言葉

 

 加害性、ねえ。いつの頃からか、インターネット男女論、あるいはインターネット恋愛論の文脈においてそういった用語が散見されるようになったような気がするけれど、それってどうなんだろうという気はしている、個人的に。中二病という言葉がむかし流行って、いまでも使ってる人っているのかな? いやまあ、いるか。いるだろうな。いや、別にその用語自体はどうだって構わないのだけれど、構わなくもないのだけれど、なんていうか、自分はあの言葉をどうにも好きになれなかった。と文字に起こしながら思い出すのは、ちょっと前の冬、人と歩いていたときのこと。「言葉に対して好きとか嫌いとかって気持ちがあまり分からない」。その言葉を耳にしたとき、そういう感覚の人も当然いるよな、と思った。ところで、自分は(そこまで明確ではないにせよ)苦手な言葉というのが少なからずある。当然だけれど、これはどちらがいいとか悪いとかという話ではなくて、またどちらが優れている劣っているという話でもなくて、つまりは完全なるイーブンとして、そういった二分がたしかに存在はしているという話。中二病という言葉自体に思うところがあっても、その言葉を使っている人に対して何らかの感情を抱くことはまあないし、あくまで言葉そのもの、あるいはそれが用いられる文脈に対する若干の嫌悪感というだけであって。話を戻す。昨今そこかしこで囁かれるようになった加害性という言葉は、何年か前に流行した中二病という言葉にどこか似ているな、と思う。具体的には、ある意味では普遍的ともいえる属性に名前を与える、という点において。名前が与えられると何が起こるか? 一言で言うと、理解が可能になる、のだと思う。誤解のないように断っておくと、名称が付与された瞬間に理解が発生すると言っているわけではないし、ここでいう『理解』が真の意味での理解であるとも限らない。あるいはそれは、古来の日本において、未知の現象や妖怪変化の類に対する解決法が命名であったことと同じなのかもしれない、と思う。類型化、と言ってもいい。そうして、本来であれば個々人に帰属していたはずの問題意識が、幅広く認知されるまでの名称を獲得することによって、それは社会全体に共有された問題意識となる。そういった一連のプロセスそのものが、なんていうか、自分にとってはあまり正しいことと思えないというのがある、あるな。では、社会全体に共有されることで何が起こるか? これは簡単なことで、その名称に付随する最大公約数的な認識こそが語義の第一事項であると広く周知されるようになる。中二病という言葉はまさしくそうだった。いわゆる、ちょっとイタい感じの子ども、という認識。それは、大枠においては間違っていないとは思う。だから、ここまでならまだいい。ここまでならまだよくて、問題はその先にある。何よりも自分が忌避感を抱くのは、それは、そうして社会全体で共有された問題意識を一個人のもとに還元してしまうこと、あるいはそういう社会の仕組みそのものに対してだった。だって、順序が逆だから。いわゆる少年期(という言葉を使うが、男子に限った話をしたいわけではない)に起こりがちな事象全般を中二病という言葉で理解することは構わない。ただ、その理解に基づいて、いま目の前にいる少年あるいは少女を理解しようとすることは間違っている、と思う。仮にその『中二病』と称される症状に類似性をみるような何かが起こっていたとして、そうであっても、その問題は個々人に固有のものであるという認識を強く持つべきだと、少なくとも自分はそう思う。要するに、他人のことを属性的に捉えようとしてはいけない、という話。なぜなら、それは最も理解からかけ離れた行為であると、少なくとも自分はそう考えるから。同じような語句で言うなら『メンヘラ』とか、あとは最近流行りの漢字四文字とかもそう(該当の文字列が自分のブログ内に記載されているという状態がかなり嫌なのでぼかしているだけで、それ以上の意図はない)。なんていうか、すでに出来上がったストーリーラインにあてはめて理解するのは簡単なんだよ。誰にだってできる。だって、人間の抱え得る感情なんておよそこの世には出尽くしてるのだから、映画や小説、漫画、舞台、なんだって構わないけれど、いくつか当たればクリティカルと思える事例にはすぐ出会えるはず。それが昨今ではインターネットになっているというだけの話で、そういう意味でこれはインターネットの功罪とはいえない。ただ、インターネットにはインターネットに固有の問題があるような気がしていて、それは、ありえない速度で一般化が行われ、ありえない速度でその結果が普及するということ。みんな、議論が好きだもんね。議論っていうか、レスバ。レスバっていうか、マウンティング。マウンティングっていうか、自己防衛。自己防衛っていうか、無自覚の加害。なんだって構わないけれど、とにかく、(現実がどうであるかは一旦置いておくとして)自分と無縁(と少なくとも当人は思っているよう)な現象に対しても真摯でいられるような人はさほど多くなくて、その結果として浮かび上がってくるのが最大公約数的な理解であるという認識を自分は持っている。要するに、負の側面ばかりを詰め込んだ呪いだということ。インターネットをみていれば誰だって分かる。インターネット上で何らかの言葉が創出されるとき、特にここ近年は、決まってよくないものとして扱われてばかりいる。『中二病』はまだマシな部類に留まっていて、たとえば『メンヘラ』なんかはもっと酷い。いまや呪いのハッピーセットみたいになっている。そして、そういう言葉がこの社会に満ちている。しかも、個々人に帰属するはずの問題意識の一般化として、だ。そうして抽出された呪いをもう一度、各々の人の手元へ還元するということが、果たしてどれほどに罪深い行為か、という話だよな。それは決して本質的な理解なんかじゃない。でも、他人のことなんか心の底ではどうだっていいから、そんな相手の問題意識だって本当のところはどうだってよくて、だからこそ、そうした問題意識をほんの一言で要約してしまう便利な言葉がこんなにも広く用いられる。まあ、自分たちはカウンセラーじゃないからさ。他人のことをある程度割り切って考える必要があるという主張は、それは本当にそうなんだよ。ただ、それは本当に正しいのかな、とは思う、少なくとも自分は。……ただ実際のところ、より深刻な問題はそっちじゃないんだよな。『中二病』という言葉が広く定着することによって、その言葉に宿る呪いを自分自身に自ずから還元してしまう人が出てしまうこと。「自分はまさしくこういう人間だ」と自分自身を類型化してしまうこと。これが一番よくない。本当によくない。マジでよくないよ。何度だって繰り返すけれど、それは本質的な理解から最もかけ離れたものだと思う、少なくとも自分は。その類型化を行ってしまった時点で出口のない迷路に迷い込んでしまっているのと同義だから、本当に何とかしてさっさと抜け出す方法を探したほうがいい。だって、だから、世間で取沙汰されているそれは、社会の構成員である個々人の抱えている問題意識の共通部分をとってきただけのものに過ぎないんだよ。それも、大抵の場合は悪とされる領域のそれをとってきている。だから本当は、そうして語られる領域の内、どの程度の割合が自分の中の問題意識と共通するのかまでを熟考しないといけない。いけないはずなんだよ、本当はさ。中二病だって、別に悪い側面ばかりじゃない。ここではないどこかに焦がれる感情、あるいはそういった初期衝動、それを原動力に生み出された素晴らしいものだってこの世にはたくさんあるのだし、なんなら創作なんてその最たる例だろう。そうやって、自分の中にあるかもしれない(勿論、ないかもしれない)可能性をどこかの誰かが振りまいた呪いなんかで簡単に見失うなよって、そう思っちゃうんだよな、自分は。でも、これには難しいところがある。というのも、この社会の在り方がそういう風に出来すぎている。なんていうか、なんていうんだろうな。あらゆる属性を自身に還元しやすい構造というか、鏡写しの構造というか、見当違いの納得を手に入れてしまいやすい環境というか。色んな人間が色んな方法でその属性を説明しようとする。それは時には音楽であったり、映画であったり、漫画であったり、小説であったり、劇であったり、イラストであったり、評論であったり、学問であったり、まあ色々とある。SNS の時代と言ってもいい現代において、最も優先的に目に付くのは言葉だろう。自分のことなんて顔も名前も知りもしない第三者たちが日夜ああだこうだと言葉を尽くして、その属性に対しての説明を与えようとする。その断片に触れ続けることによって、自分の中の何かが詳らかにされたような気持ちになってしまう。ものすごく自然な心の動きだと思う。それと同時に、ものすごく危険な考えだとも思う。第三者たちは自分自身のことなんてそもそも考えちゃいない、という視点がすっかり抜け落ちている場合に限るけれど。そこは、なんていうか、マジで、なんていうんだろうな。他人を属性で理解しようとするな、みたいな話を上のほうで散々書いたけれど、それと同じくらい、自分自身を属性で理解することも間違っているような気がする。というか、なんならそちらのほうがより健全でないようにも思える。結局、自分のことは自分の言葉で説明するしかないのだと思う。中二病とかメンヘラとか、あるいは加害性とか、そうして広く一般化されてしまった名称で説明のつく事象なんて、現実世界にはおよそ一つだって存在しない。一方で、これは、なんていうか、強すぎる意見だとは思う。強いというのは言葉が強いとかって意味じゃなくて、なんていうんだろ、精神的な面で。言ってしまえば、自分の問題は自分の力でなんとかしろよ、って意見なわけだからこれは。だから別に他人へそれを求めようとは思わないし、そうすべきだと主張したいわけでもない。誰にだってできることではないと思うから。ただ、いま SNS で流行している漫画、およびそれに付随する議論(引用ツイート等)をざっと追いかけて感じたこととして、以上のようなものがあったというだけ。

 

 恋愛なんて、加害ありきのものだと思うけれど、実際はどうなんだろうね。だからといって開き直っていいものでは決してないのだけれど、思うにそもそも恋愛って、あるいは一般に人間関係って、お互いの心を双方的に近づけていく過程なわけで。ところで、自分たちって別に他の誰かのコピーじゃないからさ。だから、相反するところとか気に食わないところとか、そういうのは大なり小なり出てくるはずで、そういったすれ違いを根拠に何らかの精神的な負担を背負う、あるいは背負わせることになる可能性があるというのは、なんていうか、可能性があるとかないとかの話じゃなく、もうほぼほぼ確実に起こり得る事態で。むしろ向き合うべきは、そういった必然をどうやって乗り越えるかということなんじゃないのかな、と思う。回避なんてできるはずがない、だって互いに人間なんだから。どちらが悪いとかの話でもない。そういうことはいつだって、誰が相手だって起こり得るのであって。強いて言うのなら、それを乗り越えようとしないことは罪に近いと、少なくとも自分はそう思う。自分の世界観では、それは相手のことを信じていないのと同義だから。この人とであれば何であれ乗り越えられると、そういう認識を常に更新し続けていくことが、それこそが(結婚とかを念頭に置いた)恋愛なんじゃないのかなって、少なくとも自分はそう思うから。

 

 一方で、例の漫画は上の話とは異なる軸のことを問題にしていたな、と思う。あれはだから、交際関係が開始するよりも前の話だった。だから、上の話とは切り分けて考えなきゃいけない。……立場を表明しておくと、例の漫画については先輩側にも後輩側にも明確な非はないと自分は思っていて。恐らく、例の漫画は後輩側の問題点を抉り出す意図で描かれたものだろうとは思う。いや、執筆時点での意図までは汲めないけれど、少なくともリリースの順番ではそうなっていた。一般に物語作品において、同場面の別視点での描き直しというのは、それが対等な視点であるということが確約されている場合(群像劇など)を除いて、大抵は後半に描かれるものであればあるほど真実に近いということを意図して用いられる技法だから。つまり、あの順番でページが並べられていたということは、先輩視点で語られる後半部分のほうが、少なくとも順番を決めた人間の意識としては真実に近いものなのだろうということ。まあ、それ自体はどうだっていいか。とりあえず、自分は先輩と後輩とのどちらにも明確な非はないという立場であるという話。一言、悲しいすれ違いだったね、で終わってしまう。ただ、強いて言うなら、最後のシーン、(実際に本人に誤解なく伝わる形で行われたのか、かなり怪しいが)告白を断られても結局諦めない点については、それだけは明確に悪だと感じた。それ自体が、相手のことを真正面から捉えきれていないことの証左、あるいは裏付けであるとさえ思う。真正面から捉えるというのは、つまり、相手のことを自分と同じ人間であるとみなすということ。自分自身の中にある種の意思決定が存在するように、自分以外の全ての他人の中にも意思決定が存在していて。相手のことを本当に好きだというのなら、そこは受け入れなきゃいけないラインなんじゃないのかと思う。それを受け入れられない、あるいは受け入れようと努めない時点で、なんていうか、……難しいものがあるなと思ってしまう。代替可能な人間関係なんてない、それはそう。ただ人間関係というのは、場合によってはお互いの感情のぶつけ合いであって。自分の気持ちを受け入れてほしいと願うなら、相手の気持ちだってちゃんと受け入れなきゃいけないはずで。うわ、ずっと同じ話してる。何年前からこの話をし続けてるんだってくらい、ずっと同じことを書いている。でも、それくらい自分にとっては大切な規範なんだよな、これが。受け入れるというのは、相手を自分の領域内に連れ込むって意味じゃない。そもそも、どこかの時点で完了する類のものでもない。思うにそれは、相手の気持ちを正確に汲み取ろうと努め続けること。要するに、だからさっきまでの話と同じだよ。相手を真正面から捉えること。相手のことを自分と同じ人間であるとみなすということ。自分自身の思い込みで相手を(あるいは自分を)決めつけないこと。自分がこういった話題を扱うと、結局は、だからそういう話に帰着されてしまうんだな、良くも悪くも。例の漫画において、先輩側はその努力をしているように描写されていた(少なくとも前半は)。一方で後輩の側は、その人なりに努力しているのだろうと推察できる描写はたくさんあった(し、その結果は認められるべき)。ただ、それは先輩の方向を向いているものではない。いや、後輩の意識としては、つまり主観的には先輩に向けられたものだったのかもしれないが、客観的にはそうでない。事実、先輩側の機微にはついに何一つも気づくことができなかったわけで、その時点で人間関係としてズレてしまっている。先輩の側に落ち度があるとすれば、自分の抱えている違和感を当人へ直接伝えなかったこと。ただ、これはほとんど不可能と言っていい。同じ研究室にいたのなら尚更そうで、さらに女性側であるならもっと難しい。そのくらいは誰にだって想像できるはず。だから、これを落ち度というのはものすごく気が引けるし、できればしたくない(し、仮に実行へ移したとして、事態が悪化するという可能性が無視できない程度にはあるので、純粋な落ち度であるとも言いづらい)。一方、後輩の側にも落ち度を見出すことはできるだろうけれど、ただ、これもクリアすることはほとんど不可能であったと思われる。でなければ、例の漫画はあんな結末にはなっていない。だからこそ、悲しいすれ違いだったね、で片づける他ない。それ以上の答えは、少なくとも例の漫画に描かれた情報からは引き出すことができない。ただ、何度でも言うけれど、やっぱり最後のシーンだけは明確に間違っていると思う。あの結末を美しいものだとは、少なくとも自分には全く思えない。

 

 最後に。もう四年半も前のことになるけれど、古の自分が書いた作品をパッと貼り付けて終わりにする。別に読まなくていいし、わざわざ読んでほしいわけでもなく、それなりに長いしね。ただ、上記に関連するような問題意識は自分の中にはずっと昔からあって、それに対する自分なりの答えもみつかってはいて、というだけの話をするためだけに残しておく。自分のことは自分の言葉で説明するしかない、それが何であれ。

 まあ、この作品自体は何度かブログで紹介(紹介?)しているので「またかよ」と思う人が少なからずいるかもしれないけれど、とはいえ、だから、自分自身のものすごく根幹にあるものを描こうとしたものだったから、これは。だから、手探りで掘り進めていくと、結局ここに当たっちゃうみたいなことが結構あるんだよな。というので、暇な人だけ読んでください(拙い作品ですが)。

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「あの人の答えが何であれ、できることなら、わたしはそれになりたいと思ってたんすよ。なんだか嘘みたいっすけど、多分本気で」

 

 いまの自分だったら、ここの『多分』は『たぶん』で書くだろうな。