いた直後の生の感覚、みたいなのが一切言語化されてないんだよね(半年くらい時間を置いてからのものならいくつかある)。んー、寂しいな。寂しいなって思う。地元の友人へはさ、地元に帰れば会えるじゃんか。じゃあ、すっかり置いてきてしまったいつかの自分とは、どこへ行けば会えるんだろうね?

 

 

 というので、忘れないうちに『夕景、紛う、白昼夢』の曲想まわりの話だけ書き残しておくか。こんなところまで読んでくれた人がいるかは知らないけれどいたとして、まさか、これだけ思索的な文章が羅列されまくった後に作品の話が始まるとは思ってもいなさそう。何故なら、自分でも思っていなかったので。ブログ、基本的に書く前から書く内容を決めてたりってことはなくて。白紙のワードパッドを立ち上げて、そこから気の向いたようにつらつらと書く、みたいなのが基本のスタンスなんだよね。なんか、それで今日は「以前の感覚を思い出せないのって寂しくね」みたいな方へ話が向かったから、だからせっかくなので直近の作品に関しての話を残しておく。というか、こんな付録的にでなくとも、そのうちどこかのタイミングでは個別に記事を書くだろうと思うけれど。

 以下のリンクから試聴・購入することができます。

mirinn.bandcamp.com

 これは歌詞。

note.com

 

 曲名を思いついた直後は「もうこれしかない!」と思った反面、こんな長ったらしい名前をつけちゃってどうしような、と考えていたけれど、某後輩が早々に『白昼夢』という呼び名を与えてくれたので、今後はそれでいこうと思う。白昼夢はイントロ( A メロ)のメロディが先にあって、頭から順に展開する感じでコードワークが決まっていった。その原案が生まれたのは 2022 年 10 月 15 日の深夜 3 時頃で、MIRINN 2nd Mini Album "stella" の制作で立て込んでいたはずのときにいったい何をやってるんだという感じ。息抜きで鍵盤を鳴らしていた良い感じのフレーズ(先述のイントロ部分)が降ってきて、それで忘れないうちにさっさと midi へ書き起こしたという、たしかそんな経緯だった。

 音楽面での話は一旦いいや。曲想について。リリース当時に数人が察していたように、あるいは既に自分が何処かで一度言及したように、この曲はアナザーパレーシア(と自分が勝手に呼んでいる作品)を受けてのものだった。

kazuha1221.hatenablog.com

そもそも『星降のパレーシア』という、自分を含む数人(のくたべさん(先輩)、なずしろさん(後輩))で制作した楽曲があって、それを基にして書かれた短編もどきが『アナザーパレーシア』と自分が勝手に呼んでいる、上のリンク先の作品。さらにそれを受けて作られたのが『夕景、紛う、白昼夢』という楽曲で、もはや何次創作だよという感じ。音楽→文章→音楽のダブルコンバートは初めての経験だった。

 アナザーパレーシアの初出は 2022 年夏の大例会パンフで、ざっくり説明すると所属サークルの合宿に際して有志により制作された冊子、それに向けて書き下ろしたものだった。その大例会が開催されたのが 9 月末のことなので、10 月 15 日にラフが生成されているのは結構なスピード感ではある( 10 月頭は某感染症修論で倒れ伏していたし)。この頃、はるまきごはんというアーティストが(自分の中では数年前からずっとそうなのだけれど、この時期は特に)かなりアツく、ところではるまきごはんの作風の特徴として「ある二人の関係を楽曲を通じて描く」というものがあり(ふたりのシリーズとか幻影シリーズとか)、そこに影響された側面はかなり大きい。でないと、アナザーパレーシアを基に曲を作ろうとは考えなかったと思う。

 短編には佐々木、由夏という二人の登場人物がいて、作品の語り手は後者、由夏のほうだった。ところで、佐々木目線の物語もちゃんと描いてみたいという欲求は、短編を書いていた最中からずっとあって、それがどういった媒体になるのかまでは想像していなかったけれど。『安達としまむら』も『やがて君になる』もそうだし、なんなら過去作品であるところの『ステラグロウ』と『cor』の関係もそうなのだけれど、特定の二人の関係性を描くとするなら、両者どちらの目線からも物事を描写してくれると嬉しい、みたいな話があって。なんていうか、架空といえども人間なのだから、共通の事象に相対したとして全く同じことを考えて全く同じように行動する、なんていうことはあり得ないわけで。むしろ、関係性を描くということは、つまりそこの差異を描くということなのでは、という気もする。つまり、A は B のことをどう思っているのか、B は A のことをどう思っているのか、その両方をできれば知りたいということ。なので、『夕景、紛う、白昼夢』の一人称は佐々木の人格を想定することとなった。この点に関しては深く考えたとかではなく、最初からそうなっており、後から理由を無理矢理こじつけるならこういうことかな、というやつ。

 コードとメロディだけがあった段階ではもうちょっと爽やかな曲になる想定で、あれほどまでに短調感を前面へ押し出した完成形になるはずではなかったのだけれど、でも、上に書いたような諸々が自分の中でかちっと決まって、「あの一件に対峙した佐々木の心情か~」と考え始めた途端、コードワークは自然と暗いほうへと寄っていった。歌い出しの IIm7 - VIm7 もラフの時点では IVM7 - VIm7 だったのに。でも、アナザーパレーシアによる救済が入るまでの佐々木の内心ってたぶんあれぐらい、というかあれ以上にもっと濁っているはずだし、かなり正解だった。はちゃめちゃにカッコいいギターソロを MIRINN のギター担当であるところのりっか君に弾いてもらったわけだけれど、たとえばあの音もこの楽曲には欠かせないものであって(なので、期待通りどころか期待以上のギターソロを出力してくれたりっか君マジ感謝という話でもある)。曲想的に、という意味。短編の中で、語り手である由夏が「凪いだ水面のような、佐々木のような夜だった」と表現する場面があるのだけれど、あのギターの音色を聴けば、佐々木の内面がいったいどういう状況になっているのかなんてわざわざ歌詞に起こす必要さえなくて。そんな感じで、全部の要素が一体となっている作品を作りたいな~という意識が(自分の作品の中では)特に強く顕れている曲だと思う、白昼夢は。

「太陽を夜が砕いて、そうやって八月は終わるんだ」という歌詞をかなり気に入っていて、恐らく、ここ最近書いた歌詞の中でも一二を争うくらいには。佐々木目線で描かれた白昼夢の中に登場する台詞はすべて由夏のものなのだけれど、いかにも由夏が佐々木に対して言いそうなことを、そして佐々木が由夏のことを思い出すときに一緒に出てきそうなくらい象徴的な言葉を、歌詞という形に起こすことができたから。これは自己満足的なお気に入りポイント。いや、創作ってだいたいの部分が自己満足だけども。たしか、このフレーズを思いついたときは祇園四条の交差点を歩いていた気がする、のでバイト帰りかな。自分の感覚として、夏は太陽が夜に砕かれて終わりを迎えるし、逆に冬は太陽が夜を砕くことで幕を閉じるって感じがする。しません?

 佐々木と由夏が再び出会ったことへの意味付け。そういう意味で、アナザーパレーシアの後始末(前日譚だけど)。『夕景、紛う、白昼夢』でやりたかったのはそういうことだった。パンフのときは時間が足りなくて「いや、この二人について書けること、他にもっとあるだろ~~~」とおもっていたので、それが果たせてよかったなと思う。

佐々木は張り詰めた水面のような少女だった。とても綺麗で、澄み切っていて、だからこそ些細なきっかけ一つで大きく揺れ動いて、二度とは戻らなくなってしまいそうだった。ぴたりと凪いだ海と同じくらいに奇跡的で、あまりに現実味がない。それが彼女、佐々木深冬に対する印象のすべてだった。

これは同短編における佐々木に対する由夏の評価の一つだけれど、白昼夢という楽曲の存在自体が、由夏がどれほど真っすぐに佐々木のことをみていたのかということの証明にもなり得るよね、という話で今回は終わり。結局、一番やりたかったのはそれだったのかもしれない。

 

 

 

20230413


 最近考えていたことについて色々。

 

 自分の身に何かが起きたとき、真っ先に話を聞こうとしてくれる人とか、自分のために怒ってくれる人とか、何気ない感じで声を掛けてくれる人とか。あるいは、そうして自分に伝わる形でなくとも、目にみえないところで何かしらを思ってくれている人なんかが一定数いて、その存在に気づくたびに、信じられないな、って気持ちになる。その一人ひとりに対して、自分が覚えたような感覚には遠く及ばないけれど、でも、出来る限りで感謝の意を伝えていきたいと思うし、また同じように、自分からも少しずつ返していけたらいいなとも思う。

 

「優しい」という言葉の定義に迷う。優しい人、優しくない人、というのは多分いない。どんな人であれ、多かれ少なかれ両方の属性を有しているはずで、月の裏側、二面性の問題。ところで、優しいと思う人、優しくないと思う人、これはどちらもいる。表と裏、現状そのどちらが自分の目に目立ってみえているか、という話。両者を天秤にかけて考える、やっぱりできるだけ肯定的に生きていたい。否定的な定義に飽和した、そんな殺風景な世界を生きていたくはないんだよな。優しくないものを定義して、その補集合としての優しさに甘えたくないというか。「この人は優しい」と思える人の優しさをちゃんと受け止めて、自分なりに理解して、その補集合として優しくないものを定義しておきたい。だって、そうしたほうがこんな繰り返しの毎日はもっと楽しくなるということを知っているから。だから、どんなに迷ったとして、「優しい」という言葉の定義を諦めたくないし、その気持ちを手放したくない。

 

 とても楽しみな予定があって、なのに動けなかった。端的に最悪だったし、いまも普通に引き摺っている。月の裏側なんて知ろうとしなければいいのに。全然関係ないけど、『認知が歪んでる』ってアレ、人類史上最悪な言葉の一つだなって思う。その一方で、他者に対してそういった印象を持ってしまうときが少なからずあって、そのたびに「ああ、自分も同類なんだな」って思う。自分がいかに優しくない人間であるかなんて重々承知の上、だから隣にいる誰かの優しさをちゃんと理解しようとする人でありたいと思うのかも。と、関係なくはない話に着地した。確証バイアス。「そんなに嫌ならみなきゃいいのにね」。分かる。というので、自分は博愛からはずっと程遠い場所にいる人間だなって思うし、九割九分は自分が悪いって、だから本気でそう思ってるよ。被害者面とかじゃなく、本気で。

 

 あからさまに返事の決まりきった台詞を繰り出すことで、いま隣に座っている誰かはいったいどんな気持ちになるだろうなって思う。少なくとも良い気分はしないはずで、だから、そういった発言をするたびに、いま自分はこの人のことを困らせているな、と思う。「実際に相手がどう考えているかは本人しか分からないじゃん」というカウンターは至極真っ当と思うけれど、でも、感情的な事象が問題になっている場面にそんな理屈めいた指摘を繰り出したところで何の救いにもならなくない? それを言われると、実際、相手がどう思っているかを気にしているんじゃなく、「相手にこう思われたら嫌だ」って自己保身を考えてるだけですけど、ってところまで追い詰められることになるし、言われた側はさ。いやまあ、実際のところ自己保身だよね。嫌われたくない、面倒だと思われたくない、突き放されたくない。相手に不快な思いをさせたくないとかって表層を掘り下げていくにつれて、そんな自分勝手と幼稚さが嫌なくらいに見え隠れする。嫌な話、もう二五らしいけど。曇り空の海を眺めながら、そういうことを考えていた。

 

 どうしても好きになれない本がある、一つだけ。購入してはいないし、今後もするつもりはない。けれど、どうやら特定の界隈で人気のある書籍らしくて、大きめの書店に行くとそれなりに目立つポジションに何冊か積まれている。ので、目につく。時間を持て余した河原町丸善、そういえば冒頭のページをいくつか流し読みしたくらいだったっけ、と思い手に取ってみた。それがミステリーでもない限り「はじめに」と「あとがき」の二つをとりあえず読むという癖のままにページをめくって、やっぱり好きになれないな、と思ってしまった。嫌いなわけではないし、この世からなくなってほしいとも思わない。一つの側面ではあるのだろうし、なんなら自分なんかよりも真実にずっと近い立場から描かれたものだろうとも思う。でも、と思ってしまうよな。ありがちな感動譚に集約されてしまった、自分のよく知っている誰かの物語。そうして切り売りされた商品へお金を払って、仕組まれたような感慨に溺れている人がいるという事実。馬鹿げてる、そんなの。シンデレラだってメロスだって、あれはどこまでいったって架空だから、でもそうじゃない。いまもちゃんと生きてるんだよ、お前らが勝手に感動物語の登場人物に仕立て上げたその誰かはさ。って思う、何の関係のない話だけれど。

 

 眠る前、一人きりだなって思うとき、不意にその言葉を思い出してぞっとする。そんなことを繰り返すたびにいっそう嫌いになって、そういう自分自身もまた同じくらい嫌いになる。嫌いなものを嫌いなままでいたくない、と思う。いつかの自分みたいな、しょうもない人間に戻りたくないから。なんていうか、世界は素晴らしいものなんだって心の底から信じられるだけの要素を、繋がりを、こんなにもたくさん与えられていて、なのに疑ってしまう夜があって。そういうとき、めちゃくちゃ会いたいなと思う。転んだら手を差し伸べてくれる人がいて、雨に降られていたら傘を差し出してくれる人がいて、何がなくたって一緒にいたいと言ってくれる人がいて。どんな強く疑ったところで、それらは全部たしかな事実だし。たった一度の耳鳴りなんかに搔き消されてたまるか、と思う。

 

 付き合う相手を選びましょうって、ものすごく傲慢な言葉。そうして選ばれなかった相手のことを、切り捨てられた存在のことを一切考慮していないという点において。ところで、どんな残酷でもそれが現実なんだよな、どうしたって。どうにもならない。

 

 空いた穴を塞ぐような、いっそ溢れ出してしまうくらいのもの。本当に、どうしてこんなにも面倒な構造になってるんだろうって思う、自分の頭に対して。本当にめんどくさい。なんていうか、ごめんだけど、どんな夕立に降られたところで揺らぐことなんて何もないというか。あいにく傘を持ち合わせていなかったとして、であれば傘を差し出してくれる人がたしかにいて。だから、どんな不幸を描かれたところで申し訳ないけれど。怨み言なら地獄へ落ちた後でいくらでも付き合うから、だからいまは少し黙っていてほしい。

 

 純粋な高鳴りを忘れないままでいたい。ささやかな幸せを見逃したくない。隣にいる時間を当たり前と思いたくない。どれも同じステートメント。できることならそんな一生でありたいと思うし、そしてその風景を一緒にみようとしてくれる人たちのことをこそ正しく大切にできるような人になりたいって、心の底からそう思う。

 

 

 

花、卒業、秘密の在処


 家へ帰る。机の上へと目が向かって、それから「花って、本当に枯れるんだな」と思った。事実として知っていることと、経験として知っていることとは全くの別物。2023 年が始まって以降、何度も実感しているはずのそれをまた繰り返す。花って、本当に枯れるらしい。そういえば、小学生の頃に種を植えて持ち帰ったあのアサガオも、最後には結局枯れたのか。思い出せないな。少なくとも、当時はこんなことを考えもしなかったということだけが確か。最近は家にいる時間のほうがはるかに少ないような、そんな感覚、たぶん間違いじゃない。だからってわけじゃない、ずっと家に閉じ籠っていたところで変化なんて見分けられなかったに違いないけれど。あんなに綺麗だったのに、けれど、ほんの数日ばかり目を離していたうちに明らかに枯れてしまっていた。ちょっと、いや、かなり。かなり信じられない、かもしれない。本当に、太陽の下、あんなにも鮮やかにみえたのにな。いや実際に、あの切り取った一瞬においては本当に綺麗だったし、それは偽りじゃない。花瓶だなんて高等なインテリアが自身の下宿に用意されているはずもなく、ところで飲み切ったジュースの瓶(緑色で綺麗)が濯いだっきり棄てるのも億劫だからとシンク横に放置されていて、おあつらえ向き。あの形状がこれまた思いのほかちょうどよくて、渡されたブーケに収まっていたのとほとんど同じ形のままで、部屋の一角にちょこんと居座ることとなった。ちょっと勿体ないことをしたかもな、と思う。折角の貰い物だったのに、ここしばらくは外出続きの日々で、なんていうか、なんだろ。香りとか、色とか、そういうの。そういった、不可逆な対象へと意識を向けるための時間を取ることがあまりできなかった。そして、そんな花束は、気づけばもう枯れてしまいそうになっている。ぱっと見た感じ、まだあと数日はもつだろうという気はする。いつかのタイミングで好きだと言った薄紫色の、名前の知らない花。思うに、そこは流石の伏線回収力だった。明らかに普段の会話のレールから逸れた尋ね方だったから、だからなにか裏があるんだろうとはそのときから勘付いていたけれど、でも、それにしたって二ヶ月も前の話。その会話があったこと自体、渡された花の色に意識が向かうまではすっかり忘れてしまっていたし、その色を認識した瞬間に全部を思い出して、だから「してやられた」とも思った。用意周到すぎるんだよな、いつもいつも。そういうところはずっと前から変わらない。机の上。みると色素がところどころ抜けていて、なによりも花弁が心なしか俯いている。勿体ないことをした、かもしれない。この時期は一週間くらいでダメになる。話には聞いていたけれど、実際、誰がどうみたって近づいている、明確な終わりが。人間だって、と思う。過度な一般化はよくない癖。なんていうか、抽象的な思考に一度馴染んでしまうと、眼前の事象をなんでもかんでも手あたり次第に一般化しようとしてしまう。個々の事象は個々として発生しているのであって、一般論への拡張は事態の側面を却って曖昧にしてしまいがち、とはいえ。人間だって、人間だってそうか、と思う。寿命とかって、だってそうだもんな。事実としては知っている、どんな生命にだって終わりはある。ところで、事実としてしか知らない。少なくとも自分は、これまでに親しい人間の死を体験していないし。それに、仮にその経験があったとして、それはその個人に限った体験でしかないという話もある。親しい相手だろうが、ちょっとした顔見知り程度の相手だろうが、それが誰であれ、死という経験は一度しかやってこないわけで。どうなんだろう、そのたびに「人って、本当に死ぬんだな」って思うのかな。「そういえば、何年か前、〇〇さんもそうだったっけ」とかって、いつかのアサガオと同じみたいに。もっと時間を作ればよかったとか、いやでもそんなこと言ったってとか、そんな風に。終わりがあるものを、だからこそいま大切にしろとかって簡単に言うけれど、でもそれって全然簡単なことじゃない。言うは易く、ってやつ。だって、花ひとつをとったってこうなんだし、いや、これは自分の経験値がただ不足していただけかもしれないけれど。だから、なんていうか、ちゃんと胸を痛めていたいなって思う。自罰とかっていうんじゃなくて、なんだろ、感傷? ちょっと違う、いや、違わないか、どっちだろ。こういう感情のささくれを見逃さないでいたいっていう、伝わるかなあ。全然賢くなんかないんだよな、少なくとも自分なんかはさ。これは嫌味でも自虐でもなく、純然たる事実だけれど、だけどそういう意味でもない。花がいつか枯れることさえ知らないし、人がいつか死ぬことなんてもっと知らない。花は繰り返せば学習できるかもしれないけれど、さっきも言ったように、人の死は個々人との関係の間に在るという点において一度きりだし、学習なんてできない。商店街の、その年の交通事故による死亡者を計上した数字を眺めて、じゃあその三桁だか四桁だかの現実で、たとえば愛する誰かにもいずれ死が訪れるという事実を受け止めるに足るだけの何かを得ることができますかという話。無理だと思う、試してもないけれど、でも、試すって言ったってどうやって試すんだ。だから、見逃さないでいたい。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。その意味で自分は賢者ではないということを忘れないでいたいっていう、だからさっきのはそういう意味。何千、何万の客観的事実を並べられたところで、結局のところ、身をもって経験するまで本当のところなんて何も知らないんだって自覚。花が枯れるのをみて、「花って、本当に枯れるんだな」と思って、人間も同じだよなと思い出して、それから少しだけ寂しくなって。だから、そういう一瞬の感覚を忘れないままでいたい。忘れないままでいたいなって、そう思う。そう思って、だからメッセージをひとつ飛ばしてみた。特定の場合を除いては一瞬で返信が来るということを知っていて、ところで今日は来なかった。「さては寝てるな」と携帯を枕元へ投げて、それから花瓶の水を換えた。意味なさそうと思いつつ、ところでその薄紫を少しでも長い間みられるならその分だけ嬉しいから、だから、これくらいの手間はなんてこともない。

 

 三月中、全然ブログを書かなかった。三月はサークルの追いコンに始まり、広島旅行、卒業式と大きめのイベントがいくつかあって、それに加えて宅呑みや深夜徘徊といった小さめのイベントも複数あり、なんだか思い返せばずっとばたばたしていたように思う。そのうち文字に起こそうと思っていたものも、時を経るにつれて自分の内側でいい具合に消化されていき、そうこうしている間にタイミングを逃す。三月ライブとか、本当は忘れちゃいけないはずのものがたくさんあったと思うんだけど。でもまあ、あれはメモ帳へ起こしてツイートしたから、あれはあれでいいのか。卒業式の日の話だけ、最後に少し書いておこうかな、備忘録の意味も込めて。深夜、日付を跨いだ頃、google drive の URL が唐突に送信されてきた。驚いてリンクを開くと、.wav ファイルが 3 つ置かれていて、けれど、その内容が何であるかは開かなくても分かった。自分が、自分だけじゃないな、彼の演奏は色んな人が好きだと言っていた、きっとそれだ。合計時間にして、何分くらいだ、30 はたしか越えていたと思う。ライブの後のあの時間が好きだったんだよなって、数年後とか、あるいはもっと先でも、そんなことを話していそうな気がした。次の日が早かったから、残りは翌朝の道中へ預けることに。道すがら、在学中は着る機会のなかったスーツで、イヤホンと一緒に。.wav ファイルの途中、『スカイブルーナイトメア』と『アオルタ』がごっちゃに演奏されていて面白いなと思いつつ、そういえば、と思い出した。そういえば、自分が初めてちゃんと完成させた歌モノであるところの『スカイブルーナイトメア』は、吉音 OB であるところの霧四面体さんが制作した楽曲『アオルタ』を下地にしている曲なんだった。だから BPM もキーも同じ。そりゃ、同じ流れで演奏しようとしたらごっちゃになる。ポップス人格としての自分の音楽人生は霧四面体さんとの出会いから始まったという部分が少なからずあり、そしてそれはちょうど六年前の今頃、初めて行った吉音の新歓でもらった大吉音 14 というアルバムがきっかけだった。あんまりに卒業の日に相応しすぎる感慨があって、なのでツイート。霧四面体さんが反応を返してしてくれて、これもかなり嬉しかった。時の流れ~。過去から未来、他の誰かから自分、そして自分から他の誰かへと、いろんなものが繋がっていくような感覚。式の会場へは一時間半ほど早く入場したものの、あまりに早すぎた。『京都大学大学院学位授与式』と書かれた看板をボケーっと眺めながら、「そういえば、自分って京大生だったのか」とか「京都大学って名前、今更ながらめちゃくちゃかっけえな」とか、どうでもいいことを考えているうちに式は始まった。終わって、同期のらくのと合流。謎に写真撮影の列へ並んでしまうが、本当に謎だったので途中で抜けて適当なところで写真を撮った。最後にちゃんと会えてよかったなって思う、こういうのを、だから忘れないでいたいって話をさっきもした。それから、さらに別の人と合流。思えば、この人にとっては初対面で、自分にとってはよく知っているという相手を交えた三人で行動をするのはこれが二回目。自分はかなり美味しいポジション。ところで、これは自白しておくと自分も微妙に浮足立っていて、前半は会話の空気感をいまいち掴めていなかった。ところで、自分が途中一時間ほど席を外すタイミングがあったのだけれど、その間に二人はすっかり打ち解けていた。凄すぎだろ。また、その隙に大学同期であるところのしぶりん(個人名)と合流。積もる話がありまくるけれどすぐに先の二人と合流しなきゃいけないという自分の状況を鑑みて、別日の夜に会話の場をセッティングしてくれた。マジで良い奴。「世界中の善意を寄せ集めて溶かして鋳型へ流し込んで生まれたよう」という人物評を下したことがあるけれど、いまでも割とそう思っている。思うに、一番最初に仲良くなった大学同期が自分にとってはしぶりんだったし、それで本当によかったとも。その後、先の二人と合流し、晩御飯を食べ、解散。その後、三条でまた別の人と会って、それから鴨川散歩へ。いい天気だった。空気は澄んでいたし、気温もちょうどよかった。これからどうしようねって話をしたり、されたり、歩いたり、立ち止まったり。改札、切符売り場前、「いい加減、ホームへ降りないと終電を逃しますよ」の言葉でその場は解散。こんな日まであの人はあの人らしくて、それがなんだか可笑しかった。日付を跨ぐ。その一日のゴールはもう決まっていたのだけれど、けれどもう少しだけ 24 日を引き延ばしていたくて三条周辺をぶらぶらしていたところ、一件の電話。通知を切っているから気がつけたのはかなりの幸運、「三条大橋へ来てください」。なんで? と思った。思いつつ、行った。季節って巡るよね、という話をした。これは自分の人生だけれど、ところで自分ひとりだけの人生でもない、という話もした。桜並木、遠ざかっていく自転車を見送って。流石に今日はやり切ったかなとスマホを確認して、それから三条大橋を渡った。2023 年 3 月 24 日。あまりに長すぎた一日の、その断章。

 

 自分にとっての幸せの一部であろうとしてくれる人がいるということ。これは人に借りている言葉だけれど、でも、とてもしっくり表現だった。自分にとっての幸せの一部であろうとしてくれる人がいるということを、本当にとても嬉しく思っているし、かけがえのないことだとも思っていて。だから、それと同じくらい、自分もまた、他の誰かにとっての幸せの一部であれたらいいなと思う。この世界に生きる全員の幸福を祈ることは自分の手に余るし、嫌なことも嫌な人もそのどちらも自分にはどうしようもないことだけれど、でも、せめて手が届く範囲くらいは。そういう気持ちをずっと忘れないでいたいし、そういう気持ちを、この世界の隠している秘密の在処を思い出させてくれる、そんな人たちが周囲にたくさんいるというのは、だから本当に幸せなこと。本当、本当にね。あんなにも嫌っていたはずなのに、この世界のことを。こんな今日が、だけど今は、信じられないくらいに幸せなものだって思える。これはだからこの六年間で、二五年間でみつけた、みつけさせてもらったたくさんの、そのなかの一つ。

 

 

 

20230301


「そういう人もいる」。この表現そのもの、および付随する周辺事項に関して自分なりに思うところがあり、それを出力された文章の形として一度整理しておきたいので、そういった目的で今回はブログを書く。いまこれを読んでいる人の中には、「あー、数日前に長々と話していたやつか」とある種の心当たりのある人がいるかもしれないけれど、それは正しい。そのときに話していたことを、もう少しだけ整えた上で、以下に書き残しておく。それに先立って最初に断っておかないといけないことが一つあって、まずもって、以下の話はあくまで自分ひとりに限ったものであるということ。全員が全員、同じ意味合いでこの表現を使っているというわけではないという点。当たり前すぎる話。この世界に、自分と全くお揃いの辞書を持っている他人なんてものは存在しない。似たようなニュアンスであったとして、自分の使うそれと他人の使うそれとでは、どこかしらで乖離があるはずと思う。なので、まあこんなことはわざわざ書いておく必要もないのかもしれないけれど、だから、以下の内容を過度に一般化された主張だとは思わないでほしいということ。あくまで一個人の話だ。もう一つは、誰かしらがそのものについて、ある意味において真面目な文章を残してしまうと、この表現を使いづらいように感じる人がいるかもしれないな、ということ。もっとカジュアルに使用している、という層も一定数いるはずで、そういった人たちにはかなり申し訳ないことをするな、と思う。とはいえ、話を聞いた感じ、よりもっと別の形を変えた概念(虹とか)が生み出され続けているようなので、あまり心配しなくてもいいのかなと思ったりもする。断っておきたいのは、自分の目的は言葉狩りではないということ。より分かりやすく言えば、「この表現はこういう意味で使え!」ということを主張したいのではない、ということ。これもさっきと同じ話で、お揃いの辞書。全く同じ文字列のそれが、ほとんど重ならないような意味合いで用いられるというのは、人間社会において当たり前のように起きている事象であって、というか、それ自体がコミュニケーションというものの一種の面白さだったりもする。その言葉をどんな意図で使う人がいたっていいと(少なくとも自分は)そう思うし、だから要するに、言葉狩りをしたいわけではない、という表現に落ち着くわけだ。これからやりたいことは、自分がその表現をどういったニュアンス、目的で持ち出すのかということについての説明および整理、ただそれだけでしかないという話。以上、前書きが長すぎるな。なんていうか、ここ最近感じていることとして、自分と日常世界において関係を持っている人のうちのそう少なくもない部分が、このブログを読みに来てくれているらしい。「はてなブログへ投稿しました」のツイートに誰もいいねなんてつけないから、この文章を誰が読んでるのかという一切はこちら側から把握することができない(別に把握したいとも思っていないけれど)。なので、自分のブログを読んでいるらしいという話をたまに耳にすると、まあまあ嬉しい。ありがとうございます。そのうちの数人から数日前、「改行しろ!」との指摘を受けたのだけれど、これ、実際のところまあまあわざとなんだよな。元々は、一時間にどこまで文章を書くことができるか、ということに取り組んでいた時期の名残なのだけれど、いまでは明確に別の意味合いも持っていて。なんていうか、わざと読みづらくしている。流し読みをしづらいようにしているというか、有体に言えば、ちゃんと読もうとしないと目が滑るような文章にしようとしている。だから、一種のフィルターだよな。Twitter でお気持ち表明をしない理由の一つとして、読み手の選択権を奪っているという問題がある。Twitter は自動スクロールで文章が流れてくるから、主義・主張・思想の類に触れさせることを他者へ強制してしまうという問題があり、それは自分の望むところではない。なので、こうしてブログという、自分からリンクを踏まないと読めない場所へ文章を公開しているわけだけれど。ところで、ブログだってリンクを踏むまでは何の話について書かれているのか、分からないがちじゃんか。なので、リンクを踏んでしまった後でも、その内容について読みたくないと感じた人がいた場合に、いつでもそれを放棄することができるよう、可読性をなるだけ落としているという話。選択権は読み手の側にあるべきなんだよな。自分は、何度だって言うけれど、自分の思想を他人へ押し付けたいわけじゃないし、それを理解してほしいわけでもないから。

 

 

 本題。まずもって、当たり前すぎる話を最初にしておくと、自分と全く共通の価値観を持った人間というのはこの世界に存在しない、と自分は思う。価値観というものは一般的に、育った環境、それまでに吸収したもの、出会った人、獲得した経験、そういった様々から多大な影響を受けて形成されていくものであって。なので、そういう意味で自分のそれと同じ価値観を有する他人はいない、と自分は考えている。ところで、その中でも共通部分の大小ということについては考えることができる。自分と同じような考え方をする人、自分と全然違う考え方をする人、そういうの。ところで、このことが人間関係の形成において大きく問題になってくるというのは、それほどありふれた話でもないような気がする。これはバイアスかもしれない。かもしれないけれど、主観で語ることを止めてしまったら書けることなんて何もなくなってしまうし、自分は客観的な、あるいは普遍的な事実について物事を語ろうとしているわけではないということは、あの長ったらしい前書きでも触れたことなのでここでは割愛する。ともかく、バイアスかもしれないと断った上で書く。要するに、価値観が異なる人間同士では関係性が形成されないのかという話だ。自分の周囲を見渡してみるに、そうとも限らないのでは、と思う。価値観の相異なる他者と接する際に障害となるのは、敵愾心だったり猜疑心だったりといったものであるケースも多く、価値観の差異そのものが問題になっているというわけではないケースも少なからずあるという話。親しくしている相手を思い浮かべてみても、そのうちの半分くらいは自分の価値観とずれている部分のほうが大きそうだなと思うし、それでも他愛もない雑談で夜を無為に費やすことはいくらでもできる。生存バイアス。勿論、だから、うまくいかないケースだってあるという話で、当たり前、一概に言えることのほうがずっと少ない。とはいえ、そういった場合でも、問題は価値観の相違そのものではなく、そこから派生して生じるある種の反発心であるという可能性は見当の余地があるように思う。というか、本当に価値観の同じ人間としか付き合っていけないのだとしたら、自分たちはほとんどすべての他人とかかわりあうことができない。しかし事実としてそんなことはなく、だから自分たちは、決して重なりはしない価値観を抱えた者同士、それでもなんとかうまくやっていこうという姿勢で人間関係を構築しようとする。それ自体が、他人へ向き合うという言葉の意味だと、自分はそう思う。

 

 価値観のギャップ。これが問題だよな、結局は。自分たちは、だから価値観の異なる者同士で交流を続けているわけだけれど、関係性を築き上げる途中で、互いが互いに抱えているそれらの差異に触れてしまったりもする。そのことは、良いように作用する場合と悪いように作用してしまう場合との二つがあって、だから、問題となるのは後者のほう。互いの持ち合わせている価値観の違いを照らし合わせてしまった結果、お互いに、あるいはどちらか一方のみが傷ついてしまうという結果が起こり得る。そのような可能性が十二分に想定されることは、少し考えてみれば分かるはず。だって、価値観というものはそれ自体が個々人の生きてきた時間の結晶とほとんど等価なものであって、その差異を知るということは、つまり一歩でも間違えると、その個人がこれまでに過ごしてきた時間そのものの否定に繋がりかねないということ。少なくとも、自分はそう思う。……自分は、自分と相異なる価値観に触れることがかなり好きで、それはまあ、どうだろうな。自分のことを正確に知ってくれている人たちは、きっと頷いてくれるんじゃないかと思う(本当か?)。自分の話をするよりも他人の話を聞いているほうがよっぽど楽しいというのは、その表れのひとつなのかもなと思ったり。というか、そんな例を挙げなくとも、このブログを読んでいれば分かるだろという気もする。このブログには、そういう話がたくさん書かれてあるため。ところで、なのだけれど、そうして価値観の違いを照らし合わせるという行為、それ自体を自分から強いて実行したいとはほとんど思わない。理由はいくつかある。たとえば、単に怖いから。一歩でも間違えると、相手が、あるいは自分が、深く傷ついてしまうという可能性。その一歩一歩をすべて正確に選び続けられるというほどの自信なんて、当然ながらあるはずがない。そういう意味で怖い。価値観の差異を照らし合わせるという行為は、そのくらいに危険を伴うものだと思う。もう一つは、だから、そのくらいの危険性が付きまとうような行為に、他人を了承なしに巻き込むべきではないということ。たとえどんなに自分の側はよくたって、相手の側が「そんなことは望んでいない」と思っていたとすれば、それはコミュニケーションの在り方として破綻してしまっている。要するに、互いの了解がなくてはならないと思う。暗黙にせよ、明示的にせよ、その行為によって互いに傷つきかねないという危険性を、互いが十分に了承し合っているという状況。どちらか一方の了解が欠けてしまった状態で行われる差異の照合なんて、一方的な暴力とほとんど変わらない。こういうことを言うと、「自身の主義にそぐわない意見には耳を傾けないなんて不誠実だ」と主張する人が一定数現れるけれど、そういう話じゃないんじゃないかという可能性を、だからここまでの長ったらしい文章を読んで一度くらい考えてみてほしい。受け手の側の判断によっては、殴る蹴るの暴力と変わらないんだって、そういうの。それに、だったらそっちもそうしろよって思っちゃうな。「自身の主義にそぐわない意見には耳を傾けないなんて不誠実だ」と他人に向かって言うのなら、「傷つきかねないようなコミュニケーションはなるべく慎重に行いたい」という人の意見に耳を傾けないのでは理屈が通らない。そういった主張の人々の心情を無視するというのであれば、それはただの自分勝手でしかないだろうと、そう思う。

 

 違いを較べ合うことは、だから怖いことだと思う。お互いに傷つきかねないし、そうなった場合に起こり得る結果といえば、口論だったり喧嘩だったり、あるいはより深刻に不和や絶縁といった、取り返しのつかないものだったりする。ところで、じゃあそういった営みが人間関係において一切行われないのかといえば、そんなことは全くなく。平平凡凡に通り過ぎる時間と同じくらいとは言わないまでも、けれど決して無視はできない数の夜を、自分たちはそういった営みへ、要は価値観を較べ合うという行為へ費やしたりもする。というか、後になって振り返ってみると、何かをして一緒に遊んだという経験と同じくらい鮮明に、夜な夜な何かを議論したという記憶が呼び起されたりもして。というよりも、違いを較べ合うこと、それ自体がコミュニケーションというものの本質だろうと、少なくとも自分はそう思っているし。怖いからといって、だから避けて歩きたいというわけでもない、少なくとも自分はという話。だから、較べ合おうとする。どんなに怖くても、お互いに抱えている価値観の食い違っている部分を。この矛盾をどのようにして処理するかという話だけれど、だから結局、お互いの了承があればいいということになる。差異を照らし合うことによって傷つく可能性があるし、傷つける可能性があるし、最悪の場合は修復不可能なラインにまで到達する可能性もなくはない。そういった危険性を、お互いがお互いに了承してさえいればいい。なにかしらの問題を抱えた道具があったとして、扱う人物がその不備を正しく把握してさえいれば困ることは何もないという、これはよくある話。火の扱いを、あるいはナイフの扱いを、お互いが十二分に理解してさえいればいい。そうすれば、その火を囲んで暖をとることができるかもしれないし、それまではみえていなかった新たな一面をナイフによって切り出せたりするかもしれない。そういう話。だから、たとえば、よく集まる仲の良い人同士であれば、そういった会話が何の脈絡もなしに平然と行われたりもする。それはお互いがお互いのことを、ある意味において信頼しているから。相手はその道具の危険性を把握しているという信頼。あるいは、少し手元を滑らせて火傷してしまったり指を切ってしまったりしたとしても、この相手となら十分に修復していけるだろうという信頼。そういったものがお互いの中に宿っているから、だから較べ合うことに対する抵抗感が、あるいは恐怖が薄れて感じにくくなっているのだと、自分はそう思う。そういう場合に横たわっているのは、暗黙の了承だ。誰もそういったことを明言したりはしない。でも、だからといって、それを欠いた状態で火遊びをしているわけでもない。それまでに積み重ねた関係値があるから、「このくらいなら大丈夫だろう」というラインがお互いに分かっているから、だから多少の危険性は受け入れて、その上でそういったコミュニケーションの中へ身を投じているのだという、そういう話。

 

 だから問題は、その場に集まった人数が多ければ多いほど、より深刻さを増すように思う。お互いの共通見解があればいいという話だったけれど、人数が増えればその分だけ認識のすれ違いが生まれやすくなるし、その擦り合わせも容易でなくなるから。条件を増やせば増やすほど集合としては狭くなるっていう、よくある議論。そして、そういった状況は何も珍しくない。そこに居合わせた全員が、たとえば一緒に旅行へ出かけるくらい仲の良いメンバーだという状況と同じくらいには、気の知れた人とそうでない人のどちらも居合わせているという状況での会話イベントが発生する。そこで、だから、共通認識の有無が問題になってくる。閉じた空間であればあるほど、その問題性はより強固なものとなる。開放的な場であれば、まだいい。だって「ああ、これは聞きたくない話かもな」と思ったのなら、その人にはその場を立ち去る権利がちゃんと与えられているわけだから。閉じた空間は、そうした退路を一切封じてしまっているという点がよくなくて、このときは差異を照らすという行為に宿り得る暴力性がいっそう増す。……というめちゃくちゃに長い前提情報を提示した上で冒頭の話へ戻るけれど、だから、自分はこういった状況下で「そういう人もいる」という言葉を用いる。日常会話で無意識的に使っていることもままあるだろうけれど、意識的に繰り出す場面はといえば八割くらいがこれだ。「この場でこれ以上その話を続けると、居合わせている誰かしらが傷つく可能性がある」、そう感じたときに、その場をとりあえず取りまとめるための言葉として、そういった台詞を使う。共通認識の欠如。たとえば、自分はその相手がどういった価値観に基づいて行動して、その結果どういった人生を送っているのかということをそれなりに知っているとして、けれど隣に座っている誰かにとっては全くの初耳ということがあるかもしれない。そうした状況下で価値観を較べ合おうとするのは、流石にちょっと危険すぎるし、なによりも聞き手側の事情をもうちょっと顧みたほうがいい。その行為によって傷つく可能性はどちらかといえば聞き手の側のほうが高く、対等なんかではない。そして、聞き手の側に果たしてその覚悟があるのかという話だ。その有無には、話し手側の事情なんて一切の関係がない。価値観を照らし合わせるという行為に破滅の危険が付きまとう以上、その場に立ち会うことには個々人の意志による了解があるべきだし、だから、その段階をスキップしようとするのはただの無謀だと思う。そうして失敗してしまったとして、じゃあその結果に責任を負うことができるのかという話でもある。好きな作品、世界に対する考え、生き方、そういった個々人の深いところへまで根付いている話題であればあるほど、その扱いには慎重にならなくてはならないと思うし、ましてや一方通行であってはならないと思う。大切なのは、だからお互いに了解しているという、双方向性の確保されている状況。自分たちが扱っている道具は、使い方をひとつ誤れば、向かい合った相手のことを殺めてしまう危険性さえあるものなのだという理解。そして、「この人であれば、たとえ失敗してしまってもきちんと修復することができる」という、互いの意志に基づく信頼を居合わせた人数分。そのうちの一つでも欠けていると思われる場合、自分は踏み込んだ話なんてしないし、したくもない。勘違いしないでほしい、ありとあらゆる状況下で踏み込みたくないというのではなくて、そういった前提が整っていないと判断される状況に限って、という話だ。条件が揃っていれば、踏み込んだ話をする日なんていくらでもある。だから結局、こうして求められる前提の一つひとつをゆっくりと着実に整えていくことが大事なんじゃないかと、自分はそう思うし、それが、だから他人へ向き合うということの意味なんじゃないかとも思う。その過程をスキップすることは誰にもできないし、しようとすべきじゃないって、そう思います。

 

 

 以上。ここまでちゃんと読んだ人がもしいれば、おつかれさまでした。それと、ありがとうございます。それはそうと、ちょうど今日からが三月ですね。早いなあ。あと一ヶ月の大学生活、やり残しのないように過ごしていきたいなって思います。

 

 

 

20230226


 地元へ帰った。体感的には半年ぶりなのだけれど、12 月に大学の知人と地元を歩く回をやったときに一度、それと初日の出を目当てにサークルの後輩二人と地元の山の頂上まで行ったときに一度、合わせて二回は帰ってきていることになる。地元へ帰るたびに、以前まであったはずの何かが消滅していたり、あるいは新しく何かが誕生していたりという現場に遭遇するのだけれど、今回はコンビニエンスストアがあった場所にコインランドリーと弁当屋さんが新しくできていた。それはかつて、中高時代の友人がアルバイトをしていたコンビニエンスストアだった。立地上、入店する機会はそう多くなかったのだけれど、でも、こうして何かしらの形でタグ付けされていた対象が消えてしまったことを知るのは、なんだか寂しい。ところで、知らないままでいるほうがよっぽど寂しいという話もある。今日だって、わざわざ遠回りになる帰り道を選んだのは、つまりそういうこと。

 

 髪を切った。体感的には半年ぶり、と書いたのは、そもそも地元へ帰る目的の半分が行きつけの美容院へ足を運ぶためであることと、その美容院へ最後に訪れたのが去年の 10 月頭だったからだ。修論の忙しさに感けてなあなあにしていたけれど、三月ライブもあるし、そうでなくとも流石に許容できないくらいの鬱陶しさになってきたので流石に切りに行った。前回、偶然にも再会した中学時代の同級生、もとい現在は美容院の店員さんである彼女は今日もいた。別の美容師さんにカットをお願いしていたところ、後ろから声を掛けられた。「おかえり、京都からはるばる」。まさか声を掛けられるとは思っていなかったので、変な反応を返してしまったような。とはいえ、嬉しかった。わざわざ話しかけてくれたこともそうなのだけれど、おかえりって言葉、一人暮らしをしていると向けられる機会が全然ないもんな、という意味でも。ささやかな幸福。見慣れた地元の風景、その中にある人間関係に触れていると、大学関係の人と集まる場にいるときとはまた違うスイッチが入るような、そんな気がする。いや、間違いなく延長線上ではあるのだけれど、なんていうか、懐かしい感じがする、当たり前か。大学時代のことも、いつかはこんな風に懐かしく感じる日が来るわけか。そうこう考えている間にも作業は進んでいく。狂ったような毛量を毎度毎度担当させてしまっており、店員さんには本当に頭が上がらない。今日知ったこと、美容師を名乗るには国家資格が必要だけれど、ペットの毛をカットする仕事をするのには特に免許は必要ないらしい。面白い情報だった。「不思議ですね。同じくらい難しそうですけど」と言うと「いやあ、ペットのほうが難しいと思いますけどね~。だって動くし」と返され、なるほどたしかに、と思った。人間みたいに必ずしもじっとしててくれるわけではないもんな。良い感じにカットを済ませ、良い感じのシャンプーでわしゃわしゃされ、席へ戻るときに「ワックスとかって、使わないんじゃなくて、使い方を知らないんですよ」と話してみたところ、なんと目の前で実演してくれた。まあ、流石にプロの手際だからそうみえただけだろうけれど、思いのほか簡単そうだと思えたのと、あと、説明しているときの美容師さんがどことなく楽しそうにみえてよかった。職にするくらいだから、やっぱり好きなんだろうな。諸々を済ませて会計へ。これまでの自分なら絶対に目の向かなかったであろう場所、指。たった 20 円のお釣りを待ちながら、左手の薬指、結婚指輪。この世界で一番きれいなものをみたような。扉をくぐって、外。普通に寒くて、指先が痛かった。今朝、京都は雪降ってたしな。流石にもう雪は降らないんじゃないかなって話をした、その次の朝には裏切ってくるんだから節操ないというか何というか。やる気がありすぎだよね、今年の冬。

 

 実家に帰ったのは、……何か月ぶりだったんだろ、覚えてない。近況について話すことを求められ、ところで吝かでもないのでああだこうだと話したりした。卒業式に着ていく用のスーツってどこにあったっけなあとか、半年後くらいに一つ上の従兄が結婚式を挙げるらしいとか。一つ上……、そういえば一つ上か、文字へ起こすまで意識していなかった。人生のステップが早いなあと思いもしたけれど、でもそんなことないか。話を聞くに地元の同級生、想定で三割くらいはもう家庭を持っていそうだし、姉だってちょうどこれくらいの年齢で入籍してたし、たしか。割と一般的なのかも、27 前後で結婚とか何だとかをするのって。考えたこともないなと思いつつ、その式場が大阪と聞いて驚いたりした。従兄たちはいま九州付近に住んでいるため、何でまた大阪で……という話だ。あと、従兄が自分をやたらと式へ呼びたがっているらしい、という話を今日だけで二人から聞かされた。行くけどさ、全然、喜んで。というか、話も聞いてみたいかもな、ちょっとだけ。結婚に至るまでにどういう経緯があったのかとか、そういうの。なんていうか、以前の自分だったらあんまり興味を示さなかっただろうなという気はするのだけれど、いまはちょっと、いやかなり、関心がある。そこにはたぶん、自分の想像を優に飛び越えてくるくらいの良い話があるのだろうなという、読み手としての興味。話してくれるかなあ。まあ、半年後までにデッキを考えておこう。

 

 昨夜、眠る前、まあまあ嫌なことがあって、もう慣れたけど。いつものことかと思っても、嫌なものは嫌なんだよな。で、嫌だな~って気持ちをしまい込んだまま布団へ潜って。でも、それから人と話をして、その、嫌だな~って気持ちとは全然関係のないことをずっと。そうしたら本当にどうでもよくなったというか、いや、どうでもよくなったとかじゃなくて、そもそもの話、そのまますっかり忘れてしまっていた。ということに、地元の帰り道を歩いているときにようやく気がついた。そして、そのときにはもうどうでもよくなっていた。すごいな、と思う。自分ひとりだと、その、嫌という不快感をどうでもいいという無害へ変換するまでに、一定の時間を要する。誰だってそうか。時間をかければ必ず無害化できるのだけれど、ところでその間、嫌という気持ちはずっと停滞したままなわけで。しょーもなと思うけれど、でもそのまま抱え続けていると本当に潰されるし、ところで他人を巻き込むわけにもいかないから一人で何とかするしかなく。みたいな。みたいな面倒な行程を、綺麗に全部すっ飛ばすんだな~、と思った。そのくらいに鮮烈というか、途轍もない情報量による上書き。この世界で一番きれいなもの。寂しいとかじゃないな、と言っていた。たしかに、自分の持っているそれも、寂しいとかではない。なんだか似ているような気はするけれど、それはまあ、似ているような気がしているだけ。寂しいとかじゃなくて、じゃあ何なんだろうって考えてもみるけれど、その実、言語化なんて必要ないのかもなって気はする。した。これだけ文字に起こしておいて出てくる結論がそれなのかよって感じはするけれど、よく分からないままにしておいてもいいと思えるものもあるっていう、そういう話かもしれない。曰く、人は未知の対象に恐怖・嫌悪感を抱きがち、らしい。本当に? 本当かなあ。どうですか、数日前の山上一葉さん?

 

 

 

人生って一度しかないらしい


 人生って一度しかないらしい、実は。真面目な話をする、自分は本当に死にたくない。できるだけ長生きしたいし、だから早く寝たほうがいいし、ちゃんとしたご飯を食べたほうがいい。最近は一週間の何日かは魚を食べている、意味があるかはさておいて。そもそもの話、死んでしまったらそれで全部が終わりなんだよな、当たり前だけど。死神が突如として目の前に現れたとして、去年の自分ならいざ知れず、いまの自分はその事実を受け入れることなんて到底できないはず。要するに、未練がある。未練というか、やりたいこと、やり残したこと、死にたくないと思う理由。そういうのがある。死んでしまったら終わり。その後の世界がどうなるかとか、そういう一切は何の関係もない。輪廻と呼ばれる機構がこの世界の裏側に存在するとして、いまの自分も何十年、何百年と前を生きた誰かの生まれ変わりだったとして、だから何なんだという話。前世の記憶なんて当然持っていないし、現在がそうである以上、生まれ変わる前の誰かの意識はやっぱりその誰かが死んでしまった時点で綺麗に消滅してしまっている、はず。となると、死んでしまった後って、果たして自分の意識はどのようになるんだろうなって思う。死って、完全な消滅と同義なはずで、訪れてみないと確かめられないもの。天国だなんて大団円を信じてはいないけれど、否定はできないから懐疑的というわけでもない。ただ、漠然と不思議に思う。鴨川を歩いているときとか、誰かと夜を眺めているときとか、あるいは湯舟に浸かっているときなんかに、ふと。で、そのたびに怖くなる。死ぬって、自分自身の意識が完全に消滅するって、いったいどういうことなんだろう。よく分からない。人は、自分の理解が及ばないものに負の感情を抱きがち。主語が大きい、でも、これは流石に適度な一般論じゃないかなと思う。怖、死ぬのって怖くない? 終わらせる勇気があるなら、続きを選ぶ恐怖にも勝てる。その通りだな、って思う。ここで誤解が生じるとアレだなと思うので補足をしておくと、別にそういうことを考えてるとか思い詰めてるとかって話ではなくて、いや、死にたくないんだって、だから。毎日のように死にたくないと思うから、死という現象へ必要以上に目が向いている。そういう状況。でも、だからって目は逸らせない。幽霊だって、実際に出くわしたらきっとまじまじと眺めてしまうはず。そういうものでしょ、自分の理解が及ばない現象の類って。

 

 昔は嫌いなものが多かった、という話。この世界に、許せないものがたくさんあった。いや、人並みだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。その多寡を主観的に判断することはできない。ともかく、嫌いなものがあった、たしか。そういうのが全部どうでもよくなった、ある瞬間を境にして。それって、でも結局は、自分の人生が一度しかないという認識に直結してるんだよな、と思う。たとえば、夜の木屋町で酔いつぶれている人間を目の当たりにして不快な気持ちにさせられる。ところで、その結果にいったい何の意味があるんだろうなって思う、昔の自分を振り返ってみて。自分の人生に一切関係ないし、というか、不快であるのならなお一層、そんなもののために思考を割く必要なんてなくないか。なんでわざわざ嫌いなものに指差し笑う必要があるの、って思う。時間と感情の無駄遣いでしかない、冷静に考えて。そんなもののために何かを割くくらいなら、自分の好きな人とか、あるいは自分を好いてくれている人とか、そういった誰かのために何かを使ったほうがよっぽど有意義だなと思うし、だって人生って一度しかない。もうじきに心臓が止まるって瞬間になって、そんなときに思い浮かぶのが自分の嫌いなものばかりって、そんなのは嫌だし。嫌いなものに指差し嗤う、そんな君の幼稚な世界。高校生の頃に覚えた歌詞。幼稚、まあ、実際に幼稚だった、以前の自分は。まあ、大学生になったばかりの人間なんてそんなものかと思うけれど、他人事じゃないんだよな。でも、実際にそうだったけれど、でもこれって幼稚とかって話でもないよなと思う。誰の人生を生きてるの、という話。自分の人生だよな。それはそう。じゃあ、わざわざ自身と相容れないものと交わろうとする必要なんかない。国語力。こんな継ぎ接ぎの文章に読解も何もないけどね、誤読されたらそれは全面的に自分が悪い。ただ、ここは勘違いされたくないのでちゃんと書いておく。自身と相容れないものに対して、向き合う必要がないと言っているのではないし、耳を貸す必要がないと言っているわけでもない。そうではなく、その相容れない何かを嫌いでいる必要がそもそもない。だから、これは自分の話だけれど、嫌に思う物事ってもう本当にほとんどないんだよな、この世界に。好きなもの、どうでもいいもの、本当はグラデーションだけれど実質的にはこの二つしかない。好きの反対として無関心を採用している。ベクトルの向きではなく、絶対量としての対義。自意識過剰、嫌ってすらやらない、どうでもいいんだよな、そういう全部。歩き煙草も、信号無視も、改札の前で急に立ち止まるのも、本当にどうでもいい、高校生の頃はどれも嫌いだったけれど。だって、自分の人生に関係ないしな、一切合切。嫌いなものを嫌いでい続ける理由の一つ、それは、それ自体が自身のアイデンティティに直結するから。何かを嫌いでい続けることによって確立される自己、それを手放せないから、だから何かを嫌いでい続ける。少なくとも、以前の自分はそうだった。一番どうだってよくなったのは、そういうのに縋りついていたいつかの自分自身かもな。それが嫌いで嫌いで仕方ないくせに、それが消えずに在り続けることに、そしてその実存によって背理的に証明される自己の存在性に無自覚に依存する自分自身。しょうもなさすぎ、いったい誰の人生なんだよ、それは。あれが嫌いです、これが嫌いです、あれが許せません、これが許せません。そうして否定的な文言で定義されているお前自身は、じゃあいったい何者なの? っていう自問自答。想像するだけでも嫌になるし、実際に嫌になった。そうこうしているうちに全部がどうでもよくなった。明確なきっかけなんかは恐らくないし、だから離散的な変化だったわけでもない。周囲の人たちによる様々な働きかけの蓄積によってそうなった。自分は、いまの自分のほうが昔の自分よりもずっと好きで、だからこの話はこれでおしまい。本人が満足しているなら、あらゆる結果はそれで構わないんだよな。絶対的な正解なんて、この世のどこにもありはしないのでね。

 

 なにかよくないことが起きたとき、自身がその中心にいると真っ先に思い込むのは、ある意味で自己愛の裏返しだよなという文章を、たしかどこかで見た。たしかっていうか、普通に買った文庫本の中に書かれていた台詞なのだけれど、一応タイトルは伏せておく。……まあ、概ねその通りだなと思った。自分がきっかけで何かよくないことが起きている、それは実際に在り得る可能性だけれど、でも、大抵の場合において、集団に与える個人の影響はそれほど大きくない。というか、だいたいは誤差の範囲内に収まるはず、集団の規模が大きければ大きいほど。自己愛の裏返しというのは、だからまあ、そういう意味だろうと思う。とはいえ現実的には、よりもっと複雑な背景事情が絡み合っていることだろうから、だからこんなのは「ある意味で」でしかないのだけれど。嫌なもの。そういった負の感情が局所的に発生することは当然あるけれども、だけど、それだけ。自分が向けているのと等量の嫌悪感を相手も返してくれるだなんて、いくらなんでもそれは都合がよすぎるし、過大評価。一個人が周囲の環境に与え得る影響、非対称の矢印。なのに等価を望むのはどうして? 嫌ってすらやらない。だって、人生って一度しかないらしいし。だから勿体ないでしょ、そんなことに時間を使うのは。四半世紀ってだいたい七億八千万秒弱あるらしいけど、でも、いざ振り返ってみると、その膨大な数にしたってあっという間に過ぎちゃったわけだし。そう思うと、死神が鎌を片手に尋ねてくる日だって、気を抜くと一瞬でやってきてしまいそうな、そんな感覚。与えられたものが有限であるなら、それは自分の好きなものや好きな人たちのために費やしたいと思うし。だから、嫌ってすらやらない。どうだっていいんだよな、本当に。