余白


 どうでもいいんですけど、諺ってめちゃくちゃ無責任じゃないですか? なんて風に意気揚々と苦言を呈したところで(嘘で、これは苦言ではなくただの冗談)、そもそも責任の所在を諺に求める人なんてそうそういないだろうとは思いますけれど。いや、なんてことない話で、急いては事を仕損じるくせに善は急がなきゃいけなかったり、二度あることは三度あるくせに三度目の正直があったりと、ああ言うしこうも言う、あちらを立ててこちらも立てるみたいな。なんていうか、こう、その諺が上手く合致するような事態が目前にあったとして、そういったときにその諺を引用するのって、ともすれば断章取義甚だしいという気にもなりうるわけで、とはいえそれが本来の用途なのでしょうけれど。みたいな。こんなことをああだこうだと考えている割には、事あるごとに諺を引用するアニメキャラクターなんかが結構好きだったりするんですよね、自分は。というよりはむしろ、こういったことを考えているからこそ好きなのかもしれないなと思ったりもしますけれど、なんていうか、『あってもなくてもいい言葉が飛び交う会話』が好きなんです、多分。意味のある言葉ばかりで話すのって思いのほか疲れるというか、いや、それはそれで楽しいのですけれど。でも、意味のないことを話していたいなと考える瞬間もままあって。なんだろう、普通に生活をしていると基本的に意味のある会話しかしないじゃないですか。学校だとか会社だとか、あるいは買い出し先のスーパーだとかコンビニだとか。「レジ袋要りますか?」みたいな。いや、そんなのは当たり前の話で、自分たちは社会という枠組みの中で生きているわけで、各々の立場に基づいて関係を持とうとするわけですから。たとえば、自分は学校では学生ですし、コンビニでは客ですし、そういった前提があるから社会は成り立っているのであって、そこは別にどうだっていいんですけど。だから結局、『意味のない会話』ができる相手って割と限られるんじゃないかなと思うんです。それこそ『あってもなくてもいい言葉が飛び交う』ような『意味のない会話』ができる相手というのは。というか、ここまで来るともはや意味のないことに意味を見出しているという感すら若干あり、というと気取った奴みたいになっちゃいますけれど、まあでも事実そうで。誰かと歩きながらにする会話が僕は何よりも好きなのですけれど、それもまた同じ理由というか、もちろん場合と状況に依りますけれど、そういったときに生じるやり取りって取り留めもないものに終始しがちというか、まあ自分は半ば意図的にそうすることがままありますけれど、なんかそういう、余り余った余白みたいな時間を気に入ってるのだろうと思います、自分という人間は。