星降のパレーシア

 

 佐々木はいつものように、私と手を繋ごうとした。
 河沿いの涼しさに紛れて、右手のすぐ近くに彼女の体温があった。見慣れたワンピースの袖が、返事を待つみたいに視界の隅で小さく揺れていた。
「八月も、今日で終わりだね」
 あと五時間くらいかな。そう言いながら、時計をたしかめることはせずに、私は彼女へと手を差し出した。佐々木の細い指が、繋ぐというよりは確かめるみたいに、弱々しく私の指先に触れる。まるで真冬のような冷たさだった。佐々木は私よりもずっと体温が低くて、ときどき心配になる。
 佐々木は張り詰めた水面のような少女だった。とても綺麗で、澄み切っていて、だからこそ些細なきっかけ一つで大きく揺れ動いて、二度とは戻らなくなってしまいそうだった。ぴたりと凪いだ海と同じくらいに奇跡的で、あまりに現実味がない。それが彼女、佐々木深冬に対する印象のすべてだった。
 できることなら、私は彼女の内に宿る純粋をそのままに留めておきたかった。
 佐々木深冬という静寂を破ってしまうくらいなら、私はずっと何も言えないままだって構わなくて。押し入れにしまいこんだままのアルバムの一頁のような思い出になれればそれでいいと思っていた。
 なのに今、私と佐々木は二人きりで夜の中にいる。その偶然が意味するところを私は、十分すぎるほどに理解していた。
 だから私は、なるべく普段通りに笑う。
「佐々木の手、やっぱり冷たい」
 佐々木の指が微かに跳ねた。擦れる一瞬のくすぐったさも、佐々木のものと思えば不思議と悪い気はしない。
「けど、安心する。ああ、佐々木の体温だな、って」
 みると、佐々木はなんだか困ったような表情を浮かべていた。それから何かを言おうとして、けれど途中で諦めたみたいだった。
 私たち以外に人の気配はどこにもなかった。名前の知らない、耳に馴染んだ声の虫がすぐ近くの草むらで鳴いている。流水が段差を落ちるときの、ざらついた音が遠くのほうから聞こえている。頼りのない街灯、眠ったままのベンチ、ほんのわずかに欠けた月明かり。夜にしかないものだけがあって、他には何もない。私たちの足音と会話がやんで、たったそれだけのことで、まるで世界中が息をひそめたみたいに錯覚する。それはどこまでも凪いだ水面のような、佐々木のような夜だった。
 佐々木はそれほど口数の多いほうではない。少なくとも私に比べればずっと寡黙で、こんなにも詩的な夜が、だからとてもよく似合っていた。通学路のバス停でも放課後の教室でもなくて、たとえば今のような、すっかり陽の落ちてしまった暗がりの帰り道にこそ私にとっての佐々木がいる。
「佐々木」
 と私は彼女の名前を呼ぶ。すると、目が合った。前髪の隙間に覗くふたつの黒い瞳は、こんな暗闇でだってはっきりとみえる。
「歩こうよ、いつもみたいにさ」
 佐々木はやはり何かに困っている様子だった。
 返事はすぐにはこなかった。私は離れたところにある信号機を、なんとなしに眺めていた。車も歩行者もない横断歩道を守る小さな信号の灯りは、何度か明滅した後、コインが裏返るみたいに一瞬で色を変える。
 夜には鮮烈な赤も似合うな、と考えているときだった。ようやく、佐々木が口を開いた。
「わかった」
 そう言って、佐々木は小さく頷いた。
 そんな彼女の仕草をみて、安心する。夜の静寂は私たちに何も強制しない。だから、進むにせよ留まるにせよ、それは佐々木自身の意思であるべきだ。佐々木が私の提案に乗るという選択をしてくれたことが、ほんの少しだけ嬉しかった。
 私は微笑む。
「佐々木の声、久しぶりに聞いた」
「私だって、由夏の声を聞くのは久しぶりだよ」
「七月一四日の教室が最後だよね。勿体ないことしたな」
 緩い風が辺りをすっと通り抜けて、佐々木の整った黒髪を微かに揺らした。枯れ木と青空が真っ先に思い浮かぶ、およそ夏らしくない風だった。
「いこう」
 それから、私は歩き出した。
 手を引かれるままに、佐々木が後をついてくる。
 私は足早にならないよう気をつけながら、あてもなく空を見上げた。
 私と佐々木の立っているこの道が、お互いにとっての帰り道であることには違いなかった。私は私の帰るべき場所へ帰るのだし、佐々木は佐々木の帰るべき場所へ帰る。当たり前のことだ。そんな当たり前のために私たちはここにいて、そんな当たり前のためにこんな夜がある。だとすれば、こうして彼女の手を引くことがきっと、私の果たすべき役割なのだろう。
 佐々木は歩きながら、ときどき何かを言いたそうにしていた。繋いだ指の先に込められた力が、まるで遠くの星が明滅を繰り返すみたいに強まったり弱まったりしていた。それは私に宛てた信号だったのかもしれないけれど、流石にそこまでは読み解けない。
 歩調を緩めて、佐々木の隣に並ぶ。彼女と二人きりでいるときの沈黙が、私は好きだった。思い返せば、記憶の中の彼女はいつだって口を閉ざしている。知り合って以来、話をした時間よりもお互いに黙っていた時間のほうがずっと長いはずだ。
 けれど不思議なことに、今夜は話をしていたい気分だった。
 私は尋ねる。
「夏休みの宿題は済ませた?」
「うん。約束したから」
「やっぱり。佐々木が私との約束を破ったことなんて、これまでに一度もなかった気がするな」
「そうだっけ」
「ああ、嘘、一度だけ。たしか、待ち合わせに寝坊したことがあった。連絡にも返事がなくて、それで佐々木の家まで歩いた覚えがある」
「中学の頃だよね」
「たぶん。だから二、三年前かな。そう、そのときも思ったんだ。あの佐々木が約束を破るはずがない。ましてや返事がないなんてことはあり得ない。もしかしたら、なにか危険なことに巻き込まれたんじゃないか、って」
「ただの寝坊だったのに」
「でも、おかげで寝ぐせだらけの佐々木がみれたから。写真に撮っておけばよかったかな」
「やめて。はやく忘れてよ」
 佐々木は拗ねるみたいに口を尖らせた。彼女にしては珍しく子どもっぽい表情で、私はつい笑った。
 佐々木の視線はほんの少しだけ下を向いている。
 そんな彼女の横顔を眺めながら、私は歩く。
「由夏だって」
 と佐々木がおもむろに私の名前を呼ぶ。
 指先の力がわずかに強くなる。そこから伝う佐々木の温度を、どうしても意識してしまう。
「由夏だって、私との約束は破ったことないよ」
 そう呟いて、佐々木は足を止めた。
 続いて、私も足を止める。前方、視線の先、横断歩道の向こう側にある信号機は赤を示していた。夜道を照らす街灯とは距離が離れていて、橙の灯りは私たちのところまでは届かない。そのせいで、進入禁止を示す赤の色が過剰に目立っていた。
 佐々木は続ける。
「今夜だって、私のことを待ってくれていた」
 それは誤解だ。
 私は佐々木のことを待っていたわけではない。正直なところ、できることなら会いたくないとさえ思っていた。
 頭をよぎった言葉の多くを飲み込んで、私は答える。
「佐々木のせいだよ。もしかしたら来るかもしれないと思ったら、待たないわけにはいかないでしょ」
 佐々木が私との約束を決して破らないことを、私は知っていた。そして今夜、八月三一日、まだ果たされないままで残っている約束のことも私は覚えていた。だから、誰もやってこないことを願いながら、それでも彼女を待つしかなかった。ただ、それだけのことだ。
 でも佐々木は首を振った。
「違う。それは由夏が優しいから」
「そんなことない。私、佐々木が思っているほど良い人じゃないよ」
「知ってる。由夏の嫌いなところなら、いくつもある」
「へえ、佐々木からそんなことを言われるとは思ってなかったな。たとえば?」
「そうやって、私のことばかり心配するところ」
 佐々木の声はいつになく鋭利で、尖っていた。
「由夏は優しすぎる。私のことを、いつだって考えすぎてくれる。嬉しいよ。でも私は、もっと由夏自身のことを考えてほしい」
 佐々木がこんな風に話すのは珍しいことで、しばらくの間、私は言葉を失った。返す言葉がなかなかみつからなくて、視線を空へ向けるしかなかった。
 違う。私は別に、優しくなんかない。こうして佐々木と付き合っているのだってとても個人的な都合からであって、本当は彼女の顔なんてもう二度とみたくなかった。私の事情を知らないから、だから佐々木はそれらを優しさと勘違いしているだけだ。すべてが許されるのなら、そう言ってしまいたかった。
 けれど、できなかった。佐々木の指が、あまりに弱々しく震えていたから。
 信号が青に変わる。だけど私たちは無言で立ち尽くしたまま、お互いに歩き出そうとはしなかった。誰も渡らない横断歩道、その向こう側で青色の点滅が始まるまでを、私はただ茫然と眺めていた。
 やがて、信号はまた赤へ変わる。
 私は、私自身の考えを佐々木に押し付けてばかりいる。これまでだって、いまだって、佐々木深冬という静寂に対する感情を、都合を、理想を一方的に押し付けてばかりで、佐々木自身のことなんてほとんど何も考えていない。いつだって私の目に映っているのは佐々木深冬であって、佐々木ではない。
 なのに、彼女はそれを優しさだと言う。その言葉を聞いた途端に、自分の中にあるはずのそれがいったい何だったのか、よく分からなくなってしまった。
「連れていってくれていいんだよ、私のこと」
 声がして、ふと佐々木のほうをみる。いつからだろう、彼女の視界は私の姿を中央に捉えていた。気を抜けば吸い込まれそうなほどに深い黒の瞳から、私は目を逸らすことができなかった。
 震えたままの指先を隠すこともしないで、それでも佐々木は言った。
「私は、由夏のこと、独りきりになんてしたくないよ」
 それはまるでなにか巨大な存在に祈るような、こんな暗闇でも真っすぐに届く流れ星のような声で。
 そして紛れもなく、私がよく知っている佐々木深冬の声だった。
「私も、佐々木の嫌いなところが一つだけある」
 と私は言った。
 佐々木は小さく首を傾げる。揺れた前髪が、彼女の左目にわずかにかかった。
「一つだけなんだ? ちょっと意外」
「意外ってこともないんじゃない」
「そうかな。私と由夏は、そこそこ真逆の考え方をしていると思うから。探せば、たくさん出てきそうだよ」
「たしかに佐々木の言うように、気がつかなかったり忘れたりしているだけかもしれないけれど。でも、ずっと昔から今の今まで思っているのはたぶん、これ一つだけじゃないかな」
「それって私、聞いたことある?」
「ないと思う。話した覚えがないから」
「なら、教えて。とても聞きたい」
 佐々木は、クラスメイトの誰にも秘密の内緒話を教室でするときのような声色で言った。
 進入禁止を表す赤色が消えて、曖昧な緑の光が視界の端にちらついた。私たちは今度こそ横断歩道を渡る。
 頭の中でだけ言葉を整理して、それから小さくため息をついた。いまが冬でなくてよかったと思う。ため息の行方なんて、佐々木にだけは絶対に知られたくないことだった。
 何を否定するでもなく首を振って、私は言う。
「いまみたいに、私の前でだけは強がるところ」
 佐々木は小さな声で笑った。
「それは、お互い様だよ」
「怖いなら怖いって言えばいいのに。なのに、真っ先に手を繋ごうとしたりする」
「それも、お互い様かな」
「佐々木のそういうところは、あまり好きじゃない」
 やっぱり。
 私は、佐々木の言うような優しさなんか持っていない。彼女が本心では何を望んでいるのかを、私はきっと知っている。なのに、その願いが決して叶わないように動いている。今夜、私と彼女が出会うよりもずっと前から。それは私が、佐々木ではなく佐々木深冬のことを、つまりは私自身の都合を優先しているということだった。
 ――連れていってくれていいんだよ、私のこと。
 こんなものが優しさだと、私は思いたくなかった。だから今度は明確に、佐々木の言葉を否定するつもりで首を振る。
「これも佐々木は知らないだろうと思うけれど」
 私は微笑みながら言った。
「私にとっての佐々木がいるのは、陽が落ちた後の帰り道なんだ」
 佐々木は黙っていた。
 普段の彼女がそうであるように、彼女は私の言葉の意図を汲み取ろうとしてくれているのかもしれなかった。由夏の話は難しい、と佐々木はよく言っていた。そのたびに私は、自分がどういった意味でその言葉を使ったのかを佐々木に説明する。それはいつものことだった。
 けれど、私は構わずに続ける。
「だから、私たちはこのまま帰るんだよ、佐々木。それに、ほら。約束だって、もうじき叶っちゃうしさ」
 私は視線で東の空をさす。ちょうど佐々木の立っている方角だった。
 夜の底は仄かに明るい。きっと遠くの高層ビルが照らしているのだろう。その上空、あまり雲の出ていない空にはわずかに欠けた満月が浮かぶばかりで、星のひとつだってみえはしない。
 それでも私たちは、そんな何もない空から目を離そうとはしなかった。その理由はあまりにも明白で、お互いに分かりきっている。
 示し合わせたように、二人分の足音がやむ。
 きっといまだけは世界中が息をひそめて、その一瞬を待っている。
 これからあの向こう側で起こることを、私たちは知っていた。
「始まった」
 瞬間、鮮やかな閃光が東の空を一面に染め上げた。
 群青の粒子が宙を舞う。その隙を、橙の軌道が放物線を描きながら消えてゆく。ひとつ、またひとつ。たった一度の瞬きをする間に、それらはどこにもみえなくなってしまう。
 たくさんの光たちよりもずっと遅れて、銃声のような爆発音が辺りに響き渡る。その頃には違う色の明かりが夜空を彩って、するとまた身体の中心を直に揺さぶるような乾いた轟音が、まるで消えた光の後を追いかけるみたいに虚空へと散ってゆく。何度も何度も繰り返されるその様を、私たちはただ眺めていた。
 ひたすらに、美しかった。
 都会の夜空を照らす打ち上げ花火は、なにもかもが嘘みたいだった。作り物の映像みたいで、説得力がなくて、現実味がなくて。でも、だからこそ、こんな夜の中で何よりも本物のように思えて仕方がなかった。
「綺麗だね」
 と私は言った。
「うん」
 と佐々木は答えた。
 私は、佐々木と繋いだままの右手をじっとみつめる。記念写真のようにいまこの瞬間だけを切り取って、それを永遠にしてしまえたならどんなに幸せだろう。最後の約束を叶えて、直後に舞台の幕が下りるのだとしたら、その結末はきっとハッピーエンドに違いない。すべての物語がそうであれるのなら、そんなにも平和な世界はないだろう。
 夏の終わりを告げる花火はあまりにも鮮烈で、いつまでも見飽きることはなかった。けれど、ここで立ち止まったままでいるわけにもいかなくて、だから私は彼女の名前を呼んだ。
「佐々木」
 彼女の後ろ髪が揺れる。振り返って、目が合う。そして私は、ひどく混乱した。
 佐々木深冬が泣いていた。
 私の目の前で、声を上げることもなく涙を流していた。
 佐々木が泣いているところをみるのは、これが初めてのことだった。それなのに、彼女の泣き顔はとても自然に整っていて、澄んでいて、記憶の中だけにある佐々木の印象と何ら食い違わない。まるでそれ自体が夜を構成する一つの要素であるみたいに、ただ静かに佐々木は泣いていた。
 初めて目にする彼女の表情に、私は多分、心を奪われていた。
「由夏」
 とほんの小さな声で、佐々木が私の名前を呼んだ。
 あまりにも静かだったから、佐々木の呼吸する音さえはっきりと聞こえた。数えられるくらいの時間をかけてゆっくりと息を吸い込んで、吐き出して、それから彼女は言った。
「嬉しかった。由夏と一緒に、こうして花火がみられて」
 佐々木の言葉は涙声交じりで、震えていて、掠れていた。くしゃくしゃに丸められた便箋の上に並ぶ文字みたいで、こんな夜でなければきっと聞き逃してしまっていた。
 それでもやっぱり真っすぐに、途切れることなく私のもとまで届く。
「約束。守ってくれて、嬉しかったよ」
 佐々木の声が、瞳が、あんまりに純粋で、私は思わず目を逸らす。
 だから、会いたくなかったんだ。花火のことも、私のことも、佐々木の中にあるすべてがなかったことになって、そのまま八月が過ぎ去ればいい。この夏休みの間、私はずっとそのことばかり考えていた。それこそが私たちにとってのハッピーエンドなのだと信じていた。それなのに。
 佐々木の指はまだ震えていた。
 遠くの星明かりみたいに微かな力で、けれどこの世界にあるどんなものよりも強く、私の右手を捕えていた。
「言わないんだね」
「何を?」
「たったの一言、佐々木がそれを口にすれば、きっと私は佐々木を連れていってしまうと思う。けど、佐々木は絶対にそうはしない。人のこと言えないよ。佐々木だって、私のことばっかり考えすぎだ。もっと、自分を大切にしなよ」
「由夏のせいだよ。由夏が私のことを考えすぎるから、私だって由夏のことを同じくらい考える」
「佐々木のそういうところ、やっぱり嫌いだ」
「うん。私も、由夏のそういうところは嫌い」
 顔を上げる。直後、彼女の背後で大きな花火が打ちあがって、ほんの一瞬だけ、佐々木の表情が分からなくなる。
 佐々木はもう泣いてはいなかった。拭われないまま頬に残った涙のあとが、佐々木に代わって何かを訴えるみたいに、暗闇の中で小さくきらめいていた。
 息苦しかった。彼女の手を思い切り振り払って、そのまま黙り込んでいたかった。佐々木深冬という静寂を破ってしまうくらいなら、私はずっと何も言えないままだって構わなくて。幼い頃から隠し続けてきたその感情は、紛れもなく私の本心に違いなかった。
 けれどそれと同じくらいに、佐々木と繋いだままの手を、私は離したくなんかなかった。誰も知らない夜の底を、もっとたくさんのことを話しながら、ずっと遠くの遠くまで二人きりで歩いていたかった。そんな当たり前の欲求が、当たり前のように私の内側にも残されている。最後の最後まで、できれば知らないふりをしていたかった。
 なのに、佐々木のせいだ。目の前に立っている彼女があまりにも真っすぐに笑うから、たった一つの理想だって、ふと見失ってしまいそうになる。
 お互い様だと、佐々木は言っていた。私が佐々木の望みを知っているように、佐々木もきっと私の我儘を分かっている。なのに、彼女はそれを口にしない。そんな彼女の優しさが、いまはどうしようもないほどに痛い。
「ごめん、深冬」
 それはあまりに言葉足らずな、けれど疑いようもない懺悔だった。
 佐々木は驚いたように肩を跳ねさせる。それから、ほんの小さく笑った。まるで真冬の湖畔のように透明な、とても彼女らしい笑顔だった。
「まだ、その名前で呼んでくれるんだね、私のこと」
 佐々木の体重が、私の全身にゆっくりと寄りかかる。避けることなんてできなくて、私は彼女のことを受け止めるしかなかった。彼女の華奢な身体は信じられないくらいに軽くて、拠り所がない。ほんの少しの力を込めて手を引いたなら、本当に遠くまで連れ去ってしまえそうだった。
「由夏だって、何も言わない」
 胸の奥、その中心に彼女がいる。これまでに経験したことのない、不思議な距離感だった。
「本当は寂しいくせに。私のことを、連れていってしまいたいくせに」
 私は、佐々木に笑っていてほしいとは思わない。一緒にいてほしいとも思わない。私はただ、佐々木深冬が佐々木深冬として生きてさえいてくれればそれでよくて。それだけが、私の理想のすべてだった。
「嬉しいんだ、私。由夏は私のことを、佐々木深冬のことを何よりも大切にしてくれてるんだなって。とても悲しいけれど、でも、それと同じくらい嬉しい。だから、由夏」
 寡黙な彼女にしては長すぎるほどの前置きを終えて、佐々木はようやく結論を口にする。
「できれば、何も言わないままでいてほしい」
 私の胸元へ頭をうずめたままの佐々木の表情は、当たり前のように私からはみえなかった。そのことの意味を、けれど私は知ってしまっている。だって、同じだったから。それは、私がため息の行方を佐々木から隠そうとしたことと、きっと同じだったから。
 東の空では、いまもたくさんの花火が浮かんでは散ってを繰り返していた。でも、佐々木も私も、もうそれらの光を眺めてはいなかった。
 いつかに交わした約束は、打ち上げ花火が終わるまでのものだ。だから、街に覆い被さった夜が普段の静寂を取り戻したなら、きっとそれっきりになってしまう。こんな夜の出来事だって、初めから何もなかったかのように消えてしまって。そうして佐々木が目を覚ましたとき、やっぱり私は、佐々木に笑っていてほしいとは思わない。けれど、泣いていてほしくもない。ただ前を向いて、いつものように歩き始めてほしい。
 彼女の後頭部に手のひらを添える。できるだけ優しく、彼女の中にあるどんな感情もこれ以上は傷つけてしまわないように。右手が塞がっていたから、これがいまの私にできる精一杯だった。
「佐々木」
 と私は彼女の名前を呼ぶ。
 返事はない。たぶん佐々木は、私の言葉を待ってくれていた。どちらを選ぶかなんて分かりきっているはずなのに、それでも佐々木は、結末の決定権を私に委ねてくれていた。
 ――ああ、きっと。
 あのとき佐々木の指先が震えていなかったなら、あるいはそもそも最初から手を繋いでなんていなければ、もしかすると、私と彼女が一緒になる未来もあり得たかもしれない。私はそこまで良い人じゃないし、佐々木のように強くもなれない。たった一つの理想だって、彼女の手を振り払ってまで追い求める価値が、意味があるのかなんて、私にはもう分からない。けれど。
「帰ろう」
 と私は短く言った。
 たとえ意味なんかないとしても、それでも、私は佐々木深冬という少女を護りたかった。
 佐々木はしばらく黙っていた。どうしようもなくて、私は東の空へと視線を向ける。はるか彼方から光と音が交互に届いては、まるで互いが互いを追いかけあうみたいに消えてゆく。それは綺麗なことだと思う、とても。けれど、その光景からは現実が抜け落ちている。真っ暗闇の中ではどんなに本物みたいであったって、これからの佐々木が生きていくのは現実だ。だから、これがやっぱり私の果たすべき役割だった。
 どれほどの時間が経ったのか、分からなかった。やがて彼女は、くぐもった声で「うん」と頷いた。
 寄りかかっていた重さが失われて、私たちの距離はまた元通りになる。ふたたび顔を上げたとき、佐々木はいつものように凪いだ表情を浮かべていた。たったそれだけのことが何故だか嬉しくて、私はつい笑う。すると、つられたように佐々木も小さく笑った。
 夜空を染め上げる花火を横目に、手を繋いだまま、私たちはどこかへ向かって歩き出す。明確な目的地があるわけではなかった。けれどそれは、今度こそお互いにとっての帰り道だった。私は私の帰るべき場所へ帰り、佐々木は佐々木の帰るべき場所へ帰る。そんな当たり前を果たすためだけの暗闇を、私たちは並んで歩いてゆく。
 一歩ずつ、これまで辿ってきた道を確かめるみたいに進む。佐々木が、実は夜道があまり得意でないことを私は知っていた。それでも彼女は私の前でだけは強がろうとするから、あまり周囲を確かめることなしに歩いて、そうしてふとした隙間に暗闇をみつけるたび、危険を察知した子猫のように後ずさるのだった。その様子がなんだか可笑しくて、私は笑う。対する佐々木は恥ずかしがるみたいに目を逸らすばかりで、それはきっと私しか知らない、彼女の内に隠されている一面だった。
 帰り道の途中も、私たちは互いに重要なことは何一つだって言わなかった。代わりに、これまでには一度だって話したことのないようなどうでもいいことばかりを、まるで大切な宝箱の中身を教えあうみたいに話しあった。佐々木は冬の星空を見上げるのが好きで、なかでもシリウスを特に気に入っているらしい。彼女の中に、好きな恒星という概念が存在することそのものが意外で、私はずいぶん驚いた。いまが夏で、だからこの場所からみつけることのできないのが少し残念だった。
 私はきっと、佐々木と出会ったその瞬間から彼女のことばかりをみてきたのだと思う。けれど、それでもまだ知らないことのほうがずっとずっと多い。たとえば、佐々木があんな風に泣くことを、私は知らなかった。たとえば、佐々木があんなにも真っすぐに私をみていてくれたことを、私は知らなかった。佐々木のことなら、私は何だって知っておきたい。佐々木となら、私はいつまでだって話をしていたい。
 八月三一日。夏が終わる日。
 だから今夜、佐々木が来てくれて、本当は嬉しかった。
 会いたくなんてなかった。会えて嬉しかった。相反する二つは、けれど何も矛盾なんてしていない。
 どちらも確かな質量をもって私の中に在る、本物の感情だ。
「この辺りかな」
 足を止めて、私は言う。
 そのまま視線で前方をさした。
「ここを真っすぐに行けば、いつもの通りに出る。人通りも、この時間ならまだたくさんあるはず。あとは、佐々木ひとりでだって帰れるでしょ」
「うん。帰れると思う」
 佐々木はこくんと頷いた。
 私たちはなんとなく見つめあう。あとはどちらかが手を離すだけで、全部が終わってしまう。それもまた、お互いに分かりきっていることだった。
 佐々木はこういうのがきっと苦手だろうと思ったから、私は空を見上げて、最後を切り出すための言葉を考えていた。けれど、そうはならなかった。ようやくみつけた言葉を私が口にするよりも先に、佐々木の体温が右手から不意に抜け落ちる。
 視線を落とさなくとも、起こったことは瞬時に理解できた。
 思わず、私はため息をつく。ため息の行方を知られる心配は、もうなかった。
「なるほど。本当にギリギリだったわけだ」
 見上げた先、東の空には一面の群青とわずかに欠けた満月だけが取り残されている。それはつまり、私と佐々木との約束が完全に果たされてしまったことの証明だった。
 佐々木は、だからちょうどいま私が立っている場所で目を覚ますことになるのだろう。そのとき、彼女はちゃんと帰り道を歩くことができるだろうか。できることなら、きちんと見送って終わらせたかった。けれど、それを確かめるための術はもう、私の手元には残されていない。
 花火は終わった。だからそのまま八月が終わって、夏休みが終わって、私と佐々木とのことも終わる。これは、私の望んだとおりの結末だった。
 視線を落とす。それからもう一度だけ、私はゆっくりとため息をついた。
 そのまま振り返って、歩いてきた道をまた戻ることにする。目的地はない。佐々木と違って、私には帰るべき場所なんてものはないのだ。それでも強いて挙げるなら、佐々木の迷い込んでしまった、この夜道こそがそうだろう。
 ここまで歩いてきたはずの夜道はどこか、いっそう深い影を増したように思えた。佐々木が隣にいないだけでこんなにも変わるものかな、と内心でつぶやく。
 ――本当は寂しいくせに。
 と佐々木が言った。
 私は小さく笑う。
「お互い様だよ、それだってさ」
 私以外に誰もいない。私以外の誰も知らない。どこまでも凪いだ水面のような夜を、私は一人でただ歩いてゆく。
 佐々木みたいな夜だ、とまた思う。それから、願った。たぶん、何かを。
 果たして何を願ったのか、不思議なことに、自分自身よく分からなかった。ただ、その正体が何であれ、佐々木のもとへだけは決して届かないでいてほしかった。でないと、意味がないから。こんな夜が在ったことの、佐々木の感情を酷く傷つけてしまったことの、全部の意味がなくなってしまうから。だから、私の願いなんて、目覚めた後の佐々木は全部忘れてしまったままでいい。
 視線を上げる。もうじき九月を迎えるはずの空は、けれど八月のそれと何が違っているのか、私の目には分からない。
 もしかすると、と思う。
 もしかすると、ここからみえる空はずっと八月三一日のままなのかもしれない。
 私はずっと、終わらない夏の夜を歩き続けることになるのかもしれない。
 それは、さほど突飛な想像でもないように思えた。なにぶん、何もかもが初めてのことなのだ。これから先、私自身がどうなっていくのかなんて予想できるはずもない。
 だとすれば、佐々木に宛てるはずだった最後の言葉は、私たちが同じ八月三一日を過ごしている間に棄てておくべきなのかもしれなかった。でないと、まるで呪いみたくなってしまいそうな、そんな気がした。
 吹き抜けた風が辺りを小さく揺らす。なんだか、言い訳みたいだ。これがいわゆる未練というものなのかもしれないけれど、だとしても構わない。
 私はできるだけゆっくりと息を吸い込む。
 それから、誰の耳にも届かないくらいの、なるべく小さな声で言った。
「またね、佐々木」
 佐々木深冬。
 私が護りたかった、たった一つの理想。
 いまもどこかにいるはずの少女のことを、それでも胸いっぱいに思いながら。
 私は、目を伏せる。
「楽しかったよ」