20220629


 六月ライブのあと、明け方、「できる限り多くの人と仲良くしたいじゃん」みたいなことを咄嗟に口にしたような記憶があって、その数分後には「いや、そんな気持ちは全くないな」と思い直した。ただ、その頃には訂正するタイミングをとっくに逃してしまっていたのだけれども、自分の考えとしては「できる限り多くの人と敵対したくない」のほうが正確だった。それはまあ、仲良くできるならそうであるに越したことはないけれど、仮に仲良くなれないとしてもなるだけ敵対はしないように。そういう気持ちで生きている気がする。とはいえ、普通に生きていればどこかの誰かに嫌われることは当然あって、「ああ、この人、たぶん自分のことを嫌っているな」という相手なら何人も思いつく。そのことを踏まえてだけれど、敵対しないというのは誰からも嫌われないようにという意味だけではなく、誰のことも嫌わないで済むようにという意味でもある。たとえ他の誰かに嫌われたって、自分がその誰かのことを嫌いにならない限りは敵対なんかしない。そういう意味。そうは言っても自分は普通に人間で、要するに限度があって、どうしても嫌いになってしまう相手もいるけれど。それはそれとして、でも、どうなんだろうね。そうであっても、だからといって必要以上には敵対したくないんだよな。相手は自分のことが嫌いで、自分は相手のことが嫌いで、それならそうでそのまま終わりにしておきたいというか。なんていうか、たとえば悪口とか。自分の嫌いなものについて口汚く罵るのって、多くの人間にとって恐らくは快楽の一種なのだろうなという気がしていて。それはまあ匿名掲示板とか Twitter とか、あるいは学校の教室ででも経験則的に知り得る程度の、それくらいの。必要以上の敵対とは、たとえばそういうもの。一度そういう状態に陥ってしまうと、敵対関係の解除ってめちゃくちゃに難しくなると思うんだよな。……というのは高校時代に属していたコミュニティでの諸々を受けての知見。恋は盲目ってよく言われるけれど、あれ、悪口とかでも同じ現象が起きてるよなって思う。何にせよ、ある対象の特定の側面ばかりに目を向け続けていると、ある種の思い込みが始まるっていうか。その対象自身に向き合うことをしなくなるような気がする。もっと分かりやすく言うと、相手自身ではなく、自分の頭の中にいる相手の像ばかりをみて考えるようになってしまうっていうか。そして多くの場合、そうなっている自分自身の在り方に気がつけない。思い込み。いやまあ、日常に付き合っている限りでだって「あの人はああいう人だ」って思い込みは積み重なっていくものだけれど、恋だとか憎悪だとか、そういった類の感情はそれを一層加速させるような。なんか、そうやって勝手に作り上げたイメージと向き合い続けている限りは、和解なんてどうしたって起こり得ないのではと考えるのが自分で。だって、和解は現実世界に存在する相手と自分との間に生まれ得るものなわけだし。だからまあ、必要以上の敵対はしたくない。自分はそういう感じで生きている。なんていうか、だから別に優しいわけではないんよな。この前も言われたけど、なんでこんな奴に、って。でもそれは、誰からも嫌われたくないし、誰のことを嫌いになりたくもないからそうしているというだけで。というかむしろ、って感じ。たとえばの話、自分のことを嫌っている人間に対して一番有効な方法が何かって、それは、自分の側からは決して嫌わないことなんだよな。お互いに嫌いな同士ならなにかと楽でしょ? 悪口だって言いたい放題だし、どんなに嫌ったところで相手もそうなんだからお互い様だって思えるじゃん。でも、だからこそこっちからは嫌いになってやらないんよな。相手から飛んでくる憎悪の矢印と取り合わない。お互い様と思わせない。土俵へも上がらない。敵対しないという姿勢は、つまりはそういう意味でもあるにはあって。だから別にって感じ。怒りを持て余した人間がどういう風に感じるかって、そういうのをある程度分かった上で、それでもなおこのスタンスでいるわけだし、自分は。だからまあ、まあまあ酷いって思うよね、他人事みたいに。

 

安達としまむら』を読んだ、とりあえず最新刊まで全部、数日に分けて。なんていうか、色々と思うところがあるなあって感じ。主な登場人物は二人いて、それがタイトルにも冠されている安達としまむら。八巻まで読んだ段階で人と会って話す機会があって、自分はしまむらの立ち振る舞いに共感するかも、と所感を伝えたところ「解釈一致です」と返された。まあ、そうだろうなと思う。でも、そう、だから、そこで解釈一致と返されたことをきっかけに改めて考え直してみたのだけれど、先の所感は微妙に間違っている。いや、間違えてはいないのだけれど、だとしても言葉が足りなかった。正しくは、いまの自分はしまむらの立ち振る舞いに共感するかも、なんだよな。逆に、向こうはどちらかというと安達っぽい。なんていうか、熱がある? やたらと電話したがるところとか、電話の前に必ず断りを入れてくるところとか。それでいて、こちらへの迷惑を必要以上に考慮するところなんかは特に。でも、以前はそうでもなかったはずなんだよな。以前というか、高校生の頃。いま自分の周囲にいて、それでいて高校生当時のことを知っている人なんて皆無だから、きっと誰にも想像つかないだろうけど。なんていうか、完全に逆だったかも。自分と向こうの立ち位置が。だから、きっと高校生当時にこの作品を読んでいたら、自分は安達のほうにより強く共感していたと思う。解釈不一致? でも、こればかりは間違っていないような気がする。一方いまの自分はといえば、こんな感じの考え方が馴染んでしまってからもう随分長くて、だからってわけでもないけれど、以前のことを忘れてしまっていたというか。いや、忘れていたわけではないのだけれど、でも押し入れの奥へしまい込んでしまったような感覚。忘れはしないけど思い出しもしない、そういうの。むかしはさ、もっと長く話してたいな~とか、今度の休みに会えたらいいな~とか、いまよりももっと素直に感じられていたような気がするし、それを伝えることも大して躊躇わなかったような気がする。気がするだけだけど、でも、少なくともいまよりはずっとそうだったと思う。約束が果たされればまた作ればいいと思っていたし、旅行だって。なんか、なんだろ。なんていうか、こんな自分にもそういう時期がちゃんとあったなあって、『安達としまむら』とか、あとは『やがて君になる 佐伯沙弥香について』なんかを通じて今更みたいに思い出したっていう、ただそれだけの話。だから、そのことを思い出せたいまなら、もう少し素直な気持ちで話ができるかもな~って思ったり、思わなかったり、思ったり。分かんないけど。六月の間はずっとそういうことを考えてた。別に喧嘩したわけでもないのに、結局、六月中は一度も声を聞かなかったなあって。そういうのと一緒に。