友人だとか恋人だとか


 何かしらの物事について深く考え始める起点の一つとして、自己矛盾というやつがあるなと昨夜思って。昨日『関係性』というタイトルで記事をあげましたけれど、あれ、本当に書きたかったことの半分ほどしか実は書けていなくって。ただ、なんていうか、その先のことに対する自分なりの考えがあんまりまとまっていなかったというか、だから書き切れなかったって話なんですけど。なので、今日はその続きから始めようと思います。自己矛盾。何がどう矛盾していたのかというと、自分は「何かと何かの間に生まれる関係に名前をつけたくない」とかなり強く思っていて、実際、前回の記事ではそういったことを書き殴っていましたけれど、しかし、あれを書いている途中で「『名前をつけてしまってもいい』と感じる瞬間もあるにはあるな」と思い至って。両者を比較すると前者がかなり優勢で、後者の感情が湧いてくるのはかなり稀なことといいますか、ほとんど皆無と言って差し支えないのですけれど、でもそういう気持ちがあることには変わりなくて。だからまあ、自分の中で矛盾を起こしてるな~、って。なんだろう、僕らってプログラムされた機械とかではないので、与えられた事象に対して常に同じ答えを返すなんてはずがなくて、その日の気分で食べたいものも行きたい場所も変わるし、そんなものかなと自分は思っていて。だから別に、自分の中に矛盾があるなんてこと、おかしなことでも何でもないっていうか、それが普通というか。むしろ、ありとあらゆる事象に対する自身の主張を、最初から最後まで何の矛盾もなく貫き通すことができるという人がもしいれば、自分はそちらのほうがずっと信用ならないっていうか、単純に怖いですね。自己矛盾に対して誤った正当化を適用している理論武装家じゃないのかって、ちょっと身構えちゃいます。それはさておき。何が言いたかったのかといえば、だから結局、矛盾の正体がなんであるかなんて考えなくたっていいんですよ、別に。冒頭で「自己矛盾を起点に深く考えることができる」みたいなことを書きましたけれど、そんなことはしなくていいって話で。だって、人間なんて矛盾しまくっている状態が正常なので。その食い違いで気を病む必要はないというか、誰を相手に話すかによってペルソナを切り替えたって別にいいじゃないですか。そういうものでしょう。ただまあ、という話ですけれど。ただまあ、その自己矛盾がどうして生じているのかを少し考えてみると、なんていうか、自分が曖昧のままで処理していた領域が若干見えてくるような気がするというか。あくまで気がするだけですけれど。なので、自分はそういうことを結構やってしまうタイプというか。別に、自分がどういう風に動いているのかを言葉で理解したいってわけじゃなくて、ただ、こう、普段の自分が何気なく通り過ぎてしまっているものに対して多少なりとも自覚的になることができれば、生きていくのがもっと楽しくなるんじゃないかなって感覚が、少なくとも自分の場合はあって。この数年、大学へ入ってからですけれど、まあ実際にそうなっていて。いやまあ、そういった感覚に従って動いているってわけでもないですけどね。自分は昔からどうでもいいことをずっと考え続けるのが好きだったような気がするので、だからまあ、別に「よし、考えよう」なんて思うことすらなく、『自己矛盾』のように足掛かりになりうるものを自覚してしまった時点で、散歩中なりお風呂の中なりでもはや自動的に思考を開始していますけれど。その結果として人生が楽しくなるならまあいっかみたいな、そんな感じのテンションだっていう、そういう話です。……いつまで経っても本題に入れないな。『……』って便利ですよね。三点リーダ。一瞬で話を区切ることができるので。ああ、もしかしたら「改行しろよ」と思っているかたがいるかもしれませんけれど、いや、何を隠そう自分でもそう思ってはいるのですが、少なくとも六月中に更新される記事は全部こんな感じになると思います。読みにくくて申し訳ない。一時間という枠の中でやれるだけやるというのが趣旨だという話は、この六月中に更新された記事のどこかで書きましたけれど、だから、話の流れだとか区切るタイミングだとか、そういうことを一切考えてないんですよね。思ったことを思ったままにタイピングする練習なので、これは。どこまでやれるかなって。だからまあ、そうですね。多少の読みにくさには目を瞑ってもらえたらと思います。最初と最後とで全く関係のない話になっていた、というような論理的なバグはなるべく抱えないように気を付けるので、それで許してください。はい。で、そうですね。自己矛盾。名前をつけたくないというのは本当で、昨日は確か『他人』、『知人』、『友人』、『先輩』、『後輩』、『彼氏』、『彼女』あたりを挙げたような気がしますけれど。ああ、あとは氏名という意味での『名前』もですね。でも、こう、自分がそういう感情を抱く対象はもっと他にも色々あって、たとえば『記念日』だとか『居場所』だとか。『記念日』については、なんだろ。一年のうちのその一日だけを特別視するのがなんかしっくりこないというか、ここでの記念日はその『こどもの日』とか『建国記念の日』とかじゃなくて、こう、もっとプライベートな意味でのそれですけれど。これもなんていうか、だから結局、その『記念日』として制定された一日を除いた残りの三六四日のことを思えば、という話で。たった一つを特別視するということは、残りの全部の立ち位置をどうしたって相対的に下げることに繋がってしまって、それはもう表裏一体で仕方のないことという感じですけれど。だから、なんか、そういう『仕方なさ』のようなものを恐らく自分は避けたがっていて。『仕方ない』程度の理由だけで、それ以外の全部を覆い隠してしまってもいいのかな、みたいな。全然関係ない話ですけれど、音楽理論とかでもよく言われますよね。大衆的な理論を目指すとどうしても専門的な領域へは立ち入れなくて、逆に専門的な部分を詳らかにしようとしすぎると大衆とは酷く乖離したものになる、みたいなやつ。自分はその『大衆的』を避けたがっているような傾向があって、もっというと『汎用性の高いもの』ですけれど。それこそ『友人』とか『後輩』とか、そういった、「別に『自分ともう一人』でなくても当てはまる言葉」みたいなものを使いたくないと思っていがちというか。こういう風に書くと、そんなに自分たちのことを特別だと思いたいのかよって感じですけれど、いや、そうではなくて。だから、そういった一般的な単語であればあるほど細部を覆い隠してしまうっていうか、でも自分はどちらかといえばその細部こそが人間関係、ひいては『何かと何かの間に生まれる関係』の本質なんじゃないかと考えていて。なのであまり使いたくないと、そういう話です。自分とそれ以外とを区別したいという目的は特にありません。どうでもいいですし。だからまあ、そうですね。ここまでの話をまとめると、結局、『自分はそういった言葉をあまり使いたくない』という、前回の結論から何ら進展していないそれとなってしまいますけれど、しかし。しかし、自分にも『名前をつけてしまってもいい』と感じる瞬間があるにはあって、だからつまりはそれが自己矛盾だという話ですよね。これだけの文字数を割いてまで「そういうのを避けている」と主張したくせに何なんだよ、みたいな。いや、昨夜の自分も「何なんだよ」と思って色々考えてみたんですが。まず、自分がそのように思ったのは、つまり『名前をつけてしまってもいい』と感じたのはどういった対象があったのかと考えてみて、初めに思いついたのは『友人』でした。というか、自分の中に『友人』というカテゴリが存在している理由は正しくそれだなと思って。このブログを漁れば「自分が『友人』という言葉に対して設定しているハードルはめちゃくちゃ高い」みたいな話がどこかにあるだろうと思うのですが。その『ハードルの高さ』というのが、だからつまりは『名前をつけてしまってもいい』と思えるかどうかってことなんだなと昨夜の自分は思って。現時点での自分はその意見に納得しているのですけれど。だから、なんだろうな。その、そういった言葉を使いたくない理由として『それ以外の全ての要素を隠してしまうから』ということがあるという話はこれまでに散々書きましたけれど、だからそれを『許容してしまってもいい』と思えるかどうかという話なのかなって。好ましい部分も、気に食わない部分も、好きも嫌いも信仰も憎悪も。そういったすべてをひっくるめて「この人は自分の『友人』だ」と断じてしまってもいいと思えるかどうか、みたいな。『仕方なく』ではなくて、すべてを納得した上で果たしてそれが可能かどうかという話。それってかなり難しいことだなと自分は思っていて。その、なんだろ。めちゃくちゃに仲の良い相手だとしても、一切口外しないからムカつくところをいくつか挙げろと言われたら恐らくは可能だと思うんですよ。というか、仲良くなればなるほど許せない部分も増えていくっていうか、それは自分の中でのその相手に対する解像度が上がっていくことに起因する現象ですけれど。だから、なんだろ、たとえばの話ですけれど、付き合う前まではめちゃくちゃに素敵な人だったのに、付き合い始めてからまるで夢から覚めたみたいにそうとは思えなくなった、みたいな話、あるあるじゃないですか、こんなのって。でもそれは必然的にそうなるっていうか、相手のことを知れば知るほど、自分のそれとは食い違っている部分に対して自覚的になってしまって。いや、でも、だからそれを許容できるかどうかという話でもあるっていうか。自分はそういった条件を『友人』という言葉に課しているのだなって、そんな感じのことを思いました。もちろん相手に依存する領域だけじゃなくて、たとえば嫉妬や羨望? 自分もまあ普通に普通の人間なので、相手を羨むことなんてままあって。そういった、自己に起因する要素もそうですね。なんかこう、なんだろ。まあプラスの感情はまだしも、マイナスのそれをずっと抱えてやっていくのって当然のように無理のような気がしていて。『嫌い』だとか『妬ましい』だとか、そういうの。しんどいじゃないですか、普通に。でも、それを抱えたままでやっていかなきゃいけないのが『友人』だよなーと自分は思っているというか、より正確には「そういう全部を抱えていてもいいと思える相手が『友人』」という理解ですけれど。こいつの分くらいはまあ持ってやってもいいか、みたいな。『友人』のほかにも、たとえば『恋』みたいなのも同じだと自分は思っていて。ついさっき例に出しましたけどね、付き合い始めて夢から覚める、というやつ。いやでも、なんだろうな。だから『友人』も『恋人』も、別に何も変わんないなって自分は思っているんですよ、割と本気で。なんか昔にもそういうことを書いた気がしますけれど。自分の場合、結局は「この相手に関することであれば、自分はほとんどすべてを受け入れることができる」という部分が共通のハードルになっていて。好きも嫌いも信仰も憎悪もと言いましたけれど、そういう全部。許す許さないじゃなくて、受け入れるか受け入れないか。許せなくてもいいから受け入れられるかどうか、みたいな。それは『友人』だろうが『恋人』だろうが変わんなくて、だったらその二つを区別する必要ってないよなと思って。だからこういった無意味なラベリングをあまり持ち出したくないというか、取り立てて名前を付けることもないだろうって、そう思ったり思わなかったりします。……めちゃ長々と書いてしまった。いま時計をみたんですが、一時間を若干オーバーして一五分くらい経ってますね。反省。なんか、この周辺のことについてはまだもう少し書けそうな気がしていて、なのでもしかしたらどこかでまた続編があるかもしれません。まあ、こういうことを書いてしまった時点で、本当に続きがやってくる確率はめちゃくちゃ下がるというのが人類普遍の経験則ですけれど。