20220221

 

 なんだか微妙に気分が悪い。メンタル的なそれじゃなくて、フィジカル的に。体調が優れないというわけでもないけれど、快調って感じは全くしない。理由は割と明確で、恐らくは昨日の徹夜。そういえば、徹夜という表現は夜通しで作業をするという意味だから、何をするでもなしに夜を明かした場合に用いるのは不適切という指摘を、大学へ入ってから何回か受けたことがある。そういうことを、この言葉を引っ張り出すたびに思い出しはするのだけれど、他の言葉を探すのが面倒なので毎回知らないふりをしている。徹夜。翌日への影響が年々大きくなっていることは間違いがないと思う。なんていうか、そう、それがだから『気分が悪い』という曖昧な表現に頼らざるを得ない現状そのものなのだけれど。具体的に「ここがこう」と指で示すことはできないのに、身体のどこかが漠然と、それでもたしかに不調という感覚。活動に支障をきたすほどでもない、なんかいつもと違うなあってくらいの些細な違和感。こういうときの解決法は何となくで知っていて、というのも、もう一度ちゃんと眠れば目が覚めたときにはだいたい全部が解決している。徹夜明けの不調とは、つまりは単に睡眠が足りていないという話であって、だからベッドの上で大人しく布団に包まっているのが最適解という話でもあるのだけれど。だとすれば自分はいまどうしてブログを書こうとしているのかということにもなるけれど、これもまた簡単な話で、何を隠そう八時間睡眠の直後でまったく眠れる気配がないからだ。自分は割と寝つきの良いほうで、のび太君ほどとは言わないまでも、「寝るぞ!」という気持ちにさえなれば早くて数分、五分以内には意識が落ちる。なので入眠で困ることはほとんどなく、だから逆に、ベッドに入って一〇分あまりが経過しても意識が落ちないという場合には、「ああ、これはすぐには眠れないやつだな」と諦めて部屋の明かりを点けるようにしている。そのほとんどが今回のように、徹夜明けの長時間睡眠にプラスを稼ごうとして失敗するというパターンだけれど、ごく稀に大きめのイベントの前日にこうなったりもする。ちなみに明日は何もないので、今日は普通に前者。眠れないときに部屋の明かりを点ける理由は大きく二つあって、一つは、眠れないのにベッドの上でゴロゴロするのは時間の無駄というように思えるから。時間の無駄っていうか、だったら他にやれることは色々あるな、みたいな。自分の部屋は入口前のスイッチでしか照明のオンオフができないシステムなので、差し当たっては『部屋の明かりを点ける』という目標ひとつでベッドから脱出することができる。効率的で良い。残りの一つは、こちらのほうが主だけれど、暗い部屋の中、眠れない状況下で布団に包まって目を閉じているとロクなことにならないから。というかそもそもの話、自分がこういう状況へ陥るのは、先述の通り、徹夜明けの微妙に不調なタイミングがほとんどで。「なんとなく不調な気がする」というテンションのままベッドへ入って、身体を動かさずにじっとしたまま。眠れもしない頭の中、さて何が始まるかというと、それは思考。経験のある人も多いんじゃないかと思うけれど、考えたって仕方のないことをあれやこれやと考え始めるようになる。これが本当に良くなくて、というのもフィジカル面に留まっていた不調が精神的な領域にまで侵食し始める。一度こうなってしまうと独力で抜け出すことはそれなりに困難で、だからそうなる前に手を打ったほうがよいという話になり、そういう意味で部屋の明かりを点ける。勘違いされたくはないから断っておくけれど、「考えたって仕方のないことは考えないほうがいい」ということを言いたいわけでは全くなく。むしろ逆で、そういったものにはきちんと向き合ったほうがいいと、どちらかといえば自分はそちらの立場をとっていて。たとえば明日死ぬかもしれないとか、そうでなくとも自分だっていつかは死ぬんだしとか。将来とか過去とか希死念慮とか、そういう全部。できることなら向き合ったほうがいいと思う、真正面から。ただ、だから思うこととして、暗い部屋のなか毛布に包まって、眠れない頭と漠然とした違和感の二つに苛まれながら思考するという状態は、あるいは姿勢は、あんまり正しくない向き合い方なんじゃないのかなということで。正しくないっていうか、それで正しい答えが出せるとはあんまり思えないっていうか。これもまた人に依るだろうけれど、少なくとも自分はそうというだけの話。明かりを点けたら、とりあえず何かしらへ手をつけるようにしている。いまこうしてブログを書いているのはその一環だし、実は同時に音楽も聴いているのだけれど、他には外へ出るとか楽器を弾くとか。何でもいいから、何かをする。そうしてしばらく間を置いて、落ち着いてから考えてみる。文字を書きながらだったり、鴨川を眺めながらだったり、状況を少し変えた上で「さっきベッドの上で考えてたのって、本当に本当のことだったかな?」みたいに。自分はそういう付き合い方をしている、考えたって仕方のないことたちと。

 

 周りからどういう人間として思われてるんだろうな、と思うことがたまにある。わざわざ訊いて確かめるようなことでもないから、答えは出ないまま、その疑問だけが頭の中にぼんやりと浮かんでいる感じ。なんだっけ、正確な文言は忘れちゃったけど以前こんな感じのことを言われたことがあって、曰く『落ち込み方が想像できない』。その内容自体に思うところは何もなく、本当に何もなくて、後になって謝られて「ああ、そういえばそんなこと言われた気がする」と思い出すまでは、意識の末端にすら引っかかっていなかったような。謝られるようなことでもないなと思いつつ、とはいえそういったやりとりがあった以上はどうしても記憶に残ってしまって、だからそれ以来たまに思い出すようになった。……みたいなことは他にもあって、『一葉さんでもこんなに考えてるんだから』とか。これもまた内容に対してどうこう思っているとかでは決してなく、単にそのフレーズが頭に引っ掛かっているというだけのそれだけれど。でも、という助詞を用いていることからも、その言葉の前提には向こうからみた山上一葉があるはずで、それっていったいどんなのなんだろうなと思ったり。『お前は放っておいても彼女なんか作らないでしょ』と言われたこともあって、これには自分も頷いた、その通りだと思う。そういう風に思われていたことが意外というわけでもなく、むしろ「よく分かってるじゃん」くらいの気持ちだったけれど、とはいえ他人からみた自分というものに触れる機会はそれほど多くもなく、それだけの理由で覚えている一言。あとは、就活とかいうイベントが本格的に迫ってくるよりもずっと前、『一葉にはオフィスでデスクワークとかしててほしくない』と言われたり、『昼の鴨川で弾き語りとかしてるほうがずっと似合う』と言われたり。このときばかりは流石に笑ってしまった、滅茶苦茶すぎて。遠回しに「真っ当には生きるな」って言われてるみたいな、いや、当人たちにそのような意図は微塵もないだろうし、その言葉に悪意を見出しているというわけでも全くないけれど。同系統なら『一葉さんには地獄へ落ちてほしい』も最近よく言われる言葉で、これには自分の言動も多少は噛んでいるなと思う。ここでいう地獄とは一般人のレールから外れた先という意味で、要するに普通の大人になるなということ。他にも昨夜は『一葉さんが就職してるところなんて、自分のそれ以上にみたくない』と言われたし。思い返せば、もはや一年に一度くらいしか会わなくなった地元の中学同期たちにも『お前が就職しているイメージが湧かない』と言われたことがあったし。特定のコミュニティの、特定少数の相手からそういう風に思われるだけならよくある話で流してしまえるのだけれど、交わりようもない複数のコミュニティからそういった評価が下されている以上、気に留めないわけにもいかないというか、否が応でもセンサーに引っ掛かってしまうというか。ここ一、二年、というか周囲の人間が社会へ出始めたタイミングくらいからそういうことを言われる機会が(何故か)急に増え、それに伴って相手からみた自分という不明に対する意識が芽生え始めたような。『落ち込み方が想像できない』とか、『一葉さんでもこんなに考えてるんだから』とか、『お前は放っておいても彼女なんか作らないでしょ』とか。数年前の自分であれば寝て起きた後にはもう忘れていそうな言葉を、それ以外の理由もあるような気はするけれど、とにかく直近一年くらいの自分は曖昧ながらも記憶していて、そのたびに考える。「この相手にとっての山上一葉って何なんだ?」みたいなの。関係なくはない話。日常的に使うアイテムの一つに財布があって、自分は中学のころ親に買ってもらったそれを未だに使っている(壊れも困りもしないから)のだけれど、数日ほど前からその中に一切れのプリクラが入っていて。自分が映っているわけでもないのに何故か持っているそれを、コンビニだとかスーパーだとか駅とかで財布を取り出すたびに視界にみつけて、そのたびになんだか嬉しくなる、少しだけ。嫌味みたくなっても嫌だから有体に言うと、他人から慕われて嬉しくないなんてことはない、少なくとも自分の場合は。事実がどうであるかとかはさておいて。最近、自分よりも下の世代の人たちと話す機会が多くて、という言い回しはあんまり正しくない。大学生および大学院生によって形成されるコミュニティにおいて、次年度から修士二回になるという自分はといえば老も老の存在で、だから下の世代の人たちと話す機会が多いのは当たり前のこと。だって、自分よりも上の人のほうが少ないから。という前提を踏まえると、「最近、人と話す機会が多くて」のほうがより正確な表現ということになるのだけれど、ともかくそういうことがあって。周囲の人たちとの交流を進めるなかで、それなりに好意的にみてもらえているのかな、というくらいのざっくりとした認識が自分には芽生えていて、なんていうか、そういう風に言ってもらえることがあるから。ところでそれはそれとして、たとえばそのうちの誰かから『良い先輩』と言ってもらえたとして、自分の感覚の八割あまりを嬉しさが占めるとすれば、残りの二割を疑問符が埋め尽くしているみたいな。嬉しいものは嬉しくて、でも「どのへんが?」という気持ちもあり。……みたいな話、だいぶ前にも書いた気がする、全く別の文脈で。まあそれはいいか。話を戻して、ただ、これは真面目な話としてこれまでの自分がずっと考えてきたことは、あくまでも自分ひとりの話でしかないようなことばかりだったというか。ずっと、というのは大学へ入ってからの数年間、あるいは高校時代から地続きのそれを指しての言葉だけれど、要するにこのブログの 2018-2020 に書かれているようなもののこと。高校三年間プラスアルファの全部をいったん分解してそれから再構築して、そんな風にして自分の中に在る考え方だとか価値観だとか、そういった言葉の外に在る一切を言語の枠組みへ落とし込むことで自身を理解しようとする試みというか、なんかそんな感じの。だから、「自分からみた何か」についてはそれなりの精度で言語化できていると思う。そういうことをずっとやっていたから、この場所で。ところで、いやだからこそ問題が発生していて、この一年くらい。というのも、だから自分は「他人からみた自分」という視点から自分自身を捉えようとしたことがあんまり、というかほとんどなかったという話で。去年の四月、自分は修士一回生になり、サークルでは明らかな上回生という位置づけになり、なのでそういった立場から下回生と接点を持つことが明確に増え。そんなこんなをあれやこれやと続けているうちに、それなりの評価めいた何かが周囲から返ってくるようになり。一方で先述の動機により「この相手にとっての山上一葉って何なんだ?」みたいなことを考えるようになった自分はといえば、その評価を無意識的に処理することができないというか。要するに意識してしまう、相手からの言葉を。これは本当にそう思っていることだけれど、以前の自分であれば『良い先輩』と言われたら嬉しさ一〇割で済ませていただろうなという気がしていて、いや本当に。でもいまはそれだけじゃ終わらせられないっていうか、なんていうか。ちゃんと自分の中で消化したい、みたいなことを思ったり思わなかったり。いつチルとかいう言葉に向き合う必要がある、と言っていたのはつまりはこういうことで、その背景事情を一言で言い表したのが、だから「この相手にとっての山上一葉って何なんだ?」だったりする。何なんだろうな、本当。この二ヶ月くらい、割と最優先で気になっている、訊かないけど。