20220830


 一年とちょっと前、夜に人を呼び出したことがある。とだけ書くとなんてこともない出来事のように思えるけれど、「深夜一時を過ぎた頃」に「ほとんど話したことのない相手」を呼び出したことがある、と書けばこれはもうなんていうか、一般常識という一線を優に越えている。越えてるな~と思う、他人事みたいに。誘った側がこんなことを言うのはアレだけれど、正直なところ、まさか本当に来るとは思っていなかったから。当時のことについて改めて話をする機会が少し前にあって、なのでそのように伝えたら思い切り笑われた。だって本当のことだから、と自分も笑った。一年前の夜のことは覚えていて、たしかあのときも御池通り近くの階段にいた。「これ、送っても大丈夫かなあ」という理性と「まあ別に断られてもノーダメだしな」という開き直りのジレンマがあったのはそうで、ところでああいうのは多分、言葉にして伝えること自体に意味があるんだと思う。なんていうか、仮にそれが社交辞令だったとして。そうであっても、その言葉のために動くだけの意思が自分にはあるという、そういう表明。うまくいかないことのほうがずっと多いように思うけれど、こういうのは。ところで、「うまくいかないことのほうがずっと多いよな」と思って何も行動せずにいたら、うまくいったかもしれない未来だってきっと見逃してしまうという、これはそういう話で。そんな気持ちで気まぐれに動いてみたら、なんかよく分かんないけどうまくいったっていう、ただそれだけの話でもある。万に一つくらいの可能性で乗ってくるかもしれないし、そうしたら今よりはもう少し仲良くなれるかもしれないし、くらいの。リスクとリターン。とはいえ、冷静に考えたらプチ踏み込みどころじゃないけど、こればっかりは。

 

 感情墓地というタイトルに付随するあらゆることについて、これは照れ隠しとかではなく本当に一切の記憶がない。たまに人から訊かれることがあって、そのたびに「いや、覚えてないんですよね」と返しているのだけれど、これは本当に事実として覚えていないからそのように答えている。なんなんだろう、感情墓地って。ちょっと昔の記事を掘り返してみたら「五秒くらいで適当に決めた名前のはず」と書かれていて、でもそれすら覚えていない。いやでも、ブログのタイトルをつけるときに迷ったような記憶は一切ないから、実際に五秒くらいで適当に決めたんだろうなって気がする。とはいえ別にタイトルに意味なんかなくたって構わないし、より大切なのはこの場所がどういうものかってことだろうし。このブログの存在意義についてはかなり昔、それこそブログを立ち上げた初期も初期の頃には既に書かれていて、大昔のことすぎて恥ずかしいので直接リンクを貼ったりはしないけれど。曰く「『友人』に出会えることを期待して」らしい。なにカッコつけたこと言っとんねんという感じでしかないけれど、四年前の自分なんてまあそんなものか。友人。そう、まあ、そうなんだろうな。要は色んな人と仲良くなりたかったんだよなって、当時の気持ちを(もうほとんど忘れてしまったけれど、書いた文章なんかを伝手に)振り返ってみて、いまはそう思う。仲良くなりたかったというか、仲良くなれる確率を少しでも上げたかった? 人間関係の始まりは興味、あるいは同じことだけれど関心の萌芽だと思う。「この人はどういう人なんだろう」って、それくらいのことから始まるのが人間関係で。それくらいのことでも、それ一つが欠けていれば同じクラスでも大学でも会社でも、どこにいつ居合わせたところで何も始まらないというのが人間関係で。ところで、それってほとんど運任せなんだよな。単純な接触回数をどんなに増やしたところで、そうすれば興味や関心が沸き起こるのかといえば必ずしもそうではなく。運任せ。状況によるし、相手によるし、偶然による。自分の場合、途方もないくらいの会話量がそれだった。三年間ずっと毎晩のように話をして、そうしてようやく他人の世界に興味を持ったのが自分。ところで、全人類を相手にそれを実行するのは不可能で。そもそも、その段階へ至るまでに既に一定以上の人間関係パラメータが必要で。じゃあどうすればいいんだろうという話で、その答えがこのブログ。壁に向かって話し続けているみたいな、感情墓地の正体がつまりはそれ。「不特定多数へ向けて一方的に話し続けることなら誰にでもできるよな」っていう。ずっと続けていたらいつかは誰かが自分に興味を持ってくれるかもしれないし、そうすれば『友人』にだってもしかしたらなれるかもしれないし。なんか、それくらいの雑な期待から始まったのがこのブログで。まさかこんなにも長く続けることになるとは思ってもみなかったけれど。もう五年目らしい、とんでもない話すぎる。でもなんていうか、このブログを立ち上げて、これまで継続してきて、よかったなーって思うことがここ一年くらい明らかに多い。最初からいままでずっと、一人で壁に向かって話しかけている感覚なのは変わらないんだけど。最初の頃は「ブログ読んだよ」って言われるの、めちゃくちゃに恥ずかしくて。誰かが聴いてくれたらいいな~って思いながら書いてるくせに。でも、ここ一年くらいは嬉しいな~って気持ちのほうがずっと強い。聴いてくれている人がちゃんといるんだなというのもあるし、それ以上に、こうして書き続けている謎文章のおかげで自分に興味持ってくれたのかなと感じる機会が少し増えたから。報われてる。報われてるな~って、そう思う。

 

「プチ踏み込みが上手い」と言われて、その瞬間は首を傾げた。自分じゃあんまり分かんないな、と思って。ところでしばらく時間が経ってから考えてみて、そうかもしれないな、とも思った。距離感、立ち位置、境界線。そういう類のことを指しているんだと思う、多分。他人から見下されているように感じるのは、自分自身が他人のことを見下しているから。自身の世界に根付いている感覚だからこそ、他人の世界にある似たようなそれにも気付くことができるのかも。だったら、あれもプチ踏み込みなのかもなって思う。思った。曰く「そういうことをされると大抵の人は嬉しいはずで」。ところで自分はどうだろうって、それについてをまず何よりも先に伝えるべきだったな~と帰り道に思って。マジでこんなのばっかだ、帰り道。こんなことばかりだから帰り道ってフレーズが歌詞における頻出語句なんだよな。いやまあそのことはこの際どうだってよくて、いや、嬉しかった、割と本心から。なんて返事したかあんまり覚えてないけど、眠すぎて、あと脚が痛すぎて。どうだろ、なんらかの絶望的事件が発生して、マジで超絶不仲の絶縁状態に陥るという可能性もなくはないけれど。だとしたらまあ、そうならないように心掛ければいいってだけの話なのか。散歩したいしな、普通に、来年の夏だってまた。いやさ、口約束なんて、本当にいくらだってあればいいって思う。叶ったり叶わなかったり、それは仕方のないことだけれど。でも、だからこそ、こういうのって言葉にして伝えること自体に意味があるんだろうと思うし。だから、受け取った分はちゃんと言葉にして返すべきだよなって、そういう話でもある。