20220813


 そういえば一、二年ほど前に「一葉は何を話しても "無関心" でいてくれそう」みたいなことを言われたなと思い返していた(ここでの「無関心」は辞書通りの意味ではない)。自分自身を本当の意味で客観視することはできないから、だから自分だと全然分かんないけれど、その辺のこと。ただ、過去から現在に至るまで、そのほか様々な人々からそれに類することを度々言われるので、自分じゃ分かんないってだけで、少なくとも周囲の人の目にはそう映っているってことなんだろうなとぼんやり考えている。

 

 信頼……、信頼って何だ? なんか、たまに怖くなる。人望とかって言葉にも同じことを思ってるんだけど、なんていうか、それほどの何かを預けられるに足るだけのことを自分は本当に果たしたのかなって。果たして果たした。いやまあ、全く何一つだってしていないだなんて、そんなことは言わないけれど、流石に。そこまで自分のことがみえてないわけでもなくて。でもなんか、なんていうか、要するに、本当に釣り合ってる? ってことなんだと思う、引っ掛かっているのは。なんかもう、マジで何も分かんないなーってずっと思ってて、半年以上前から。いっそ本人たちに直接訊けたら早いけど、「貴方はいったい、自分の何をどうして信頼してるんですか」って。みたいなことを言ったら相手にウケた。疑ってるわけじゃない。疑ってるわけじゃないんだけど、でも。釣り合ってるかなあ、と思ってしまう、どうしても。そんな大層な人間じゃないのにな、とも。

 

 最近なんとなく自分の書いた歌詞を読み返していたのだけれど、「こいつ、めちゃくちゃ手を繋ぎたがるな」という感想が湧いて出た。それで考えてみたのだけれど、自分にとって「手を繋ぐ」という行為は、なんていうか、「世界の共有」みたいな意味合いが強いのだと思う。世界。自分たちは同じ地球という星の上に生命活動をしている同士なわけだけれど、ところで生きている世界って一人ひとりで別物だよなって、そんな感覚があって。太陽の眩しさに救われる人がいて殺される人がいて、そういう話。なんていうか、「手を繋ぐ」という行為によって、その瞬間だけお互いの認識世界を行き来するためのゲートが生まれるような、そんな気がするっていうか。体温、脈拍、機微、「世界の共有」。『繋いだこの両手が 灯りを見失っても / ステラグロウ』、『不意に結んだ手に 触れる君の鼓動 / cor 』、『繋いだ手を 確かめあって 歩くのさ / 星降のパレーシア』。全部そう。二人がいまを生きているということを確かめ合うための方法の一つなんよな、自分にとっての手を繋ぐという行為は。

 

「お別れの唄ばっかり作ってるな」とも思った。これはまあ、ずっと昔から思っていたことだけれど、改めて。究極の命題。そう、そうなんだよな、だからつまりはそれ自体が。必然的に訪れる最後の瞬間に対して、自分はいったいどんな姿勢を取るべきだろうって話。たとえば『ステラグロウ』は肯定で、たとえば『 cor 』は否定で、たとえば『星降のパレーシア』は沈黙で。そんな風に、選ぶスタンスは曲ごとによって変わるのだけれど、でも、いずれにしたって「最後」をテーマにしているという事実には変わりなく。おんなじことしか書けないや、と思う。思いながら歌詞を読んでいた。でも、どうなんだろうな。自分とは違う、他人が読んだとしたらどんな風に感じるのだろうって、そういう好奇心があるにはある。おんなじことばっか書いてんなーって、やっぱり自分と同じでそうみえるのかな。