20230516


 小学生の頃、あるいは中学生でも構わないけれど、風邪で学校を休んだ次の朝の教室へ足を踏み入れた瞬間の感覚を思い出すことはもうできない。そもそもの話、自分が記憶を捏造していなければ、学校を休むようなことは一年に一度あるかないかくらいだったはず。高校生の頃はもう少しあった、三ヶ月に一度くらい。つまりはその感覚を覚える機会自体が滅多になく、だから思い出せないとしてもおかしなことではないだろうとも思うのだけれど、ところで思い出せないものは思い出せず、なんていうか、ちょっとだけ寂しい。自分が将来家庭を持つことがあったとして、子どももいたとして、いや、その仮定に意味なんてあるか? と脳内人格がしきりにツッコんでくるけれど、そんな一切は一先ず置いておくとして。仮定の話だって言ってるだろ。で、まあそういった状況になっていたとして、時間軸上、現時点からみて未来側に立っているいつかの自分が。それが果たしていつになるのかまでは考慮する必要がなく、とりあえず明日とか一年後とか、そういった規模感でないということが重要で。となれば、それほど時間的に先へ進んでしまったいつかの自分は、風邪で学校を休んだ次の朝の教室へ足を踏み入れた瞬間の感覚を、思い出すことができないということさえ思い出せなくなっているのではないか、という危機感がある。危機感、はちょっと違うか。なんか、各々で良い感じの表現に読み替えてほしい。とにかくそういった感覚があって、いやまあ、忘れたことを忘れたままで生きていられるならそれはそれでいいのだろうけれど、だからここで仮定の話へ戻るとして、自分の子どもがその、休んだ後の教室に漂う疎外感にも似た何かについて言及してきたとき、そしてその感覚の存在をいつかどこかで手放してしまったことを自覚させられたとき、いったいどんな気分になるんだろうなっていう。懐かしいと思うかな。思わない気がするな。だって、思い出せもしないものに対して懐かしさも何もない。ああ、そう、だから、そういうのが寂しいなって思う。たしかにあったはずなんだよな、なかったはずがないから。でも思い出せない。喧嘩の後の気まずさとか、仲直りの仕方とか、通学路とは思えないくらい狭い路地とか、授業を聞かずに書いていたノートの中身とか、放課後の誰もいなくなった校舎とか、中途半端に破られた選挙ポスターとか、友達と遊びに出て帰りが遅くなってしまったときの焦燥とか、灯りが少なくてやたらと薄暗かった帰り道が怖かったこととか。かろうじて記憶に残る当時の行動や出来事を振り返ると、そういう感覚はたしかにちゃんとあったはず、なのに。やったこと、その出来事自体を思い出すことはできても、その瞬間の最大風速的な感情を思い出すことまではできない。最近考えていたことの一つ。これまではずっと逆のことを考えていた。瞬間最大風速的な感情を忘れてしまったとしても、それを自分に与えてくれた出来事のことはいつだって思い出せるから、みたいな。『ステラグロウ』とか『リスティラ』とかが露骨にそうだし。ところで、その気持ちはいまも全く損なわれてなんかいないのだけれど、そこに一切の寂しさが伴わないというわけではないんだよな、という話。というので、自分の中にある気持ちは何であれ、別に人の目につく場所である必要はまったくないけれど、ちゃんとメモしておかないとダメだなと思うなど。ここ最近、ブログをサボりがちだったから尚更。いや、サボろうと思ってサボってたってわけでもないんだけど。水道の蛇口へ手が届かなかった頃のことは流石にもう思い出せないけれど、たとえば数十年後の自分がいまの自分と同じことを考えたときに、その手助けになれるくらいの何かは残せておけたらいいな、と思う。

 

「何者かになりたいと思ったことってある?」。およそ四年前に書いた小説(もどき)の書き出しへ思いを馳せる機会が、五月中のどこかにあった。これは高校生当時の自分にあった問題意識の言語化。いま読み返すと、「自分の文章だな」という気持ちが半分、「懐かしいな」という気持ちがそのさらに半分、「いまの自分じゃ書き切れないだろうな」という気持ちが残り全部。書けないだろうな。別に、いまだって『何者か』になってしまったというわけではないと思うけれど、でも、高校生の頃よりは、あるいはそれを書いた学部三回生の頃よりは、ずっと『何者か』としての要素を手に入れてしまっているような。それ自体は喜ばしいことで、なんていうか、ちゃんと報われてきたんだなと思う、色々な様々が。でも、いや、別にそんな当たり前の言い回しをさも得意げに持ち出して、そうして何かを言ったような気になりたいというわけではないのだけれど、でも、何かを手にいれるってつまりは何かを手放すことなのか、とは思う。この小説を書いた当時の自分へはもう戻れないし、いや、未練なんてないけどね。本当に一切ない。ただ、ちょっと寂しいなと思うだけで。だから、なんだろうな。中学の頃に親しくしていたアイツと久しく会ってないな、くらいの感覚。たまにあるいはごく稀に、会いたいなと思う瞬間があるし、顔を合わせて話してみたいこともそれなりにあるっていう、そういう距離感。分かるかな。これを書いたときの自分が何を考えてたのか、普通に気になるんだよな。だって、44,000 字もあるんだよ。信念とか決意とか、そんな大それたものは特にないかもしれないけれど、でも、何かしらはあったんだろ、きっと、当時の自分なりの何かしらが。いやでも、もう覚えてないんだよな、残念ながら。マジで、こんなことならもうちょっとブログで自分語りしておくんだったな。作者が作品のことについてべらべら言及するのってあんま良くないかな、と当時は考えていたということもあって、本当に書いた直後の生の感覚、みたいなのが一切言語化されてないんだよね(半年くらい時間を置いてからのものならいくつかある)。んー、寂しいな。寂しいなって思う。地元の友人へはさ、地元に帰れば会えるじゃんか。じゃあ、すっかり置いてきてしまったいつかの自分とは、どこへ行けば会えるんだろうね?

 

 

 というので、忘れないうちに『夕景、紛う、白昼夢』の曲想まわりの話だけ書き残しておくか。こんなところまで読んでくれた人がいるかは知らないけれどいたとして、まさか、これだけ思索的な文章が羅列されまくった後に作品の話が始まるとは思ってもいなさそう。何故なら、自分でも思っていなかったので。ブログ、基本的に書く前から書く内容を決めてたりってことはなくて。白紙のワードパッドを立ち上げて、そこから気の向いたようにつらつらと書く、みたいなのが基本のスタンスなんだよね。なんか、それで今日は「以前の感覚を思い出せないのって寂しくね」みたいな方へ話が向かったから、だからせっかくなので直近の作品に関しての話を残しておく。というか、こんな付録的にでなくとも、そのうちどこかのタイミングでは個別に記事を書くだろうと思うけれど。

 以下のリンクから試聴・購入することができます。

mirinn.bandcamp.com

 これは歌詞。

note.com

 

 曲名を思いついた直後は「もうこれしかない!」と思った反面、こんな長ったらしい名前をつけちゃってどうしような、と考えていたけれど、某後輩が早々に『白昼夢』という呼び名を与えてくれたので、今後はそれでいこうと思う。白昼夢はイントロ( A メロ)のメロディが先にあって、頭から順に展開する感じでコードワークが決まっていった。その原案が生まれたのは 2022 年 10 月 15 日の深夜 3 時頃で、MIRINN 2nd Mini Album "stella" の制作で立て込んでいたはずのときにいったい何をやってるんだという感じ。息抜きで鍵盤を鳴らしていた良い感じのフレーズ(先述のイントロ部分)が降ってきて、それで忘れないうちにさっさと midi へ書き起こしたという、たしかそんな経緯だった。

 音楽面での話は一旦いいや。曲想について。リリース当時に数人が察していたように、あるいは既に自分が何処かで一度言及したように、この曲はアナザーパレーシア(と自分が勝手に呼んでいる作品)を受けてのものだった。

kazuha1221.hatenablog.com

そもそも『星降のパレーシア』という、自分を含む数人(のくたべさん(先輩)、なずしろさん(後輩))で制作した楽曲があって、それを基にして書かれた短編もどきが『アナザーパレーシア』と自分が勝手に呼んでいる、上のリンク先の作品。さらにそれを受けて作られたのが『夕景、紛う、白昼夢』という楽曲で、もはや何次創作だよという感じ。音楽→文章→音楽のダブルコンバートは初めての経験だった。

 アナザーパレーシアの初出は 2022 年夏の大例会パンフで、ざっくり説明すると所属サークルの合宿に際して有志により制作された冊子、それに向けて書き下ろしたものだった。その大例会が開催されたのが 9 月末のことなので、10 月 15 日にラフが生成されているのは結構なスピード感ではある( 10 月頭は某感染症修論で倒れ伏していたし)。この頃、はるまきごはんというアーティストが(自分の中では数年前からずっとそうなのだけれど、この時期は特に)かなりアツく、ところではるまきごはんの作風の特徴として「ある二人の関係を楽曲を通じて描く」というものがあり(ふたりのシリーズとか幻影シリーズとか)、そこに影響された側面はかなり大きい。でないと、アナザーパレーシアを基に曲を作ろうとは考えなかったと思う。

 短編には佐々木、由夏という二人の登場人物がいて、作品の語り手は後者、由夏のほうだった。ところで、佐々木目線の物語もちゃんと描いてみたいという欲求は、短編を書いていた最中からずっとあって、それがどういった媒体になるのかまでは想像していなかったけれど。『安達としまむら』も『やがて君になる』もそうだし、なんなら過去作品であるところの『ステラグロウ』と『cor』の関係もそうなのだけれど、特定の二人の関係性を描くとするなら、両者どちらの目線からも物事を描写してくれると嬉しい、みたいな話があって。なんていうか、架空といえども人間なのだから、共通の事象に相対したとして全く同じことを考えて全く同じように行動する、なんていうことはあり得ないわけで。むしろ、関係性を描くということは、つまりそこの差異を描くということなのでは、という気もする。つまり、A は B のことをどう思っているのか、B は A のことをどう思っているのか、その両方をできれば知りたいということ。なので、『夕景、紛う、白昼夢』の一人称は佐々木の人格を想定することとなった。この点に関しては深く考えたとかではなく、最初からそうなっており、後から理由を無理矢理こじつけるならこういうことかな、というやつ。

 コードとメロディだけがあった段階ではもうちょっと爽やかな曲になる想定で、あれほどまでに短調感を前面へ押し出した完成形になるはずではなかったのだけれど、でも、上に書いたような諸々が自分の中でかちっと決まって、「あの一件に対峙した佐々木の心情か~」と考え始めた途端、コードワークは自然と暗いほうへと寄っていった。歌い出しの IIm7 - VIm7 もラフの時点では IVM7 - VIm7 だったのに。でも、アナザーパレーシアによる救済が入るまでの佐々木の内心ってたぶんあれぐらい、というかあれ以上にもっと濁っているはずだし、かなり正解だった。はちゃめちゃにカッコいいギターソロを MIRINN のギター担当であるところのりっか君に弾いてもらったわけだけれど、たとえばあの音もこの楽曲には欠かせないものであって(なので、期待通りどころか期待以上のギターソロを出力してくれたりっか君マジ感謝という話でもある)。曲想的に、という意味。短編の中で、語り手である由夏が「凪いだ水面のような、佐々木のような夜だった」と表現する場面があるのだけれど、あのギターの音色を聴けば、佐々木の内面がいったいどういう状況になっているのかなんてわざわざ歌詞に起こす必要さえなくて。そんな感じで、全部の要素が一体となっている作品を作りたいな~という意識が(自分の作品の中では)特に強く顕れている曲だと思う、白昼夢は。

「太陽を夜が砕いて、そうやって八月は終わるんだ」という歌詞をかなり気に入っていて、恐らく、ここ最近書いた歌詞の中でも一二を争うくらいには。佐々木目線で描かれた白昼夢の中に登場する台詞はすべて由夏のものなのだけれど、いかにも由夏が佐々木に対して言いそうなことを、そして佐々木が由夏のことを思い出すときに一緒に出てきそうなくらい象徴的な言葉を、歌詞という形に起こすことができたから。これは自己満足的なお気に入りポイント。いや、創作ってだいたいの部分が自己満足だけども。たしか、このフレーズを思いついたときは祇園四条の交差点を歩いていた気がする、のでバイト帰りかな。自分の感覚として、夏は太陽が夜に砕かれて終わりを迎えるし、逆に冬は太陽が夜を砕くことで幕を閉じるって感じがする。しません?

 佐々木と由夏が再び出会ったことへの意味付け。そういう意味で、アナザーパレーシアの後始末(前日譚だけど)。『夕景、紛う、白昼夢』でやりたかったのはそういうことだった。パンフのときは時間が足りなくて「いや、この二人について書けること、他にもっとあるだろ~~~」とおもっていたので、それが果たせてよかったなと思う。

佐々木は張り詰めた水面のような少女だった。とても綺麗で、澄み切っていて、だからこそ些細なきっかけ一つで大きく揺れ動いて、二度とは戻らなくなってしまいそうだった。ぴたりと凪いだ海と同じくらいに奇跡的で、あまりに現実味がない。それが彼女、佐々木深冬に対する印象のすべてだった。

これは同短編における佐々木に対する由夏の評価の一つだけれど、白昼夢という楽曲の存在自体が、由夏がどれほど真っすぐに佐々木のことをみていたのかということの証明にもなり得るよね、という話で今回は終わり。結局、一番やりたかったのはそれだったのかもしれない。