評価


 自分は他人による評価をあてにならないと思うと同時に大切だとも思っていて、その一方で、自分自身による評価は大切だと思うと同時にあてにならないとも思っていて。この二つは同じようでいて全く別の感情だという気もすれば、でもやっぱり同じようなものなんじゃないかって気もしていて。なんだかよく分かんない書き出しに始まっちゃいましたけれど、今回はそんな感じのことについて書こうと思います。どっちから話そうかなって感じですけれど、いやまあどっちだっていいんですが、なんとなく後者から先に。自分は自分自身による評価をそれなりに大切にしていて、創作物であっても僕個人のことであっても、何であってもそれはそうで。なんていうか、まあ、こんなことを言ってしまうのは身も蓋もない話ですけれど、自身にまつわるありとあらゆる事象については、他の誰でもない自分自身が最大の理解者だっていうか。それはまあ、当たり前といえば当たり前のことですよね。別に内面的な話に限らなくたって、どういった日常生活を送っているかだとか、どういった境遇で育ってきたかだとか、その過程でどのような思考が生まれたのかだとか、そんなの自分以外の他人は誰一人として知る由のないことで。でも、いまここに生きている自分を形作っているのはそういった全てなわけで。そうなると自分自身こそが自分の最大の理解者だっていうのは、それほど大袈裟な話でもないって感じですけれど。でも、その、初めに述べたように『あてにならない』とも思うんですよね、自分は、かなり。あえてなぞらえるなら最大の誤解者にもなり得るという印象があって、自分が、自分自身の。その、「自分はこういった人間だ」という理解が手の内にあったとし。なんだろうな、それが背中をふっと押し出すような追い風だとか何だとかになることもまあ当然あるのですけれど、一方で足枷や手錠みたいになっちゃうことも結構あるような気がしていて。……というのは、完全に僕の経験談ですけれど。なんていうか、むかしの自分はよく自分のことを『捻くれている』だとか、有体に言えば『性格が悪い』だとか、そういったことを自称していたんですよね、たしか、記憶通りなら。でもなんか、いまにして思えば、そういうことを本心から思っていたかといえばあんまりそんなことはなくて、だけど、それがなんか口癖みたいになっちゃってて、いつの間にか。「性格の悪い人間」という定義を自分に課していたというか、何の意味もなく。これもまあ、ルーツをたどれば幼少期の諸々が原因だったりするんですが、それはさておき。だから要するに、事実がどうであるかなんてさておいて、「自分はこういった人間だ」と一度思い込んでしまったら、その呪いを解除するのってそれほど簡単なことではないんですよね、きっと。それこそ『自分自身こそが自分の最大の理解者』という、あながち嘘だとも言い切れない感覚が備わっているくらいですし。そういう意味で、僕は自分自身による評価を『あてにならない』と思っています。でも、どちらかといえば僕は自分自身による評価を大切にしていたい側の人間なので、だから冒頭のような言い回しになっているというわけです。……『あてにならない』自己評価の判断法って結構分かりやすいとも思っていますけれど、自分は。なんていうか、これ、自分がそうだったからというだけかもしれませんけれど、しかし周囲の人間をみていても感じることとして、『聞いてもいないのに出てくる自己診断』ってだいたい『あてにならない』のほうに分類できるような気がしていて、というのは話ついでの雑談ですけれど。それこそ、かつての自分が自分のことを事あるごとに『性格が悪い』と称していたのと同じように。不特定多数の人間に向かって「自分は優しい人間です」と喧伝する人がいたとして、その相手を信じることができるのかみたいな話でもありますけれど。『優しい』をどのように定義するのかということはさておき、本当にそうであるならそもそもそれを誇張する必要もないっていうか。だから、なんていうかそれが思い込みというか、ペルソナ? 「自分はこういった人間だ」という意識、あるいはそれに類似した「他者の目に映る自分はこうであってほしい」という欲求? そういった何かしらの顕れなんじゃないかなと、自分はどうしてもそのように勘ぐってしまう節があって。いやまあ、昔の自分がそうだったからなんですけど。……話が逸れすぎた。ともかく、自分自身による評価は大切であると同時にあてにならないと、自分はそう思っているという話です。一方の前者。他者による評価ですけれど、こっちはやっぱり『あてにならない』という気持ちのほうがずっと強くて。それは何故かというと「自分自身こそが自分の最大の理解者」だという意識がどうしたって優勢だからという話でもあるのですけれど。めちゃくちゃな数の言葉を交わしたはずの相手が自分のことを全然分かっていなかったりだとか、そんなのはあるあるで。いや、これは別にその相手が悪いという話では決してなく、それは普通のことっていうか、というか、そもそも自分だってその相手のことを何も分かってなんかいないし、だからまあお互い様なんですけど。なんていうか、……どうなんだろう。この主張がどれほどの共感を集めるか分からないんですけど、人間って基本的に寝て起きたら次の日にはもう別人になっているものだと自分は考えていて。地続きじゃないっていうか、表面上ではどれほどそうみえていたって、水面下じゃ全然違う別の誰かになってしまっているというか。もっとわかりやすく言うと、昨日と今日とで考え方が 180°変わってしまっていたりだとか。それはまあ極端な話かもしれませんけれど、でも数分狂わず同じだってほうがずっと気持ちが悪いように自分は感じてしまうというか。0 に近似してしまえるほどの微小な変化だとしても、その個人の中で何かが変わったという事実には変わりがなくって、でも僕らはお互いにその小さな変化を見逃し続けていて。だって、常に思考を共有していられるわけではないんだし。そんなのは当たり前。だから『目の前にいる誰か』と『頭の中にある誰かの像』が次第に食い違ってくるというのはいたって普通のことで、だけど僕らはどちらかといえば後者を、すなわち主観的な印象を以てして他者を評価しようとしてしまうので、どうしても。だから『あてにならない』って、そういう話です。……ちょっと前だかだいぶ前だかに優しい人だと言われたことがあって、面と向かってではありませんでしたけれど。なんだろ、少なくとも自分は自分のことをそういう風には評価していなくって。そもそもこの話を書こうと思ったのが、その辺りの食い違いが少し前に何度かあって、もやもやではありませんけれど、なんだか心の奥のほうにぼんやりと留まり続けていたからだという裏話がありますが、それはさておき。それはまあ『優しい』をどういう風に定義するかって話でもあって、だからその相手と自分とで定義が食い違っていたというだけの話なのかもしれませんけれど、ともかく自分は自分のことをそうだとはおおよそ考えていなくて。どちらかといえば厳しいほうというか、冷たいほうのような気がしていて。なんだろう。たとえばの話ですけれど、恋人と別れてしまった人に対して「きっとまた良い人に出会えるよ」と声を掛けることが優しさなのかどうかっていう、それくらいの話。僕はそれを『優しさ』の一つだと思っていて、信じていて、でも自分はそのようなことを絶対に口にはしないので、何があろうとも。そういう意味で、自分の思い描く『優しい』には程遠い人間のような気がする、というのが自己評価で。……むしろ自分はその傷口を抉るような真似をしかねないというか。いやだって、その「きっとまた」で救われることってたぶんないじゃないですか。怪我をしたときにとりあえず持ってくる氷水みたいな、ただの応急処置でしかない一言っていうか、間違ったピースを無理やり嵌めてパズルを作るみたいな、なんだかそんな感覚が強くって。だったら傷口に正面から向き合うしかないじゃんかって、自分はどうしてもそういう風に思ってしまうというか。だから、意味のない慰めは絶対にしないんですけど。ただ、これが正しいとは全然思っていなくて、つゆほども。というか逆で。そういったときにたとえ本心でなくたって「きっとまた」と言える人のほうがずっと優しいに違いないって、そういう気持ちが自分の中にはたしかにあって。んー、だからまあ、自分と他人とじゃやっぱり色々と評価が食い違っているんだなって、そう思ったってだけの話なんですけど。……でも、それはそれとして、他人からの評価は大切すべきだとも自分は考えていて、良いも悪いも平等に。これについては確か以前にも書いたような気がしますけれど、自分じゃない誰かの言葉って呪いを解くに至るほとんど唯一の方法なんですよ、きっと。少なくとも自分はそんな風に考えていて。上のほうで、昔の自分はよく自身のことを『性格が悪い』と称していた、みたいな話をしましたけれど、当時の自分を前にして「素直」と言ってのけた人間が一人いて、たったそれだけ。そもそもの話、自分が幼少期にそんな感じのことを言われ続けて育ったからなんですよ、これのルーツが。親族との相性が悪かったみたいな話をどこかで書いた気がしますが、まあその一環で。いや、『性格が悪い』と直接的に言われたかどうかは覚えていませんが、『捻くれている』は間違いなく数回どころでない数言われたはずで、それがいつしか自分の内側で転じて『性格が悪い』ということになったのでしょうけれど。なんだろ。いやまあ、その程度のものなんですよ、呪いって。だけど、それゆえに強固でもあって。そういう、なんだ、檻? ……眼前の鉄格子にも気づかないんじゃ楽園のようなものかもしれませんけれど、まあ出口のない迷路でも天井に描かれた青空でも、なんだっていいです、別に。そういった閉鎖空間から自分を連れ出してくれるのって、時間でも奇跡でもない、もっとそこら中にありふれているものなんだろうなと自分は思っていて、いや、それが『他人の言葉』だって話ですけれど。直接的な表現をするとすれば、要はフィードバックですよね。『自分の定義する自分』と『他人のみている自分』は往々にして食い違っているものですけれど、前者を勘違ってしまったとしたら、それを正すことができるのは後者なんじゃないかって。そんなことを思ったり思わなかったり。『評価』というものに対して思うところがあるとするなら、一先ずはこの辺りかなという感じです。