疑うということ


『お互いを疑わずに済む関係』と言うと聞こえはいいですけれど、それってめちゃくちゃに気持ちが悪くないですか? ……という問題提起から今回は始まりますけれど、いきなり何なんだというと、無条件の信頼と責任の放棄ってほとんど同義だよなあって、そのようなことをつい最近考えていたので、それについて書こうと思っただけです。いや、なんていうか、これまでに生きてきた二〇とちょっとの人生を振り返ってみて思うことといえば、疑うという行為はかなり重要なものだったんじゃないか、みたいなことで。三日前の記事でも書きましたけれど、……昨日一昨日と更新ができていないのは様々な様々が重なった故のことなのですが、それはさておき。相対している対象の感情を推し量ろうとする行為は、見方によっては相手の言葉や表情を疑うということでもあるわけで、そう思えば、いまの自分を形作っているものって結局はそういった考え方だったりもするのかなって。なんだろう。その、なんていうか、別にそれがダメだってわけじゃないと思うんですけど、でも、たとえば目の前にいる誰かの言葉や表情を一から十まで徹頭徹尾なにひとつを疑うこともせずに受け入れてしまうのって、だけどそれは単に責任から逃れているだけだって、僕はそんな風にも思ってしまうというか。「だって、貴方がそう言ったじゃないですか」って、思考の放棄みたいな。いやまあ、意識的にそんなことをやっているとまでは流石に思っていないので、きっと無意識なのでしょうけれど。でも、そんな無意識があったりもするのかなって、そういう気持ちになるということは確かで。……まあ、疑い続けるのってしんどいじゃないですか、普通に。いや、全人類がそうなのかは知りませんけれど、少なくとも自分はまあちょっとしんどいかなというくらいで。だから、線引きをするわけですよね、だいたいの場合。それがたとえば商品なのであれば、一定以上の信頼を置いてもよい企業、いわゆるブランドというやつなのかもしれませんけれど、そういったものを基準に購入したりだとか。人間関係であれば、誰と話をするのかによって「これは大丈夫、これはダメ」と話題をあらかじめ選んでおくだとか。要するに、なるべく疑わなくて済むようにしておくっていうか、そうやって負担を軽減しているというか。破格に安いけれど動くかどうかも怪しい機械を、だからわざわざ買ったりしないし。顔と名前を知っているからって、たったそれだけのことで家に泊めたりしないし。いや、だからまあ、そのレベルの話です。『ここから先は信用してもいい』というラインは何を問題にしているかによってまちまちで、それこそたとえば商品の場合は、それが有名どころのものであれば、たとえばマイクロソフトだとかアップルだとかであれば、自分は基本的に信用していますし。一方で人間関係であれば、全面的に信頼している人間というのは、……まあいませんが。「こいつになら騙されてもいいかな」と思っている相手なら数人いますけれど、でもだからって、その誰かの話や意見を一から十まで真に受けるわけでもありませんし。ああ、いや、話が複雑になってしまうので、以降は人間関係に限って話を進めますね。実際、どうなんでしょう。冒頭でも書きましたけれど、『お互いを疑わずに済む関係』になれたらいいって、皆さんはそう思いますか? それとも自分と同じように、そんなのはちょっと気持ちが悪いって、そう感じるのでしょうか。と問いかけたところで実際に会話をしているわけではないので何が返ってくるでもないですけれど、まあよければ一度考えてみてくださいよ、自分がどっちの側なのか。ここから最後まで、僕はその関係性のどういった部分を気持ち悪いと思っているのかについて話をすることになると思うので、そういった余計な情報を抜いた状態で自分の考えを整理しておくと良いと思われます、色々と。とだけ言っておいて、早速話を進めていくのですけれど、やっぱり一番大きい要素としては、これも初めのほうで書きましたけれど、自分はそれを『責任の放棄』という風に解釈してしまうことがあります。なんていうか、ここら辺の考え方は人それぞれだと思うので、別に「そんなことないんじゃね?」って人がいてもおかしくないと思うというか、むしろいないほうがおかしいと思っているのですけれど、相手のことを何を疑わないのって、つまり相手のことをどうでもいいと感じているってことなんじゃないかって、そういう風に思うんですよ。「君の言葉なら全部信じるよ」って、裏を返せばそれは「君の言葉なんてどうだっていいよ」と言ってるのと同じじゃないですか? というように自分は感じてしまうんですよね、どうしても。無条件に信頼するということは、『君』が何と言おうがそのことについて何かを思考することは絶対にないということで、それはつまりその聞き手の世界に『君』は存在していないということじゃないですか? いや、もちろんのことですけれど、存在してはいると思いますよ。『君』が傷ついていたら慰めるだろうし、悲しんでいたら寄り添うだろうし、そこで『君』を無視することはきっとないだろうし、だから『世界に存在していない』というのはそういう意味ではないんですよ。……僕のブログを読んでくれている方なら、「こいつ、多分、誰かと話すのが好きなんだろうな」というくらいは察しているかもしれませんけれど、まあ実際そうで。自分は会話、もとい他者とのコミュニケーションというものにかなりの価値を見出していて、それこそ最上級のそれを。だからこういう風に考えてしまうのだろうなと自分でも思うのですけれど、『無条件の信頼』って、だから結局は関係性の全否定なんじゃないかって思うんですよ、僕は。「たとえ世界中が君の敵になっても、僕だけは君の味方だ」って、それ自体は格好いいセリフですけれど、でも僕はそういうのをみると「いや、お前が本当に『君の味方』なんだったら、きちんと『君』に向き合えよ」って、そう思ってしまうっていうか、だからそれが『責任の放棄』だって話ですけれど。目を逸らしてるっていうか、そもそも見えてすらいないんじゃないかって感じで、そういう意味で『世界に存在していない』と思いもするわけです。いてもいなくても変わんないんじゃんっていう。「だって、私が何を言ったところで、どうせ貴方はそれを信じるんでしょう?」みたいな。これがたとえば宗教であればお告げを下さるのは上位の存在なわけで、その存在・非存在はさておくとして、少なくとも目に見える存在でないことは確かなので不都合は起きないのでしょうけれど。でも、それが人間関係となると別の話で、だって僕らは生きているんですよ、お互いに。息を吸って、吐いて、言葉を話して、飲み込んで、そういう生き物じゃないですか、人間って。だからなんていうか、「貴方の言葉なら全部信じます」だなんて言われると、自分はめちゃくちゃ悲しい気分になるっていうか、有体に言えば空しくなるんですよ。「自分が何を言ったって、この人の心へは何一つも届きはしないんだな」って。というか、「この人、自分の話なんて一切聞いてないんだな」って、そういう風にしか思わないというか、思えないというか。詐欺師であれば望むところでしょうけれど、でもそうではないわけで。だからというわけでもないですけれど、僕は相手の言葉を疑わないのはむしろ失礼とさえ思っていて、親しい間柄か否かなんて関係なしに、というより親しい仲であれば尚のこと。……途中でも触れましたけれど、僕はこの考え方が絶対的に正しいだなんて思っていなくて、色々な捉え方があって然るべきだし、自分とは真逆の考え方をする人がいてもいいと思っています。というか、こんな考え方で世界が染まってほしくはないし。あまりに窮屈すぎるので。なので同様に、このような他人へ強要するつもりだって全くありませんけれど、あくまで自分はこのように考えていて、誰かと接触するときは常にそういったモチベーションで動いているって、そういうことが書きたかっただけです。