filter


 自分のことを理解してほしいという感情は多かれ少なかれ誰だって持っている、あるいは持っていたはずの感情で、という書き出しから今回は始めようと思うのですけれど。いわゆるプライバシー的なものって何層かのフィルターがあるよなと自分は考えていて、一番奥のほう、絶対に誰にも知られたくない領域を核として、なんていうか電子殻やマトリョーシカみたいな感じでこう、第一層、第二層、第三層、と徐々に核を覆っていく感じの構造、そんな風のイメージを自分は持っていて。これはたしか Twitter で言ったような記憶があるんですが、だから結局、その辺りの心理をシステマチックに捉えている節があるんですよね、自分は。たとえば、誰かと会話をしている場面を想定したとして、これまでに持ち出されたことのなかった話題、家族構成だとか休日の過ごし方だとか好きな季節だとか、どういった話題がより深層にあるものなのかは個々人に依って当然異なるでしょうけれど、ともかくこれまでには扱われなかったそれが眼前へ提示されたとき、自分は「あ、なんかいまロックが解除されたっぽいな」みたいなことを片隅で考えてしまうというか。冒頭の例を引き継ぐなら、その、フィルターが外れるような感じ? 当人の核を成す部分に一歩近づいたような感覚というか、まあ、そうですね、そんな感じの何かを覚えることがあったりなかったりします。フィルターの解除方法やそもそもの絶対数なんかも個々人に依ると思っていて、大抵の場合はその相手と交流した時間が何とかしてくれるはずと思いつつ、特定のイベントを介さないと踏み込めない領域も絶対にあるはずと思っていて。別に、他人の深い部分を覗いてみたいだなんて、そんなことを常に考えているというわけではありませんし、なんていうか、知りたくないのかと言われれば知りたいけれど、知りたいかと言われれば知りたくない、みたいな感じ。だからまあ、自分に観測できる限りでの推論として「こんな感じだよな」と思っていると、それだけの話です。……『自分のことを理解してほしい』という感情について。これが自身の核を取り巻くレイヤーのどの辺りに分布しているのかという問題もあるような気がしていて、ともすれば、ものすごく表層的な領域に在るという場合もあるよなと思います。ここで言う『表層的』というのは上っ面という意味ではなく、言葉通り、本当に目で見て分かるような領域という意味ですけれど。たとえば、部活とか何だとかを頑張っている人がいたとして、クラスメイトだったり両親だったり、あるいは憧れの先輩なんかだったり、そういった他人に対して自身の努力を肯定してもらいたいと思うのは、これは恐らく表層的なものの部類に位置しているはずと自分は思っていて。というのもまあ、その誰かが実際に練習に励んでいるところを他人が視認すればよいという話で、それで実際に事がうまく進むかはまた別の話ですけれど、ただまあ、実現率は比較的高いほうなんじゃないかなと思ってもいます。あるいは、こう、外へ繰り出す際、装飾品の類にこだわる人がいたとして、道行く人々というのは少し無茶かもしれませんが、これから会う予定の誰かくらいは気づいてくれたらいいなあと思うこともまた、かなり表層的な部類のものだと思います。……マジで何度でも言いますが、『表層的』という言葉に『目で見て分かる領域』以上の意味はありません。表層に在るのか、あるいは深層に在るのか、その両者に優劣とか特になくて、こういった他者の目から分かりやすい欲求がイコールで些細なものと捉えるのはあまりに短絡的すぎるっていうか、ある種の暴力に近いという気もしていて、だからまあ、はい、そういうことです。誤解されたくはないので二回目の注釈をつけておきました。いやそう、だから、欲求そのものに付随する優劣はないと思うんですが、ただ、何をどうしたって解決に至る率は表層的なそれである場合のほうが高くなっちゃうよなとも思っていて、深層的な領域に在る場合はそもそも目で見えないというのもありますし、何より、その初めに持ち出したフィルターの例ですけれど、だから結局、そこへ到達するという前提、それ自体に結構な困難性が備わっているような気がするというか。経験だけで物を語っていいのなら、気がする、ではなく実際にその通りだと自分は思っていて。さらに言えば、人間関係の非対称性なんかも関係してくる部分だったりするように思うので、余計に話がややこしくなってくるというか。あれです、『こっちは友達だと思ってるけど、向こうがどう思っているのかは分かんない』みたいな、ああいうのです。だからまず考えられるものとして、相手の抱えている深層的な欲求を認識してはいるが、相手のフィルターが自分に対してどの辺りまでオープンになっているかが分からないから対処できない、という場合がありますよね。相手が自分に対してどこまでのことを許してくれるのかって、それはいわゆる信頼関係とかいうやつを別の視点から解釈しているだけのような気がして、だから要は信頼関係そのものだと思うんですが。だからこの場合は、深層的な欲求を抱えている相手に対する理解が十分には及んでいないという、そういうケースになったりもするのかなと思ったり。あるいは逆に、深層的な欲求を抱えている側の人間からのアプローチがあって、ただもう一人の側としてはそんなつもりはないから困惑するだけで対処ができない、という場合もあるはずで。これは恐らく、相手側のフィルターは相手が勝手に解除しているものの、もう一人の側にある相手に対してのフィルターが全然解除されていないから、一方通行的になってしまい上手くいかないというパターンのような気がしていて。でも、これも結局はだから信頼関係が足りていないという話にもなってしまい。……というのがつまりは非対称性という、そういうことなんですけど。いやだから、どちらか一方が望んだからといって、それだけで深層的な欲求まで到達できるのかといえば、そんなことは全然ないよなと自分は思っていて。加えて言えば、両者が同じくらいに望んでいたとしても叶わない可能性は十二分にあると思っていて。だって、目にみえないから、その矢印が。話し合うしかないじゃないですか、そうなると。でも、その欲求が個人の深くにあればあるほど、向き合う側の人間は慎重にならざるを得ないし、そうなると当然多くの時間を要することになるよなって話で。表層的なそれに比べると、だから圧倒的に解決が難しい類の欲求だなと自分は思っているという、そういう話で。……どうすればいいんでしょうね、こういうの。それはまあ、全部が全部うまくいくんなら絶対にそっちのほうがいいよなとは思うんですけど、でも難しすぎるよなあって。無視しているわけではなくて、言い訳みたいですし、まあ実際にそうですけれど、無視しているわけではないんですよ、本当に。ただ慎重になっているというだけで。たとえばの話、他人の口にした「死にたい」と自分の知っている「死にたい」を比較してみたとして、その二つは色も形も全くの別物のはずなんですよ。でも、自分でない他人の抱えているそれがどういったものなのかを直接的に理解する方法は現時点では存在していなくて、だから本当に向き合うのだとすれば、自分の知っているそれを参考にしつつ徐々に細部を掘り下げていくという過程が不可欠というか。というか、そうしないとよくいる一般論で片づけてしまう人になっちゃうと思うんですよね。「そんなの、みんな思ってることだよ」とか「ああ、よくあるよね、そういう話」みたいな。自分は、正しくは昔の自分ですけれど、そういった雑な括り方をされるのがかなり嫌、というか余計に傷つくタイプの人間だったので、だから他人に同じようなことをしたいとは思えず。結局、相手の抱えている問題が具体的には何なのかを自分なりに理解するというステップが少なくとも自分には必要で、それがつまりはフィルターを解除していく過程とだいたい同義という気がしてるんですよね。信頼関係の構築? 問題を理解することって、つまりはその個人の根底に通う思考だったり性質だったり、そういったすべてを理解しようとすることが必須なはずで。でないと、問題の本質を正しく解釈できないから。そこを一足飛びで進めてしまうことは、解決が目的なのであれば絶対に避けるべきだと、どうしても自分はそういう風に思えてしまって。自分以外の人間なんて全員が全員他人なので、本当の意味で理解しきるなんてことはできるはずもなく、だからそれを知ったうえで頷かなきゃいけないことだって沢山あるんだろうとは思うのですけれど、でも、だからその肯定を裏付けるために信頼関係が、つまりはお互いの知っている共通の時間が必要になるのではという気がしていて。……難しいよなあって。本当に困っているときに助けになろうとしてくれない人なんて、まあいることにはいるでしょうけれどそれほどまでに世界を疑う必要は多分なくて、ただ、どうしても助けになれないという人がたくさんいるんだよなって、そういう。そういう、なんだろ。当人にとってクリティカルな問題を、全くの的外れであっても解釈してみようとする人であればあるほど、恐らく、相手の領域へ安易に踏み込む行為を避けようとするんじゃないのかなという気がしていて。怖いから。人間なので。あんまり上手くない喩えですけれど、何の説明もない精密機械を勝手に弄ることと同じといえば同じなのかも。ありえないくらい分厚い説明書が用意されていたとて何らかの手違いで壊してしまうかもしれないのに、それさえなしに手を付けるって、それはもうただの自殺行為じゃないですか。仮に相手が機械なのであれば山積みの大金によって替えがきくのかもしれませんが、そういうわけでもなく。だから慎重にもなるし、怖いとも感じるということで、上の例を引き継ぐなら、だから両者の間にある信頼関係が説明書に該当するわけですよね。そんなの、分厚いどころの話じゃなさそうですけど。その個人が何をどんな前提に立ってどのような立場からどういう風に考えるのか。それを指針にしないとどこへも行けないっていうか、それ以外を指針にすると確実に失敗すると言ったほうがより正確で。……難しい。それだって、望んだからって全員が手に入れられるようなものでもないんでしょうし。自分の場合、そういった深層的な欲求を自分ひとりで消化してしまうという強硬手段を取ったという事情もあり(それがそもそもこのブログの正体ですが)、これだと自分以外の他人を頼る必要はないんですが、それもまた向き不向きがあるだろうから一概には言えないし。ケースバイケース。使うときにはいつも便利な言葉だなと思いつつ、でも何の答えにもなってないんだよなとも思いつつ。いま時計を確認して、あと一五分で例会かあ、と思うなどし、まあ、そうですね。昨日、というか今朝ですが、眠る前にざっと考えていたことを雑多に書き残していたら落としどころがみえなくなってきたので、この辺りでひとまず止めておきます。そう決めた瞬間にめちゃくちゃな空腹感が襲い掛かってきて、どうしよ~になっています、いま。