20230116


 そう短くもない人生を振り返ってみて、「思えば、あれが転換点だったんだな」と感じるような思い出はいくつもある。たとえば、中学時代に通っていた塾のこと。たとえば、インターネット上で知り合った作曲を趣味とする人たちのこと。たとえば、高校三年生のクラス担任だった先生のこと。たとえば、入学と同時期に所属を決めたサークルのこと。たとえば、深夜に人と鴨川を歩いたこと。たとえば、二年前の四月に客席から観たライブ演奏のこと。たとえば、一昨年から昨年にかけての年末年始のこと。たとえば、八月にみた夜明けのこと。転換点。それは、自分の手の中に在る継ぎ接ぎの地図の紙面上に、それでも明確に何かが書き込まれたと感じるような、いまにしてみれば間違いなくそうだったと思える、そんな一瞬のこと。たぶん、それは誰でも知っているくらいにありふれたもので、いまこの文章を読んでいる人の中にだってきっとあるはずで。そういった時間の積み重ねの結果が頁となって、後に人生というタイトルの与えられた一つの物語として綴られることになるんだろうなって思う。なんていうか、だから、不思議だなと思う。辿り着く先の光景に覚えがあるのならまだしも、未だ知らないどこかへと向かって歩く道中、その足取りの価値や意味を頭で理解していることは、少なくとも自分の場合には滅多にない。たとえば、人に勧められて大文字山へ登ったときもそうだった。舗装された道路から、小石の散らばる砂利道へ。高く伸びた木々、水流の音、遠くに鳴いた鳥の声。見上げて上る石造りの階段のその先に、何があるのかなんて知りもしなかった。開けた視界、眼下に広がる京都市の街並みを見下ろして、そうして初めて「ああ、これをみるためにここまでやってきたのか」と思う。ここが目的地だったのかという、ある種の達成感。その感覚が伴うことで、これまでに辿ってきた道のりの価値や意味が、自身の中において正当化される。昨年の三月、その一瞬が永遠になることを、たしかにあの日の自分は、そこに至るまでの自分も、当然のように知っていた。けれどそれは、その向こう側に何が待っているのかが予め分かっていたから。進んでゆく方角の果て、そこにはいつかと同じ形をした最後があって、そのことは手描きの地図が教えてくれていた。だから、あの日の自分は、その一歩一歩がかけがえのないものであるということを理解した上で辿ってゆくことができた。だから。だから、不思議だなと思う。この一週間、そのほとんどすべて。今という一瞬の大切さをこんなにも噛みしめながら過ごしたのは、たぶん生まれてから初めてのことだった。経験があるわけではないから、この先に広がっている景色の形なんて知りもしない。そもそもまだ歩き始めたばかりで、どこへ向かっているのかも分かりやしない。けれど、手元の地図、その紙面上、判読はできないものの、たしかに何かが書き込まれている。両手で事足りるくらいの、たったそれだけの歩数しか進んでいなくて、なのにそのことを知ってしまっている自分がいて。だから、この一週間にはそれだけの重みがあった。だとすれば、それは書き込まれた一瞬のうちに気づいていたはずのもので、だから、それが本当に不思議だと思う。目的地に辿り着いたという実感が、そうして振り返った先に広がっている景色が、それを手にした誰かにそう思わせるとするのなら、つまりはきっと、そういうことなんだろうなって思う。