延長戦


「愛と依存の境界線はいったいどこにあるんだろう」って、そんなことを以前はよく考えていました。これもまあ、いまとなっては自分なりのアンサーを持っているものの、当時の、だいたい三、四年くらい前の自分にとっては相当に大きな問題だったというか。納得できる答えを見つけないことには生きていけないほど、と言うとそれはただの嘘で、そんなこともなかったのですけれど。なんだろ。たとえば中学生の頃とかって帰り道に「今日の晩御飯、なんだろうな~」みたいなことをふと考えたりするじゃないですか。別に、それそのものに大した興味があるわけではなくたって、こう、本当にふとした瞬間に。なんかそれと同じような感じというか、日常の合間合間で事あるごとに顔を出してくるというか、気づいたら頭の中心に留まっている疑問、みたいな。だいたい三年くらいの間ずっとそんな感じで、いつだっけな、ちゃんと覚えてないんですけどいつの間にか、これもまた気づいたらそうなっていたという感じで答えのような何かを、納得のいく結論を見つけてしまっていて。本当に、いつの間にか。とはいえ、じゃあ何もせずに三年間をのうのうと過ごしてきたのかといえばそうではなく、というかそもそもこのブログがそのために作られたという話はしましたっけ。したような気がします、ちょっと前に。就職活動特有の用語に自己分析というものがありますけれど、言ってしまえばこのブログはそれを行うためだけの場所というか、別に自分自身を詳細に理解したいというモチベーションは全くなかったのですけれど(というか、そんな動機で何かが継続すると思えない、少なくとも自分の場合は)、でも、だからその『愛と依存の境界線は?』という問題を掘り下げていくために、こうやって文字を書き殴るためだけのスペースが必要だったというのが、割と大きな理由としてあることは確かです。いや、もちろんそれだけではありませんでしたけど、自分が答えを探そうとしていた問題は。でもまあ根っこのところでは結局どれも同じだったというか。『大人になるって何?』とか、『何のために生きてるの?』とか。こうして文字に起こすともう完全に思春期特有のそれっていうか、思わず笑っちゃいそうにもなりますけれど、しかし、少なくとも学部時代の自分はその辺りのことをそこそこ真面目に考えていて。高校生時代の延長戦とはいえ。なんだろ。こういうの、みんな割と気にしない感じなのかなって思うんですけど、実際どうなんでしょう? いや、気にせずに済むのなら絶対にそっちのほうが良いと思うんですけど。たとえばの話、それが恋であるか愛であるかなどの分別はさておき、自分でない他人のことを好きになったとして、そうして手に入れた『好き』が本当の意味での『好き』なのかなって。それを疑う必要なんて本当はないのですけれど、でも仮に疑ってしまったとして、だとしたらそれはめちゃくちゃに怖いことだなって思いませんか? 比較なんてできやしないから形も色も温度も分からなくて、だから「これが本物なんだ」って、そういう風に定義していたはずなのに、その前提を一瞬で覆してしまうような何かが突然やってきて、そうしたらいったいどうなってしまうんだろうって。いや、本当は考えなくたっていいんですけどね、こんなこと。なんていうか、いや、マジで考えなくてよくて。無駄とは言いませんけれど、遠回りであることには違いないし。実際、そういうことを特に気にも留めず、覆った『好き』の定義をすぐさま更新してしまえる人もたくさんいると思うのですけれど、自分はそうでなかったというか、たとえ話ですけれど。でも、なんていうか、そういった『前提を疑ってしまう瞬間』って必ずどこかではやってくるじゃないですか。これは別に恋愛の例を継がずとも、たとえば成人式を迎えれば自分たちは『大人』という肩書を得るわけだし、たとえばめちゃくちゃ体調を崩すだとか貧血で倒れるだとか、『死』を意識する瞬間って別にそう少なくもないはずだし、という感じで。ここまで書いてしまえば、だからかつての自分がどういったことを特に問題視していたのかということがおよそ浮き彫りになってきたような気もするのですけれど、それは結局、『「一方的な終わり」に対する向き合いかた』ということになるのだろうなと思います、多分。このブログがそうなら、この何年間かで作った曲も歌詞も、当然のように全部が全部そうなんですけど。出会いだとか別れだとか。囚われているといっても過言ではないですけれど、なんていうか、それがもう自分にとっての至上命題みたいな感じになっちゃってるんだろうなって、ともすれば他人事のように思ったりもします。逆に言えば、そんなことになってしまうくらいには、いつかどこかで通り過ぎた『前提を疑ってしまう瞬間』が、今ここまで続いている自分自身にとっての絶対的なターニングポイントだったって、そういう話なんでしょうけどね。