20220917


 日没を待ったことって、生まれてこの方一度もないかもしれないな、と思った。比喩的な話ではなく、普通に、現象として。夜明けを待ったことなら何度もある。深夜散歩という趣味を持っている手前、誰かと出かけた際に帰宅へ舵を切るタイミングとして日の出が選ばれたりだとか。そうでなくとも、初日の出とか。でも、日が沈み切るのを何もせずにただ待っていた経験ってあったっけなと考えてみて、ぱっとすぐには思い当たらない。日没ほどいつの間にかそうなっているものって、自分の中にはあまりないというか。講義やバイトが終わった後、電車での移動、家での作業をいったん中断して買い出しに出るとき、そうして外へ出て初めて陽が沈んでしまっていることを知るというのはざらにある。けれど、だから、ただ茫然と日没を待ったことって、ないのかも。いや、かもじゃなくて、たぶんない。少なくとも、大学に入ってからは一度もないはずと思う。自由に動くようになった大学に入ってから一度もないんだったら、それまでの人生にもなかったはずと思う。まあ、昔は夜のことがあまり得意でなかったし、という話もある。

 

 帰ろうって言葉を口にするのが苦手だから、というか嫌だから、結末の決定権をすべて相手に委ねている。これは自分と長時間座りこんだ経験のある人なら一度は聞いているはずの台詞で、「帰りたくなったら、その瞬間に立ち上がってくれていい」みたいな。そうして実際に相手が立ち上がったなら、その意思に従うことに決めている。随分と自分勝手な物言いだなと自分でも思いはするけれど、そういう風にしか長い夜を終わらせられないことがままある。お互いに何も言い出さない場合は、もっとどうしようもないものがタイムリミットになったりする。空腹とか、体力とか、眠気とか、夜明けとか。自分の歌詞ではなにかと夜明けがタイムリミットの象徴として登場しがちだけれど、これは明確に自分の中にそういった意識があるからだろうなと思う。帰ろうって、その一言が言い出せなくたって別によくて、じきに訪れる夜明けが勝手に全部を終わらせてくれるから。思うに自分は、夜明けに対してもっと感謝したほうがいい。

 

 見送った夕空、過った流星。ふと思い出して、「いや、だから、見送ったことないんだよな、夕空」と思った、いま。流れ星ならみたことがあるけれど、一度だけ。でも夕空を見送ったという経験は、改めて振り返ってみてもやっぱり一度もないんじゃないかって気がするな。