20230708

 

 数年前、身内の結婚式へと足を運ぶ機会があった。それからというもの、だいたいこれくらいの年齢になったら結婚云々という選択肢が出てくるのか、という認識が自分の中に生まれた。そうして、いざ実際にその年齢に到達してみての答え合わせが始まると、本当にいたるところから結婚に類する話題を耳にするようになった。ちょっと面白い。美容院にいる顔見知りの店員さんは二人とも結婚したらしいし、一つ上の従兄、それと大学時代、夜な夜な一緒に麻雀をやっていた同年代の誰かさんも。すごいな、と思う、純粋に。そんな、当たり前みたいに発生するイベントなのか、結婚とかって。地球上に何億の人間が生きているのかは知らないけれど、生涯で仲良くなれる人間の数なんてだいたい 200 とかそこらじゃなかったっけ。と思って調べてみたら 300 だった、大差ない。300。たった 300 の中で、……とはいえそれは個人の指向へ沿うように有象無象の中から選ばれた 300 人であって、無作為に選択されたものではないのだから、多少は確率が高いのかもしれないけれど、それにしても、たった 300 の中で「一生を添い遂げよう」と思えるような他人に出会うことができるのって、ほとんど奇跡みたいなもののように感じられるのだけれど。でも、だから、その奇跡みたいなものが起こりまくってるんだよな、この世の中、色んなところで。それも、携帯端末の向こう側の話じゃなくて、もっと身近なところで。すごいな、と思う、だから純粋に。いやまあ、確率といえば確率なのだろうし、どこかで何かの歯車を掛け違ったとて、結局は何かしらのゴールにたどり着くように設計されているのかもしれないけれど。ところで、自分たちはこの世界を主観的かつ不可逆的にしか経験できないわけで、その目的地が偶発的なそれでないことを、あり得たかもしれない並行世界の一切を全体集合として説明されたところで何かしらの納得を得ることができるだろうかといえば、ちょっと微妙。「この人と出会う以外のいまなんてきっとなかった」とかって思うでしょ、みんな。結婚って、つまりはそういう意思の顕れだろうと思うから。なんていうか、そういう、物語みたいな出来事が自分の知らないどこかで、知っているところででもたくさん起きてるんだな~と思うと、素敵だなと思うし、何がなくとも嬉しいような気持ちになる。空が青いこととか、星が瞬くこととか、そういうのと多分同じで、つまりはこの世界を諦めなくていい理由の一つ。

 

 生きる意味について。この言葉が初めて眼前に現れたのは、たぶん学部一回生のとき。といっても、そのことについて深く悩んでいたとかではなく、単に当時付き合いのあった人からそういった話題を投げかけられることが多かったというだけ。ここら辺の話はまあ大昔にブログへ書いた気がするので割愛。生きる意味。それって何なんだろうな。まあ、一つ明らかなことがあるとすれば、その形は人によって異なるということくらいだと思うけれど、いや、そんなに明らかでもない? 明らかでもないかもな。もしかすると、この世界のどこかには神様の隠した絶対的な真理があるのかもしれないし、人類がまだそれに気付いていないだけか、あるいは言語化する術を持ち合わせていないか。一万年後かくらいの未来では全員がその内容を教科書等で学んでいて、生きる意味について悩む人は誰一人としていなくなっていたりだとか、まあそういう未来もあるのかも。ところで、どうなんだろう。主観だけで物を言うのであれば、そういった絶対的な真理のようなものがあったとして、自分はあまりそのものの価値を見出すことができない。これは自分自身にとってはそうというだけの話であって、別にそれ以外の他人事情については一切言及していない。『クラスメイトに暴力をはたらいてはいけません、何故ですか?』。それが分からないから、小学生は喧嘩をする。いや、『クラスメイトに暴力をはたらいてはいけない』ことが絶対的な真理だと言いたいわけではない、そんな読み違いをする人はいないと思うけど。ここで言いたいのは、自分でない他者から一方的に与えられた言葉の意味を本当の意味で理解することが可能なのかどうか、ということ。『クラスメイトに暴力をはたらいてはいけません』は学校の先生だったり、道徳の教科書だったり、あるいは両親だったりの言葉であって小学生の言葉じゃない。他人を傷つけることが何故よくないことなのか。それを本当の意味で自分のものにするには、実際に誰かを傷つけたり、あるいは誰かに傷つけられたりするしかないのでは、と思う。喧嘩を推奨したいわけではなく、そんな読み違いをする人もまあいないか。だから結局のところ、自分で見つける以外に方法なんてない、というのが自分自身のスタンス。生きる意味に限らず、この世の全て。林檎がどういった果物なのか、それは他人の言葉によって理解されるようなものではないと思うし、自分の口で咀嚼する以外に手に入れられるものではないと思う。

 

 生きる意味について。どんな流れだったのかは思い出せないけれど、久しぶりに誰かとそういった話になった。結論から書くとして、自分にとってのそれは「ちゃんと悲しくなること」だと思う。これは自分自身にとってのそれを自分自身にとっての言葉で説明した結果のものであって、だから自分以外の全人類にとってはこの言葉に何の意味の宿らないということを理解した上で、それでも書いている。ちゃんと悲しくなること。それは、ちゃんと苦しくなることと同義であり、ちゃんと幸せになることと同義であり、そしてちゃんと生き抜くことと同義でもある。悲しむために生きているし、苦しむために生きているし、幸せになるために生きているし、生き抜いたと思うために生きている。そういう話。ちゃんと悲しめる人間でありたい、と思う。たとえば誰かと離れ離れになってしまうとき、正しい色の寂しさを感じられる人間でありたい。言語化が難しい、この辺りの感覚は。これを読んでいる誰かがいたとして、たぶん頭の中は疑問符だらけだろうな。申し訳ない。でもまあ、このブログってたぶんそんな文章ばっかりだろうし、いまに始まったことでもないか。悲しさとか、苦しさとか、寂しさとか、そういったものを避けて歩くような人生を選ぶことができたとして、その生涯に自分は意味を見出せない。これは、これに限らずだけれど、すべての文章の内には「自分にとっては」という但し書きが添えられていると思って読んでほしい。他の誰かの生き方を否定したいわけじゃない。ただ、自分の目の前にそういったマイナス感情を取り除くことのできる夢のような装置、あるいは魔法があったとして、少なくとも自分がそれに頼ることはきっとないだろうという、そういう話をしている。それは、だからさっきの話と同じだ。『クラスメイトに暴力をはたらいてはいけません、何故ですか?』。魔法の杖を一振りして、自分の人生から他者との諍いに関する記憶の一切を消去したとする。他者との諍いがよい思い出になるということはなくもないけれど、それでも大部分を占めるのは苦い記憶だ。だから取り除く。そうしてステッキを振り終えた後、そこに残っている自分はいったい誰? という話。90% くらいは自分だろう、恐らく。だとしても、10% くらいは自分じゃないのだし、それだけ違っていればもはや他人だ。他者へいいように振舞うことができるのは、何をどうしたら相手を傷つけることができるのか分かっているから。誰かを傷つけたり、あるいは誰かに傷つけられたり、そういった経験をたしかに覚えているから、だからこそ誰かを大切にすることだってできるのではという、そういう話。……書いてみて思ったこととして、それはともすれば究極の自己肯定なのかもな。自己肯定って言葉、全然好きじゃないんだけど。嫌なこと、悲しいも苦しいも寂しいも、そういう全部をちゃんと運んでいきたいっていう、ただそれだけの話で。そして、そのうえでちゃんと幸せになりたいっていう、だからまあ、結局はいつもの話に戻るのか。空っぽの空洞。心に穴が空いたようなあの感覚を、思い出すことはもうできない。けれどそれは、都合のいい魔法が自分の中からそういった要素だけを連れ去っていってくれたからじゃない。別にそんな解決法は、一度もないと言えば嘘になるけれど、でも望んでなんかいない。だって、それさえも失くしてしまった後の自分ってたぶん自分じゃないし。失くしたことを失くさない、って思うにそういうこと。ちゃんと悲しくなりたいな。ちゃんと苦しみたい。ちゃんと寂しくなりたい。そういう人生でありたい。でもこれはさ、いや、そんな注釈を今更添えるのかよって感じだけど、でも自分の中では自然にそうだから単純に忘れてしまっていたこととして。人生を、あるいはこの世界を、日常を、悲観的に捉えて生きているわけではまったくない。言葉のイメージに引きずられかねないなと思って、こんなタイミングではあるけれど補足しておく。悲観的じゃない、全然。かなり肯定的に世界を捉えているほうだと思う、主観的には。だから、なんだろ。悲しさとか苦しさとか寂しさとか、そういった負の感情を単に集めながら生きていきたいっていう話じゃなくてこれは。漠然と悲しくなりたいわけじゃなくて、ちゃんと悲しくなりたいんだよな。ちゃんと、という副詞は不可欠。正しい色の寂しさ。正しい色のそれらに出会いたいし、見逃さないでいたいし、ずっと遠くまで運んでいきたい。それ自体が自分にとっての生きる意味だし、だからこれが、ちゃんと幸せになることだったり、ちゃんと生き抜くことだったりと自分の中では同義になっている。だから、できるだけ多くのことを忘れないままでいたいと思うし、死にたくなんか全然ないな、とも思う。