手紙

 

 手紙。手紙か。手紙のやりとりをした記憶って自分はほとんどなくて(これは嘘なのだけれど、今回は割愛)、手紙っていうか、なに、年賀状? およそ国民的な文化として根付いているあれでさえ、自分は小学三年生くらいの頃を最後にやめてしまった。思えば当時から他人宛てのものを認めるという行為が苦手で、「あけましておめでとうございます」という大きめのゴシック体と干支にちなんだ動物のイラストがプリントされたそれを前にして、「あけましておめでとうございます、以上に書くべきことってあるのかな?」と思っていた記憶がある。「今年もいっぱい遊ぼうね」とか? でも、そんなことわざわざ書かなくたって、年賀状を送るくらいの相手ならそうなるに決まっているのだし。マーカーペンを片手にあれこれ考える。何を書けばいい? どうしたって納得のいく言葉はみつからないし、同じことを何枚分もやらなきゃいけなくって、だからそれで嫌になった。言葉を尽くせば少しくらいは何かが書けたのかもと思う。昔から作文の類は(事実はどうあれ、個人の感覚的には)得意分野だったから。でも、年賀状ってそういうものではないじゃんか。そもそもそんなにスペースなかったし、イラストだとか何だとかが既に印刷されていて。たった一言だけを選べって。いやいや、無茶でしょ、それは流石に。そう、だから、本当に昔から苦手だったんだなと思う、そういうの。自分の考えていることを、別の誰かに、限られた文字数で伝えるという行為。手紙か。手紙はその限りじゃないのかもな。便箋の枚数ってきっと任意だろうし、まあ限度はあるだろうけれど。いまのバイトを始めたのがおよそ四年前で、職種は重要でないからここでは伏せておくけれど、月に一度、ある種のメッセージを書くという機会が確定であって。人に依るのだけれど、多いときには六人分くらい。ちゃんと数えたことはないけれど、記憶の中の用紙を手に取ってみるにせいぜい 140 字が限度だと思う。1 ツイート分。それくらい。自分と同じバイトをしている人なんかをみていると、案外みんなサラッと書いている。余白もそれなりに残ったままだったり、いや、それで何も問題はないはずなのだけれど。でも、自分はそのメッセージを書くことがめちゃくちゃ苦手で、だからいつも後回しにしてスタッフの人に催促される。むずいんだって、それ。たったの 140 字で意思疎通なんてできないよ、普通は。とはいえスタッフさんを困らせるのもよくないので、タイムリミットすんでのところで居残りついでに書き始める。いつかの年賀状と同じ気持ち。難しい。「必要十分をちゃんと書けたな~」なんて風に思えたことは未だに一度もないし、だいたいいつもどこかしらで妥協する。妥協。バイトを始めて、最初にかかわることになった彼女のことをいまでもたまに思い出す。一度くらいはブログに書いたと思う、二、三年前とか、それくらいに。自分にとっては珍しいことに、顔が思い出せない。声も。一方で、名前は覚えている。好きなものとか、やりたいこととか、将来の夢のような何かしらも。手紙。手紙かあ、と思う。140 字じゃどうしたって足りない。どれだけあればいい? 14,000 もあれば足りるかな、と考えてみる。100 ツイート分。でも、だからそういう話じゃないんだよな、と思い直す、そのたびに。字数の問題じゃない、結局。文庫本一冊分くらいの言葉を使っても伝わらないときは伝わらないし、逆にたったの一言でも伝わるときには一瞬で伝わってしまうんだよな。そうは思わない? 人に依る、分かる。だから、これは自分はそう思っているというだけの話。彼女、止めちゃったんだよな。自分にはよく分からなかったけれど、何かを。そんな誰かへ宛てる 140 字にも満たないメッセージ。何て書けばよかったんだろ、本当に。いまでも思い出す、だから、そのことを。実際にはどんなことを書いたんだっけ、曖昧だ、その辺りは。小学生の頃に埋めたタイプカプセルの、その中に閉じ込めた文章なら今でも明確に思い出せるのにな。どうでもいいことばっかり。元気にしてくれてるといいな。向こうは自分のことなんて、きっと忘れてしまっているだろうけれど。それでも自分はまだ覚えているし、だからふとした瞬間に思い出して、それでこんな風に祈ったりもする。祈りって便利。手紙と違って一方通行で、それでいて相手には知られなくて済むから。無責任ともいう。暴力的でさえある。自分勝手で、我儘で、だから暴力的。だとしても。できることなら幸せに生きていてほしいな、本当に。それだけで救われるから、自分は。