帰り道


 なんていうか、まあ、どういった視点から歌詞を書くかって人それぞれだと思うんですけど。これは別に単なる予防線として記しているわけではなく、実際にそうっていうか。作詞をする同サークルの人々と話をしてみたり、あるいは単純に各々から出来上がった歌詞を眺めてみるというだけでも、自分のそれとはまた違ったアプローチで文章を書いているのだなと感じることは比較的多く、良し悪しなんかは特になく、その人なりの方法があるよねっていう、そういう話です。自分はまあ、これも以前どこかで書いたと思うんですけど、自分の中にないものはどうやったって書けないなと思っていて。『明確な個人との関係をベースに作って』いた時期もあり、具体的には『アイ』辺りまで。『ステラグロウ』以降は、それもちょっとずつ変わってきたかなという感じで、具体的にどう変わり始めているのかということはさておき、でもやっぱり自分の知っている感情についてしか書けなさそうなことは変わんなくて。もう少しだけ振り返っておくと、先述の通り、自分は自分のことしか歌詞に書かない(書けない)んですけど、歌詞として生成された後のそれは自分だけの言葉であってほしくないなと思うことがままあって。ままあるだけで、そのことを意識して書いたりはしない(できない)んですけど。自分が普段感じているのと同じようなことを一度でも考えたことがある人だったり、別にそうでない人にだって、その人自身の言葉として記憶に残せたらいいなあ、みたいな。それはまあ、このブログを今でも続けている理由とも重なるところがあって。ステラグロウなんかは分かりやすいかなと思うんですけど、たとえば『いつか色褪せてゆく 茜空に散りばめた約束は またねって笑ったっきり 叶わないだなんて わかっていたけれど それでも全部嘘じゃない』とか。

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「そんなの、叶いっこないよな」と思いつつも結んでしまった口約束って、振り返ってみると思いのほかたくさんあるような気がしていて、それは何も自分に限った特別なことではなく、恐らくは誰だって経験したことがあるはずのもので。そういうの、ともすれば社交辞令だとか場当たり的な嘘だとか、ネガティブな感じに捉えられてしまうこともあるように思うんですが、でも、そういった決して叶わない約束があるからこそ、いまも生き続けていられるんだよなと感じる瞬間が自分には結構あって。だから、そういった何かを自分に分け与えてくれた人たちのことは忘れたくないなーとか。そんな気持ちは常日頃からそれなりにあって、だから曲想が被ったのをいいことに歌詞にして『嘘じゃない』って、そういう。……みたいなことは、だから結局、自分にとっては自然とそう思えるというだけの話で、他の誰かがどう思っているかなんて知ったことではありませんけれど、でも、そのフレーズを見たり聞いたりした誰かも同じ風に思ってくれたのだとしたら、それはそれで嬉しいことというか。『その人自身の言葉として記憶に残せたらいい』はそういう意味です。自分が言っていた言葉として記憶されるのではなくて、その人自身も自然とそう思うようになってくれたらそれは素敵なことだなーって、そういう。思想の類って、強要はできないじゃないですか。というか、したくないし、そんなこと。自分がされたら嫌なので。でも、だからって自分の手にあるそれに執着しているというわけでもなくて。綺麗だなと感じた他の誰かの考え方だったり価値観だったり、そういうものは覚えていたいし、そうあれるようになれたらいいなと思っている節が自分にはあって。だからまあ、自分がその側に回れることは嬉しく思うって、結局はそういうことなんでしょうけど。

 関係ない話を書きすぎた。作詞。ともかく自分はまあそんな感じで、自分の中にあるものをベースに書くことばかりをやってるんですが、だからたとえばの話、歌詞を書くときによく使う言葉って、つまりはそれだけ自分の感覚に普段から馴染んでいる言葉ということなのだろうなと思ったりもして。『青』とか『空』とか『声』とか『雨』とか『星』とか、そういうの。加えて、近ごろ歌詞を書くときにやたらと使いたくなってしまう言葉が『帰り道』なんですよね、……というのが本題です。帰り道。『ステラグロウ』で使ったのが最初だと思うんですけど、なんていうか、なんだろ。当時の自分、何を考えてたんだろうな。使い始めてから思うこととしては、あくまで自分の中での話ですけれど、帰り道という概念はそれなりの寂しさと結びついているような気がしていて。高校時代、クラスメイト達と学校の近くにあったゲームセンターへ足繫く通っていたのですけれど、自分と同じ方向へ帰る人が誰もいなかったせいで、わいわい騒いだ後の帰り道はいつも一人だったんですよね。当時、そのことを寂しいと感じていたかといえばそんなことは全くなくて、別にプラスともマイナスとも思っていなかったなという感じなのですが、いまの自分なら少しくらいは寂しくなるかもしれないなという感じでもあって。というか、いまの自分が何をどういう風に考えているのか、みたいなことをちゃんと考えるようになったのが大学に入ってからで、だから敏感になっただけという話なのかもしれませんけれど。寂しさと言っても、それは忌避するようなものでも取り除いてしまいたいものでもなくて、むしろ大切にしたいものだと自分は思っていて。時計もみないで色んなことを話したり、あるいは話さなかったり、流石に暗くなってきたからそろそろ時間だねって立ち上がって、特に何を話すわけでもなく、わざとゆっくり歩いたり、青信号に立ち止まったり、それでも前に進んじゃって自分はこっちだからって別れた後の帰り道、みたいなの。その寂しさがあるからこそそれまでの時間に意味が宿るというような気がするし、次の機会に焦がれもするんだよなという気もしていて。だから、なんだろ。辞書的な意味ではないんだろうなという気はするんですよ、自分の感じている寂しさって。なので、説明がちょっと難しいんですけど、なんていうか、余韻? あるいは証明? 誰かと自分とがどこかで何かをしたという過去そのものをどういった経路から感じ取るかという話のような気がしていて、自分にとってはその一つが帰り道だっていう、そういうことなんだろうなって。人によってはそれが虫刺されだったり日焼けの跡だったり、あるいはもっと別の何かだったりするのでしょうし、自分はまあ、だから他の誰かの中にあるそういった部分も知れるなら知ってみたいなという思いが多少あって、なのでいまこういう文章を書いているという話です。……本当に、過ぎ去った一瞬がいつかの自分にとって楽しかったほどに、後から思い出すものはといえば帰り道のことばっかりなんですよね、いつの頃からか。誰かと一緒に歩いた道も、ひとりきりで歩いた道も、同じくらい。なんていうか、あの、寂しいけど寂しくない、みたいな感覚を残りの人生であと何回くらい体験できるんだろうなーって。四月末、新歓ライブの帰り道ですけど、辺りがすっかり寝静まった夜、あのあり得ないくらいに入り組んだ細道を一人でぼけーっと歩きながら、薄らと星がみえるなーと思いつつ、そんな感じのことを頭の片隅で考えたり考えなかったりしていました。