答えなんかあってたまるか


 自分は現在、数学科に在籍している学生の身分ですけれど、かつての自分が数学の、特に整数論のどの辺りを気に入ってこの道へやってきたのかといえば、それは一見非自明な答えが明確な論理を伴ってバチっと導き出せるという部分だったんですよね。たとえば、自分の整数論好きを決定づけた問題の一つに『 y^2 = x^3 - 2 の正整数解をすべて求めよ.』というものがあるんですけど、知っている人は知っている問題かなと思います。自分は一度これに関する記事を書いたこともありますし、まあ、それはここではない別のブログでの話ですけれど。上の方程式の見方を少し変えて『 y^2 + 1 = x^3 - 1 』という風に見てみると、左辺(左側)は『平方数に 1 を足した値』になっていて、一方で右辺(右側)は『立法数から 1 を引いた値』になっています。なので要するにこの問題は「『平方数→?→立法数』という並びになっている数字の組は何?」という風に読むこともできるわけです。たとえばですけれど『 y^2 = x^3 -2 』で『 x=3, y=5 』とするとこの組は方程式の正整数解になっていることがすぐに確かめられます。右も左も 25 になりますしね。だから、先の話を受け継ぐとすれば『 25→26→27 』がまさしく『平方数→?→立法数』という並びになっているわけですね。なのでまあ、上の方程式を解けばこういった並びになっている正整数が全部分かるというわけです。しかし、ですけれど。しかし、実をいうと『 y^2 = x^3 - 2 の正整数解は \left(x,y\right)=\left(3,5\right) しか存在しない』ということが知られています。だからつまり、『平方数→?→立法数』という並びになっている数字の組は『 25→26→27 』しかない! ということです。これ、めちゃくちゃすごくないですか? だって、正整数って無数にあるんですよ。なのに、こういった並び方をしているのはたったの一組しかないなんて。……みたいなことにかつての自分はかなり感動し、なのでいまも整数論を齧りつつ院生ライフを送っているわけですけれど。整数論のこういった側面が僕は結構気に入っているというか、『非自明な答えが出てくる』というのが。なのでまあ、自分はそういったことを好ましく感じる人間なのですけれど、それはそれとして、また別の部分では「答えなんていらないな」と思う瞬間も結構あって。いずれか一方の考え方しかもっていないというわけではないというか、体感的には後者の、つまり答えなんていらないと思っていることのほうが多いような気さえしていて、だから個人的には自分が整数論に対して持っている感覚のほうがレアなんですけど。少し別の話をしますけれど、自分は大学に入って一年弱ほど仏教を齧っていた時期があって。という話は何度か書きましたけれど。仏教に興味があったということは全くなく、新入生として構内をうろついていた時に誘われたから、というだけの理由で参加していた会合だったんですが。でも、いまにして思えば、結構楽しい話が聞けたので良い経験だったなと思っています。なんだろうな。やたらと強調されていたのが「生きる意味って何だ?」という問いで、自分はまあ不真面目なリスナーだったのでかなり話半分で聞いていたのですけれど。でもまあ、そういった話を聞く機会があれば、それと同様に考える機会もやってくるというわけで。というか、それこそ高校時代の延長でしたけれど、『生きる意味』みたいなのを考えるのって。それはさておき、その問いに対していまの自分が思う結論としては「『生きる意味』なんかなんでもよくね?」なんですけど、どうですか? 「そういえば、このブログでそういう話を書いたことが前にあったな」って、思い出しての今日こういった話なのですけれど。んー、なんていうか、そうですね。単純に『生きる意味』なんていうものに対する明確な解答があってほしくないっていうか、そんな気持ちが強くって。そういうのって、自分で見つけなきゃ意味がないものじゃないですか? そんなことありません? 他人から与えられるものじゃないっていうか、いや、これは文意を正しく伝えなくてはなりませんけれど、「『生きる意味』とはつまりこういうことなのですよ」だなんて誰かの言葉を受け入れただけで見つけられるようなものじゃないだろうっていう、そういう意味です。逆に、だからこそ「『生きる意味』なんかなんでもよくね?」とも思うんですよね。個々人が勝手に決めればいいじゃないですか、そんなの。自分は自分なりの『生きる意味』に従って生きていて、他の誰かはその誰かなりの『生きる意味』に従って生きていて、別にそれでもうよくないですか? でもこう、センセーショナルじゃないですか、こういうのって、どうしても。この手の話題を扱ったそれって書店とか行けば腐るほどあるでしょうし、Twitter ですら大量のリツイートを伴って流れてきますし。そういったあれこれを目にするたびに、みんな、本当に人類普遍の解があってほしいのかなって、そう思うことがあったりなかったりするというか。仮にそういった普遍的な解があったとして、それに従って生きていくことが本当にできるのかなって、そういった疑念も自分にはあり。なんだろ、いやまあ、今日の話はこれでもうおしまいなのですけれど。『生きる意味』は自分で見つけるしかないし、見つけられたのならそれをもう『生きる意味』と定義してしまえばいいじゃんって。話題が飛ぶように感じられるかもしれませんけれど、『愛』や『友情』みたいなのも同じだと思うんですよね。だから要は、他者と比較のしようがないこの世の全部。そういうのって自分で見つけてしまうしかないような気がするっていうか、正しくは「自分で見つけたものでないと意味がない」と自分は思ってしまうんですよね。誰かを傷つけて、誰かに傷つけられたことで初めて痛みを理解するのと同じように、「これが『愛』ですよ」、「これが『友情』ですよ」だなんて、そうやって誰かから与えられた言葉に価値が宿るとは、自分にはどうしても思えなくって。ここで言っている『価値』というのは『自分にとっての価値』という意味であって、人類普遍の価値という意味ではないのですけれど。……んー、だからまあ、自分はありとあらゆる価値の基準を人類普遍なものとして理解したくはないんでしょうね、多分。相対的なものとして理解したいっていうか。というか、絶対的なものだと思いたくないっていうか。そんなものあってたまるかって、だから自分はそう思っていたりします、色んなものに対して。