20240112

 

 学部生の頃、好きだった人がいて。いまはもうほとんど接点ないんだけど、ちょっと前になんかいきなり電話がかかってきて、でもまあそれくらいの距離感の人。当時は、……いや、どうなんだろう。場合によっては本人が読みかねないところでこんなことを書くのも憚られるといえば憚られるけれども、好きと嫌いとが混じり合っている感覚というか、分かるかな。好きだけど嫌いで、嫌いだけど好き、みたいな。でも、いまにして思えば、たぶん、あれってどちらも好意を源として存在していた感情だったのかも。こういうの、ともすれば過去を美化してるだけという場合も考えられるけれど、そうではないことの根拠の一つとして、だって、いまは全然嫌いなんかじゃないし、むしろ好きだったと思うから。でもそれは当時よりも心理的な距離が空いたからなんじゃないの? と思うかもしれないけれど、いや、相手のことを心の底から嫌っていたら距離が離れたところでずっと嫌いなままなんだよ。これは人に依るだろうけれど、自分はそう。負の感情を持ち合わせている対象は、それが人だろうが物だろうが、ある程度の距離をとると大抵はどうでもいい対象へと置き換わる。どうでもいいっていうか、なんだろ、うまく言えないな。でも、だいたいのものって基本的にどうでもいいし。遠く離れてまで憎み続けるものなんか早々ないから。それもまあ、人に依るんだろうけどさ。というので、だから、そこそこ嫌いな対象ってある程度離れたらもうどうでもよくなっちゃうんだけど、本来、自分を駆動させるシステム的には。あるいは、本当に嫌いな対象なら、ずっと本当に嫌いなままなんだけど。でも、その人はそうじゃなかったんだよな。なんでだろう、と考えたりした、だいぶ前のことだけど。思うに、大学へ来てからいちばん衝突した相手、……だと思う。恐らくは、いちばん本音を話した相手でもある、はず。ここでいう本音とは、なんていうか、良い意味で相手の事情を気にかけない言葉という意味。普通はそんなことしないし、できない。社会は他人を思い遣るようにできているから。あるいは、夜にしか話せないことってたくさんあると思っていて、ところで自分は大学へ来るまではそんな風に夜を使うことがなかったから。そういう夜の使い方をした相手も、だから、あの人がいちばんなんじゃないかな。向こうがどう思っているのかとかは知らないけど、全然。ただ、人間関係に優劣をつけることはできないし、そんなことをするつもりは全くないのだけれど、それでも、大学へ来て一番よかったと思うことは何ですかと尋ねられたなら、十数分は悩んだうえで、学部一回生のときにあの人と出会えたことをアンサーとして挙げるかもしれない。あの人との出会いがなければ、それ以降のすべての人との出会いがなかった(あるいは、現在と同じ関係性にまでは進展しなかった)可能性さえある。そのくらいには、現在の山上一葉という人格に大きな影響を与えた人だと、少なくとも自分ではそう思っている。繰り返すけれど、向こうがどう思っているのかは全く知らない。そういう距離感のままでいてくれるところも、たぶん好きだったんだろうな。

 

 あの人の言葉やそれを口にしていた場面なんかを、いまでもなんとなく思い出したりする。京大周辺の深夜には、その断片がたくさん転がっている。コンビニの廃棄場、店裏のダクト。鴨川沿いの公園で檸檬の話をしたりもした。梶井基次郎。自分は文学に明るいわけでは決してないから(これは本当にない)、そんな物知り顔で話せる立場でも全然ないのだけれど、三条の丸善に行けば檸檬が置かれているコーナーがあるはず(あれ、たしかずっと置かれてるよね)。あの檸檬のこと。あるいは、共犯者、緑色の空。すごいよ。いまでも探すし、みつけたら「あ、緑色の空だ」って思うもんね。びっくりする。そうやって日々浮かび上がってくる幾つかの中に、他者の価値観についての言及がある。流石に一言一句違わずとはいかないけれど、たしか、「そういった考え方があること自体は構わない。ただ、その考えを安易に自分へ向けられたら間違いなく怒るよ」みたいな、そんな感じの。何に関する話題で出たんだっけな、これ。その人の家にいたときに聞いた言葉だったなってところまでは思い出せるんだけど。それはまあいいか。とにかく、そういうのがあって。別に、その言葉に甚く感銘を受けたってわけじゃない。何度も言うけれど、当時は好きと嫌いとが混じり合った感じだったし、いや、当時から好きは好きだったけれど。でも、そんな、なんていうんだろう。妄信? とか、崇拝? とか。そういう間柄じゃ全然ない。どちらかといえばお互いにお互いを殴り合い続けてたみたいな……、それもそれでまた違うだろうけれど。でもまあ、そんな感じだったから。その台詞を耳にしたその瞬間に、何かしら思うところがあったというわけでは全然なかった、はず。でも、それでも、未だに繰り返し思い出すんだよ。何年前、……五年? とか。少なくとも四年以上は前の出来事なのに。不思議だよね。日常のワンシーンとしての会話でしかなかったはずなのに、それでも自分の心の奥深くにたしかな形として残っている。そういう人とは、もう今後、死ぬ瞬間まで出会うことはないんじゃないかって気さえする。みたいな。冬の夜は特にあの人のことを思い出すなあって、さっき、買い物からの帰り道を歩きながらぼんやりと考えていた。冬に特別な思い入れがあること自体、多かれ少なかれあの人の影響なのだから、まあ、それはそうといえばそれはそうか。

 

 嫌なことってキリがないからさ。だから、好きな人のことを思い出そうと思って。嘘。思ってはない。ただ、無意識的にそういう心の動き方をしている気がする。だって、さっきまであんな陰鬱な気分だったのに、いまはもう全然そんなことないもんな。憂さ晴らしをしたとかでもなし、ただ思い出せることを書き下しただけなのに。

 

 物語的な関係性って、やっぱりあると思うんだよな。言ってて気持ち悪いなって自分でも思うけれど。でも、どんなに気持ち悪かろうが、あるいは誰に何と思われようが、一切の感情なんておよそ無関係で。思うに自分は、一〇〇万回生きた猫のことが好きだった。どこにもいけないものの一つ、校舎の屋上、一一月。愛を避けて歩くということ、幸福の本質。本当に何十回、何百回と繰り返し読んだから、かなりの場面と台詞を思い出すことができる。同じなんだよ、だから、たぶん。違うところといえば、人生は小説と違って、同じ場面を繰り返したりはできないってところくらい。エンドレスエイトじゃ困るから。でも、なんだろ、その経験? 過去? 目にしたもの、耳にしたもの、感じたこと。そういった全部が現在を生きている自分にとってどういったものとして処理されているのかということ。それが、だから、物語的だなって思う。だって、あり得ないよ、普通。そんな、日々の何気ないやり取りをいまでも思い出すなんて。少なくとも、自分にとっては決してありふれたものなんかじゃない。そういうのを、そういうことこそを大切にして生きていきたい。いきたいなって思う、思った。ちょっと、最近の自分はこのことを忘れすぎている気がする。そういう、現実世界の閉塞感なんて気にもならないくらいに眩しいものの在処を。四年前、あるいは五年前? たしかにそういう時間があって、だからいまの自分がいて。別の世界線なんていくらでもあるよ、きっと。もっと入学当初からうまく立ち回れていた if とか、あるいはいま抱えている嫌なあれこれと向き合わなくてよかった if とか、そんなのいくらだって思いつくし。でも、それでも、なんていうか、これでよかったんだって思いたいし、そう思える自分でありたい。……と思う。嫌なことってキリがないけどさ、本当に。だからって、全部が全部間違っていたなんて考えたくないし、それに、とてもそうだとは思えないくらいにかけがえのないものを自分は既に貰っているんだってことを、だからちゃんと思い出さないといけないし、そのことをちゃんと忘れないままでいたい。それを失くさないでいる限り、きっと自分は大丈夫だろうなって気がするから。

 

 とりあえず、散歩でも行こうかな。冬と友達になりたい、一先ずは。