車窓


 所属サークルであるところの吉田音楽製作所により 4/24 に開催された『新歓ライブ』の映像が上がっているので、興味のある方は是非ご覧になってください(先制攻撃)。

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 バンド部、ボカロ部、歌い手部、DJ 部と四部門あり、マジでどれも良いんですが、バンド部では『未完成の春 / 一葉』(三曲目)を演奏していただいており(マジで良かった)、せっかくなのでブログでも宣伝しておこうという算段です。観てね!

 

 

 ここ最近考えていたことについて書きます。

 

 事の発端はと言えば大阪から京都へ向かう電車に乗っていたときなのですけれど、どの辺りだったか、民家が密集している地帯を通りすぎるタイミングがあって。そのときの自分は、普段の自分がそうしているのと同じようにぼんやりと車窓を眺めていて、実家から京都へ戻るときには必ず使う路線なので、だから別にその風景が全くの未知だったというわけではなくて、なのになんていうか、めちゃくちゃ微妙な気持ちになったことがあって。それがだいたい一ヶ月くらい前のことだったような気がするんですが、ここしばらくはずっとそのときの気持ちを引きずったまま過ごしているような感じがあります。
 なんだろ、微妙っていうか何というか。言語化が難しいってわけでもないんですが。こう、電車に乗っていて、するとめちゃくちゃな数の民家が一斉に目に飛び込んできて、勿論その一軒一軒には持ち主が少なくとも一人はいるはずで、しかもそれらはおおよそ一軒ごとに異なっているはずで、だとしたらこの車窓の中にはいったいどのくらいの数の人がいるのだろうか、みたいなことを考えていて。あるいは、このちっぽけな枠の中ですらそうなのだとしたら、この街には、世界には、いったいどれだけの人がいるんだろうな、みたいな。言葉だけで説明すればそんな感じのことを、ぼけーっと考えたりしていました。
 自分は『電車』というもの自体にも不思議という印象を持っていて。不思議という形容は正しくないかもしれませんけれど。色んな人が同じ箱に乗り合わせて、たとえば偶然隣に居座った誰かがどこへ行くつもりなのかとか、あるいはいま乗り込んできたばかりの誰かはどこから来たのかとか、そういったことは何も知らないままで数十分ばかりの間を一緒に移動して。「一緒に」と言えるほどの一体感なんて微塵もありませんけれど、ただまあ、イヤホン越しに聴こえてくる誰かと誰かの会話なんかに意識を引っ張られるたびに、「この人と何かしらの接点を持つことってきっと一生ないんだろうなあ」みたいなことを考えて。寂しいだとか悲しいだとか、別にそういった感情を伴うことはあまりないにせよ、なんだろ、手のひらに収まるぐらいの空っぽがただそこにあるという感じの。そういうのも全部知ってしまえたらいいのになと思うことはたまにあって。それ自体に何を期待するわけでもない、ただそう思うだけの瞬間が何度もあって。だからまあ色んな人と話をしてみたいなと思ったりもするわけで、だからって誰彼構わず会話を強要するようなことはしませんし、僕はむしろ偶発的に生じる機会のほうが本質的と思っている質なので、『しようと思ってする会話』は別に好きでも嫌いでもないんですが、だからこそ、初めて訪れた街で道を尋ねる程度の感覚で知らない誰かと話してみたいなとか、そういうことを思ったりもします。しませんけどね。
 話が逸れた。車窓の話に戻るとすれば、だから結局、この世界ってめちゃくちゃな数の人がいるんだなって話で。いや、そんなのは誰だって知っている、至極当然の事実に過ぎないのですけれど、でもその当たり前を実感できる瞬間ってそんなに多くないような気がしていて。なんだろ。この世界にはめちゃくちゃな数の人がいて、その中で自分と接点のある人間なんて三桁に及ぶかどうかというくらいの数しかいなくて、という風に思考は進んでいって。ああいや、「全人類と仲良くしたい」みたいなことは別に考えていなくて、自分はむしろ必要以上に他人との接点を持ちたくない側ですらあるんですけど、だからどちらかといえば、その、いま繋がっている人たちと知り合えた偶然性というか、あるいはその偶然と地続きにある今? そういうのをもっと大切にすべきなんだろうな、みたいな。人で溢れた車窓だとか、あるいは高台から見下ろした街並みだとか、そういった風景に想起される寂寥感にも似た何かの正体って、ともすればこういうものだったりもするのかなって。最近考えていたことといえば、まあこんな感じでした。