20210924


 小学生だとか中学生の頃は、いっそなかったことにしまいたいというものがたくさんあったような気がしていて。なんていうか、具体的に何がどうだとかって言及するつもりは全くないものの、そういうのがまあまああって。でも、タイムマシンのような都合のいい道具は、少なくとも現代社会には存在しないわけで、だからなかったことにはできなくて、じゃあどうしようかといえば忘れようとするしかないわけで。だからって簡単に忘れられるようなものでもなくて。忘れたくないことはすぐに忘れてしまうのに、忘れてしまいたいことだけ覚えたまま。世界、というと言葉が大きすぎるかもしれませんけれど、でも、昔の自分は間違いなく世界そのものを嫌っていて。……というよりは、何を怨めばいいのか分からなかったからこそ、世界とかいう茫洋とした相手を選んだのかもしれませんけれど、ともかく周囲や環境を嫌っていて。忘れたいことなんて、だからそこら中にたくさん転がっていたというか。校庭とか、リビングとか、そういった日常にたくさん、小石かなにかみたいに。もうずっとそんな感じで。いまにして思えば、この世界そのものに対する自分のそういった僻んだ考え方が変わるきっかけになったのは、高校生の頃にインターネットを通じて知り合った人たちだったりして。少しずつでしたけれど、まあ本当に『いまにして思えば』あの頃から風向き自体は変わっていたんだなという気持ちはあって。それは単に、自分でない誰かの世界に触れてみたという、言ってしまえばただそれだけの行為だったのでしょうけれど、でも、だからこそ「この世界って実はそんなに悪いものでもないんじゃ?」と思えたというのはあって。大学に入ってからも色んな人と出会って、色んなことを話して。明確な転換点は幾つかあったし、それについてはブログで書いたことも何度かあったような。でも、それ以上に些細な転換点が無数にあって、間違えたり勘違ったり。そういうのを繰り返すたびに世界を上書きしていく感覚っていうか。真偽はともかく自分は相対的に物事を捉えがちかも、という話はどこかで書いたような気がしますけれど、それってだからこういったことの副作用だったりもするのかなと思っていて。悪い気はしませんけれど、全然。いまの自分はいまの世界を気に入っているし、そのことを教えてくれた人たちにも、直で伝えたりはしませんけれど本当に感謝していて。いつかの自分が嫌っていた世界だって、人たちだって、自分のみているものが狭すぎただけで、上手く付き合う方法があったんじゃないかなと思ったりもするし。忘れたいだなんて思えないし、もう。散歩していて思うこととして、忘れたくないものばっかりが転がっている、道端に、いつかの小石みたいに。これは以前にも書いた気がする。鴨川、路地裏、公園。どこを歩いてみてもいつかどこかの誰かの記憶が結びついているみたいな。忘れたくないと思うものに出会うことのほうが圧倒的に多いというか、忘れたいと願う夜そのものがなくなった、そんな錯覚さえ起こしてしまいそうなくらい。自分はもうずっとの間、この大学生活をボーナスステージだって風に考えていて、それはあり得ないくらいに幸せだから。言葉にすると馬鹿らしいですけれど、でも、そうやって忘れたくないものに出会うたびに強く思うことではあって。というか、それがたとえ一方的なものだとしても、こんなにも多くを色んな人から貰っていて、なのに幸せじゃないなんて絶対に言えないし、言っちゃいけないことだとも思っていて。……忘れたくないものは本当にたくさんあって。それ自体は忘れてしまってもいいのだけれど、それが其処に在ったという事実だけは絶対に忘れたくない。そういう気持ちがかなりあって、っていうのもちょっと前にブログに書きましたっけ。自分がこうやって取り留めもない文章を書き残しているのだってその一環といえば一環ですけれど、でも、ここに載ってあるものは大概自分ひとりが覚えてさえいればいいものというか、当たり前ですけれど、そういう場所なので、ここは。ただやっぱり、貰ったものはちゃんと返したいと思うこともあるわけで、これも当たり前ですけれど。そんなの、押し付けられるものじゃ到底ありませんし、そんなつもりで動いているわけでは勿論ないのですけれど、でも、自分が忘れたくない何かを、他の誰かもまた忘れないでいてくれるなら、それってとても幸せなことだと思うんです、自分は。っていう話も書いた、この前。マジで全部書いてあるな、このブログ。それはさておき。だから、それこそラブレターとかが近いのかもしれませんけど……、どうだろ。別に返事がほしいわけじゃないからちょっと違うか。意思表明の一種というか、だって感謝という行為は見返りを求めるものではなくて、むしろそれ自体が見返りじゃないですか、相手に対しての。だからそれは「自分はそう思っている」という意思表明でしかなくて、押し付けるものでは到底ない。叫んですらいない。思っているだけ。全部を言葉で伝えてしまえば楽なんだろうけど、でもやっぱり、貰ったものは貰ったもので返したいって気持ちが若干あって。いや、場合に依りますけれど、でも今回はそうで。『startrail』や『未完成の春』なんかもそうだったけど。だから、それが出来上がるまでは何を言うつもりもなかったし、というか今だって具体的なことは何一つも言っていないし。……三年前くらいにこういうことを書いた記憶があるんですけど、自分が何かを作るのって基本的に外のものから何かを受け取ったときで。外のものというのは会話だったり作品だったり事件だったり、色々とありますけれど。たとえば既存の作品をみて「これはとても良いものだ!」と思ったとして、それで何かを作りたくなって。そういうのってめちゃくちゃ綺麗なサイクルだと思うんですよ。綺麗というのは整っているという意味ではなく、純粋という意味で。その純粋を繋いでいくことに自分はとても価値を見出しているし、繋いでいけたらいいなとずっと思っていて。それは、そうしたいという理由だけで叶うものではないし、とても難しいことですけれど。でも、そうなれたらいいな~とは思うし、そう思いながら何かを作ったり作らなかったりしていて。実際にそうなるかなんて、それはやってみなきゃ分かんないですけど。でもまあ、はい、そういうものです、ざっくりと。……本当のことを言えば、もうだいたい忘れちゃってて。その瞬間の温度感とか、感動とか、そういうの。人間の頭ってそんなに良くは出来ていないから。でもだけど、誤解を恐れずに言えば、だからそれ自体はどうだってよくて、本当は。忘れたくないのはそれが其処に在ったという、だからたったそれだけのこと。そういった全部を「まだ覚えている」と確かめるための、たったそれだけのものを作りたくて。まあ、そんな感じのテンションで作っていました、諸々を。……これ、何にも伝わんないだろうなと思いつつもここまで書いてみたんですが、いや、でもまあこのブログってだいたいそういうものっていうか。未来の自分にだけ伝わればいいやってやつ、過去にも結構数あったりしますしね。今更感が凄い、本当に。