手紙

 

 というより初めからブログに書けばよかったのかなと思いつつ、いやでも、昨夜眠る前のテンションで書いていたらそれこそ何を書いていたか分かんないので、何もせずに眠った自分は正しかったなとも思いつつ。だったら Twitter にも余計なことを書いたりせずに、そのまま大人しく寝てろよって話ですけど……。いやまあ、なんていうか、自分は別にめちゃくちゃにできた人間というわけでなければ、ありえないくらい達観している大人というわけでもないので、ムカつくときは普通にムカつくし、傷つくときも普通に傷つくし。でもだからって、それによってイコールでマイナス発言をすることが許されるわけでもなく、いや、マジで申し訳なさすぎるな。あのネガティヴツイートで気分を害した無関係の人間がいたら本当に謝罪したいです。申し訳ありませんでした。でもまあ、さっきの作業通話で数人と話しているうちにマジでどうでもよくなってきたので、以降このことについて Twitter 等で言及することはしません。……他人の呪いを背負ったままだとマジでまともに音楽が楽しめなくなるので、これくらいの文章は許してほしいという気持ちがあります。

 コミュニケーションって、ちゃんとした前提があるからこそ健全に成立するものなんだろうな、と思うことが最近多くて。というか、いや、違くて。自分からみて好意的に映る相手ってどんな人だろうなと考えてみると上のような結論に至り、そのことを噛みしめる機会が多いというのが正しいんですが。この前、知り合いと通話していたときに暇が極まって 100 の質問とかいうのをやってみて、そのどこかになんかそんな感じの質問が記載されていて、だから考えてみたんですけど。なんか、単純に正しい想像力を持っている人がそうなのだろうなという気がして。具体的な作品名は伏せますけれど、自分の好きな作品のどこかに次のようなやり取りがあって。まず A,B,C という三人の人物がいて、A と B、A と C はそれぞれ良い関係を築いているのですが、B と C は全くの他人というのが初期状態。そんな中、さまざまな事情があって A は「 C の友人になってくれないか」と B へお願いをします。B は「自分の好きにしていいなら」と承諾して C へ手紙を送り、後日、その返事が B のもとへ届くんですよね。それを知った A は B に「どんな手紙を書いたのか?」と訊いて、B はそれに「 A から君の友人になれと言われた、とそのまま書いた」と答えます。その後 A は B に「 C の返事はどんな内容だったのか?」と尋ねるんですが、それに対して B は次のように答えるんです――『知りたいなら、彼女に訊けばいい。オレが書いた手紙のことはオレに訊く。彼女が書いた手紙のことは彼女に訊く。それがまっとうなやり方だ』。この作品中に描かれた人物のやり取りで自分の記憶に強く残っているものは他にもたくさんあるのですけれど、以上のそれもそのうちの一つで。なんていうか、そういう付き合い方を前提にできる相手のことをこそ、自分は好意的に捉えるのだろうなといまでこそ思うと言いますか。正しい想像力って、身体の表面を境界にして自己(内側)と世界(外側)の両方へ等しく伸びているようなものなんじゃないかと自分は考えていて、鏡像原理みたいに。感覚として、どちらか一方だけじゃ足りなくて、片方だけが強いとかでもアンバランスというか、うまく釣り合っている状態が望ましいような気が、あくまで個人的にという話ですけれど、なんとなくしていて。上のやり取りは、だからその辺りのことがちゃんと前提になっているような気がしていて。「それをされたら自分がどう思うか」を正しく想像できても、他人についても同様に考えることができないなら意味がないし。逆も然りで、他人の感情を既知の言葉だけで説明してしまおうとすることもまた、あくまで自分の理想とするコミュニケーションの在り方としては間違っているなという感じがして。というか、アレですね。嫌いなものを定義して、その補集合として好きなものを定義するというやり方、自分はあんまり好きじゃないんですが、この場合はそちらのほうが分かりやすいかもしれなくて、要は独善的なコミュニケーションというものが苦手なんですよ、自分。相手の考えを頭ごなしに否定しないとか、相手の話をちゃんと聞くとか、自分の意見ばかりを通そうとしないとか。そういうのって、結局は「一方通行のコミュニケーションをなるだけ避ける」という一言に集約してしまえるもので。そして、それを実行するために必要になる視点のことを『正しい想像力』と呼んでいるという、そういった説明のほうがどちらかというと誠実なのかもしれません。一方通行のコミュニケーション。上の例で言うなら、だから C が B に宛てた手紙の内容を B の口から聞いてしまう行為なんかがそれに該当するなと思って。この場合は A から C への一方通行ですね。……いやまあ、そうですね。だから、あんまり好きじゃないんですよ、非正規な方法で個人情報を取得してしまうのって。非正規っていうか、まっとうでないやり方? 何にしたって本人の口から直接聞くのがベストだよなと考えているところがあって、それはちょっと前に書いた、だからフィルターの話と同じことなんですが。結局、だから本人以外から情報を手に入れてしまうのって、そのフィルターを勝手に飛び越えてしまう行為になりかねないよなと自分はどうしても思ってしまって、自分がそれをされたとき、場合によっては嫌な思いをするかもしれないので他人にもそれをしたくないって、それだけの話ではあります。別に特段隠してはいないけれど、全人類に知られていいというわけでもないことっていくらでもあるじゃないですか。僕の場合、たとえば名前とかがそうで、いやまあ全然知らない人が自分の本名を知っていたからって特に快/不快はありませんけれど、「どうして知っているんだろう?」とは思いますし、自分は自分で周囲の人間にも山上一葉という偽名で通している質なので、そこら辺とのバランスが崩れる感じがしてちょっと変な気持ちになるにはなるっていうか。……ああいや、だから自分の場合は名前という概念が結構フィルターの奥のほうに仕舞われているものなんですよ、実は。奥のほうといっても、手前側の比較的奥って感じですけれど。自分の本名を、というかこれが偽名であることすら知らない人だっていると思うんですけど、それをオープンにするのって、個人的にはそれなりに関係の継続した相手だけに限っていて、半年か一年くらい。これはあくまで個人的にそうしているというだけの話なのですけれど、だからそこを一方的に飛び越えてくる人がいたら「?」となってしまうというのは若干あり。でもまあ、難しいですよね。その、特定の相手が一体何をフィルターの奥に置いているのかを知ることって。そもそもみえないんだし、そんな壁。なので、上に引用したやりとりのようなコミュニケーションが個人的な理想になっているという、そういうことでもあります。手紙の中身を知りたければ、手紙を宛てられた人ではなく手紙を宛てた人に訊く。それだけ。まあ僕個人のことを言うなら、このブログに書いてあることは全部が全部、不特定多数へ向けた手紙みたいなものなので、ここに書いてある限りのことは知られても特に構わない部類のものなんですけど(そもそも、こんなところまで読みにくるような人相手になら、というのもあるけど)。話を戻すと、結局、その双方向性の確保を怠るのってつまりは相手に拒絶されることに臆病になっているだけなんじゃないのかなと思うことがあって。あるいは単に深く考えていないというだけかもしれませんけれど。でも、相手がどう思うかを考えて行動するって、個人的にはこういうことだよなと考えている節があって。他人のことを考えすぎた結果、身動きがとれなくなってしまうんなら別にそれはそれでいいだろうって、だから自分はそんな風にも思ってしまったりしますし、それでも自己の欲求を優先したいというなら、それはエゴであることを自覚したほうがいいとも思うし。良い悪いとかじゃなく、ただ事実がそうであるということを知っておいたほうがいいとは思っていて、というより、それを自覚せずに行動へ移すのは危険で、だってその結果として発生する責任の所在を正しく認識できないから。そんな話、この世界のいたるところに転がっているじゃないですか、実際のところ。だから、まあ、そうですね。別に他人へそれを強制したいなんて気持ちはマジで微塵ほどもないんですが、少なくとも自分はそんな感じのかかわり方を心掛けていけたらいいなと思っています、いまのところ。そんなことで、友達を失いたくはないですしね。