20220323

 

 自分なら誰かのことを助けられるだとか、そんな風には思っていない、別に。というかむしろ逆で、誰のことも助けられやしないなと思う。もっと広く一般に、この世界を生きる誰だって自分以外の他人を助けられたりはしないと思っていて、自身もまたその例外でないという話。身近な誰かのことを助けたいと思うことは多々あっても、それが達せられたと思えた瞬間はたぶん一度もなかったし。なんていうか、難しいな、この辺りの感覚について説明するの。助けるって言葉の定義をちゃんとしたほうがいいのだろうけれど、それよりも自分の中に在る問題意識について説明したほうが早いような気がする。なのでそうすることにすると、だから、意識的な救済に対してある種の諦めがあるんよな、自分は。意識的? 能動的かもしれない。分かりやすく言えば、その人のことを本当の意味で助けられるのってその人自身しかいないよなーって、そういう。外野がどんな強くそれを願ったって何も変わらないっていうか、変えられないっていうか。これはなんていうか、本当にそうだと思っている、少なくとも自分は。これまでの全部がそうだったし、これからもずっとそうなんだろうなって。たとえば「友達がほしい」と言っている人がいたとして、「じゃあ友達になりましょう」と提案したとする。そういった想像をすることは日常的にあって、でも、どうしたってハッピーエンドめいた結末を思いつくことが自分にはできない。考えられるのは、たとえば依存。プライバシーだとかキャパシティだとか、自分と相手とのそれをごちゃ混ぜにしてみたり。あるいは拒絶。自分の言葉や感情を受け入れてもらえなくて、それで「あいつは友達なんかじゃない」とか言ってみたり。そういうバッドエンドしか想像できないんよな、どうしても。そして、その予想が大きく外れているという風にも思えない、自分には。これってだから、また別の比喩を持ち出すとしたら、雨に打たれて困っている人へ傘を差し出す行為と同じで。すぐに止む雨ならそれで十分だと思う。でも、一個人の身に振りかかり得る問題の様々ってそうでないケースも往々にしてあるというか。夕立みたいに突然降ってくるくせに、台風ばりの勢力で数日も数ヵ月も数年も。そういうのってたくさんあるはず、誰にだって。傘を差し出す行為って、だからめちゃくちゃ悪く言うとその場しのぎでしかないように思えるというか。一時的にはそれで救われるかもしれないけれど、その誰かは。でも、暴風雨の中でずっと傘を差していたら、それがいずれ機能しなくなるって未来は誰にだって想像できるくらい現実的なもののはずで。「じゃあ友達になりましょう」という提案は、どちらかというとそういった、大雨に対する傘と同じ類のものとして映るというか、あくまで自分の目にはという話だけれど。その誰かは傘がないから困っている? 雨宿りのできる場所があればそれでいい? 一緒に雨に打たれてくれる誰かがいたら? なんか、どれも違う気がする。だけど自分たちが、あるいは自分が、自分以外の他人に対してできることって、でも結局のところそれくらいのことでしかないんだよなと思っていて。意識的な救済。諦めなんかではなく、事実として。その誰かを困らせている根本的な原因は傘がないことでも、雨宿りのできる場所がないことでも、隣に誰もいないことでもなくて、いままさに降り続けている雨そのものであるはずなのに。雨雲を綺麗に吹き飛ばす魔法とか、そんなの持ってないし、誰だって。なんかなあ、って思う。「友達がほしい」なら解決すべきはそれが実現しない理由のほうというか、コミュニケーション能力とか過去のトラウマとか、雨の正体は人と場合に依るだろうけれど。でも、だけど、だからそれって周りの人間にとっては手助けのしようがない領域というか。魔法なんてないから。それを終わらせることのできる何かがどこかにあるとするなら、それはその人自身の意思だけなんじゃないのかなと思う、自分は。意思っていうか、認識? 三年前の小説もどきでも同じようなこと書いてた気がするな、たしか。傘は要らない。隣に誰かがいたって何も変わらない。雨が止むことって、たぶん一生なくて。その雨が過去の体験に根ざしたものなら尚更、だって過去をやり直すことはできないから。……自分の話。自分は救済された側の人間だと思う。だけど、これだって色んなところで書いているような気がするけれど、このブログでも小説もどきでも、だけど雨がすっかり消えてなくなったなんて風に思ったことはない。劇的な解決なんてなかったし、エンドロールも。ただ、晴れた青空と同じように、塞ぎ込んだ曇り空だってきっと好きになれそうと思えるようになったというだけで。相も変わらず天気予報は当てにならないし、晴れの日があれば雨の日もあるし。一週間ちょっと前にだってあった、超ド級の雨が。そんなものだと思う、人生とかいうの。そのときだって思った。こんなの、自分以外の誰にだってどうにかできるようなものじゃない。だからほとんど誰にも相談しなかったけど、それはまあいいや。話を戻して、そうやって止まずに降り続けている雨をなんとかできるのは、結局のところその人自身だけという気持ちがとても強くあって自分は。誰かを助けたいと思うことはある。誰かを助けようと思って動くこともある。あるけど、その人自身が向き合わない限り何の意味もないんだよなって諦念もまた同時にあって。自分なら誰かのことを助けられるだとか、そんな風には思っていない。これはつまりそういうこと。なんか、虚しいなって思う、こういうの。困っていたら助けてくれる人はたくさんいる、本当に。この世はそんなに悪いところじゃないっていうか、それくらいの善性は疑わなくたっていいと思う。たくさんいるんだよ、本当に。ただ、不幸なすれ違いがあるだけで。雨雲を消し飛ばす魔法は誰ひとりとして持っていないけれど、雨に寄り添うくらいの優しさと勇気はきっと多くの人が持っていて。でも、雨に打たれた誰かが本当に求めているものはその、どこにもありはしない嘘みたいな魔法で、だからどうしたって救われないっていう、それだけの話。たったそれだけの。四年くらい前の自分を思い出すんだよな。この前、河沿いに座って話し込んでいたときもそうだった。自分も通ってきた道だからって、別の誰かの苦しみを同じ型に嵌め込んで理解しようとするのは最低だけれど、でも、どうしても思ってしまう。自分がそうだったから。いまと四年前とを比較して、周囲の環境が何か変わったかなと思う。もちろん新しく知りあった人がいれば遠くの地へ就職して離れた人もいて、そういった意味では絶えず変化しているけれど、でも思うに大局的には何も変わっていない。いま身近にいる誰かはきっと、四年前のいつかからずっと優しいままでいるはずで。それを勝手に選別して、あれは違うこれは違うって、他者の内面を一方的に切り捨てていたのは他でもない自分。誰も助けてくれやしないだとか嘯いて。蔑ろにしていたのは自分なのに。この世界を生きる誰だって自分以外の他人を助けられたりはしない。冒頭のこれは本当のことだと思うけれど、でもそれと同時に、この世界を生きる誰もが自分以外の他人にとっての救済になりえるんだよなとも思っている。同じくらいに強く。誰もがその可能性を持っていて、秘めていて、それくらいの希望はありふれていると思う、この世界に。だけど、だから、希望だけがあるんだよな、この街のいたるところに。いつかの自分がそうだったから思うこととして、そのことに気がつくのってめちゃくちゃ難しいんだよ。いまでこそみえている多くのものだって、大雨のなかじゃ目を凝らしたって見つけられやしない。ほとんど偶然が連れてくる以外にないような、そういう希望だけがあって、星の数ほど。なんか、虚しいなあって。困っている誰かを助けようと動ける人はたくさんいるし、他人の悩みに向き合おうとしている人だってたくさんいる。昨夜みたいな、誰も知らないようなところで。どうしたらいいんだろうね、こういうとき。誰も悪くないんだよ。ほんと、誰も悪くないのにな。