20230602


 最寄りのスーパー、自動化されたレジ、受け取られないままで放置されたレシート。なんてことはない。いつもよりもちょっと長い、倍の長さくらいのレシートが手元に出てくるというだけの話で、そもそも自分はレシートを持ち帰らない。捨てるだけなら手間は変わらず、長さがどうかなんて関係ない。ところで。ところで、何とも思わないわけでもないなと思う。嫌、というと少し違う。当然ながら、怒りとかでもない。この感情はいったいなんだろうな。別に名前なんてなんだっていいけれど、なんていうか、なんだろ。「ああ、自分のひとつ前にこのレジを使った人は、次にここへ来る人について何とも思わなかったんだな」と思う。理由は、まあ色々とあるか。帰りを急いでいたのかもしれないし、上で言ったように手間は変わらないのだから放置しておいても問題ないだろうと考えたのかもしれないし、あるいは単に他の人のことを考えられない人なのかもしれない。自分には知る由もないこと。倍の長さになったレシートを受け取り口から切り取りつつ考える、もし三つ目だったら嫌だなあ。自分がよければそれでいいという考え方、あまり支持できないんだよな。そりゃまあ、大なり小なりみんなそうだろうし、自分だってそうだけれど。でも、そうやって自分の視界には映らない周囲の様々を切り捨てていって、そうして最後に残るものって恐らくは底なしの孤独だろうしな。それでいいなら、それはそれでいいけれど。自分はそうはなりたくない。そうはなりたくないなって思う、放置されたレシートを自動レジから切り離すたびに。

 

 自分のことを理解してくれる人なんて誰もいないな、と本気でそう思っていた時期がある。あった。あったはず。あったはず、と思う。言葉を濁すわけは、本当にそうだったかどうかを疑ってしまうくらいには、そういった考え方をする自分自身の存在が曖昧になっているから。世界中の全員がまるで敵みたいにみえていた頃が、たしかに自分にもあったはず。ところで、当時の自分はそんな状況にありながら、周りの人間のことを敵だとは思っていなかったし、つまり自分の状態を客観視することができていなかった。なので、まあ他の人たちもそうなんだろうな、と思う。そもそもの話、本当の意味で『自分のことを理解してくれる人』のいる人なんてこの世界のどこにいるんだろうみたいな話はあるけれど、そこまでは広げなくていい。もっと、小さな枠組みでの話。理解されない理由は人や状況によって様々あるはずで、でも、どうなんだろう。自分が誰に理解されなかったとして、相手のことを理解しようとする姿勢を放棄してしまったら終わりだよな、とは思う。相手のことを理解しようとする、ということの意味を正確に定義することは困難だし、ここで発生する行き違いもこの世には無数にあるだろうけれど。ただ、そうだとして、自分でない他人のことを諦めてしまったら、自分のことを諦めないでいてくれる人に出会うことのできる確率ってものすごく下がってしまうような気がする。そうでもない? ……ああ、ちょっとだけ前提が抜けてしまっているので、その補足。『相手を理解する』って『相手を諦めない』とほとんど同義と思うんだよな。だって自分じゃない他人のことを本当の意味で理解することなんてできるわけがないし、もし仮にそれが果たせたと思う瞬間があったとすればそれはただの驕りだ。少なくとも、自分は自分にそう言い聞かせている。叶うわけではないし、楽なわけでもないし、というかそれを投げ捨てたって生きていく上で大きな不都合が生じるわけでもない。それが、自分でない他人を理解しようとする行為そのものの性質だし、だから、それでも続けようとするその姿勢は『諦めない』と表現してもいいよな、という話。話を戻す。ところで、どうなんだろうね。自分は、自分のことを諦めないでいてくれる誰かに出会いたかったし、だから他の誰かのことも諦めたくなかったから。覚えてる、二回生か三回生かの頃、深夜の百万遍すき家に四人くらいで集まってそういう話をした。だから、そういう風に思うというだけで、案外、色んなものを諦めていった先にも幸せの類は転がっているのかもしれないな。それは自分にとっての幸福ではないというだけで、万人にとってのそれではないということにはならないし。だからまあ、結局はそれだけの話か。

 

 最近ブログをあんまり更新しなくなったね、と言われる。言われて、過去これまでの更新履歴を辿ってみたけれど、月に 2,3 しか書いていないことなんて、この五年間で別に珍しいことでも何でもなかった。なので、数字としてどうこうというよりは体感としての話。自分としても、あんまり書かなくなったな、とは思う。書かなくなったというより、書こうという気持ちがあまり起こらなくなった、のほうが近いかもしれない。でもこれは、主観としてはとても自然な心の動きでこのようになっているような気がしていて、いやまあ実際に考えてそうなったってわけじゃないんだけど、後付けの動機として。このブログの目的については開設当初の記事に記載されていて、恥ずかしいから誰も読まないでほしいんだけど、要約すると、友人がほしかった。ここでいう友人は辞書通りの意味ではなくて、なんだろうな。それこそさっきの話と同じで、自分のことを理解しようとしてくれる人に出会いたかった、が近いか。自分に少しでも興味を持ってもらえるように、くらいの表現でもいい。誰が読んでいるのかなんて知らないし、そもそも別に読まれたいわけでもなく。感想なんかいらなくて、ただそういう場所があればいいと思って。大学に入ってからというもの、本当に様々な出会いがあって、様々なものを自分は受け取って。六年間の、まあブログを書き始めたのは二回生の五月だから実際は五年だけど、その流れの中の大きなところにこのブログがあったんだな、ということを卒業シーズンの周辺で実感して。だから、ブログを書こうという気持ちがあまり起こらなくなったのは、端的に言うならお役御免という、そういうポジティヴな話だと思っている。実際がどうなのかは知らないけれど、後付けの動機としてはこんなところ。役目をしっかり果たしてくれたんだな、っていう。なので感謝すべきは、昔の自分か。何の役に立つかも分からないのによくもまあ書き続けてくれた。そのおかげで素敵な人たちと何らかの縁を持つことができたんだと思うと、いつかの自分が選んだ『諦めない』という選択は正しかったんだな、と思う。生存バイアス。だとしてもいいか、別に他の誰かに同じことをやれとかって言いたいわけじゃないんだし。ほんと、ここまで書き続けてきてよかったなって思う、感情墓地とかいう意味不明な名前のブログに対して。さっきも言ったように書き始めたのが二回生の五月で、だから実はしれっと六年目に突入してるんだけど、このブログ。実際のところ、いつまで続くんだろうね。飽きるとかあるのかな。それと最近、言葉にしたいな~と思うことが思索の類というよりは自分の近辺状況にまつわることばかりで、だから却って何も書けないという状況に陥っているという話もあるにはあって。どうなんだろうな、これも。もうちょっとプライベートなことも文字に起こしていけたら、それはそれで面白いのかもしれない。