20221107


 夢の中で遺書を書いていた。具体的にどんなことを書いたのかは覚えていないけれど、「なんか」という言葉を使ったことと、あと、書き出しは両親に対するものだったことだけは思い出せる。……遺書ねえ。夢の中では死がものすごく身近なものとして在って、どういう理屈だったんだろう。なんらかのルールが設けられていて、それに抵触した場合に死という代償が降りかかってくるみたいな、そういうシステムだったのかも。とはいえ、明らかに人を食事対象としかみていないようなサイズ感の生命体とかもわんさか出てきてたけど。蛇みたいな見た目で、口の中にさらに口がある感じの、これで伝わるかな。夢の中の自分は、と書いたところで思い出した。たしか、なんらかのイベントに参加するために命を懸けることが求められていて、そのレースを勝ち残れるのがたしか一人だけだったんだよな。そう書いてみると、なんていうか、よくあるサバイバルものだなって感じがしてきた。なんでそんなものに参加したんだよというツッコミが当然あるわけだけれど、それは夢の中の自分も疑問に思っていたことではあって、実際、何の目的があって今自分がその場に立たされているのかは最後の最後まで明らかにされなかった。夢の中の自分は、と同じ書き出しを続けるけれど、夢の中の自分はかなり生に執着していたっぽい。そこそこ必死だった気がする。目が覚めて真っ先に「なんか、変な夢みたなあ」とありきたりな感想を浮かべた後で、「夢の中の自分、面白いくらい必死だったな」と思った。別に現実世界でだって死にたくなんかないけれど、とはいえ夢の中のそれは死のスケール感が違いすぎて比較対象にもならない。あんな怪物みたいな蛇に出くわす機会なんて日常生活にはないし、ここは日本だから。ただまあ、そういう風に振舞う自分を主観的に体験できたのは、かなり有意義なことだったかもなと思う。自分だってあれくらいは必死になれるものなんだな、という意味で。

 

 先月末、28 日かな、初めて人身事故に巻き込まれた。初めて、だったと思う、記憶が正しければ。人身事故の発生を意識させられた場面ならこれまでにもたくさんあって、ただそれらはたとえば、駅へ行ってみたら何故か電車が止まっていた、くらいの余波でしかなく、あの日くらい強烈に影響を受けたことはなかったと思う。その日、自分の乗っていた列車よりもちょうどひとつ前に出発したそれが事故を起こしたらしかった。全線の運転が見合わせになる中、自分たちの乗りこんだ列車は事故現場のすぐ手前で停車させられることとなった。運転再開見込み時間を知らせるアナウンスが車内に響いたとき、周囲から驚きの声が漏れていた。ところで、自分のスマートフォンは(経年劣化により)バッテリーが壊れていて起動せず、つまり時間を確かめることもできず、どのくらいの時間をここで費やすことになるのか、いまいちピンと来ていなかった。ただまあ、周囲の反応からして一時間以上はあるのだろうというくらいの当たりはつけられた。スマホが使えないだけならまだしも、生憎その日は読書用の本もノート PC も計算用の紙も持ち歩いておらず(なぜなら M3 前のデスマ期間で、電車での移動時間を休息に充てようと思っていたため)、本当にすることがなくて困った。結論としては二時間弱を線路の上で過ごすことになったのだけれど、そのうち眠っていたのは(体感)五分くらいのもので(電車って揺れるから眠れるのであって、一切揺れないと全く眠れないらしい。個人差あるかも)、ほとんどずっと眠ることもなくぼんやりと辺りを眺めていた。バイト先から帰るときは必ず進行方向最前の車両(のなかでもさらに最前の座席)に乗り込むことになっていて、その日もそうだった。最前車両以外は駅のホームへ降りられないような停車の仕方になっていたため(思えば、どうしてなんだろう。あれが一般的な対応なのか、それともそれよりも先へ車両を進められなかったのかな)、逆に言えば、運転手さんと警察の人のやりとりなんかが全部聞こえてくるわけで。慌ただしかったな。野次馬的に前方のみえる窓へ駆け寄る人もいたし、そっちのけで映画観てる人とか、スマホでマンガ読んでる人もいたし。まあ、自分みたいに寝てる人もいたし。外では救急車だかパトカーだかのサイレンが忙しなく鳴り響いていて、窓から差し込む橙がかった赤の色も、結局、ホームから電車が発つそのときまで止むことはなかった。なんていうか、怖かったな、めちゃくちゃ。って話を既に何人かにしている。怖かったわ、本当に。誰かの死がすぐ近くにあって、でも、乗り込んだ車両の中では少しズレたくらいの、それでも日常の一部として包含してしまえるくらいの時間が流れていて、それは自分も含めての話。なんかなあ。そういうものだよなって思って、そういうものだよなって感想が何よりも怖かったって気がする。……みたいなぐちゃぐちゃの気持ちを抱えたまま、それとは別に私情としてその日は徹夜から二〇時間余りを経過したことによる疲れがあり、ところで帰ってやらなきゃいけない作業も山ほどあるという差し迫った状況下で、気持ちの置きどころがないな~~~と思いながら帰宅していたところ、家の階段のすぐ前に見知ったような顔があった。「いや、こんな時間にこんなところで知り合いが突っ立ってるわけないな」と思いスルーしようとしたところ名前を呼ばれた、めちゃくちゃ大きい声で。状況が掴めず「なんだなんだ」と思っているうちに、向こう側からもう一人の知り合いが駆け寄ってきて、その相手の言葉でようやく何が起こっているのかを把握した。その日、『 20:30 までには連絡をする』という約束があり、ところであらゆる文明から切り離されていた自分にはそれが叶わないことを伝える術もなかったわけで、など。そのほか様々な要因が重なりに重なった結果として、自分が部屋の中で倒れているんじゃないかと心配されていたらしい。なるほどな、と思った。自分にはその実績があるし、何回か。不要な心配をかけてしまったことは純粋に申し訳なく、というか家までわざわざ来てくれた二人以外にも結構な数の人にそうさせてしまっていたみたいで、普通に反省(実際には何も起きていなかったわけだけれど、日頃の行い)。ところで、当事者がこんな風に言ってしまうのはあんまりに良くないなと思うのだけれど、と断った上で言うのだけれど、嬉しかったな、かなり。人身事故巻き込まれによるメンタルダメージの直後だったというのもあると思うけど、なんていうか、まあ、そうね。ところで、他人に心配をしてもらうこと自体に喜びを感じているわけではなく(そういう意味ではない、当然ながら)、余計な心労はかけないにこしたことがないので、ちゃんと気をつかおうという気持ちにもなった、より一層。すみませんでしたとありがとうございましたの気持ちでいっぱいです、本当に。

 

 優しさって何だろうな、というのが最近のトピックで、でも多分、優しさってこういうもののことなんだろうなと思う。誰かのためを思って動くだとか簡単に言うけれど、それが本当に誰かのためになるかどうかなんて分かんないし、それを決めるのはその『誰か』自身なわけであって。だから、それが優しさかどうかを決定するのは行為者ではなく、被行為者の側なんだよなっていう。そういう意味で、誰かと誰かの間にしかないものだとも思う。自分の側にだけに在処を規定された優しさなんてただの独善でしかないというか。そもそも、区別できるものなのかな、そういうのって。相手のためを思って動いているのか、自分のために動いているのか、そこを明確に区別することが果たして主体側にとって可能であるのかという話。自分は、できないと思っている。『誰かのため』って言葉の裏には無数の私利私欲が隠れているような気がしていて。というか、多くの場合において実際にそうで。だから、たとえば自分の中にそういうものがあったとして、それそのものを優しさだとか何だとかって呼びたくないというか。ところで逆に言えば、たとえば自分が嫌だからという理由だけに基づいた行動であったとしても、受け手側がその様を優しさだと判断したら、それはその行為者が優しい人間だったということにもなり得るんだよな~っていう。自分は『優しさ』とかいうふわふわワードをそういう風に理解していて。その定義でいくのなら、自分の周りにいてくれる人たちは優しい人ばかりだなと思う。誕生日とかも相まって、この数日はそういう気持ちがずっと強かった。恵まれてるなって思う、本当に。