20231219


 相手のことを同じ人間だと思わない、という解決法があるらしい。それはまあ、おおよそ効き目の見込めそうな対応ではあるなと思いはするものの、少なくとも自分の特性に適合したそれではないような気がする。そこら辺、上手い人は上手いよな。相手の事情へ適度に興味を持たないというか、なんだろう、適切な無関心? でもまあ、上手いとか上手くないとかの話ではないな。生まれたその時点から、あるいは幼少期の環境なんかによっておよそ先天的に決定されていて、要するに自分ではどうしようもないもので。そう考えれば、誰も彼も同じ穴の狢だって気がして笑える。いや、全然笑えない。自分は、なんていうか、自分自身の特性を好ましく思っていて。相手の素性に興味を持つのがかなり得意なのだと思う、恐らくは。この特性のせいで昔は結構大変だったのだけれど(嘘で、大変だったのは自分の周りにいてくれた人たちです。自分は人間関係に恵まれすぎている)、そのおかげで仲良くなることのできた人もたくさんいて、いまでは損失よりも利益のほうが圧倒的に大きいから、だから好ましく思える。使い方次第ってことかも。間違った地図も壊れた拳銃も、どの部分にどういった不具合があるのかを正確に理解していれば運用上の問題はないわけで。ハンドル、あるいは操縦でもある。結局、自分自身の扱い方を学び続けているような気がする、この二〇年とちょっとくらい。そういうのを死ぬまでずっと繰り返していくのかな、と思う。なんかやだな。

 

 相手のことを同じ人間だと思わない、はほとんど不可能に近い。その点、インターネットってすごいと思う。だって、ほんのちょっと角を折れたら、その瞬間に無根拠な誹謗中傷の嵐だもんな。すごい、本当に。どんな世界観だよ。もしかしてこの世界って実は人間のふりをした人形しかいないのかな、とか。話は変わるけれど、変わっているようで変わっていない地続きの話題なのだけれど、可哀想って言葉がかなり苦手。なんていうか、シンプルに他者を見下しているから。憐憫とかもそう。勝手に決めつけるなよ、と思う。自分以外のすべての他人には個々の人生があって、歴史があって、人格があるわけで。なのに、そのすべてを一瞬で否定してしまうような、そのくらい強い言葉。絶対に使いたくない。使いたくない、んだけど。いや、でも、なんかなあ。可哀想だなって、思っちゃうな、申し訳ないけれど。これは自分がよくない、人として。最近、人としてよくないことを考えすぎていて、人としてよくないが口癖みたいになってきた。実際には発声しているわけではないから、なんだろ、考え癖? みたいな。勝者の理屈、それは解る。偶然の巡り合わせ、運がよかった、環境に恵まれていた。まあ、そう。その通りでしかない。お前は運がよかっただけじゃん。返す言葉がない。そりゃ勿論、ある程度の努力はしている。受験勉強だって自分なりには頑張ったし、音楽とか、人間関係とか、色々と。その全部を、運がよかっただけでしょ、と一括りにされたとして、まあおよそ気分のいいものではない。でも、それは他者にそう指摘された場合の話であって、自責の場合は別よね。というか、そういう自責の矢は持っておいた方が健全であるような、そんな気がする。運がよかっただけ。だから、可哀想だとかって言葉は絶対に使っちゃいけない。と、思うんだけど。想像力の欠如とかじゃないんだろうな、ってようやく分かってきた。自分の手元にない、誰かの手元にはあるもの。そういう何かを認めることができない。救済とか、努力とか、気遣いとか、愛とか。同じ穴の狢。たしかに。多かれ少なかれ誰だってそうなはずで。でも、みんなどうにかこうにかでバランスをとっていて。一方で、それが崩れてしまった人もいて。それを指して可哀想とかっていうのは、やっぱり間違っていると思うけれど。でも、他の誰かを傷つける方向に足場が崩れてしまった人は、可哀想だなって思ってしまう、どうしても。だって、きっともう誰も助けないようとはしないでしょ、そうなったら。自分たちには自分たちの人生があって。貴方がそうであるように私もまた。向こう側を見下ろして、でも自分は傷つきたくないからって。運がよかっただけなのにな。

 

 谷底のことなんて考えなきゃいいのにな。向こう側の吊り橋なんて放っておいて、自分は舗装された道の上にいるんだからそれでいいじゃんって。そこまで簡単に割り切れる人はそれほど多くないだろうけれど、でも、割り切ったふりくらいはせめてできる人間でありたかったな。これは本当にそう思う。それさえできれば、あとは時間だとか記憶だとか、そういうどうしようもない構造がきっと何とかしてくれるだろうし。でも、なんていうか、そういう自分が何よりも嫌いかもしれないな。なりたい自分像とかは特にないけれど、なりたくない自分像なら思いつく。他者を切り捨てることに躊躇のない人間。じゃあ、どうすればいいわけって、そういう話になるよね、結局は。

 

 相手の気持ちが分からない人だっている。それはまあ、そう。責任能力のない人だっている。それもまあ、わかる。四方から追い込まれていてどうしようもないだっている。わかる。話の通じない人だっている。いるよね。わかる、わかるよ。全人類と仲良くなろうだなんて別に考えてもいないし、そりゃまあ、そうなれたらもっと楽しくなるだろうけどね、人生。でも無理でしょ。デジタル街の路地裏に一歩でも踏み込めば学べること。でもなんか、ああいう人たちも家ではぐっすりと眠って、朝食を食べて、学校や職場へ行って、それなりのことをして、クラスメイトや同僚と話をして、帰って、シャワーを浴びて、テレビを観たりして、そしてまた眠ったりしてって、そういう普通の生活をしてるのかなって思うと、なんていうか、なんていうか。残酷だよな。結局、全部が全部他人事でしかない。関係なさすぎるでしょ、だって。誰かに向かって石を投げた後の手で、また別の誰かを助けたりしてるかも、とか。考えたくないな。考えたくないわ。

 

 免罪符にはならないだろ、と思う。相手の気持ちが分からないから。責任能力がないから。追い込まれているから。話が通じないから。だから何? だから何なんだよ、としか思わないし思えない。同じ穴の狢、運がよかっただけ、だったとしても。ああ、いや、だから、相手のことを同じ人間だと思わないって解決法が出てくるわけだよね。犬に吠えられたからって怒ったり、雨に降られたからって天気を恨んだり、普通の人ならそんなことはしないもんな。いや、でも、人間でしょ。どれだけ話が通じなかろうが、人の気持ちが分からなかろうが、家ではぐっすりと眠って、朝食を食べて、学校や職場へ行って、それなりのことをして、クラスメイトや同僚と話をして、帰って、シャワーを浴びて、テレビを観たりして、そしてまた眠ったりして、そういうことをしている人間でしょ。怒るし、泣くし、嬉しいし、悲しいし、痛いし、傷つくし、同じ人間でしょ。違うなら違うって言ってくれたらそれはそれでいいけど。こっちは向こう側の吊り橋を人間だと思ってるわけ。昔、人に「君は他人に期待しすぎ」と言われたことをずっと覚えていて。いや、これ自体は本当にその通りだと思っていて、自戒ではないけれど、なんというか、悪い意味ではなく、ある種の指針として記憶していて。まあ、実際そうだと思う。期待しすぎ。相手が自分と同じ人間であることを期待しすぎている。でも、さあ、なんていうか。なんていうか、でしかないや。

 

 本当に意味が分からない。理由があれば、特定の個人の死を願ってもいいの?

 

 最近、ずっと楽しくないな。家にいても外にいても誰といても。もちろん楽しい瞬間はたくさんあるのだけれど、ふとした隙間に思い出して嫌な気持ちになる。朝に目が覚めたときとか、電車に揺られているときとか、階段に躓いたときとか。誰かと一緒にいればまだマシで、でも道を調べているときとか、自販機に向かった相手を待っているときとか、本当にたった少しの隙間なのに。そういえばブログに残したんだっけと思い出して開いてみたら、八月くらいの出来事だと思っていたそれはずっと前のことだった。そんな前だったんだ。この一年をかけて少しずつ、本当に少しずつだけれど、嫌な感情が徐々に蓄積されていって。最初はなんてことなかったのに、いまじゃとてもじゃないけれど手に負えない感じになっている。賭けてもいいよ、絶対に覚えてない。ストレス発散に枕を殴るのと同じで、意味もなく他者の死を願ったりするらしいから、人って生き物は。自分の発した言葉も忘れて、平気そうな顔でへらへら笑って。呑気だよね、ほんと。

 

 人を呪わば穴二つ、らしい。日々が楽しくないのって、だから結局はそういうことなんだろうな。健全じゃないし、それに人としてよくないよ、どう考えても。というか、どうなればいいのかも分かんないし。どうなればいいだろう。どうなればいいんだろうね? 少なくとも、奇跡じみた出来事が起きてほしいとは全く思わない。これ自体、精神が健康じゃない証拠と言われたら、それはまあそうかもしれない。

 

 幸いなことに、自分の周囲には素敵な人たちがたくさんいて、だからまあ大丈夫かな。それにどうせあと一年くらいで終わるんだし、このまま放っておいても遅かれ早かれなんとでもなる。向こう側の吊り橋はそのうち見えなくなって、自分と同じ方角へ歩いてくれる人たちが少なからずいて。擦り減った踵はそのままかもしれないけれど、でもまあ靴なんていずれはどこかで買い替えられるだろうから、その日までの辛抱で。とか。最悪。そんな人間にだけはなりたくなかったのに。