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 まだ幼かった頃、と言ったはいいものの具体的にいくつの頃だったのかが思い出せない。そのくらいには幼かった頃の話。記憶がたしかなら一度きりだったと思うのだけれど、実家から少し離れた駅発の電車に乗ったことがある。たぶん、海遊館に行ったのだと思う。覚えていないけれど、でも、両親だったり祖母だったりに連れられながら、大阪港駅に降りた瞬間の高架を眺めたような記憶があるから。終点、コスモスクエア。その名前を知ったのは、だからたぶんその日のことだったのだろうと思う。コスモスクエア行きと記された列車に乗り込んで、けれどその駅まで着くことはなくて、だから、たぶんそう。ひとつ前の大阪港駅で降りて、やっぱりそのまま海遊館へ行ったのだと思う。その日に行ったであろう海遊館での出来事は何一つとして覚えていないのに、大阪港駅から眺めた高架に加えて、コスモスクエアという固有名詞を今の自分が強烈に記憶しているのは、だから、その頃からもう、そういうものに囚われていたって話なのかもしれないな。果たして当時の記憶かどうかは曖昧だけれど、大阪港駅のホームからコスモスクエア駅に向かって真っすぐに伸びる線路を、ぼけーっと眺めていたような覚えも微かにある。まさか二五を目前にして訪れることになろうとは、まったく想像していなかった。

 

 大阪港へ行きたいと思うようになったのは、今年の三月だったのかな。海遊館へ足を運ぶことに決めた理由はいくつかあったけれど、そのうちのひとつがそれだった気がする。改札を抜けるとすぐ目の前に高架が通っていることを幼少期の記憶と共に覚えていて、その様を確かめたいと思ったのが最初の動機、だったような。海遊館自体も普通に楽しんだけれど、高架を前に「ああ、記憶通りの光景だな」と思えた時点で、自分の主目的は割と果たされてしまっていたような感じもある。その日はついでに桜島へも行ったのだけれど、生憎の雨だった。生憎の雨っていうか、大雨だった、普通に。傘を差していても尚歩きたくないレベルの。自分にとっては桜島それ自体もとても好きな場所なのだけれど、だからそれだけが微妙に不完全燃焼という感じで、ところでまあ自分以外のメンバーにとっては別にどうでもよかっただろうと思うけど。自分は人並み以上には高所恐怖症っぽいなのでアレなのだけれど、陽が沈んだ後の大観覧車に乗るとか乗らないとかで、それまでの時間を適当に潰そうということになって、その途中のどこかで例の場所を訪れることになった。Twitter で調べてみると、これが三月二六日のことらしい。こうして振り返ってみると、本当に偶然の連続って感じだ。その一週間前に USJ へ行っていなければ、そもそも USJ へ行こうと言い出すような人が身近にいなければ、その帰りに某回転寿司屋へ寄っていなければ、その場に特定の数人がいなければ、上の全部が揃っていたとして「海遊館へ行こう」なんて気まぐれを起こさなければ。そうでなかったら今年の夏はどこにもなかったのかもしれないなと思うと、嬉しかったり怖かったりって感じ。人生ってそんなことの積み重ねなのかもしれないなとは思うけれど、でも、だとしたら尚更だな。

 

 三月の桜島が不完全燃焼だったことが、だから効いていたのだろうなと思う。別にそんなつもりではなかったというか、ああ、だから、それもそうなのか。だから、今年の初めに初日の出をみに行ったくらいの頃から全部が始まっているのかも。いや、全部ってことはないか。でもまあ、だいたい全部かもしれないな。だって、あの夜がなければ「寂しくなるね」とだけ言って三月までを終わらせてしまっていた可能性が非常に高いし。曲を作ろう曲を作ろうとだけ言って、実際にどうなっていたかなんて分からない。それが生まれていなければ、だから自分が声を掛けることもなかったし、ということは八月の桜島と大阪港もなかった。すごい話だな、本当に。未来のことなんて何一つも考えていないけれど、もう通り過ぎてしまったいつかの今日から今の今まで様々が繋がっているんだなと思うと、これは普通に嬉しい。なんか、報われてるなって気持ちになる。何がと訊かれると答えに窮してしまうけれど。ところで、自分は花火大会へ行くというイベントを立案した人にものすごく感謝すべきだな、とここまで書いていて思った。あの曲がなければ、というのなら、花火大会だってそうで。あの夜、淀川で花火大会を運営してくれていた人たちへも同様に。群像劇。人生って、七〇億を一斉に巻き込んだ大掛かりな群像劇なのかもしれない。自分ひとりの手には到底負えないくらい膨大な数の思惑の上になんとか立っている、そんな気がする。

 

 そもそもどこかへ行くという話ではなかったし、そのうえで行き先の候補として桜島を上げてくれたのは、まあまあ嬉しかった。まあ、直近に Twitter で一度言及していたし、それでついでにってことなのかもしれないけれど、だとしても。桜島、自分はめちゃくちゃに好きなんだよな。物語の結末って感じがする、町全体から。観客が席を立った後のシアターみたいな。曰く幸福の本質は移動らしいけれど、停滞の中にだってそれはあるのではという気がしていて。なんていうか、古本屋の陳列棚かも。大きな書店の、それこそ梅田の丸善とか、そういったところの本棚よりも、古本屋のそれのほうが自分は好きで。とか言いながら、古本屋へ立ち入ったことは一度もないのだけれども。停滞。自分の好きなものを多くの人と共有したいという欲求は、実際のところ自分にはあまりなく。というかむしろ、隠しておきたい、どちらかといえば。星空が、雲で隠れされていたほうが安心するのと同じ心理かもしれない。誰も知ろうとしないなら、誰にだって知られないよう切り離されていればいいという話で。終点って、つまりはそういうことだよなと思う。どこへも繋がらない果ての駅までわざわざ足を運ぶ理由なんて、そうそうない。そういう意味で、星空を遮る雲と同じかもなのかもなって。ところで、雲の隙間に星が瞬いていたら嬉しいし、その一瞬を誰かと一緒にみつけることができたら楽しい、当たり前のように。どんな気持ちですかって、咄嗟に答えられないから誤魔化してばかりだったけれど、そんな気持ちかも。

 

 どこかで桜島のことを話題に上げる機会があったのかもしれない。なかったかもしれない。覚えていない。けれど、どこかのタイミングで大阪港と桜島とを結ぶ連絡船があることを、人から教えてもらって知った。連絡船の存在が話題に上がったことは、記憶の中では少なくとも二回あって。大阪港からみえる夕焼けから夜にかけての風景がとても綺麗だという話を、そのうちのどちらかで聞いていたのだと思う。海遊館の日、つまり三月二六日時点で自分はその情報を(記憶通りなら)知っていて、向かいながら「ああ、あの、夕方が綺麗と言っていた場所か」と思った覚えがある。先述の通り、その日は大雨が降っていて、ただ、その場所へ着いたときにはもう止んでいたか、あるいは降ったり降らなかったりを繰り返していた。雨は上がっていたけれど、決して晴れてはいなかった。だから当然のように夕焼けもみられなかった。別に、そのときはそれほど心残りでもなかったような気がする。残念だなとは思ったけれど、それ以上に、その場所の雰囲気は自分の好みにずいぶんと近くて、そちらのプラス分のほうがずっと大きかったから。陽が完全に沈んで、辺りが暗くなりきるよりも前にその場所を後にした。観覧車へ乗って、そのまま晩御飯を食べに行く必要があったから。スマホのカメラロールを振り返ってみると、だいたい二〇分ちょっとしか滞在していなかったらしい。写真を撮りまくっていると、こういうときに時間の使い方が確認できて便利で良い。

 

 夕陽をみたいと思ったのは、だからなんだよな。二回行って、その二回とも結局みられなかったから。好きな人たちの好きな場所を知りたいという欲求があるにはあって、なんていうか、好きな場所ってものすごく決めづらいというか、何の手がかりもなしには決められないというか。好きな食べ物や好きなスポーツなんかとは違って、いや、その二つも大なり小なりそうでこんなのはグラデーションの問題ではあるのだけれど、とはいえ個人の経験や価値観の影響をものすごく強く受けて決定されるものだと思う、好きな場所、というか決めづらいもの全般って。だから知りたい、そういうのを。その他人の人となりに、多少なりとも触れられるような気がするから。大阪港は足の届く距離にあるし、それに自分もすっかり気に入っていたし、行けるうちに行っておきたいかもなと思って。できれば、その場所を好きだと言っていた人と一緒に。とはいえ、結局みられなかったけど、夕陽。一日中曇ってたし、というか雨降ってたし、普通に。暴風の下に傘さして座り込んで、自分はともかく、この雨のなかで立ち上がろうとしないなんてどうかしてると思ったけど、正直。でもなんか、それでも想像した通りだった。思うに、好きな相手の好きな場所をその相手と一緒に巡るという行為、もっと色んな人とやっていったほうがいい。あまりにも気づくのが遅すぎたけれど、でも、いまこのタイミングで気づけてよかったという話でもある。人生、もう少しくらいは続きそうだし。

 

 自分を振り回してくれる人のことを好きになる傾向がかなり高い。みたいなことを口にした記憶がある。そして、それは実際にそう。そっちのほうが楽しいから。手を引かれながら、今度はあっちのほうへ行ってみようよって。そのまま右へ左へと進んでいって、そしたら道に迷ったりもして、帰り道はどっちだっけって。そういう風に過ぎていく時間がたぶん、めちゃくちゃに好きなんだと思う。昨日も、だから、改札をくぐった後になって失くし物に気づいて、すぐに同じ改札を抜けてエスカレーターを上がって、くすんだ空の下で「いま来た道を同じように辿ればどこかでみつかるでしょ」って。そうやって笑っているときが一番楽しかった。なんていうか、余計なことばかりを気にする癖があって。他人とはできる限り目を合わせたくないし、物理的に距離を置いておきたいし、誰からも嫌われたくないし、歩きながらでだってずっと考えていること。でもなんか、そういうのを全部忘れさせてくれる瞬間がもしかしたらそれなのかもなと思ったり。だから、自分を振り回してくれる人のことが好きなのかもしれないな。あのとき、手を振りながら「全然」と返した覚えがあって、実際に全然気にしてなんかいなかった。だって、心底楽しかったから。やりづらいのは本当だし、困るのも本当だけれど、でも、それ自体を楽しんでいるのも本当のことなんだよなって思う。なんか、そういう風にできている人間らしい、自分って。