20220416


 何の努力もしないで他人に好かれている人間がいる、と考えている人がこの世界には一定数いるらしく。ところで、この文章の後半部分は任意の成功体験に置き換えることが可能だよな、と思う。何の努力もしないで昇格する、とか、何の努力もしないで難関大学へ合格する、とか、そんな感じで。この手のステートメント、本当に不毛な言い争いへしか発展しないので自分は会話ではなるだけ出さないし、誰かが口にしたらそれとなく聞き流すようにしているけれど。いや、この主張が抱えている問題は山ほどあって、努力のキャパシティは人によって異なるだとか、そもそもスタートライン時点で人は平等でないだとか、そういう問題が山ほどあって。でも、そもそもの話、思うこととして。いや、たしかにそういった問題はあるし、現実問題として。あるけれど、でも、それらの存在によって「何の努力もしないで」という言葉の暴力性が正当化されるわけではないだろ、と自分は思うから。生みの親が超絶エリート人間で、物心ついたころには学習塾へ通い、一方で文化的な素養も十全に養いつつ、有名な進学校のもと文武両道の数年を経て、そのまま難関大学へ見事合格……みたいな経歴の人間が仮にどこかしらにいたとして。親ガチャって若者言葉もあるけれど、生まれの時点で差がついているという指摘を否定すると、それは嘘になると思う。そんなことは絶対にない。だから、その人にとっては努力ですらなかったのかもしれないけれど。いやでもさ、だからって「何の努力もしないで」なんて言葉が許されていいわけではないでしょと思う、少なくとも自分は。ものすごく暴力的な表現だと思うんだよな、この言葉。平気で使っている人たちはきっと自覚していないのだろうとは思うけど。何の努力もしないで、って。どうして他人の努力のすべてが余すところなく自分の視界には映りこんでいると信じられるんだろう。だって、そういう発言じゃない? 「私は貴方のことをすべて知っていて、だから貴方が何一つも努力なんかしていないことだって知っています」って、そういう意味でしょ、「何の努力もしないで」って言葉は。言われたことあるんよな、この手の言葉を何回か。無自覚なんだろうな、と思う。自覚してやってるなら尚のこと質が悪いけど、そこまでの悪だとは思ってない。でも、割と普通に傷つくな、やっぱり。何の努力もしてないなんて、そんなわけないだろって思う、毎度毎度。たとえば周囲の諸々へ気を配ったり、たとえば誰もやらなさそうなことを予め片付けておいたり、たとえば他人の相談に乗ったり乗らなかったり。ちょっとした一言をかけたりとか、なんだとか。その全部が全部うまくいくというわけではないけれど、当然のことながら。でも、だから、やることはちゃんとやってるんだよな、誰の目にもつかないようなところでだって、色々と。仮に人間関係の話に的を絞るとして、周囲の人間からの評価ってそういった些細な立ち振る舞いから形成されていくものなんじゃないのと思う、自分は。何もしていないのに気づいたらいつの間にかちやほやされてましたって、ライトノベルの主人公じゃないんだからそんなことあるわけない。人間性。土壌。いやまあ、それだってそう。そうだけど、そうだけど。だからってその一言だけで自分のこれまでを全否定するのだけは、だから本当にやめてほしいって、そういう話。気づいてほしい、いい加減。知らない。知らないんだって。その正体を知ろうとすべきとは言わないし、というか知ってほしいとも思わない。フィルター、鍵、宝箱、なんだっていいけれど。でも、知らないってことくらいはせめて知ろうとしてほしい、と思う。思ってしまう。思ってしまうよな、どうしても。我儘だってことは分かるけど。隠してるんだよ、だから、みんな。自分だって、誰かだって。努力とか好意とか不幸とか。そういうのって誰かにひけらかすようなものでもないはず。少なくとも自分にとってはそう。そういった諸々が自分の視界に映り込まないことは、だから自然だって思わない? なのに「何の努力もしないで」だとか、そうやって他人の全部を一方的に踏み躙るより前に、だから少しくらい考えてほしいんよな、そういうことを。まあ、好きにすればいいけどさ。多少傷ついたって、別にその傷の在処を大声で言いふらしたりなんかしないし、同じような言葉の暴力で殴り返したりもしない。そのくらいには大人だから。傷つくなあと思って、一日経ったら心の奥へしまい込んで、たまに嫌なことがあったときに一緒に思い出したりして、だけどその程度のもの。その程度のもの、って言っていいのはそれを抱えている側だけだけど、でもまあ実際にその程度だし。だから好きにすればって思う。どうでもいい。それはそれでその人の人生なんだから、だから勝手にすればいいんじゃない。