20230301


「そういう人もいる」。この表現そのもの、および付随する周辺事項に関して自分なりに思うところがあり、それを出力された文章の形として一度整理しておきたいので、そういった目的で今回はブログを書く。いまこれを読んでいる人の中には、「あー、数日前に長々と話していたやつか」とある種の心当たりのある人がいるかもしれないけれど、それは正しい。そのときに話していたことを、もう少しだけ整えた上で、以下に書き残しておく。それに先立って最初に断っておかないといけないことが一つあって、まずもって、以下の話はあくまで自分ひとりに限ったものであるということ。全員が全員、同じ意味合いでこの表現を使っているというわけではないという点。当たり前すぎる話。この世界に、自分と全くお揃いの辞書を持っている他人なんてものは存在しない。似たようなニュアンスであったとして、自分の使うそれと他人の使うそれとでは、どこかしらで乖離があるはずと思う。なので、まあこんなことはわざわざ書いておく必要もないのかもしれないけれど、だから、以下の内容を過度に一般化された主張だとは思わないでほしいということ。あくまで一個人の話だ。もう一つは、誰かしらがそのものについて、ある意味において真面目な文章を残してしまうと、この表現を使いづらいように感じる人がいるかもしれないな、ということ。もっとカジュアルに使用している、という層も一定数いるはずで、そういった人たちにはかなり申し訳ないことをするな、と思う。とはいえ、話を聞いた感じ、よりもっと別の形を変えた概念(虹とか)が生み出され続けているようなので、あまり心配しなくてもいいのかなと思ったりもする。断っておきたいのは、自分の目的は言葉狩りではないということ。より分かりやすく言えば、「この表現はこういう意味で使え!」ということを主張したいのではない、ということ。これもさっきと同じ話で、お揃いの辞書。全く同じ文字列のそれが、ほとんど重ならないような意味合いで用いられるというのは、人間社会において当たり前のように起きている事象であって、というか、それ自体がコミュニケーションというものの一種の面白さだったりもする。その言葉をどんな意図で使う人がいたっていいと(少なくとも自分は)そう思うし、だから要するに、言葉狩りをしたいわけではない、という表現に落ち着くわけだ。これからやりたいことは、自分がその表現をどういったニュアンス、目的で持ち出すのかということについての説明および整理、ただそれだけでしかないという話。以上、前書きが長すぎるな。なんていうか、ここ最近感じていることとして、自分と日常世界において関係を持っている人のうちのそう少なくもない部分が、このブログを読みに来てくれているらしい。「はてなブログへ投稿しました」のツイートに誰もいいねなんてつけないから、この文章を誰が読んでるのかという一切はこちら側から把握することができない(別に把握したいとも思っていないけれど)。なので、自分のブログを読んでいるらしいという話をたまに耳にすると、まあまあ嬉しい。ありがとうございます。そのうちの数人から数日前、「改行しろ!」との指摘を受けたのだけれど、これ、実際のところまあまあわざとなんだよな。元々は、一時間にどこまで文章を書くことができるか、ということに取り組んでいた時期の名残なのだけれど、いまでは明確に別の意味合いも持っていて。なんていうか、わざと読みづらくしている。流し読みをしづらいようにしているというか、有体に言えば、ちゃんと読もうとしないと目が滑るような文章にしようとしている。だから、一種のフィルターだよな。Twitter でお気持ち表明をしない理由の一つとして、読み手の選択権を奪っているという問題がある。Twitter は自動スクロールで文章が流れてくるから、主義・主張・思想の類に触れさせることを他者へ強制してしまうという問題があり、それは自分の望むところではない。なので、こうしてブログという、自分からリンクを踏まないと読めない場所へ文章を公開しているわけだけれど。ところで、ブログだってリンクを踏むまでは何の話について書かれているのか、分からないがちじゃんか。なので、リンクを踏んでしまった後でも、その内容について読みたくないと感じた人がいた場合に、いつでもそれを放棄することができるよう、可読性をなるだけ落としているという話。選択権は読み手の側にあるべきなんだよな。自分は、何度だって言うけれど、自分の思想を他人へ押し付けたいわけじゃないし、それを理解してほしいわけでもないから。

 

 

 本題。まずもって、当たり前すぎる話を最初にしておくと、自分と全く共通の価値観を持った人間というのはこの世界に存在しない、と自分は思う。価値観というものは一般的に、育った環境、それまでに吸収したもの、出会った人、獲得した経験、そういった様々から多大な影響を受けて形成されていくものであって。なので、そういう意味で自分のそれと同じ価値観を有する他人はいない、と自分は考えている。ところで、その中でも共通部分の大小ということについては考えることができる。自分と同じような考え方をする人、自分と全然違う考え方をする人、そういうの。ところで、このことが人間関係の形成において大きく問題になってくるというのは、それほどありふれた話でもないような気がする。これはバイアスかもしれない。かもしれないけれど、主観で語ることを止めてしまったら書けることなんて何もなくなってしまうし、自分は客観的な、あるいは普遍的な事実について物事を語ろうとしているわけではないということは、あの長ったらしい前書きでも触れたことなのでここでは割愛する。ともかく、バイアスかもしれないと断った上で書く。要するに、価値観が異なる人間同士では関係性が形成されないのかという話だ。自分の周囲を見渡してみるに、そうとも限らないのでは、と思う。価値観の相異なる他者と接する際に障害となるのは、敵愾心だったり猜疑心だったりといったものであるケースも多く、価値観の差異そのものが問題になっているというわけではないケースも少なからずあるという話。親しくしている相手を思い浮かべてみても、そのうちの半分くらいは自分の価値観とずれている部分のほうが大きそうだなと思うし、それでも他愛もない雑談で夜を無為に費やすことはいくらでもできる。生存バイアス。勿論、だから、うまくいかないケースだってあるという話で、当たり前、一概に言えることのほうがずっと少ない。とはいえ、そういった場合でも、問題は価値観の相違そのものではなく、そこから派生して生じるある種の反発心であるという可能性は見当の余地があるように思う。というか、本当に価値観の同じ人間としか付き合っていけないのだとしたら、自分たちはほとんどすべての他人とかかわりあうことができない。しかし事実としてそんなことはなく、だから自分たちは、決して重なりはしない価値観を抱えた者同士、それでもなんとかうまくやっていこうという姿勢で人間関係を構築しようとする。それ自体が、他人へ向き合うという言葉の意味だと、自分はそう思う。

 

 価値観のギャップ。これが問題だよな、結局は。自分たちは、だから価値観の異なる者同士で交流を続けているわけだけれど、関係性を築き上げる途中で、互いが互いに抱えているそれらの差異に触れてしまったりもする。そのことは、良いように作用する場合と悪いように作用してしまう場合との二つがあって、だから、問題となるのは後者のほう。互いの持ち合わせている価値観の違いを照らし合わせてしまった結果、お互いに、あるいはどちらか一方のみが傷ついてしまうという結果が起こり得る。そのような可能性が十二分に想定されることは、少し考えてみれば分かるはず。だって、価値観というものはそれ自体が個々人の生きてきた時間の結晶とほとんど等価なものであって、その差異を知るということは、つまり一歩でも間違えると、その個人がこれまでに過ごしてきた時間そのものの否定に繋がりかねないということ。少なくとも、自分はそう思う。……自分は、自分と相異なる価値観に触れることがかなり好きで、それはまあ、どうだろうな。自分のことを正確に知ってくれている人たちは、きっと頷いてくれるんじゃないかと思う(本当か?)。自分の話をするよりも他人の話を聞いているほうがよっぽど楽しいというのは、その表れのひとつなのかもなと思ったり。というか、そんな例を挙げなくとも、このブログを読んでいれば分かるだろという気もする。このブログには、そういう話がたくさん書かれてあるため。ところで、なのだけれど、そうして価値観の違いを照らし合わせるという行為、それ自体を自分から強いて実行したいとはほとんど思わない。理由はいくつかある。たとえば、単に怖いから。一歩でも間違えると、相手が、あるいは自分が、深く傷ついてしまうという可能性。その一歩一歩をすべて正確に選び続けられるというほどの自信なんて、当然ながらあるはずがない。そういう意味で怖い。価値観の差異を照らし合わせるという行為は、そのくらいに危険を伴うものだと思う。もう一つは、だから、そのくらいの危険性が付きまとうような行為に、他人を了承なしに巻き込むべきではないということ。たとえどんなに自分の側はよくたって、相手の側が「そんなことは望んでいない」と思っていたとすれば、それはコミュニケーションの在り方として破綻してしまっている。要するに、互いの了解がなくてはならないと思う。暗黙にせよ、明示的にせよ、その行為によって互いに傷つきかねないという危険性を、互いが十分に了承し合っているという状況。どちらか一方の了解が欠けてしまった状態で行われる差異の照合なんて、一方的な暴力とほとんど変わらない。こういうことを言うと、「自身の主義にそぐわない意見には耳を傾けないなんて不誠実だ」と主張する人が一定数現れるけれど、そういう話じゃないんじゃないかという可能性を、だからここまでの長ったらしい文章を読んで一度くらい考えてみてほしい。受け手の側の判断によっては、殴る蹴るの暴力と変わらないんだって、そういうの。それに、だったらそっちもそうしろよって思っちゃうな。「自身の主義にそぐわない意見には耳を傾けないなんて不誠実だ」と他人に向かって言うのなら、「傷つきかねないようなコミュニケーションはなるべく慎重に行いたい」という人の意見に耳を傾けないのでは理屈が通らない。そういった主張の人々の心情を無視するというのであれば、それはただの自分勝手でしかないだろうと、そう思う。

 

 違いを較べ合うことは、だから怖いことだと思う。お互いに傷つきかねないし、そうなった場合に起こり得る結果といえば、口論だったり喧嘩だったり、あるいはより深刻に不和や絶縁といった、取り返しのつかないものだったりする。ところで、じゃあそういった営みが人間関係において一切行われないのかといえば、そんなことは全くなく。平平凡凡に通り過ぎる時間と同じくらいとは言わないまでも、けれど決して無視はできない数の夜を、自分たちはそういった営みへ、要は価値観を較べ合うという行為へ費やしたりもする。というか、後になって振り返ってみると、何かをして一緒に遊んだという経験と同じくらい鮮明に、夜な夜な何かを議論したという記憶が呼び起されたりもして。というよりも、違いを較べ合うこと、それ自体がコミュニケーションというものの本質だろうと、少なくとも自分はそう思っているし。怖いからといって、だから避けて歩きたいというわけでもない、少なくとも自分はという話。だから、較べ合おうとする。どんなに怖くても、お互いに抱えている価値観の食い違っている部分を。この矛盾をどのようにして処理するかという話だけれど、だから結局、お互いの了承があればいいということになる。差異を照らし合うことによって傷つく可能性があるし、傷つける可能性があるし、最悪の場合は修復不可能なラインにまで到達する可能性もなくはない。そういった危険性を、お互いがお互いに了承してさえいればいい。なにかしらの問題を抱えた道具があったとして、扱う人物がその不備を正しく把握してさえいれば困ることは何もないという、これはよくある話。火の扱いを、あるいはナイフの扱いを、お互いが十二分に理解してさえいればいい。そうすれば、その火を囲んで暖をとることができるかもしれないし、それまではみえていなかった新たな一面をナイフによって切り出せたりするかもしれない。そういう話。だから、たとえば、よく集まる仲の良い人同士であれば、そういった会話が何の脈絡もなしに平然と行われたりもする。それはお互いがお互いのことを、ある意味において信頼しているから。相手はその道具の危険性を把握しているという信頼。あるいは、少し手元を滑らせて火傷してしまったり指を切ってしまったりしたとしても、この相手となら十分に修復していけるだろうという信頼。そういったものがお互いの中に宿っているから、だから較べ合うことに対する抵抗感が、あるいは恐怖が薄れて感じにくくなっているのだと、自分はそう思う。そういう場合に横たわっているのは、暗黙の了承だ。誰もそういったことを明言したりはしない。でも、だからといって、それを欠いた状態で火遊びをしているわけでもない。それまでに積み重ねた関係値があるから、「このくらいなら大丈夫だろう」というラインがお互いに分かっているから、だから多少の危険性は受け入れて、その上でそういったコミュニケーションの中へ身を投じているのだという、そういう話。

 

 だから問題は、その場に集まった人数が多ければ多いほど、より深刻さを増すように思う。お互いの共通見解があればいいという話だったけれど、人数が増えればその分だけ認識のすれ違いが生まれやすくなるし、その擦り合わせも容易でなくなるから。条件を増やせば増やすほど集合としては狭くなるっていう、よくある議論。そして、そういった状況は何も珍しくない。そこに居合わせた全員が、たとえば一緒に旅行へ出かけるくらい仲の良いメンバーだという状況と同じくらいには、気の知れた人とそうでない人のどちらも居合わせているという状況での会話イベントが発生する。そこで、だから、共通認識の有無が問題になってくる。閉じた空間であればあるほど、その問題性はより強固なものとなる。開放的な場であれば、まだいい。だって「ああ、これは聞きたくない話かもな」と思ったのなら、その人にはその場を立ち去る権利がちゃんと与えられているわけだから。閉じた空間は、そうした退路を一切封じてしまっているという点がよくなくて、このときは差異を照らすという行為に宿り得る暴力性がいっそう増す。……というめちゃくちゃに長い前提情報を提示した上で冒頭の話へ戻るけれど、だから、自分はこういった状況下で「そういう人もいる」という言葉を用いる。日常会話で無意識的に使っていることもままあるだろうけれど、意識的に繰り出す場面はといえば八割くらいがこれだ。「この場でこれ以上その話を続けると、居合わせている誰かしらが傷つく可能性がある」、そう感じたときに、その場をとりあえず取りまとめるための言葉として、そういった台詞を使う。共通認識の欠如。たとえば、自分はその相手がどういった価値観に基づいて行動して、その結果どういった人生を送っているのかということをそれなりに知っているとして、けれど隣に座っている誰かにとっては全くの初耳ということがあるかもしれない。そうした状況下で価値観を較べ合おうとするのは、流石にちょっと危険すぎるし、なによりも聞き手側の事情をもうちょっと顧みたほうがいい。その行為によって傷つく可能性はどちらかといえば聞き手の側のほうが高く、対等なんかではない。そして、聞き手の側に果たしてその覚悟があるのかという話だ。その有無には、話し手側の事情なんて一切の関係がない。価値観を照らし合わせるという行為に破滅の危険が付きまとう以上、その場に立ち会うことには個々人の意志による了解があるべきだし、だから、その段階をスキップしようとするのはただの無謀だと思う。そうして失敗してしまったとして、じゃあその結果に責任を負うことができるのかという話でもある。好きな作品、世界に対する考え、生き方、そういった個々人の深いところへまで根付いている話題であればあるほど、その扱いには慎重にならなくてはならないと思うし、ましてや一方通行であってはならないと思う。大切なのは、だからお互いに了解しているという、双方向性の確保されている状況。自分たちが扱っている道具は、使い方をひとつ誤れば、向かい合った相手のことを殺めてしまう危険性さえあるものなのだという理解。そして、「この人であれば、たとえ失敗してしまってもきちんと修復することができる」という、互いの意志に基づく信頼を居合わせた人数分。そのうちの一つでも欠けていると思われる場合、自分は踏み込んだ話なんてしないし、したくもない。勘違いしないでほしい、ありとあらゆる状況下で踏み込みたくないというのではなくて、そういった前提が整っていないと判断される状況に限って、という話だ。条件が揃っていれば、踏み込んだ話をする日なんていくらでもある。だから結局、こうして求められる前提の一つひとつをゆっくりと着実に整えていくことが大事なんじゃないかと、自分はそう思うし、それが、だから他人へ向き合うということの意味なんじゃないかとも思う。その過程をスキップすることは誰にもできないし、しようとすべきじゃないって、そう思います。

 

 

 以上。ここまでちゃんと読んだ人がもしいれば、おつかれさまでした。それと、ありがとうございます。それはそうと、ちょうど今日からが三月ですね。早いなあ。あと一ヶ月の大学生活、やり残しのないように過ごしていきたいなって思います。