分岐点

 

 孤独とかいうありきたりでつまらない枠組みに自分自身をあてがいたくないというのが正直なところですけれど、分かりやすい言葉を探そうとなれば、結局のところ、孤独という単語それ一つに尽きてしまうよなあという感じがします。孤独。孤独って何ですか? 自分のことを、あるいは誰かのことを、その人を指して孤独だと言えるほどに孤独という概念に馴染みがあるかといえば、別にそうでもないなという気がする一方で、昔からずっと知っていたんじゃないかという気もします。どうなんでしょう、分かりません。皆さんはどうですか?

 

 孤独って、要するに閉塞感だと思うんです。どこへも行けないと唄うのが米津玄師で、どこへでも行けると唄うのが藤原基央ですけれど、それはさておき、どこへでも行けるとか行けないとか、そういったことを僕らに考えさせるのが閉塞感というやつで、つまりは孤独というやつの正体なんじゃないか、みたいな。壁があるとかないとか、鍵がかかっているとかいないとか、この世界を生きている人間のおおよそはそういったことを気にも留めていないなんて百も承知で、それでもその透明に呪われてしまった人間はどうすればいいのでしょう? 『気にする程見られてもいないよ』なんて言葉を言えるのは、それこそそんな孤独を抱えて生きてきた人だけなのでしょうけれど、何というか、それはさておき、そこまでの強さは持ち合わせていないという感じですよね。ままならないものです。

 

惡の華 / 押見修造』という作品を読みました。漫画です。全十一巻。吉田音楽製作所のほうの一個下の子から先日借りました。タイトル自体は以前から知っていたんですが、言ってしまえばまあそれだけでしかなくて、特に印象強く残っていたというわけでもありませんでした。今日は起きてからずっと文字を書いたり何だったりをしていて、その休憩がてらに軽く読んでみようと手を伸ばしたが最後でした。気がつけば食堂は閉まっているし、というか二二時だし、いや何? って感じです。魔法? 自分は本当に一度スイッチが入ると抜け出せなくなるタイプなので(そのスイッチがうまく入らないことがあまりに多くて、それで苦労してるんですが)、こういうことが割と頻繁に起こります。晩御飯どうしよう。これを書き終える頃には最悪日が回っているという可能性すらあるのですが……。

 ギブアンドテイクというか、今回のアレはなんか割とそんな感じでして、惡の華を貸してくれた子には以前「BUMPの『ハンマーソングと痛みの塔』って曲がめっちゃ良いから聴いてほしい」といった旨のことを言って、しかもその子はどうやらちゃんと聴いてくれたらしく、だからまあ次は僕の番という感じでして、そんな彼が好きらしい惡の華を借りて読んでみたという次第でした。好きなものを押し付けるのって本当に注意深くやらなきゃいけなくて、そういうわけでまあ普段はやらないし、やるとしてもブログとかTwitterとかで適当に発信する程度なんですけれど、その、なんていうんですか? だから、そういった何かを共有できる相手って割と珍しくて、割とっつうかかなり珍しくて、大切にしていかなきゃなあと思ったり思わなかったり。僕が彼の価値観に勝手に共鳴しているだけという説もあります。いや、ほとんど何も知りませんけどね。ほとんど何もというか、実際何も知りませんけど。でも、それこそほんの少しの言葉を交わしただけでそう感じる程度には、僕の意識は彼のことを好意的な対象として処理しているらしく、そういう相手が好きになったものなら多分自分も好きになるだろう、というおよそ浅はかな思考のもと、「持って来てくれたら読むよ、惡の華」などと軽率にも発言してしまったのでした。

 

 結論から言えば、よかったです。よかった? これは『今週読んだ本の話』を更新しなくなった原因の一つでもあるんですが、どれほど良い作品に触れたところで、自分の言語野がそいつらを上手く表現してくれなくてですね。『サクラダリセット』とかも、既に三周ほどしているくらいには好みの作品だったんですが、それを伝えようとwordを立ち上げて、何もうまく言えねえ、と画面をたたき割るまでがテンプレになってしまい、このままいくとパソコンの修理費だけで破産してしまうと思い至り、そんなこんなで泣く泣く更新を中断しています。嘘です。半分くらい。上手く言えないのは本当で、もう一つの理由は、何かを読み終えた後に文字を打ち込む気力があったりなかったりするからです。本自体はあれからもちょくちょく読んでいて、以前から書店で気になっていた『天久鷹央の推理カルテ』をいまは読み進めています。まだ途中ですけど。

 

惡の華 / 押見修造』を一通り読んでみて、思ったところをバーッと書いてみます。ほとんど自分の話ですけどね。

 

 周りにいる奴らって本当に救いようのない馬鹿ばかりだな、なんてことを本心から思って生きていた時期が僕にもありました。主に高校生の頃です。そういえばつい最近、大学以前のことがあまり想像できない、といった旨のことを言われたのですけれど、その真意はこのことと全く関係ないのであろうことはさておいたとして、高校生の頃の自分はかなり尖っていたなあ、といまにして振り返ってみるとそう思います。尖っていたというか、いや、尖ってはいませんね。僕は大阪桐蔭高校出身なんですが(中学は普通に公立)、大阪桐蔭は課題の設定量がいちいち頭おかしくて、学校も夜遅くまで自習室として開放していたり、というか休日も普通に教師の方がいたりして、いや、どんだけ勉強させたいねん、と一学生ながらに思っていました。

 仲のいいクラスメイトはそれなりにいました。本当にそれなりでしたけれど。だからまあ高校へ通うのが嫌になったということは、本当に不思議なことに一度もなくて、ズル休みは何度かしましたけれど、それにしても、いまにすれば何がそこまで自分を駆り立てていたのだろうかと思わず首を傾げてしまいます。自転車で三、四十分ほどかかる距離にあったんですが、いや、本当にどうして馬鹿真面目に通ってたんでしょう? 不思議です。

惡の華』での彼らが正しくそうだったように、読んだ本に影響を受けるという話はとても他人事だと思えないんですよね。誰しもそんなもんなんでしょうか? そもそも本なんて読みませんか? 僕も大して読みませんし、これまでに読んだのなんて九割ラノベですけれど、いまの自分に繋がっている作品はかなりの数あると思います。いちいち挙げているとキリがありませんけれど、『ひぐらし』『うみねこ』『物語シリーズ』辺りはまあ間違いないなという感じです。以下のツイートは六年も前の、つまり僕が高校一年生のときのものなんですが、

とかね(何が?)。高校生の頃が本当に一番ひねくれていたので、その当時に触れた作品、なかでも『終物語(上)』はかなりの影響を受けているなあと他人事のように思います(この時期に触れた作品といえば『DEATH NOTE』にも結構影響を受けているような気がします)。なまじ自分も似たような経験があっただけに尚更、というより、これまでの自分が通ってきた道にあったあれこれについて考えたのが高校生の頃でした。懐かしいな。その結論として、人類全員馬鹿(意訳)、という最悪の答えに至ったことを思えば、何というかって感じですけれど……。

 

 一方で、そういったあれこれの話を周りの奴らにしたことは一度もありませんでした。まあ、しませんよね普通。僕が何をどう思っていたかとかそんなことは関係なく、世間一般の高校生って普通はそんなことを話さないんですよね。このソシャゲが楽しいとかあの芸能人が可愛いとか、まあ何かそんな感じのことを話してたんですかね? いや、知りませんけど。何も思い出せないってことは、実際どうでもいいことばかりを話してたんでしょうね。教室で交わした言葉なんて思い出せます? 本当に何も覚えてないな。

 馬鹿しかいねえなあ、と思っていたのは本当のことで、しかしそれにしても今は違って捉えられるというか、逆にいまの自分がどうしてそういったことを考えなくなったのかという方へ目を向けてみると、それが結局閉塞感だよなあ、という気がするんですよね。高校生の頃といえば物理的にどこへも行けなくて、日常は特にかわり映えもせずに同じ場面を流すばかりで、授業中は寝て、適当に課題をこなして、サボって、そして帰る。終わり。何もない。何かあればいいのになあと退屈してみても、クラスメイトは相も変わらずどうでもいいことできゃっきゃと盛り上がっていたりして、それが馬鹿みたいだなあって。要するに羨ましかったんですかね。違うかもしれませんけど。そうやって閉塞感をまるで覚えていなさそうな奴らの姿を見て、許せなかったのかもしれません。分かりませんけど。『惡の華』を読んでいるとそんな気持ちになりました。似てるとか似てないとかじゃなく、「いつかの自分にもあったなあ、こんなことが」という気持ち。追体験? まあ、いまも似たり寄ったりな感じではありますけどね。

 

惡の華』で春日と仲村がそうだったように、あの二人はどこかしらで繋がりあっていて、どこかしらで食い違ってもいて、もしもあの二人が出会わなかったらどうなっていたんだろうなあと思います。春日はともかく、仲村のほう。エンディングを見るに、何がどうなったところで最後は案外落ち着いていたのかもしれませんけれど、いや、でもどうなんでしょうね。あの結末がハッピーエンドかといえばそうでもないなという気持ちがいまの自分にはあって、あと何周かするつもりなのでその過程で評価が変わるかもしれませんけれど、仲村に関してはハッピーではなかったよな、という。毎日毎日太陽がグルグル同じように回ってそれが綺麗だとか、嫌ですよね、なんか。手放しでは喜べないというか……、読んでる途中は一人称の春日視点でばかり作中世界を捉えていたのであまり気になりませんでしたけれど、仲村に感情移入して読んでみるとまた違った風に見えてくるような気がします(最後のシーンはそういう役割も持っていると思っている)。ハッピーエンドではないにせよ、仲村は多少救われていたんですかね? それだといいんですけれど、そこまでの判断はいまの僕にはまだできません。そりゃ真っ当に生きていくことは一般的に良いことなんでしょうけれど。でもまあ、どうあれ仲村が消えないでいてくれてよかったという春日の言葉は本当にその通りで、その点においてはやはりハッピーエンドと言ってもいいのかもしれません。うーん。仲村はどんな世界を見ていたんでしょうね。彼女は彼女で、とても綺麗な空を見ていたんだろうなあ、という気持ちです。いまのところ。

 

 あの山の向こうまで走って、という仲村の言葉が結局あの作品の全部だったんだなあ、と思います(ちょうどこのタイミングで一巻を読み直し始めました)。高校生当時の自分を矯正(?)してくれたのがこのブログにたびたび登場する彼だという事実は、まあ今更取り立てて話すようなことでもありませんけれど、そういえば僕も彼と同じような話をしたことが結構な数あったなあと、読みながら考えていました。遠くの話をしがちですよね、ああいう頃って。それはいまもですけど。そんな彼とよく言っていたのは「広島に行こう」ってことでした。これにしても、別に遠くならどこでもよかったというか、いや、どこでもよくはないですけれど、でもまあやっぱりどこでもよくて、どこかへ行きたいってだけだったんだろうなあと、いま思えば。

 

 始まりは勝手にやってくるけれど、終わりは自分で探さなきゃいけない。それが『惡の華』の筆者が言いたかったことの一つのようです。僕の主観で言えば、終わりこそ勝手にやってくるものだと思いますけれど、しかし先の主張もある意味では正しく、これは要するに視点の問題で、勝手にやってきた終わりを受け入れる努力をしなきゃいけない、という意味なのかなあと思います。分かりやすいところで言えば死ですが、終わりは往々にして唐突にやってきて、そのことに対する区切りを見つけるのが僕らの役目なのかなあ、みたいな。いつまでも彼の後ろ姿ばかりを(引きずってるつもりはありませんけど)引きずっている自分としては、六巻か七巻辺りで春日が通りすがりの人を仲村と勘違いするシーンとか、結構胸が痛かったです。『終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる』。これは『HAPPY / BUMP OF CHICKEN』の歌詞ですけれど、終わらせる勇気さえ持てない自分は、これからどこへ向かえばいいんでしょうね。分かりません。いっそどこへも行かなくていいんじゃないかという気がしますけれど、そんなことばかりも言ってられませんし。『移動こそが幸せの本質』らしいので(これは『いなくなれ、群青 / 河野裕』の一節)。

 

 何はともあれ、『惡の華 / 押見修造』、良い作品でした。予想通りというか何というか、相当好みの部類だったように思います。これをもし高校時代に読んでたらどうなってたんだろうなあ、と考えるとちょっと面白いですね。ちょっとどころじゃなくかなり面白いですね。そうなると、彼とのかかわり方も多少変わっていたのかもなあ、なんて。まあそんなこんなの感じでした。仲村が一番好きだな、いまのとこ。

 

 ほら、やっぱり日跨いでるじゃんか。本当に何食べよう……。