another parrhesia


 某に勧められた『少女妄想中』を読み終えてから書こうと思っていたのだけれど、しばらく外出できなさそうなので、このタイミングで書いておくことにした。

やがて君になる』の微妙なネタバレが存在するので、読んでいない人かつネタバレを気にする人は、以下を読み進めないほうがいいかもしれない。

 

kazuha1221.hatenablog.com

 

 ジャンルで区別するのなら恐らく百合ということになるだろうと思うけれど。ところで、世間一般で言われるようなそれとは少しだけ乖離しているかもしれないという気がする(百合エアプなので分からない)。このことを説明するためには、まずもって自分が百合というジャンルのどこを気に入っているのかという話をしなくてはならないのだけれど。なんていうか、男女の恋愛関係を取り扱う作品においては、どうしたって性的なニュアンスが強調されがちだよなというのがあって。いや、嘘で、全部が全部そうってわけじゃないけれど。ただ、たとえば『アオのハコ』とか『ホリミヤ』とかを読んでみても、自分はそういった感想を少なからず抱く。……性的って言い方があんまり正しくないかもな。身体的、くらいでいいのかも。とにかく、男女間の恋愛って割とその身体的な差異が前提とされているよなというのがあって、ところで、こと恋愛に対して自分が求めているものは恐らくそうではないという話があり。ここで誤解が生じないように断っておくと、そういった作品を楽しめないという意味ではなくて、『アオのハコ』も『ホリミヤ』もかなり好きだし(後者はまだ途中までしか読めていないけれど)。ただ、それはそれとして自分の理想はまた別のところにある、という話。そして、その正体を探るために、百合というジャンルはものすごく適しているように思う。

 

やがて君になる』という作品が自分の中ではかなり来ていて、最初に読んだとき「自分の思考回路を読まれている?」と感じたくらい。それで作者のインタビューを読み漁っていた時期があり、その途中に見つけたこの文章のことをよく覚えている。

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「はい。そういう欲求は二人ともあるよ、ということは、ごまかす必要もないことだし、ごまかさない方が良いと思っていました。」の部分。百合という関係性においても身体的なそれが切り離されるわけではないんだな、という意味で記憶しており、ところで、そうした欲求の発露が全七巻にも渡る長大な、お互いの「好き」を確かめ合うための過程を経た上でようやく訪れるという点で、自分はこの作品を気に入っているのだと思う。「そっちが先であるべきだよな」という安心感があるというか。一方、男女の恋愛においてはこの順序が逆転し得るというか、身体的なそれが先にあって、その介入によって「好き」が形成されてゆくことがあるという話。それ自体は悪いことではないし、というかいたって自然なことと思うのだけれど、けれど、なんていうか、誤魔化されているような気がしてしまう。なので、百合という関係性を自分が気に入っているのは、身体性に基づく好意が表面化しにくいから、ということになる。ところで、そうでない百合作品が存在することも知っており、一概には言えないという話も当然ある。

 

 佐々木と由夏のような関係性が、思うに自分の理想とするところにかなり近くて。締め切りまで余裕がほとんどなかったので手癖全開で書いたところ、本当にただの手癖みたいな二人が出力された。全人類とこうなりたいとは思わないけれど、自分の好きな人たちとはこれくらいの距離感に収まれたらいいかもなと思う。これくらいの距離感っていうか、具体的には、最後の夜にどうだっていいことを話しながら歩けるような、それくらいの。本当に大事なことはほんの一言二言交わすだけでよくて、好きな恒星とか、夜が怖い理由とか、残りの全部はそういったことを話していたい。そういう意味で、大例会四日目朝の散歩はかなり良かった。ああいう永遠を集めて生きていきたいなって思う、思った。……話が脱線した。大例会の感想戦もそのうちやる。

 

 短編版『星降のパレーシア』のことを自分はアナザーパレーシアと呼んでいるのだけれど、アナザーパレーシアを書く上で心掛けていたのは、佐々木も由夏もお互いに相手への好意的な感情をほとんど口にしないということ。「好き」という言葉を軽々しく扱いたくなくて、……みたいな信念的な何かがにじみ出ているなと思う、この部分については。由夏に対する佐々木の立ち振る舞いとか、それに応じる由夏のスタンスとか、そういったものに「好き」を介入させられるだけの分量を割く余裕がなかったから。『やがて君になる』の例でいうなら、第一巻から第七巻に相当する部分を描写せずに第八巻の内容をいきなり描くみたいな。過程の提示されない「好き」には重みが宿らないから、だから却って軽くみえるような気がして。それで気をつけていた。逆に、「嫌い」という言葉は何度も使った。自分なら、他人相手にはまず使わない言葉の一つかも。けれど、それによって描くことのできる関係性もあるよなと思って。「好き」が使えない分、真逆の言葉を効果的に組み込むことで「好き」を表現できないかな、と思ったり思わなかったりしながら書いていたような気がする。こういうのも全部、恋愛感情がどうだとかそういう話ではなくて、そういう話ではないから男女二人で描くことはしたくなかったというのがある。これもまた、「そういう話ではない」ということを説明するだけの余裕がなかったからという話ではある。そのことを読み手に知らしめるだけの情報が 100,000 字分くらいあれば、男女で描いても同じ結果になると思う。だから本当は百合でなくともよいのだけれど、今回はそうするしかなかったという話がある。

 

 ブログへアップロードした原稿は大例会パンフに載せてもらったものと同一で、ところでこれらは初稿から一部修正されているという話がある。何をどう変更したのかというと、初稿の段階では最初から最後までを一通り読めば、どんな雑に読み進めたとしても物語の構造がある程度分かるような構成になっていたというか。佐々木がいつものように手を繋ごうとした理由とか、どうして由夏は佐々木に会いたくなかったのかとか、そもそも二人はどこへ向かって歩いていたのかとか。そういう全部に、誰がどう読んでもおおよその当たりがつくような構成にしていた、意図的に。別に、作品の意図について考察されたいわけではなかったし、大例会中の暇つぶしになればいいや程度の気持ちでしかなかったから、当初は。ところで、完成した原稿を何度か読み返しているうちに「いや、本当にこれでいいのか?」みたいな気持ちがどこかで芽生え、結局、いま現在人の目に触れている形に落ち着くことになった。なんていうか、最初は何が何だか分からないけれど、読み進めるうちに徐々に構造が明らかになっていくタイプの作品が自分は好きで、米澤穂信のリカーシブルとか。なので、あの作品を読んでくれたという人(ありがとうございます)の中でも、「結局、これって何だったんだ?」と思っている人は少なからずいるだろうな~と思っている。いるので、こんなどうでもいい文章をここまで読んでくれた人へ向けてその辺りのことに関するヒントを書いておこうと思うのだけれど、『七月一四日』。初稿から修正するにあたって書き加えた言葉のひとつがこれで、それと『八月三一日』。こちらは初稿時点であった設定。作中で登場している日時の情報がこの二つだけで、だから、自分としてはこれでもあからさますぎるかなという感じで、実際、読む人が読めばすぐに気づきそうだなという気がするのだけれど。ところでまあ(作中では言わないようにしたけれど、作品の外では)別に隠すことでもないしな……と思って、なのでいまここに書いておくことにした。

 


 文章を音楽へ変換するのは『アイ』でやっていたのだけれど、逆をやるのは今回が初めてだった。かなり楽しかったので、これくらいの分量でいいなら今後も機会があればやりたいな~と思わなくはない。ないけれど、はたしてその機会があるかだよな、問題は。二、三日を犠牲にすればある程度は生成できることが今回判明したけれど、ところで二、三日を犠牲にする覚悟はそう簡単に決められるものではないという問題があり。むず~。