辞書


 皆さん、辞書を読んだことはありますか? ここでいう『読んだ』というのは、たとえば文庫本や漫画を指してそう言うように、『最初から最後まで目を通した』という意味合いで、つまりは読了ということです。ありますか? ちなみに僕はないです、当然ながら。辞書を読むのが好きだって人、一定数は間違いなくいるだろうと思うのですけれど、ただ、恐らくマジョリティではないですよね。んー、どうなんだろ。たとえば、この国の人間の半分以上が辞書を読了したことのあるような世界線がどこかにあったとして、そうすれば今と少しは違った社会になってたりするのかなあって考えてみたりもするんですけど、んー。あんまり変わんなさそうな気もしますね。いやまあ、それはいいです、どうだって。辞書の話はここで一旦さておくとして、別の話。いわゆるところの議論ってやつがあるじゃないですか。議論。まあ会議でも裁判でも、対話を伴うものであればその実なんだって構わないのですけれど。ああいった場で最も重要なことって何だろうなと考えてみたときに、その候補の一つとして『前提条件の共有』があるように思うんですよね。それがたとえば X という企画を通すべきか否かという話し合いの場であるなら、まず X そのものが何であるかといったことや、そもそもの話、その企画の意図はいったいどこにあるのかという大前提の共有は当然のように必須として。その話し合いの場がどういった理由から設けられたのか、つまり現状どういった問題が想定されているのかということの共有ももちろん必要で、それを知らずに話し合いに参加している人間が一人でもいれば話は拗れていく一方でしょうし、話し合いの目的を見失ってしまう可能性も十分にあって。だから、こう、「何かについての話をしよう」となれば『話の前提を全員が共有している』という状況が望ましいんだろうなって、理想ばかりを言ってもよいのなら自分はそのように思うんです。思うんですよ。……そこで最初の話と繋ぐんですけど、自分は辞書を『読んだ』ことがないんですね、先述の通り。そして自分以外でも、恐らく多くの人が辞書を『読んだ』ことがないはずで。だけど僕らは日常的に言葉を交わすわけじゃないですか。「おはよう」。「そういえば、昨日借りた漫画、面白かったよ」。「本当? よかった。家に続きがあるから、また持ってくるよ」。みたいな感じで。なんか、いや、考えすぎだってのはまあ分かってるんですけど、これってめちゃくちゃ怖いなって思いません? 個人的なことを言うと、なんていうか、『偶然にも同じ音素で似たような意味合いの言葉がたくさんある、でも本当は全く別の言語を使っている人』と喋ってるみたいな気持ちになるっていうか、……なりませんか? たとえば自分は A という言葉を a という意味で定義していて、一方の相手はそれを α という意味で定義していて、a と α で意味合いは微妙に異なるはずなのに、でも大局的にはだいたい同じ感じだから、両者ともその食い違いに気づけないままで会話を進行させてしまう、みたいな。でも、こう、そういうのを積み重ねていくうちにいつの間にかすれ違ってしまっていて、「あれっ?」みたいな。そういうの、めちゃくちゃ怖いよなあって自分は思っていて。そう、だから対話のためには『話の前提を全員が共有している』という状態が理想であるはずなのに、そもそも自分たちは言語の定義時点ですれ違っている可能性がとても高いよなって、そういう話です。なんか、なんだろ。こういったことをめちゃくちゃ考えるようになったきっかけは明確にあるんですが、まあでも、それよりも以前からこの感覚は知っていて。作詞なんかをやっている人なら分かるんじゃないかなって思うんですけど、表現ってあるじゃないですか。表現。その、ちょっと大雑把に言いすぎた感がありますけれど、まあ比喩だとか何だとかって適当に読み替えてください。その数多くの表現の中でも、特に自分に馴染んでいるという何かが、たとえば作詞をやってたりという人には少なからずあるんじゃないかなと自分は思っていて。なんだろう、たとえば自分は『きっと』という表現が好きで、っていう話は昔ブログで書いたんですけど、たしか。その、たとえば『きっと届く』と言った場合、自分の想定していることとしてはどちらかというと真逆で『届かない』なんですよ、本当のところは。「届くわけがないよな」と思っていて、だけど、だからこそ『きっと届く』と唄うことに意味が生まれるんじゃないかって感覚があって。ここら辺の気持ちを言語化するの、正直かなり難しいのでめちゃくちゃ雑に書いてますけど。なんていうか、そういった『決して叶わない』という現実へ抗う意思の象徴というか、そんな感じの意味合いで自分は『きっと』という表現を組み込むことが多々あって。『きっと届く』だとか『きっと愛せるよ』だとか、もちろん、そういうんじゃなくて普通の『きっと』として用いることもあるのですけれど。……みたいな感じで。特に気に入っている表現というのが、普段から言葉を弄って遊んでいる人たちには少なからずあるんじゃないかと思っていて、いやだけどって話なんですけど、それらが意味するところって本人しか分かり得ないものだったりするじゃないですか、往々にして。いま説明した『きっと』だって、この国に住まう全員がこのような意味表現を『きっと』という副詞に対して定義しているというはずもなくて。でも、自分にはそれが馴染んでしまっているから、日常会話とかで使ってしまったりするわけですよ、そういうのを。『きっと』に限らない、様々な様々を。自分や、たぶん作詞だ文章だのなんだかんだをやっている人たちは、恐らくそういった『自分だけの言葉』にまだ敏感なほうなんじゃないかと思ってはいて、ただそれでも結構な数のオリジナル用語を見落としてしまっているのだろうなという自覚もあるにはあって、だから結局なにを言いたいのかという話ですけれど。僕らってお互いに自分勝手な定義を採用した言語で会話をしていますよね、恐らく。ここに至るまでだらだらと書いてきたこの文章にしてもそうで、読み手ごとに比較的意味のぶれにくいものにしたいというモチベーションが自分には多少あるので、なるべく平易な言葉を使いまくるという風のスタイルを採用しているのですけれど、でも、それにしたってきっとどこかしらで情報が欠落するなり、あるいは余計に付加されるなりして読み手に受信されているのだろうなという気はしていて。小学生でさえ知っている程度の簡単な言葉ですら、きっと正確に伝えあえはしないのだろうなって。考えすぎ? 考えすぎではあるな、実際。でも、いや、どうなんだろ。これは僕個人の考え方なので、別に正しい正しくないの話じゃないんですが、相手のことを不必要に勘違いしてしまうということを本当に避けたくて、自分は。勘違いっていうか、なんだ。自分の定規で測ることばかりをしたくないっていうか、バイアスをなるべく回避したいっていうか、中立的に向き合いたいっていうか。なんだろ。相手の内側から飛び出してきた単語を自分の手元にある辞書で逐一翻訳して、そうして解読された言葉っていったい誰のものなんだろうって、そういう感覚がめちゃくちゃあって。それは少なくとも相手のものではないなって感覚があって。さらに言えば、それは自分の言葉でしかないよなって感覚もあって。だから、それだけを根拠として相手を理解しようとしたら絶対にどこかで間違えてしまうのだろうなって、そんな風に自分は思っていて。難しいですけど、それを避けるのって。だから、なんていうか、話をするだけじゃダメなんですよね、きっと。相手のことを理解しようとする意志がないとダメで。……みたいなことを、誰かの話を聞いているときに自分は考えていたりいなかったりするっていう、そういう話なんですけど。いや、なんていうか、『誰かの話を聞くのが好き』とよく言っていますけれど、自分は。でもそれは単純にお喋りをしたいというだけのことではなくて。自分の場合、考えるところまでがセットというか、そうでないと意味がないというか。「この人はいったい何を言おうとしているのだろう?」ということを、とりあえずは自分の辞書を片手に、必要であれば相手の辞書にはどういったことが書かれているのかも訊いてみて、それが自分にとっての『会話』というか、『話を聞く』という行為の指すところだったりします。自分と相手とで、手持ちの辞書がどのくらい異なっているのかを確認する作業? みたいな。……ということを、さっき久しぶりに歌詞を読み込んでいて改めて思いました。それらを自分の辞書で訳してしまっていいのなら簡単だけれど、書いた本人の辞書に照らしてみたら一体どんな文章になるんだろうなって。……いや、冒頭のほうで『用語の定義すら一致していない状態で会話するの、普通に怖くね?』みたいなことを散々書きましたけれど、でも、本当のことを言えば、自分はそれを常としている世界が結構好きなんですよ。A という言葉に対し全員が全員 a という意味を定義として採用していてほしいだなんてことは全く思っていなくて、いや、だってそれだと他人と話をする意味がなくなっちゃうじゃないですか。すれ違うことがなくなって、そこはまあいいのかもしれませんけれど、でも林檎は林檎、葡萄は葡萄、蜜柑は蜜柑って。つまんなくないですか、それ? と思っていたりもします、自分は。相手の言葉をすべて自分の辞書で読み解けてしまうのなら、じゃあ歌詞なんて別に読まなくたっていいんだよな。それこそ紙の辞書を引けばいいってことになるんだし。お互い、その実全く異なる言葉を話しているからこそ、相手のことを知ってみたいという気持ちも自ずと湧いてくるわけで。それがだからコミュニケーションなわけじゃないですか、つまるところ。……っていうだけの話でした、今回は。