人生って一度しかないらしい


 人生って一度しかないらしい、実は。真面目な話をする、自分は本当に死にたくない。できるだけ長生きしたいし、だから早く寝たほうがいいし、ちゃんとしたご飯を食べたほうがいい。最近は一週間の何日かは魚を食べている、意味があるかはさておいて。そもそもの話、死んでしまったらそれで全部が終わりなんだよな、当たり前だけど。死神が突如として目の前に現れたとして、去年の自分ならいざ知れず、いまの自分はその事実を受け入れることなんて到底できないはず。要するに、未練がある。未練というか、やりたいこと、やり残したこと、死にたくないと思う理由。そういうのがある。死んでしまったら終わり。その後の世界がどうなるかとか、そういう一切は何の関係もない。輪廻と呼ばれる機構がこの世界の裏側に存在するとして、いまの自分も何十年、何百年と前を生きた誰かの生まれ変わりだったとして、だから何なんだという話。前世の記憶なんて当然持っていないし、現在がそうである以上、生まれ変わる前の誰かの意識はやっぱりその誰かが死んでしまった時点で綺麗に消滅してしまっている、はず。となると、死んでしまった後って、果たして自分の意識はどのようになるんだろうなって思う。死って、完全な消滅と同義なはずで、訪れてみないと確かめられないもの。天国だなんて大団円を信じてはいないけれど、否定はできないから懐疑的というわけでもない。ただ、漠然と不思議に思う。鴨川を歩いているときとか、誰かと夜を眺めているときとか、あるいは湯舟に浸かっているときなんかに、ふと。で、そのたびに怖くなる。死ぬって、自分自身の意識が完全に消滅するって、いったいどういうことなんだろう。よく分からない。人は、自分の理解が及ばないものに負の感情を抱きがち。主語が大きい、でも、これは流石に適度な一般論じゃないかなと思う。怖、死ぬのって怖くない? 終わらせる勇気があるなら、続きを選ぶ恐怖にも勝てる。その通りだな、って思う。ここで誤解が生じるとアレだなと思うので補足をしておくと、別にそういうことを考えてるとか思い詰めてるとかって話ではなくて、いや、死にたくないんだって、だから。毎日のように死にたくないと思うから、死という現象へ必要以上に目が向いている。そういう状況。でも、だからって目は逸らせない。幽霊だって、実際に出くわしたらきっとまじまじと眺めてしまうはず。そういうものでしょ、自分の理解が及ばない現象の類って。

 

 昔は嫌いなものが多かった、という話。この世界に、許せないものがたくさんあった。いや、人並みだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。その多寡を主観的に判断することはできない。ともかく、嫌いなものがあった、たしか。そういうのが全部どうでもよくなった、ある瞬間を境にして。それって、でも結局は、自分の人生が一度しかないという認識に直結してるんだよな、と思う。たとえば、夜の木屋町で酔いつぶれている人間を目の当たりにして不快な気持ちにさせられる。ところで、その結果にいったい何の意味があるんだろうなって思う、昔の自分を振り返ってみて。自分の人生に一切関係ないし、というか、不快であるのならなお一層、そんなもののために思考を割く必要なんてなくないか。なんでわざわざ嫌いなものに指差し笑う必要があるの、って思う。時間と感情の無駄遣いでしかない、冷静に考えて。そんなもののために何かを割くくらいなら、自分の好きな人とか、あるいは自分を好いてくれている人とか、そういった誰かのために何かを使ったほうがよっぽど有意義だなと思うし、だって人生って一度しかない。もうじきに心臓が止まるって瞬間になって、そんなときに思い浮かぶのが自分の嫌いなものばかりって、そんなのは嫌だし。嫌いなものに指差し嗤う、そんな君の幼稚な世界。高校生の頃に覚えた歌詞。幼稚、まあ、実際に幼稚だった、以前の自分は。まあ、大学生になったばかりの人間なんてそんなものかと思うけれど、他人事じゃないんだよな。でも、実際にそうだったけれど、でもこれって幼稚とかって話でもないよなと思う。誰の人生を生きてるの、という話。自分の人生だよな。それはそう。じゃあ、わざわざ自身と相容れないものと交わろうとする必要なんかない。国語力。こんな継ぎ接ぎの文章に読解も何もないけどね、誤読されたらそれは全面的に自分が悪い。ただ、ここは勘違いされたくないのでちゃんと書いておく。自身と相容れないものに対して、向き合う必要がないと言っているのではないし、耳を貸す必要がないと言っているわけでもない。そうではなく、その相容れない何かを嫌いでいる必要がそもそもない。だから、これは自分の話だけれど、嫌に思う物事ってもう本当にほとんどないんだよな、この世界に。好きなもの、どうでもいいもの、本当はグラデーションだけれど実質的にはこの二つしかない。好きの反対として無関心を採用している。ベクトルの向きではなく、絶対量としての対義。自意識過剰、嫌ってすらやらない、どうでもいいんだよな、そういう全部。歩き煙草も、信号無視も、改札の前で急に立ち止まるのも、本当にどうでもいい、高校生の頃はどれも嫌いだったけれど。だって、自分の人生に関係ないしな、一切合切。嫌いなものを嫌いでい続ける理由の一つ、それは、それ自体が自身のアイデンティティに直結するから。何かを嫌いでい続けることによって確立される自己、それを手放せないから、だから何かを嫌いでい続ける。少なくとも、以前の自分はそうだった。一番どうだってよくなったのは、そういうのに縋りついていたいつかの自分自身かもな。それが嫌いで嫌いで仕方ないくせに、それが消えずに在り続けることに、そしてその実存によって背理的に証明される自己の存在性に無自覚に依存する自分自身。しょうもなさすぎ、いったい誰の人生なんだよ、それは。あれが嫌いです、これが嫌いです、あれが許せません、これが許せません。そうして否定的な文言で定義されているお前自身は、じゃあいったい何者なの? っていう自問自答。想像するだけでも嫌になるし、実際に嫌になった。そうこうしているうちに全部がどうでもよくなった。明確なきっかけなんかは恐らくないし、だから離散的な変化だったわけでもない。周囲の人たちによる様々な働きかけの蓄積によってそうなった。自分は、いまの自分のほうが昔の自分よりもずっと好きで、だからこの話はこれでおしまい。本人が満足しているなら、あらゆる結果はそれで構わないんだよな。絶対的な正解なんて、この世のどこにもありはしないのでね。

 

 なにかよくないことが起きたとき、自身がその中心にいると真っ先に思い込むのは、ある意味で自己愛の裏返しだよなという文章を、たしかどこかで見た。たしかっていうか、普通に買った文庫本の中に書かれていた台詞なのだけれど、一応タイトルは伏せておく。……まあ、概ねその通りだなと思った。自分がきっかけで何かよくないことが起きている、それは実際に在り得る可能性だけれど、でも、大抵の場合において、集団に与える個人の影響はそれほど大きくない。というか、だいたいは誤差の範囲内に収まるはず、集団の規模が大きければ大きいほど。自己愛の裏返しというのは、だからまあ、そういう意味だろうと思う。とはいえ現実的には、よりもっと複雑な背景事情が絡み合っていることだろうから、だからこんなのは「ある意味で」でしかないのだけれど。嫌なもの。そういった負の感情が局所的に発生することは当然あるけれども、だけど、それだけ。自分が向けているのと等量の嫌悪感を相手も返してくれるだなんて、いくらなんでもそれは都合がよすぎるし、過大評価。一個人が周囲の環境に与え得る影響、非対称の矢印。なのに等価を望むのはどうして? 嫌ってすらやらない。だって、人生って一度しかないらしいし。だから勿体ないでしょ、そんなことに時間を使うのは。四半世紀ってだいたい七億八千万秒弱あるらしいけど、でも、いざ振り返ってみると、その膨大な数にしたってあっという間に過ぎちゃったわけだし。そう思うと、死神が鎌を片手に尋ねてくる日だって、気を抜くと一瞬でやってきてしまいそうな、そんな感覚。与えられたものが有限であるなら、それは自分の好きなものや好きな人たちのために費やしたいと思うし。だから、嫌ってすらやらない。どうだっていいんだよな、本当に。