20220112

 

 読み始めてからずっと、出来の悪い間違い探しよろしくあからさまな違和感が視界の大部分を占めていて、p.79 あたりまで読んだところで思った、「だとしたら、どこにもないな」。『所有への願望』。その主張自体には頷くことができるし、納得もできる。体験として理解することも、まあできていると思う。書かれていることを否定したいというわけではなくて、そこに書かれたものが筆者にとっての本質であると一先ずは認めて、その上で思った、「だとしたら、どこにもない」。だとしても、でもいい。頭の片隅で考えながら、それからも読み進めた。それで、どこだっけな。いま該当の頁を探していて、p.114、『人間一般に及ぶべき筈のもの』。「だとしたら、ちょっとはあるかもな」と思ってしまった、正直。何の話をしているかがみえている人からするとかなり笑えるだろうなと思う、こんなこと言ってるの。わかる、自分でもそう思う。p.150 からの節は、割と自分の感覚と近かった。という言い方はあんまり正確じゃないかも。それ以外の部分だって、別に自分の感覚から離れていたわけじゃなかったから。正しく言えば、今の自分の感覚と近い。それ以外の部分は、昔の自分のほうがよく知っているはず。とはいえ、p.153、最後から四行目の件だけは自分のそれと真逆だった。人によっては何の躊躇いもなく頷けることなのだろうな。おかしいとは思わない、全く。本当に思っていない、良いとか悪いとかじゃないし。単に、自分とは違うな、と思っただけ。ただ、p.155 から p.156 にかけての、表題にもなっている節、最後の四行はちゃんと一致した。それはそうだと思う。読み終えてみて、良い本だな、と思った。間違ったことが書かれてあるとは、あんまり思わなかった。ところどころ前時代的な部分もあったけれど、それはまあ時代の問題だろうと思うし、本質的でもない気がする。良い本だな、と思った、たしかに。でも、やっぱり、ないんだよな、そんなもの。孤独もその裏側も、ちゃんと経験と理解を両方持っているような気がしていて、それはまあ自惚れかもしれないけれど。とはいえ、初見でだってすっと吞み込める程度には慣れている感覚で、だけど思うんだよな、「だとしたら、だとしても、どこにもない」。どこにもない、そんなもの。

 

「好き」という言葉を、この一週間ちょっとであり得ない数聞いた。場所も人も様々。でも、一年分は聞いた。食傷、はマイナスのニュアンスが強すぎるか。単に同じ言葉をめちゃくちゃに聞いたなって、それ以上の意味合いはない、本当に。その言葉を発する人ごとに意味合いは、定義は異なっているはずで、だけどおおよそあの本に書かれてある通りなんじゃないかなと思っている自分がいる。そうでもないのかな。ここからは自分の意見。笑いながら面白半分に読んでくれればいいのだけれど、思うに、他人へ向かう感情というものは二つの矢印が重なってできているのだと思う。一つは「相手に幸せになってほしい」という気持ち。分かりやすい。そりゃそうだろうと思う。具体例が必要なら、たとえば恋愛感情なんかで考えるといい思う。いつもとは違う服を着てみるだとか、待ち合わせのプランをあれやこれやと思案するだとか、人に依るだろうけれど、でもまあ、何かしらの形で行動に現れるんじゃないのかなと思う。相手が望む自分自身を演じる、とかもそう? 自分のためか相手のためかって、明確に二分できるものなんてそれほど多くもないだろうけれど、どちらかといえば、で区別することならある程度はできるはず。『他者の孤独の所有』? あの本でいえば、その言葉で説明されていたのがこっちなのかな、違うかもしれない。もう一つが「自分が幸せになりたい」という気持ち。これもこれで分かりやすい。なんていうか、説明するのも馬鹿馬鹿しいという感じがするし、胸にでも手を当てて、各々で勝手に考えてほしい。読者への演習問題とする。昨日の夜、専門書にそう書かれていた問題が一向に解けず、本当に最悪のテンションだった。今朝、目覚めた瞬間の冴えまくっている頭で向き合ったら何とかなったのでよかった。閑話休題。ともかく、そういう二つの矢印が重なっているよな、と思う、どうしたって。初期段階において、どちらかが欠けているってことはあんまりないんじゃないかな、と思っている。あくまで初期段階においての話。所有欲とか独占欲とか性欲とか、そんな大層なものでなくたってちょっとした寂しさとか胸の中の微かな痛みとか、そういった全部が恐らくは後者の矢印に包含されていて、だいたいの場合はそちらが先行するんじゃないのかなとも思っている。でも、正直どうでもいい、その辺りの話は。何のためにこんなことを? 「だとしたら、どこにもない」を説明するため。

 

 読んでいても思ったし、数人の話を聞いていても思った。「昔の自分がよく知っている」。本当によく知っていると思う。というか、いまでもはっきりと覚えている。自分は、その発生を錯覚だと思った。自分というのは、色々と諦めないといけなくなったタイミングの自分。だいたい五年前。錯覚。芹沢の小説もどき。愛と依存の違いは何? 何なんだろうと考えていた、二年くらいの間ずっと。答えは、ちゃんと見つかった。といっても、これは自分だけに適用できる答えで、ということはちゃんと小説もどきの中にも書いておいたけれど、全人類に共通する回答だとは全く思っていない。自分だけに正しい答え、「違いなんてない」。愛と依存、結局は視点の問題だと思う、思った、当時の自分は。いまも思っている。どっちも同じ。愛が綺麗にみえるなら依存だって綺麗と思えるし、依存を醜いとみなすなら愛だって醜く思えるはず。本質的な部分では大差ないようにみえる、少なくとも自分には。錯覚だと思った、発生を。好きだから寂しい。順序的にはそう。でも、結構な数の自己否定を重ねるだけ重ねて、それから思った。逆。実際、寂しいなんて思ったこともなかったし、欠落の存在に気がつくまで。何かがどこかから抜け落ちて、それから抜け落ちたことを知って、心が痛んで。そういったプロセスを自覚して、でもそれって逆なんだよな。失くして初めて気がついたものはそもそも最初から欠け落ちていて、だけど当たり前みたいに手の届く場所にあるから、欠けた部分でさえなんだか埋まっているような気がしていただけ。自分にとってはそういう風に考えるほうが自然だった。最初から欠けていた。だから、痛みだってちゃんとあったはず。当たり前に埋もれて気づいていなかっただけで。その痛みを自覚した瞬間に欠落の存在を知って、あるいは欠落の存在を知った瞬間にその痛みを自覚して。それらの前後関係があんまりに曖昧だから、「傷があることを知った。だから痛んだ」というように解釈しているだけなんじゃないかなと思った、当時の自分は。錯覚。恋という言葉を欠落として定義している。これは以前の記事でも書いたこと。だけど、そもそも最初から欠落してるんだよな、そういう、自分が大切にしているつもりになっているものって。気づいていないだけで。だから、錯覚。何度だって断るけれど、あくまで自分に限った話。他の人がどうかは知らない。でも、自分にとっての好意はそういうものだった。錯覚。幻想。勘違い。『何回だって勘違って 繰り返した夜を』って歌詞、あるじゃんか。実はそういう意味なんだよな、あれ。

 

 発生は錯覚だった。自分はそういうことにした。だったとして、それが自分を疑う理由になる? これも例の小説もどきで書いた。あれ、本当に全部書ききってるんだよな。結論を言えば、ならなかった、少なくとも自分にとっては。これだって、たとえば今朝のゼミ準備みたいに、寝覚めの冴えた頭で一瞬のうちに出した答えだってわけじゃない。二年ちょっと。地獄かよ。疑い続けたんだよな、その、自分の手の中に在る感覚を。最初、それはとても純粋なもののように自分の眼にはみえていた。でも、割とすぐに嘘と、錯覚だと思った。当時の自分はそのことを受け入れた。そのうえで、だからまだ疑ってみた。錯覚であるとして、だとしてもそこに純粋さは本当になかったのかな。考えたし、探した。それでみつけた、たしか一一月。何となしに飛び出した散歩からの帰り道、夕暮れの空を眺めながら、そのときに。欠落。欠け落ちたもの。それがもう自分の手の届く場所になくたって、それでも大切に思う自分がちゃんといるような気がして。その瞬間は、なんだか嘘みたいだなと思った。それすら疑う。話が逸れるけれど、いまの自分に備わっているとにかく全部を疑う癖、たぶんこの頃の後遺症なんだよな。戻す。そんな自分、本当にいるか? と思った。あまりにも都合が良すぎだろうと思って。そういうことにしておきたい自分が作り出した勝手な虚像なんじゃないのかな、みたいな。色々と考えて、でも、こちらの判断には何年もかからなかった、一年弱かな。その結果として生成されたのが、例の小説もどきと、さっき引用した歌詞の曲。『そうやって恋を知った あの夏の色を』。どっちにせよハッピーエンド、自分の中では。ちゃんといるんだなと確信できた、そういう自分のことを。まあ、本当はいなかったんだとしても、もういることにしてしまったから、それはいるんだと思う。信じているとかじゃない。知っている。そういうことになった。

 

 その頃から自覚していたこととして、手放したんだよな、自分は。二つあった矢印の、うち一方。当時のブログを読めばそういうことを仄めかす文章が大量にあると思う。いや、大量にはないかもしれないし、ここまで有体には書いていないから、書かれていたとして自分以外の人には分からないかもしれないけれど。『君』の実在性。昨年の一一月末、そういう話をされたときにも頭の片隅で考えていた。実際どうなのか知らないし、それはその話を持ち込んだ当人からはそうみえていたというだけの話ではあるのだろうけれど、だけどそのことにもしも理由めいた何かがあるんだとしたら、それはだから手放したことなんだろうなと思う。「自分が幸せになりたい」。ほとんどないんだよな、本当に、そういう感覚。嘘じゃなくて。このことは彼にもちゃんと伝えた。「いまからめちゃくちゃに酷いことを言うし、かなり傷つけるかもしれない」みたいなことを断って、それにしたって傷つけただろうな。想像に及ばないくらい。泣いていた気がする、声が。でも、嘘はつけないし、つきたくないし。これはだから、数年前から気がついていたこと。自分の中に残っているものは「相手に幸せになってほしい」の矢印ひとつだけで、もう片方がどこかしらへ消失してしまっている。完全にとは言わずとも、気に留まらないくらいには見当たらない。これは、誰を相手にしたって割とそう。モーニングコールの件にしたって、いくらなんでも付き合いがよすぎだろうと思う、自分でも、他人事のように。良い人ぶってんじゃねえよ、と脳内ツッコミ。いや、でも実際そうじゃない? 相手のスケジュールに合わせて睡眠時間ずらしたり削ったりって、狂ってると思う、普通に。誰がするんだ、そんなこと。自分は相手のことをかなり好意的にみているけれど、だけど言ってしまえばそれだけで、お金を貰ってとかならまだしも、特に何かの見返りが約束されていたわけでもなく(実際には、彼は(より正確には彼ともう一人は)曲を作ってくれた。良い奴)。その話をしたときに「相手からの好感度を稼ぎたかったのか」、あるいは「相手のことを助けたいと思ったのか」の判断がつかない、ということを書いた、たしか。要は、相手のためなのか自分のためなのか。判断がつかないのは事実そう。自分を正しいだけの人間だと勘違いしたくないのもそう。良い人ぶりたくないのもそう。でも、自分の感覚と近いほうに強いて旗を上げるとするなら、それは後者なんだよな。いや、これは自分が出来の良い人間だからというわけじゃなくて、本当にそういうのとは違っていて、単に「自分が幸せになりたい」という感覚がどうにも希薄だから。見返りとか、割と本当に要らない。あれば勿論嬉しいけれど、別になくてもいいと思っている。こういうことを書くと、良い人ぶってんなー、と思う。そう思われてるだろうなー、とも思う。というか、他人がこういうことを平然と言っていたら、大なり小なり「は?」と思うと思う、自分なら。いやまあ、だったら良い人ぶっているということにしてもいい、逆に、いっそのこと。良い人ぶってんなーとツッコんでくる自分自身を、あるいは同じように騒ぎ立てる自分の中の無数の他人を、心の底からどうでもいいと思えるくらいには自分の中に確固として在る理解なんだよな、これが。「自分が幸せになりたい」という気持ちがないわけじゃない。気持ち自体はある、割と普通に。たぶん、他の人たちと同じくらい。ただ、矢印としては希薄だと思うというだけ。そうやって、だから他人のことと天秤にかけてみたときにほとんど無重力というだけで。天秤にかけない限りは普通にある。自覚している、その辺りはちゃんと。

 

「どこにもない」。本気でそう思っている。読んでいる最中、ずっと視界に映っていた明確な違和感。出来の悪い間違い探し。その、いわゆる双方向性のようなものが必要なのだろうな、と思った。相手の幸せを願う気持ちと、自分の幸せを願う気持ち、その両方。自分の場合、他人に向かう矢印としては後者がかなり希薄で、彼相手となれば尚更無い。そんな気がする。手放してしまったから。「昔の自分がよく知っている」。手放す前の、疑い続けていた頃の自分。あんなにも寂しかったのにな。忘れてなんかいないし、いまだってはっきりと思い出せるけれど、だけどほとんど他人だなと思ってしまう、どうしても。愛という名前を付けてしまってもいいのかもしれないけれど迷っている、そういう感覚がある。みたいな話を、たしか以前に書いたっけ? それは、だからこれ。片いっぽうが消えて、そのあとに残った矢印のこと。名前を付けてしまってもいいと思っていて、だけど何となく嫌で。あの本を読んで、余計に強まった。こんなものを愛だとか、あんまり呼びたくない。自分にとってはもうこれしかないのだけれど、だとしたって。だから「どこにもない」。どこにもないと思う、本当に。