20220828


 群像劇が好き……というのは多分これまでのどこかで書いていたはずと思ってブログ内検索を掛けてみたところ、意外なことに「群像劇」という言葉自体が一度も使われていなかった。群像劇というのはいわゆる作品形態の一種で、とある一つの出来事に立ち会った複数の登場人物それぞれの視点から物語を描写するというもの。読んだことのある人にしか伝わらない話をすると、『とあるシリーズ』や『デュラララ!!』、最近に読んだものなら『空の境界』も近かった(これより登場人物がもう少し増えるとより群像劇っぽくなる)。そういった形式を好んでいることについて、どうしてだろうと考えたことはその実あまりないのだけれど、思うに、それが世界の構造として当たり前に起きていることであるのにも関わらず、一方で自身の日常に一切存在しないためだろうという気がする。何か一つの事件があって、いや別に事件ではなくとも、たとえば同じ遊園地にたまたま遊びに来ていたとかでもいい。そんな顔も声も名前もなにも知らないような相手は日々の中にたくさんいる。「世界の構造として当たり前に起きている」はそういう意味。ところで、そうして偶然同じ場所に居合わせただけの人たちが何の目的でここへ来たのかだとか、あるいはもっと簡単な何をみているのかだとか。そういった事実に触れる機会はほとんど皆無で、「自身の日常に一切存在しない」はそういう意味。いま一瞬すれ違っただけの誰かにも誰かなりの意図があり、目的地があり、人生があり、世界があり、でもそういうのを知ることって絶対にできないんだよなって。普段からそんな考えがあったりなかったりすることと、自分が「群像劇」という作品形態を好いていることは、強固な相関があるかと言われれば微妙だけれど、でも全くの無関係だともあまり思えない。だから、意外だった。一度もブログでそういう話をしたことがなかったんだな、と思って。とはいえ、「文章作品に関する話題を自分と何度か交わしたことのある相手なら、もしかしたら知っているかもしれないな」くらいの情報で、大げさな意味合いは特にない。実際、すこし前に話をした相手は、そういった自分の好みを記憶していたらしかったから。

 

 人の数だけの世界がある。より正確には、同じ時間を共有している集合の数だけの世界があると、そう思う。一人で街を歩いているとしたら、その個人だけにみえている世界がまず一つあり。それが二人になったならその二人にだけみえている、つまりは共有されている、そんな世界がたった一つだけあると思う。とはいえ、多くの場合において自分たちは同じものをみてはいなくて、「あの雲の形、良いね」と言われて目で追って、だけど隣の誰かの指先がどこを示しているのかがまるで分からないというのはよくある話。視界情報は主観の影響を強く受けるから、たとえばポイ捨てされたペットボトルたちをみて、「ちょっと嫌だな」と思う人がいて「これはこれで」と思う人もいて。そんな二人が街を一緒に歩いたとして、そうしてポイ捨てされたペットボトルをみつけたとして、これはこれで極論的だけれど、でもだからこの場合って「同じものをみている」わけではないよな、と思う。情報源は同じでも、それから受け取っている印象が違うから。みたいな考え方を前提としてみると、二人という最少人数でさえ、他人同士の間に共有され得る世界なんてほとんど皆無なのではという気持ちにもなる。二人で一緒に街を歩いたとて、みているものが違ってるんじゃそれって結局は一人と一人ってことじゃん、みたいな話。でも、なんていうか、自分はその前提に立った上でもそんな風に考えることはなくて。「世界の共有」という言葉をどのように定義するかに依るのかなと思う。自分にとってのそれは、同じ一つの世界の中に相異なる他人が同時に存在しているという意味ではなく。どうしたってぴったりには重ならない他人同士の世界の間に、互いに結び合う一つのゲートを通すみたいな。自分にとっての「世界の共有」という表現はそんな風の意味の言葉として登録されているし、同様に「世界」という単語もそういったことが可能であるものとして定義されている。要は、違いを較べあうこと。「あの雲の形、良いね」に対して「どの雲のこと?」と返すのは、相手の世界にあって自分の世界にない、そういった無数にある細かな差異のひとつひとつをお互いに照らしあうという行為なんだよな、みたいな。そんな感じの認識。それが三人になっても四人になっても、あるいはもっと大人数になっても同じことで。そうやって違いを較べあうことで生まれる世界が、それら複数人の間にたった一つだけあるはずという、そういう話。

 

 三年前。当時所属していたサークルでなにか一つの作品を作ろうという話になり、それで群像劇を提案したことがある。自分にとっては音楽における合作なんかもそうなのだけれど、それぞれがそれぞれの好きなように作品を作って発表して、それはそれで普通のことというか。ところで、せっかく同じ場所に同じ趣味の複数人が会しているのに、なのになんにもしないのはちょっと勿体ないな、みたいな気持ちもあり。それで、群像劇。一つの大きなイベントを設定して、各々の好きな視点からその出来事を観測した物語を一冊の本にしようという、そういう企画。提案した手前、全作品に共通する大きめの設定まわりは自分が考えることになり。様々を考慮した結果、2019 年 10 月 5 日(土)に開催される花火大会を「共通の事件」にしようということになった。つまり、各々の好きな視点からその花火大会に関する物語を作ってくださいということ。そういう話があった、三年前に。

 

 昨夜、2022 年 8 月 27 日(土)、淀川の花火大会へ行った。実を言うと花火大会そのものはかなり久しぶりで、久しぶりというか実質的に初めてで、まだ幼かった頃、地元で開かれた花火大会へ両親に連れていってもらったのが最初で最後だった。当時の記憶はあんまりない。曇ってはいない、ありきたりな紺を敷き詰めたみたいな夜だったように思う。恐らくは母親に手を引かれながら、幼少期に特有な日没後への高揚感と警戒心と、あと、自分よりもずっと背の大きい人間が周りにたくさんいて、花火なんかなくともずっと上を見上げていたような、そういう覚えがある。ところで、そんなどうでもいいことを覚えているのに肝心の花火については一切記憶していなくて、それが本当に花火大会だったのかさえ怪しい(たしかそうだったと思うけど)。というので、花火大会を中心にした群像劇を提案した人間が、実際には花火大会へ行った記憶が全くないというエアプもエアプの状態で(三年前の話で、いまは昨夜の経験があるのでエアプではない)。さて、当時の自分はいったいどんな作品を書いたんだっけなと思い読み返してみた、ついさっき。実際には花火大会の会場へ入場して、一面に芝生の敷かれた斜面に何とか座って、特有のディレイが効いたカウントダウンを聞き流しているときにはもう「そういえば、三年前に花火大会をテーマにして話を書いたことがあったな」と考えていたのだけれど、そのことを思い出したのが今朝に目覚めてからだった。その作品について、全体の大まかなストーリーは当然ながら記憶していたものの、一方で細かな描写だとか地の文だとかはすっかり忘れていて。九億年ぶりに pixiv を開いて、該当作品のリンクを踏み、真っ先に目に飛び込んできた書き出しからして驚かされた。そんなことあるんだ、と思って。

 

 終着駅。そのホーム。銀河鉄道。途絶えた線路の先にある高架橋。壮大な物語のために用意された舞台。知らない人たちの知らない一日。花火大会。本当の行き止まりみたいな場所。物語にとって理想の結末。気まぐれに折れただけの曲がり角。星が降る。同じ列車に乗って、同じ駅で降りる誰か。桜島、大阪港、河川敷、京都駅。浜に打ち上がった漂着物みたいなペットボトル。人のいない海、満たされた最後。同じ空間に居合わせた、各々がそれぞれに持っている世界について。乗客のいない列車と意味のない夜明け。

 

 そんなことあるんだ、と思った。なんていうか、まるで日記を読んでいるみたいな。これが三年後の自分が書いたものであれば何とも思わないのだろうけれど、三年前らしい。なんか、なんだろうな。思うにそれは誰の意図によるものでもない、ただ偶然が重なった故の結果で。それぞれがただ目についただけの曲がり角をそれぞれに曲がったり、あるいは曲がらなかったり、それを繰り返しただけ。それらの合流地点に昨日という一日があって、でも、だとしたら尚更、それってものすごく奇跡的なことだなって。少なくとも自分にとってはそうで。別に欲しがったわけではないと思う、三年前の自分は、そこに書かれているような何かを。でも、そんな世界がどこかしらにあればいいのになって気持ちは多分あって、そうでないと作品なんて作らないから。そうして三年前に思い描いたっきりすっかり忘れてしまっていた風景の全部が、昨日という一日には在ったような、そんな気がしていて。それで、そんなことあるんだ、と思った。そんなことってあるんだね、本当に。

 

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