20230131

 

 人間関係における対称性と非対称性とについて考えている、ここ最近ずっと。あまり他人に話したりしないけど、こういうこと。とはいえ、具体的な表現を避けているというだけで、このブログに書かれてあることの二割くらいはそういう話なんだよな。二割、……二割は言い過ぎか。でも、ブログを立ち上げた当時、もうたぶん知っている人の方が少ないであろう頃の自分が書いていたのは、そういう文章が主だった(ところで、たまに振り返って「これはないな」となったものは非公開リスト送りとなっているので、いま遡ってもあまり見つけられないかもしれない)。要するに、これは昔からずっと考えていることの一つであって、昔っていうか、大学に入って以来。それを最近もまた考えているっていう、ただそれだけの話ではある。「愛と依存の違いは何?」。いまもまだ頭の中にリフレインするいつかの問。昔の自分は昔の自分なりの、そしていまの自分はいまの自分なりの答えを持っていて、ところで、これは個々人に固有のものだと思う。絶対的な正解なんて恐らくないし、自分だって、昔と今とで答えが異なっている。だから、色んな人の話を聞きたいな、とも思う。愛と依存の違い、その正体はいったい何だと思う?

 

 自分が信仰と呼んでいるものについて、その中身を尋ねられたことがあった。けれど、「それを説明するには、まずは(自分の中で)言葉をちゃんと整理しなきゃいけない」みたいなことを言って、結局、その場では何も話さずに終えてしまったような覚えがある。信仰の正体について、このブログに書き残しておいた方がいいのだろうな、という気がずっとしていて、ここ最近。どうしてかというと、自分の中で、次第にその色が失われつつあるように思うから。これは、望ましくない変化ではない。では望ましいのかと訊かれると、とても咄嗟には頷けないけれど、だけど抵抗感はいまのところない。というか、なんだろ。なんだろうな。そういう風に変化している自分自身を自覚するたびに、以前、人から言われた言葉を思い出す。曰く、「一葉さんにとっての青春の終わりが、自分にとっての青春の終わりですよ」。冗談めかして告げられたその台詞が、本当にただの冗談だったのかそうでないのかはどうだってよくて、とにかく、そうして笑わずにはいられなかった夜のことを自分はいまでも覚えていて。信仰の痕を思うと同時に、だからその言葉を思い出す。六年弱、多く見積もれば一〇年弱。気づけば内に宿っていた信仰心とつかず離れずだった日々が大学生活の、あるいは高校生活から続いた今日までの一側面であるとするのなら、それを手放してしまうということは、ともすれば青春の終わりの一つであるのかもしれないなと思うから。でも、抵抗感はないんだよな、本当に。不思議でもない。在るべきものが在るべき形に収まったという感覚、……いや、逆か。消えるはずだったものがちゃんと消えた。痕。あるいは、浮遊霊かも。とはいえ、『鬼物語』を、八九寺真宵を好きになったことは別に伏線なんかではないけれど。とにもかくにも、ずっと続いていた何かが終わっていくような感覚。……この認識は正確ではなくて、本当はもう終わってしまっているのだと思う。空白に自覚的であることが、その証明。青春の終わり。言われて以来、果たしてそんな日が来るだろうかと疑問だったけれど、でもちゃんと終わったらしい、気づかないうちに。

 

 対称性と非対称性。信仰は、非対称的だと思う。自分はいわゆる宗教にまるで詳しくないから知らないけれど、人間がある特定の対象を信仰するとき、見返りの信仰が返ってくるなんてことはきっとないはず。一方通行。遠くの空に明滅する星を眺めるのと同じ。焦がれたり、疎んだり、遮られたり、遮ったり。夜に雲が塞いでいたとして、その先に在ることを決して疑わない。オリオンの三連星、ポラリスシリウスだって、ある日突然消えたりなんかしないから。だから、灰色の静寂を暴きたいとも思わないし、火なんか投げない。そういうものじゃない。確かめなくたっていいし、手元になくたっていいし、届かなくたっていいもの。信仰。出町柳駅の前、いつかに受けた宗教勧誘を思い出す。たしか一時間くらい話し込んでいた、そういった人たちの話を聞くのが純粋に楽しくて。彼らは、だから、神様を独占したいだなんて考えちゃいなかった。だから、ただ偶然立ち会っただけの自分へわざわざ声を掛けたんだろう。そこには、あるいは薄ら黒い目的もあったかもしれないし、なかったかもしれない。けれど、内に在る信仰心の意義を説く彼らの語りは、やっぱり自分にとってはとてもキラキラしたものにみえた。自分と同じなんだな、と思った。異なる点があるとすれば、自分はその在処を誰かに直接教えたりはしないことくらい。鴨川沿いを歩きながら、「星空は好きだけど、雲が塞いでいるとそれはそれで嬉しい」と人に話したことがある。確かめなくたっていいし、手元になくたっていいし、届かなくたっていいもの。自分自身を含めて、この世界にいるどんな人間の手も届かないような、そういった場所に星が明滅していることへの安堵。自分にとっての信仰は、結局のところ、そういうものだった。雲の向こうに星があればいいなと思う。これは自分から信仰へと向かう矢印。けれど、星は別に自分のことを考えて光っているわけではないし、そうであってほしいとも思わない。ずっと曇天のままで世界が滅んだって別によくて、だってそんなの関係ないし。昔のことを思い出してうだうだしたり、あるいは嫌になって不貞寝したり、ずっとそうしているわけにもいかないから音楽を作ったり。でも、そういう全部が関係ない。自分が何をしているかとか、生きているか死んでいるかさえどうだってよくて、どこか遠くの空にいつか見上げた恒星がいまもまだ瞬いているということ。そのこと自体に意味があって、そのことにしか意味がない。強がりとかじゃなくて、心の底からそういう風に思えると思えること。それが自分にとっての信仰。抽象的すぎるよなと思うけれど、気取ってこういう書き方をしているのではなくて、なんていうか、自分の感覚をなるだけ正確に言語化しようとすると、どうしてもこんな感じの表現になる。逆にそうした正確性を排してしまって、内側のイメージと大部分を異にするかもしれない何かが聞き手に伝わることを恐れずに言葉を選ぶなら、死に対する感覚と近いのかもしれないと思う。学部三回生の頃に気づいたこと。死生観と恋愛観。いずれも、たったの三文字で片づけてしまうにはあまりに重大で、あるいは軽すぎる。だから、あんまりこれらの概念についてどうこうと言葉を割くつもりはないのだけれど、ひとつだけ言うなら、(これは大昔にブログに書いたけれど)かつての自分にとってその二つは同一だった。信仰の正体は死への感覚と近いと、そう考えたから。明滅する星、覆い隠す雲。見上げて、こんな空だって好きになれそうだなと思う。あるいは、それが信仰の正体であり、だから、何かが欠け落ちたままでだって生きていられる。事情の知らない第三者からすれば十二分に疑わしい主張だろうけれど、いつかの自分にとっては、でも本当のことだった。

 

 対称性。大切なものって何だろうな、と考えてみたとき、自分の中で最重要なそれとして思い浮かぶのがこの言葉だった。あるいは、鏡かも。お互いがお互いの鏡であるという状態。つまりは、合わせ鏡。合わせ鏡であること。合わせ鏡であろうとすること。合わせ鏡であれると信じられること。んー、自分の中ではこの理解が割としっくりきているのだけれど、ところで自分と同じ辞書を持っているわけではない人が、すなわち自分でない他人がこの文章を読んだとき、まあまあ意味不明の怪文書の様相を呈しているだろうなとは思う。まあ、気になる人はいつでも訊いてください、答えられる範囲で答えるので。ところで、これは本当に今更すぎる注釈だけれど、以上の話も以降の話も、あくまで自分の考え方を書いているにすぎず、これが全人類に普遍的な思想だとか、あるいは絶対的な正解だとか、そういった主張をするつもりは一切ない(本当にない。自分のことをよく知ってくれている人がそんな勘違いするとは思っていないけれど、ところで不特定多数が閲覧可能な場であるので一応断っておく)。閑話休題。対称性。そのことを思うのは、孤独について考えるとき。孤独とかいう意味が広すぎる言葉は、用いるときにはきちんと定義すべきなのだけれど、……なんて言えばいいかな、どうしたって長くなる。同じ感覚を、このブログでは「寂寥感」という言葉で呼んでいるはずなので、定義を気にする人はブログ内検索でも適当にかけてみてほしい。これまでに「寂寥感」と称していたもののことを、ここでは「孤独」と称している。孤独なんて、普段ならまあ使わない言葉の一つだけれど、とはいえ照らしておいたほうがいい。……人間は本質的に孤独だと思う。絶対的な事実としてではなく、一個人の主観的な感覚として。欠落のままでだって生きていける。生きていけはする。でも、それは孤独でないことの証明にはなり得ないよなと思う。痛まないし、苦しくないし、悲しくないし。笑顔のふりとかじゃなく心の底からちゃんと笑えて、呼吸だって普通に続く。でも、ふと目に留まった坂道を何となしに登って、そうして辿り着いた高台から街明かりを見下ろしたとき、なんというか、曖昧な寂しさのような何かが、心臓を撫でられたみたいな感覚が内側にあることに気づく。本質的な孤独とは、つまりそのこと。先日、自分の日常的な行動圏内からは明らかに逸脱している地域の祭りへ足を運ぶ機会があって。自分が今日ここに来なければ、すれ違うことさえ一生なかっただろうなって家族連れ、カップル、ご年配の人。何に対する寂しさなんだろうと思う。そう思うけれど、でも、あるものはあるのだからどうしようもない。向き合わなきゃいけない、その感覚に。世界の共有と疎外感、合わせ鏡。相手が自分の孤独を映してくれるから、自分もまた相手の孤独を正しく映したいと思うんじゃないかなって気がして。合わせ鏡であろうとすること。相手の孤独に向き合うこと。それが、だから対称性。最も大切なものの一つはこれなんじゃないかって、そんな気がする。孤独の所有、手を繋ぐことの意味、灯りを見失ってもそれでもちゃんとわかるもの。それは雲の向こうに明滅する星のことであって、でも、だけどそうじゃない。何度だって永遠を願ってしまうということ、その答え。愛と依存の違いがあるとすれば、それは対称性であり、鏡であり、孤独であり、永遠であり、って思う。思った。

 

 これらは結局のところ、三年半前の自分へのアンサーという話で。当時の自分は当時の自分なりに真剣に悩んだはずで、色々と考えたり不貞寝をしたり、それでもちゃんとその痕跡のいくつかを今の自分にまで残してくれた。だから今日がある、……らしい。こんなブログだって、まあ、正直いつ止めてもよかったわけで、別に続けたところで何かがみつかる保証なんてどこにもなかったのだし。褒められるわけでも、認められるわけでもない。こんなにもどうだっていいことを、どうにもならないことを、それでもやめなかったいつかの自分がいて、だから今日の自分がいるんだなって思うと、なんか。ボーナスステージ。幸福であることへの執着。けれど今、こんなにも死にたくないと思う。幸せとかじゃない。そんなちっぽけなものじゃなくて、もっともっと大きなもの。ちゃんと言葉はみつかっていて、だからこそ言いたくない。何度でも永遠を願うということ。その答え。「奇跡なんて」と笑うのは、そんな些細な一瞬がどれほど奇跡的な偶然の上に在るのかを、それでも知っているからなのかもしれないな。