昨日の続き


 そもそも 2021 年を振り返ろうと思ったのはちょっとした気まぐれで、あとで思い出せるようにまとめておくかというくらいの、それ以上の目的は何もなかった。書き終わってから「音楽の話ばっかりで私生活についてほとんど触れなかったな……」とは思ったけれど、動機としてはその程度のものだったので「これはこれでいいか」とそのまま投稿。追って、いや別に自分を追いかけてきたわけではないだろうし、というか普通に自意識過剰っぽくて嫌な言い回しだけれど、ともかく様々な人が 2021 年の振り返り記事を投稿し始めた。これはかなり嬉しい出来事だった。Twitter にも少し書いたけれど、自分は身の回りにいる他人の文章を読むのがなんだかんだ好きだったりする。人一倍そうだと思う、他の人がどの程度なのかは知りようがないので勝手に思っているだけではあるけれど。その理由も Twitter に載せた通りで、言語というのはその人らしさのようなものが最もストレートに顕れる媒体であると自分は信じているから。日常会話、些細な一言、手紙、文章、歌詞だってそう。他人の歌詞を記憶したがることも、そういう理由があったりはする、それだけではないけれど。とはいえ、誰彼構わずに「文章を書いてくれ」と強要するつもりは毛頭なく、なぜなら文章に残すことの致命的な欠点をある程度は知っているから。あとは単に面倒というのもある。冗談交じりに言ってみるくらいなら勿論あるけれど、それはあくまで期待の直線上に在る言葉であって、願望の顕れなんかでは決してない。そういった出力はなんにせよ自発的であるべきだろうと思うから、普段は言わないし、そもそも言うつもりもない、文章を書いてほしいだとか何だとか。そういうわけなので、他の人々の文章を読むことのできる機会はそうそうなく、それでいて昨晩は年末という魔法のおかげで謎に各方面からの供給がなされたため、見つけ次第片っ端から読んでいった、一通り。テキストの向こう側に立っているのは『身の回りにいる他人』なので、氷山の一角の一欠片くらいの、ほんの一部分であれば知っていると言っても許される相手。程度の差はあるにせよ、一緒に過ごした時間をお互い多少は知っているから、顔立ちとか髪型とか背格好とか、もう少しの付き合いがあれば笑い方や会話の癖なんかも覚えていられる、そういう誰か。ほんの少しは知っているらしい、でも本当は全く何一つだって知りやしない他人の文章。様々な人々の 2021 年振り返りを読んで感じたこととして、これは至極当然の話だけれど、自分たち一人一人には個々人なりの人生があって、自分がそうであるように、このテキストの向こう側にいる誰かも 365 日をずっと生きていたんだなという感慨があった。感慨? かなり違うような気もするけれど、そこはまあいい。一緒にいた時間なんて、相当に仲の良い相手であれば 200 時間程度は優に越えるだろうけれど、大概の他人は 24 時間を上回っていれば付き合いのあると言ってよいというくらい。ところで一年は計 8760 時間もあって、単純計算で自分たちは任意の他人に関することをたったの 0.3% も知らないことになる。でもなんていうか、脳はその辺りを雑に処理してしまうというか、ある種の錯覚を起こしがちで、なんだかある程度を知っているような気になってしまうこともある、そんなことはないのに。……というようなことを考えていたというわけではない、別に。ある程度を知った気になんかはなっておらず、実際のところは「あんまりよく知らないな~」と思っていた程度だけれど、ともかく、various people の 2021 年振り返りを読み、そういう気持ちになっていた。その誰かには誰かなりの人生があって、だからその誰かにしかみえていないものもある。当たり前すぎて忘れがちなこと。とても大切なこと。

 自分がブログを続けている理由は幾つかあって、始めた理由はもっと別のところにあるけれど、いずれにせよ過言ではなしに何十回も書いたような気がする。なのでまた同じことかよと思いつつ書くのだけれど、自分の感じたことを残しておきたいというのは勿論のこと、それ以上に他の誰かに知ってほしいからというのがまずもって大きくある。分かりやすい表現を優先したけれど、これは半分嘘で、半分本当。他の誰かに知ってほしいは概ね正しい。でも、たとえば他の誰かに聞いてほしいというわけではない。仮に誰かと会話をしていたとして、自分の考え方だとか何だとか、消えない傷痕でも過去編でも何だって構わないけれど、その類を目の前にいる他人と共有したいとは、少なくとも自分は思わない。価値観だったり人生だったり、幸福でも不幸でも関係なしに、知ってしまった瞬間にその事実が誰かにとっての重荷になってしまうことがあって。自分がそうだから、昔あったこととか今考えていることとか、そういったものを他人へ直接伝える行為には慎重になったりもする。知るという行為はどうしたって不可逆的だから、望まない変化が起こらないように気をつけているという話。だから、頑なに隠しているというわけでもない。仲の良い相手になら多少くらい話したっていいと思っているし、というかその辺りはお互い様で、互いに互いの荷物を少しずつ抱えていたりする。口に出して確かめたことは一度もないけれど、きっとそうと思っている。信じもしない、それ自体が仲が良いということの定義だと思っていたりもする。それはそれとして全人類と仲が良いなんてことは事実としてなくて、裏を返せば、だから基本的には気をつけている。知りたくもないことを知ってほしくはない。自分がそうだから。そういう意味で、他の誰かに聞いてほしい、は違っている。別に聞いてほしくはない。知りたいなら幾らだって教えるけれど、自分から言って聞かせたりはしない。一方的なコミュニケーションはなるだけ避けて歩きたい。意味がないから。

 それなら『知ってほしい』はどういう意味なのという話になるけれど、これはそれほど難しくもなくて、言葉通りの意味ではある。たとえば自分が道を歩いていて何気なく思ったこととか、電車に揺られながら考えたどうでもいいこととか、そういうのを自分以外の他人がアクセスできる場所に置いておきたいということ。それ以上でもそれ以下でもない。注釈をつけるなら、やっぱり特定の誰かに知ってほしいという感情はない。数もどうでもいい。というか、極論を言ってしまえば別に誰も読んでいなくたって構わなくて、そういう場所があるということが大事と思っている。なんていうか、秘密主義というわけでもないけれど、ただ自分はこれまでに話したようなことを考えながら他人とのコミュニケーションを取っているので、単にアクセスポイントが少ないがちだよなと思っていて、これはまあ普通に嘘なのだけれど。とりあえず、仲が良いという状態をお互いに荷物を抱え合っているということで定義したとして、でも、全くの無からそういった状態が成立するかといえば、少し考えれば分かるようにそれは否で。お互いに少しずつ内側を開示して、その全部を知ることはできないし、その全部を教えることもしないだろうけれど、とにもかくにもそうして徐々に形成されていくのが人間関係というものだろうから。ところで、自分は誰かと話をする場では聞き手へ回ることが多い。それはどうしてかというと、話し手側に回ると口を滑らせて知の不可逆変化を引き起こす危険性があるから……というのは普通に嘘で、単純に他人の話を聞いているほうが楽しいから。正直、自分の考えだとか何だとかにあんまり価値を見出していない。これも嘘で、正しくは「自分にとっては価値があるものだけれど、他人にとってはそうと限らない」になる。自分の持っている主義、主張、体験、理解を他人へ伝えたとして、それがいったい何になるんだろうという気持ちが自分はとても強い。ここで言っている『自分』はいまこの文章を書いている自分自身のことしか指しておらず、第三者にも当てはまりうる一人称としての『自分』ではない。仮にそうなら「他人の話を聞いているほうが楽しい」というのはちょっとおかしい。だからこれは自分の価値観の話。膨らませすぎるとどこまでも書いてしまいそうだからなるだけ簡潔にするけれど、自分は基本的に自分の持っているものは自分だけに意味のあるものだと思っていて。好きなものも嫌いなものも、嬉しかったことも嫌だったことも、自分が持っている全部がそう。だからこそ他人とコミュニケーションを取る意義もあると思っていて、お互いに荷物を抱えている様子を仲が良いと定義しているのもそう。誰かにとってはとても大切な、でも自分にとっては何の意味もないはずのそれを、それでも抱えていられるくらい大切にできるなら、それは仲が良いということなのではという、そういう話。他人の話を聞いているのが好きなのは、その誰かにとって価値のある何かを自分もそうと思えるようになりたいから。好きな季節とかファッションとか、それくらいのレベルでいいし、あるいはもっと深くてもいい。なんでもいい。なんでもいいから、自分にとって意味のあるものをもっと増やしたいという、それだけのこと。一方で、自分(ここでの『自分』は今これを書いている自分自身のこと)の持っているものを他人に伝えることにあまり意味を感じないのは、そういった『自分の持っているものは自分だけに意味があるもの』という考えもまた自分にだけ意味のあるものだから。相手がどういった価値観で生きているかなんて知らないし、知りようもないから。他人にとって価値のあるものを自分もそうだと思えることに対して自分は大きな意味を感じているけれど、一方で万人がそうというわけではないし、だから自分からは話さない。聞いてほしいとも思わないし、知るという不可逆的な変化を会話によって引き起こしたくないことも、だいたいこういった理由による。重荷になってしまうことがある。そもそもの考え方が違うから。

 そういうわけで前に言っていた、自分へのアクセスポイントが少ないがちという話に戻る。秘密主義というわけでもないし、実際、ブログだと誰に聞かれもしていないことをあーだこーだと書きまくっている。秘密にしていることはたくさんあるけれど、秘密にしていないこともたくさんある。このブログに書かれてあることは隠していない側のことだし、誰に話したって構わないものばかりではある。嘘で、なかには隠していないようで隠しているものも結構数あるけれど、それにしてもという感じ。このブログで散々やられているように「帰り道にこんなことを考えていた」とか「今日の空がこんな感じだった」とか、そういう Twitter にでも書いておけばいいことを、しかし Twitter はその性質上、お互いに望まない変化を引き起こしかねないので、ひとまずはブログへ書き残し、物好きな人は来るなら来いという感じで TL に一瞬放流して、それでおしまい。そういう運用の仕方で自分へのアクセスポイントを増やしている、という話。ここにあるのは誰彼構わず話してもいいことばかりではあるけれど、それはそれとして誰彼構わず話すということを自分はしないので。ただ、自惚れっぽい言い回しで嫌だけれど、自分に興味を持ってくれている誰かがいたとして、その誰かにまで全部を隠すという必要もないような気がしていて。ところで、その誰かをこちら側から判定することは困難であり、だからこういった場所があればいいという。ブログを続けている理由としては概ねこういった感じになるけれど、これで終わりというわけでもなくて、まだ続きがある。こんなにも長々と書いたのに。

 冒頭でも書いたみたいに、自分は誰かに何かを書くことを強制したいとは全く思わない、本当に、微塵も。めんどくさいし、言葉には呪いのような側面もあって、言葉にしないほうがいいことだってたくさんあるから。ところで自分は、文章と形容することもなんだか烏滸がましいけれど、とりあえずは意味が通るという程度の文字列を事あるごとに書きまくっていて、それがどうしてかといえば、上で書いたような理由は勿論あるのだけれど、一番大きなものとしては、やっぱり他の人にも書いてほしいからなのだろうなと思う。これも冒頭に書いたけれど、言語はその人らしさを最も直接的に表す媒体であると自分はどこかで信じていて。日常会話、些細な一言、文章、歌詞。他人の話を聞いているのが好きという話もあったけれど、「その誰かにとって価値のある何かを自分もそうと思えるようになりたい」というのは自分にとってほとんど究極の命題みたいになっていて、だからもっと色んな領域で相手のことを知りたいという欲求がある、わりと強く。相手の人生の、自分の知らない残り 99.7% なんて本当はどうだってよくて、いや、どうでもよくはないけれど、ただ、本質ではないというか。自分が知りたがっているのはそうして過ごした時間の中で見つけた風景だとか、覚えた感覚だとか、それらを表現するときに選びとる言葉だとか、そういったものたちのほうだったりする。知ってみたい、もっと。自分以外の誰かが知っているものを、でも自分は知らないから。……やっぱり直接伝えはしないけれど、こんなこと、誰にだって。一方で隠すつもりもないからブログへは残す。ブログへは残すし、だからこのブログを続けている理由はここまでを含めて完全に正しいということになる。こんな感じで取るに足らないことでもずっと書き続けてたら、もしかしたら誰かが乗っかってきてくれるかもしれないなーっていう、短冊に書く願い事と同じ大きさの願望。そんな感じのことを、昨晩の突発性流星群みたいな TL を眺めながら思ったり思わなかったりした。

 

 みんな、もっと文章書いてくれ~。