どうにもならない

 

 しばらくの間考えていたことがあって、でも Twitter に書くようなことじゃないかなと思ったので、そんなわけでブログに載せておこうと思います。なんていうか、まあ何についての話かくらい先に書いておいたほうが見通しが良いのかなとは思うのですけれど、でも、なんだろ。何の話なんだろうな、これは。ただまあ、何年か前から折をみて触れている話題ではあって、だから要するに以前から繰り返し考え続けているテーマということなのですけれど。まあ、はい、そんな感じです。本題。……と言ってもそんな大それたものでもないのですけれど、いや、先に予防線を張っておくか。何というか、自分はアレなんですよ。あの、個々人がどういった主義・思想に従って生きていてもいいと思っていて。なんか、色々あるじゃないですか。〇〇イストとか〇〇主義者とか、ああいうの。いや、もう本当に何だっていいと自分は思っていて。何だっていいというか、どのような主義・思想であれ、それに従って生きるくらいの自由は全人類に保障されているべきと考えるといいますか。もちろん基準はありますよ。危険思想だとか過激思想だとか、そういった分類は自分の中にも当然あって。でも、それがその思想を無条件に排除する根拠にはなり得ないっていうか、少なくとも自分にとってはそうで。みたいな。いや、だから、なんだろうな。本当にどうだっていいんですよ、別に。自分でない他人が何を信じて、何に縋って、何を求めて生きていようが、どうだって。それ自体に口を挟む権利なんて自分にはないし、そんなことをするつもりもないし、したいわけでもないし。右でも左でも上でも下でも、別に好きにしたらいいんじゃないのって、自分は本気でそう思ってるんですよね。……なんていうか、これは別に突っぱねるわけじゃなくて、単純に自分が普段からそういう風に感じつつ生きているからという理由に基づくものなのですけれど、何かしらの強い主義・思想を持っている人からすると到底想像の及ばない事象なのかもしれませんが、自分にはそういったものが本当になくて。いや、嘘です。ある。あります。ありますけれど、自分が強く信じているそれといえばほとんど空想のようなもので。なんていうか、現実的な部分に対してあまり関心がないっていうか。だから右も左もないし、多数も少数もないし。どちらにも属さないというよりは、どちらでも構わないっていうか。どちらか一方だけが正しいという風に自分は考えられなくて、同様にどちらか一方だけが間違っているという風にも考えられなくて、だから、片方にだけ肩入れすることはしないっていうか。いやまあ、だからどうだっていいんですよね、結局。というかそもそもの話、これは以前の記事でも触れたことがあると思うんですが、絶対的に正しいものなんてこの世界には存在しないと自分は思っていて。道徳だとか、倫理観だとか、そういったものですら時代やら環境やらで変化していって然るべきものだよなって。人類が絶滅してしまったらそんなものに価値はなくなってしまうわけだし、という主張はあまりにも極論が過ぎますけれど、でもそんな感じで。信じたいものを信じていればいいと思うんですよね、だから。というより、誰だってそうなんだということに気づいてほしいっていうか。ああ、いや、これはだから自分の信じているものを前提としてしまっているということになりますね。『絶対的に正しいものなんてない』っていう、そういう信念に。ここが色んな人と食い違うんだろうなって気はしていて。なんていうか、あの、別に自分の周りの人間がそうだって話をしたいわけじゃないんですよ。そうじゃなくて、ただ Twitter なんかをぼけーっと眺めていて思うこととして、「多くの人って、自分の信じているものこそが絶対的に正しいんだと、そんな風に信じていたりするのかなあ」という疑問があって。というのも、みんな好きじゃないですか、自分の主義・思想を振りかざして他人を殴りつけるやつ。具体例を挙げることは控えますけれど、ああいうのって自分の信じているものが絶対的に正しいと、そういう風に考えているからそういった行動を起こせるのだろうなって。いや、『そういう風に考えている』かどうかは微妙で、だって考えていない可能性、あるいはそもそも考えられない可能性もあるから。馬鹿にしてるわけじゃなくて、いたって真剣に。この前、精神病棟へ入れられた人の話を聞く機会があったんですけど、その、統合失調症っていう、名前だけなら知っている人も多いんじゃないかという症状を持っていた(厳密には、いまも持っている)人の話を。なんか、自分も大概狭い考え方をしていたなって、そのときに実感させられたんですけど、その、ありもしない虚構を真実だと認識してしまう(と本人が言っていた)人が一定数いて。それはどうしようもないことで、本人の意思とか関係なく。信じるとか、信じないとか、そんな選択肢が眼前に提示されることもなく、なんていうか、まるで脳に直接インプットされたみたいに『そう』としか考えられなくなってしまう人。そういう人がいるんだなって、いや、知ってはいましたけれど、でもこうして会って話せるくらいの距離にいるんだって、そういうことをそのときに初めて知って。だから、「自分の信じているものこそが絶対的に正しいのだと信じている」ではなくて、「自分にとって正しいものこそが絶対的に正しいのだと、そういう風にしか思えない」という人も結構数いるのかもしれないなって。そこに選択権なんて端から存在しないというパターン。……他人の在り方に対してどうこう言うのって基本的に失礼なことだなと思っていて、自分は。「あいつは不幸な人間だ」とか何だとか。幸せかどうかなんて他人が定義するものじゃないし、本人以外の誰も触れるべきでないものだろうし。自分は本心からそう思っていて、という前置きをした上で、しかし誤解を恐れずに言うのであれば(できることなら誤解されたくはないけれど)、それって不幸なことだなって、自分は思ってしまうんです、どうしても。だって、その考え方の行きつく先って破滅じゃないですか。「自分の考え方こそが絶対的に正しいんだ!」と主張する人たちがどういった末路を辿るのかって、インターネットの海を少し徘徊してみれば、その例はいくらだって拾うことができるわけで。そういう未来をどうしても想像してしまって、口に出しはしませんし、別に見下しているだとかそういうのでもなく、なんか、純粋に「不幸だな」と思ってしまって。だから、なんだろう。どんな主義・思想でも信じること自体は自由で、それを絶対的に正しいと思うことも本当は自由。だけど、後者の考えに行きついてしまうと、次は自分の主義・思想に沿わない人間への不当な攻撃に手を染めてしまう可能性が高くって。なんか、一度そこへ落ちてしまうと取り返しがつかなくなっちゃうっていうか。不当に攻撃された人間は当然のこと、それを傍目にみている人たちも決して良い思いはしないだろうし、となると周囲からはどんどん人が離れていって、嫌われていって、すると自分の考えが正しいと思っているその誰かは「なぜ自分は認められないのか。自分は正しいのだから、間違っているのは奴らのほうだ」と更なる過激思想へ転落していって……、という負のスパイラル。いやもう、こんなのインターネットじゃ日常的に発生していることじゃないですか。あまりにもテンプレすぎるっていうか、でも、だからこそ気をつけなきゃいけないことでもあるのですけれど、それはまあさておくとして。だから、その、なんていうか、「あの人、そのスパイラルの一歩手前にいるっぽいな」と察してしまったときに、自分は手を指し伸ばすべきなのかなって、そういうことをもうここ数年考え続けているって、結局はそういう話で。そのスパイラルから必ず連れ出せるというわけではないにせよ、でもいま手を伸ばさなければいつ手遅れになったっておかしくないのに、そういうことを分かっていてもなお躊躇ってしまう自分がいて。そして、足踏みする理由の大半を占めているのが『面倒だから』という感情なんですよ。言葉通りの意味ではありませんけれど。なんていうか、それってめちゃくちゃに時間がかかることなんですよ、きっと。人って簡単には変わらなくて、一瞬の雷鳴程度じゃ何一つも変えることはできなくて。それこそお医者さんとかカウンセラーの方々とか、そういった専門職がわざわざあるくらい、長い時間をかけて付き合わなきゃいけないものだと思うんです、自分は。加えて、本人が問題を正しく自覚しない限りは決して先へ進まないものだとも思っていて、だからまずその相手へ正面から問題点を突き付けるための覚悟が必要だし、しかもこっちがその気で相手に向かい合ったからといって、相手がそれに乗ってくれるとも限らないわけで。そのスパイラルから抜け出すって、要は自分自身を否定し続ける作業に等価で、自分が正しいんだって思って過ごすよりも遥かに苦痛を伴うことだと自分は思っていて。だから、自分が行動を起こしたからって何かが変わるとは限らなくて、というかむしろ悪化する可能性さえあるんですよね。自分の考えこそが絶対的に正しいと思っている人に「いや、そうとも限らないんじゃないの?」と言ってみたらどうなるかって、そんなの想像力とかの話ですらないじゃないですか。でも、その人がスパイラルから抜け出すためには言わなきゃいけないんですよ、誰かが、その言葉を。ここまで言えばもう「誰がわざわざそんなことすんねん」という気持ちにしかならないっていうか、だから見て見ぬ振りが正解で、というか自分以外の人間がどんな人生を送ろうが知ったことじゃないしって、そうやって割り切ってしまうのが賢い生き方なんじゃないかなと自分も思うんですが。でも、自分にはそれができなくて、どうしても。だからって手を伸ばすこともできない、リスクがあまりにも高すぎるから。……どうすればいいんだろう、本当に。どうにかできるものなのかな。どうにもできなくないですか? ……なんていうか、これは冗談だと思って聞き流してもらって構わないんですが、自分がどうにかしてもらった側の人間なんですよね、多分ですけれど。といっても、別に右だの左だのに傾倒していたわけではなくて、もっと別のところで。今でも覚えてるんですが、まあ、あれやこれやと色々な様々を言っていたんですよね、その、有体に言えば不満のようなものを。すると、それを聞いていたもう一人に「それって貴方自身と何が違うの?」というようなことを言われて。当時の自分がどう思ったのかは忘れてしまったんですが、後々になってから、そういうことを正しく指摘してくれる友人がいるのって本当に恵まれていたんだなと強く思って。要は運が良かったんですよね。偶然。ラッキー。別に自分が何かをしたというわけでもなく、ただいつからか仲良くしていた相手がそういう人だったというだけの話で。いやまあ、もちろんさっき上で話したように、それから今に至るまで本当に自分が何もしてこなかったのかいえば、そんなことは決してないのですが……。ただ、最初の一歩は完全に幸運だったという話で。その友人が正確な鏡になってくれていたから、自分の持っている何が正しくて何が間違っているのかを、時間はかかりましたけれど、それなりに知ることができたっていうか。だから、その、鏡があればいいんだろうなって思うんです。自分を映す鏡。抽象的ですけれど、本当に必要とされているものが仮にあるとするならば、きっとそういうものなのだろうなって。でも、それっていまからでも間に合うものなのかなと思ってしまって。高校生の頃、毎晩毎晩夜更かしして、色んなことを話し合って、そのたびに考え方を整理していって。そんなことを繰り返して自分はいまのようになったのですけれど、でも、社会人への期限が迫った今、そんなことをする余裕なんて本当にあるのかって、やっぱりそう思ってしまうというか。ただの言い訳ですけれど、こんなの。なんていうか、だからもう、奇跡的な何かの到来を祈るくらいのことしかできなくて。誰でもいいから、あの人の鏡になってあげられる誰かがいつか現れますように、みたいな。自分じゃそうはなれないから、自分がそうだったみたいに、偶然が救ってくれることを期待するしかないっていうか。……いや、何度も言うように全部が全部、ただの言い訳なんですけど。でも、なんていうか、もうそうするしかできなくねって気持ちが結構あって。まあ、はい、そんな感じです。人間関係、ムズすぎ。嫌になっているわけでもないけれど、だけど、それにしたって報われなさすぎる。どうすればいいんだろ、本当に。