20220102

 

 一周回って書けるだけ書いてみるかという気持ちになっている、逆に。昨年の六月は一時間という縛りをつけてキーボードを叩いていた。一方でいまは三が日。普通に何の予定もない。普段はなんだかんだ時計を気にしてやめてしまうから、たまにはそういうのがあっていいかもしれない。なのでそうしてみる。どこまで書けるかな。

 

 優しいだけの人なんてどこにもいないと思う。どこかにはいるのかもしれないし、自分の過ごしてきた時間のどこかにはいたのかもしれないけれど、とりあえず自分はそう思っている。優しいだけの人なんていない。もちろんのこと、自分自身も含めて。ところで自分はどちらかといえば性善説の立場を取っている。感覚的には性善説に二票、性悪説に〇票、白票が九八票くらいという割合。本当に「どちらかといえば」でしかない。両者のほとんど中点にいる。とはいえ、そうであっても性善説寄りではある、どちらかといえば。優しいだけの人はいない。性善説。この二つは矛盾しているように思われるのかな、と思ったりもする。自分の中ではそれなりにちゃんとまとまっている感覚なのだけれど、でも、どうだろうな。性善説については本当にどうだってよくて、だって自分は実質的に九八票の白と同じ立場を取っているから。人類に備わったイデアが何であるかとか、そういうのはあんまり興味の中心にない。なんにせよ自分が関係を持つことになる他人は全員生きていて、思想の上にいる存在なんかではないから。それ自体を考察の対象とすることに意味がないとは全く思わないし、というより大いにあるようと思う。仮に自分がそういったことに対して意味を見出さない人間だったとして、であればこんな場所は要らないわけで。そうでないからそうでない、という気がする。実際は分かんないけど、言葉でだったらどうだって言えるし。それはまあいいとして、話を戻すか。性善説についてはそう考えるということは、だからもう一方の、優しいだけの人なんていない、のほうに関しては思うところが色々とあるという話になる。てにをは大事。結局は昨日の話と同じようなことでもあるのだけれど、でも長くなってしまう前に結論だけざっと要約しておくなら。優しい人はたくさんいる。優しくない人もたくさんいる。ただ、優しいだけの人はどこにもいない。これに尽きる。

 自分以外のものを通さないと自分自身を理解することができない。つい最近にそういうことを書いた。これは本当にそう思っているし、なんなら数年前からずっと同じことを書き続けている気がする。相対化。自分はかなりのものを相対的に考える癖があると思う、事実がどうであるかはさておいて。辞書通りの意味じゃないから、この文章を読んでいる九割九分の人間を誤解させている自信がそれなりにある。後でまた触れるかもしれない(触れないかもしれない)けれど、直近のものであれば「相対」というキーワードでブログ内検索をかけるといくつか読むことができるので、気になった人がもしいればそちらへどうぞ。気にせず読み進めてもらって何の問題もない。話を戻すと、とかく物事を相対的に考える癖が自分にはあるように思う。鏡。鏡という比喩はとても馴染んでいるように思う。自分の感覚と、ものすごく近いところにある、本当に近くに。人の振り見て我が振り直せという言葉もあって、これとは少し違う。いや、実際には全然違くて、このことわざは自分の持っている考え方を適用した特殊例のうちの一つというか、だから鏡という比喩はもっと大きな枠組みとして存在するのだけれど。人と会う。会って話す。会わなくても話せるけども、今の時代。なんにせよ話してみて、思うこととして自分と他人とは全く違う。当たり前。どっちが優れているとか、そういう風に考えることは、少なくともいまの自分にはない。競わせるものではないし、否定する必要もないと思うから。他人の考えに触れて、何をするかというとこれは辞書の話。ひとまず自分の言葉で翻訳しようとしてみる。自分の中にもそういった類の感覚はあるだろうかと考えてみる。場合によってあったりなかったりするけれど、とりあえず探してみる。そういった一連の流れのなかで「鏡」というものを思い出したりする。自分はいまこの相手のことを鏡にして自分をみているんだな、と思ったりする。相対的? 自分の感覚と相手の感覚とを照らしてみて、違っている部分がどこなのかを考えたり。違っていたからってどうということはない。合っていたからといってどうということもないけれど。そういうことを考える。自分自身を理解するという表現は、自分の中ではそういった行為のことを指している。だから、自分以外の存在を通さないと実行できない。これも昔に書いた、迷路の話。知らなくて問題ない。表現が多少変わっても、それでも同じことを繰り返し書いているから、「以前はこういう言葉を使ったな」と思って、だからそう書いているだけ。

 優しいだけの人はいない。いないと思う。思っている、少なくとも自分は。二〇と数年を生きてきて、自身をただの善人と自称する人と知り会ったことは何度もあるけれど、そうと思ったことは一度もない。本当に一度も。「優しいね」と言われて、だけどやっぱり思うこととして、優しいって何なんだろう? これも何度も書いたことではある。自分の中での結論はちゃんと出ていて、それについては後述するとして。結論が決まっているから、だからこれ以上考えても発展性はおよそ期待できないのだけれど、だからといって考えることを止めることもできない。自動的だし、その辺りは。それに、もしかしたらもっと新しい何かに気づくことがあるかもしれないし、実際、何度もあった、そういうことは。自分はこうだと思っていたものが、他人の何気ない一言で全く別の角度から捉えられるようになったり。アップデートの余白。思考を続けないことは、つまりそれを諦めてしまうことと同じだと思うから、だから別に自動的でなくたって止めたりはしない。たとえば、と考えてみる。たとえば、ひどく参っている誰かが身近にいたとして、その誰かの相談に付き合うことがあるいは優しさの証左になる? なるのかな。そういう文脈で「優しい」と言われたことが何度かあり、そのたびに「別に優しくはないけどな」と自分は思う。実際にそうだから。そもそも、話を聞くくらいのことならアヒルの人形にだってできる。ラバーダッキング。まあ、どのくらい真剣に耳を傾けるかという違いはあるだろうけれど、自分だって別にそれほど真面目に聞いているわけじゃない。聞きはする、たしかに。記憶しもする、たしかに。でもだけどだからそれだって、別に慈善事業ってわけじゃないと思う。というのも、だって悩み相談に付き合ったら分かりやすく好感度を稼げるじゃん、と考えている自分がやっぱりいるから。鏡。相手の姿を介して自分の内側を覗いてみて、たしかにあるんだよな、そういう感覚が。面倒だなと思うこともある、正直。自分の時間を使ってまでやることなのかなと思ったりもする。心の奥底だろうと片隅だろうと規模は問わず、ともかくそういう風に考える自分自身を自分は知っていて、というかみえていて、だから優しくはないけどなと思う。そういう自分のことを知っているので、他人を前にしても同じようなことを考えている。優しいだけの人。失礼な言葉だなと思う、あくまで自分の価値観に照らせばの話。相手がどういうことを考えて自分に時間を割いているのかとか、そういったことを少し考えてみると、優しいだけなんてことはあり得ないという結論へ自分はどうしても辿り着いてしまう。自分がそうだから。優しいだけに思えるなら、それは相手のことを何も考えていないかよく知らないかのどちらか、これは自戒。疑っている。そうしないと失礼だと思っている、少なくとも自分は。自分に向き合ってくれる誰かが実は優しいだけの人だなんて、それはきっと都合のいい幻想だと思う。思っている。

 ところで、そういった評価は第三者が下すものだったりもする。「優しいね」と言われて「優しくはないけどな」と思いもするし、それをそのまま口にしたりもするけれど、だからってそう言われたことを忘れたりはしないし、その言葉を否定したいという気持ちもないし、嬉しいと思いもする。矛盾してる? 自分の中ではしていない。自分がどう考えているかと他人がどう考えているかは全くの別物だと思う。自分の価値観に沿えば自分は優しくない。でも相手の価値観に沿えば自分は優しいらしい。定義の問題。辞書が違う。だから嬉しくなる、普通に。自分で自分のことを性格が良くはないと称する人を知っている。数人いる。12 月、そのひとりと会う機会があって、いろんなエピソードを聞いたりもして、だけど自分は「そんなことないと思うけどな」と思っていた。言いはしなかったけれど。地雷原。優しいという言葉の定義の問題。自分にとっての主観的な優しさは、地雷を踏み抜かない能力だと思う。正解を選び続ける能力と言ってもいいし、もっと単純に手っ取り早く信用を得る能力と言ってもいい。自分が何をすれば相手から「優しい」という評価を貰えるのかを見抜く能力。それを実行に移すかどうかは別の話で、とりあえずは地雷原を五体満足で突っ切ることのできる能力、それが優しさの正体なんじゃないかと思っている。あくまで主観的な、自分で自分を指さしてみたときのそれについての感覚。逆に言い換えることもできる。地雷を踏み抜かない能力は、その気になればすべての地雷を踏み抜くことのできる能力に等価だし。正解を選び続けられる人は、やろうと思えば不正解を選び続けることだってできる、意図的に。誰かに対して優しくできる人は、だから同じくらいに誰かを傷つけることのできる人なんだと思っている、少なくとも自分は。何をすれば相手を傷つけることができるかをちゃんと知っていて、壊し方も分かっていて、だから相手がそうならないように振舞うことだってできる。ちょっと性善説がすぎるかな。だけど、そう思っている、これは本気で。自分のこういうところがダメで、ああいうのが良くなくて、そういうことはちゃんと分かっていて、そういう風にその誰かは言っていた。性格が悪いとは思わなかった、別に。自分の目から見る限り、その誰かは自分の欠点をそれなりに理解した上で、うまく乗りこなせているようだったから。だから要は、さっきの地雷原の話。地雷の場所を知っていて、分かっていて、それを避けながら歩こうとしている。そういう風にみえる。みえた。本当のところは何も知らない、第三者の意見。第三者の自分は「そんなことないと思うけどな」と思った。自分の欠点を開き直るのとは違う。そういう人もたくさん知っているけれど、少なくともその誰かはそうではなかった、自分にとっては。純粋。そういった生き方を、自分はとても綺麗なものと思う。

 だれか一人の内側だけに優しさというもの(それがつまりは『主観的な』という言葉の意味)があるとするなら、それは悪意を言い換えたものに過ぎないという風に理解しているという話。言葉で誰かを傷つけたことがあって、何度も、数えきれないくらい。その一瞬をいまでも覚えていて、だから地雷の場所は何となくで知っていて。何度も踏み抜きまくっているうちに少しずつそれを避けられるようになって、一方で自分が地雷を踏み抜きまくっていたことを知らない人からは、それがだから優しさみたいにみえるんじゃないのかという、そういう話。傘。雨に打たれている誰かを守るための傘を偶然持っていたとして、その誰かにとってのそれは救いに思えるかもしれないけれど、でももしかしたら駅だとかコンビニだとかで盗んできた傘なのかもしれないし。手。転んだ誰かに差し伸べられた手が、数秒前には別の誰かを殴りつけていたかもしれないし。関与できない場所。ただ知らないというだけ。隠れている月の裏側。自分の中に優しさと呼べるものがあるなら、それはだからそういうものではないかという話。これまでの人生で数えきれないほどの地雷を散々に踏み抜きまくっていて、満身創痍。反省もする。だから新しく出会う誰かの地雷を踏む確率が低くなっている。「優しくはないけどな」と思う、だから。踏み抜こうと思えばいつだって踏み抜けるし、傷つけようと思えばいつだって傷つけられる。そうしないのはそうする意味が一つもないから。悪意は普通にある。頭の中をよぎっている、いつだって。

 長々と書いてみて、でも優しさってそれだけじゃないんだよな、と思ったりする。主観と客観、正しい用語ではないだろうけれど。誰かと誰かの間にある優しさ。どちらかといえばそちらのほうが本質と思っているけれど、自分は。受け手の問題。誰かを思い切り殴りつけた手で、別の誰かを助けることは果たして悪いことなのかなと思う。思わない、あんまり。できれば誰も殴らないほうがいいとは思うけれど、それは助けを否定する根拠にはならない。受け手からみるとそれは疑いようのない救いで、だったらそれでいいのではと思う。偽善。動機が不純である行為には意味が宿らないと叫ぶ人がいる。理解はできる。間違っているとは思わない。ところで、正しいとも思わない。助かっている人がいるということは事実だし。主観と客観。だから、優しいという言葉に対する理解は、自分の中では異なる二つによって定義されていて。自分ひとりだけのものを重要視するのなら、確かに動機が不純なら意味がないと思う。それは自分が「優しくはないけどな」と思うのと、それほど違わないんじゃないかと思う。一方、自分はそれでも誰かに「優しい」と言われると嬉しく思うし、それはもう一つの客観的なものとして定義された優しさも知っているから。受け手がそう思うなら、そうなんだと思う。自分がどう思っていようが。だからどっちが正しいとか間違っているとかではない、自分にとっては。向き合った相手がその人自身のことをどれほど悪く言っていても、自分が優しいと思えばその誰かは自分にとって優しい人。優しいだけではないけれど、優しい人。そういう風に理解しておきたい、できることなら。

 

 無駄に何かを書きたい気分が高まっている気がする、ここ最近。色んな人と話をする機会が一二月に多かったからかもなと思う。分からないけれど、でもたぶんそう。鏡の過剰供給。翻って自分自身について考えるということが何かと多かったから。毎日更新するのは、まあ普通に無理。でもまあ、書けるだけ書こうかなという気分ではある。忘れてしまわないうちに残しておきたい、教えてもらった様々を。